キリストの神秘体である教会の受難
2026年3月1日 四旬節第二主日
トマス 小野田圭志神父説教 北海道(札幌)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2026年3月1日、四旬節第二主日です。
教会の掟によれば「少なくとも年に一度は、御復活祭の頃に御聖体を拝領する」という復活祭の義務があります。御復活祭の頃とは、日本では「四旬節の第一主日から三位一体の主日まで」です。また、教会の掟によると「少なくとも年に一度は告解をする」という義務もあります。ぜひ、御復活祭の義務と告解の義務を併せて果たしましょう。
皆さんもご存知の通り、来たる7月1日(水曜日)には聖伝のカトリック司教様の聖別が行われます。場所はエコンの神学校で、ちょうど38年前(1988年6月30日)に、ルフェーブル大司教様が聖伝の生き残り作戦を行った同じ場所です。
総長パリャラーニ神父様は、特にこの四旬節を、司教聖別の準備の意向でお捧げすることを私たちに求めておられます。寛大な心で四旬節を過ごしましょう。
今日の福音で、主は御自分の天主としての栄光を三人の使徒たちにあらわされました。「御変容」です。
そこで、今日は次の二つのことを黙想し、遷善の決心を立てましょう。
- 主の御変容の神秘
- カトリック教会が、天主による設立であると同時に人間によるものであること
【1:御変容の神秘】
最初に、御変容の神秘を黙想します。カトリック教会は、主の御受難の主日の四週間前に、主の御変容を私たちに示します。聖伝によると、イエズス・キリストは、御受難の40日前にタボル山で変容されたと伝えられているからです。
なぜ、主はご自分の栄光を使徒たちにお見せになったのでしょうか?
何故かというと、私たちの主は、ご自分の光り輝く栄光を私たちにお与えになることを欲しておられるからです。それが、永遠の昔から燃えたつ主の愛の炎の御計画です。主の御変容は、私たちがついにはこうなるべき最終の姿です。主は、これを私たちにお見せになります。
主は、この栄光を私たちに伝えるために、想像を絶するようなやり方をされます。十字架を通して、天主の御死去により、天主が御血を流されるいけにえを通して、罪を赦し、天主の命を霊魂たちに与えようとされます。そのために天主は人間となられました。人間がイエズス様の十字架を通して天主の本性にあずかり、私たちが永遠に、天主と共に主の栄光に変容するためです。これが天主の御計画であり、愛の御業です。
ですから、主のいけにえの神秘は、カトリック教会の最も深い核心であり、私たちの救いの中心にあります。つまり、ミサ聖祭と御聖体とは、まさに私たちの救いのため、永遠の昔から私たちに与えられた、最高にして最大の愛のプレゼントなのです。
ところで、主は私たちの救いのために、人間として十字架の苦しみと死を受け給いますが、自らお選びになった弟子たちには、ご自分が真の天主であることをお見せになり、弟子たちの信仰を固めようと準備をされます。
しかし、弟子たちはどうだったでしょうか?
裏切り者ユダの接吻を受けて逮捕され、縄で縛られ連行されるのを見て、使徒たちでさえもつまずきました。主は人々に嘲られ、殴られ、嘲笑され、死刑の宣告をローマ総督から受けました。十字架を担わされ、使徒たちはついに主を見捨てて逃げ去りました。「御身はキリスト、生ける天主の御子です」と言った聖ペトロでさえ、主を三度も否みました。
十字架の下にとどまったのは、聖母マリア様と聖ヨハネ、そしてほんの数名の婦人たちだけでした。マリア様は「イエズス・キリストが、真の天主と同時に真の人である」ことをご存知で、それを確信していました。
主イエズス・キリストは、罪をのぞいて、罪以外の点において、全ては完全な人間でした。苦しみ、疲れ、痛み、飢え、渇き、死に至るまで全てです。主は、ゲッセマニの園で「私の霊魂は、死なんばかりに憂いている」と嘆かれ、十字架の上では「天主よ、我が天主よ、御身は何故われを見捨てたもうや」とさえ言われました。
実は、教会の歴史においても、使徒たちが主の弱さを見て「天主ではなかったのか」と思ってしまったように、主が天主であることを否定した異端が出ました。たとえばアリウスです。アリウスによれば「イエズス・キリストは超人(スーパーマン)だけれども、天主ではない。天主御父には劣る者だ」と主張しました。アリウスの異端は一時、教会の指導者たちと信者のほとんど全てを引き連れて、主が天主であることを否定させてしまいました。
あるいは、教会の歴史の中には、その反対の反応をした異端者もいました。
彼らは「イエズス・キリストは天主だから、十字架の苦しみや傷、御血を流されたのも見せかけで、痛くも痒くもなく、全く何でもなかった」と主張しました。主が本当の人間であることを否定したのです。これは異端です。
【御変容の栄光の光】
キリストのこの御変容の輝きは、ご自分の天主の本性から由来したものでした。ご自分の天主としての満ちる栄光をお見せになりました。天主の栄光がキリストの霊魂に満ちて、それが肉体に伝えられて、御顔が太陽のように輝かれたのです。
天主の御言葉が人間となった最初の瞬間から、天主の本性からの聖寵がキリストの霊魂に伝えられて、霊魂は天主の栄光の輝きに満たされていました。しかしこの栄光は、苦しみ贖うため、贖いの神秘を全うするため、特別の摂理によって、隠されていました(聖トマス・アクィナス神学大全III, q. 14. a. 1 ad 2)。しかしお望みになれば、天主の本性に由来する栄光が霊魂を通して肉体に伝えられて、肉体が輝くことができたのです。御変容の時には一時的にそうされました(聖トマス・アクィナス神学大全III. q. 45. a. 2. c) 。
御変容は天主としての栄光の輝きであって、主が人間として復活された後の「復活体の輝き」とは、違いがあります。
御変容時の肉体の栄光の輝きは一時的なものでした。しかし復活体の栄光の輝きは恒常的です。
空も太陽が昇ると、雨雲や雪雲でさえぎられていないならば、日中は太陽の光に照らされて、大気も一時的に明るくなります。主の御変容の輝きも、そのように一時的なものでした。御変容は天主の力が直接介入した奇跡的なことでした。
復活体の輝きは、恒常的です。言わば通常のことです。炎であるなら光を出すのが普通で恒常的であるのと似ています。
【証言】
御変容に際して、律法の代表者でありすでに死んだモイゼが古聖所から現れ、預言を代表する生けるエリアが天から現れます。律法と預言は、イエズス・キリストとその贖い(御受難と御死去)を指し示し、これを目的とし、これで完成します。
光る雲があらわれて三人の使徒たちを包み、天主御父が雲の中からこう証言します。
「これは私の愛する子、私の心にかなったものである。これに聞け!」。
イエズス・キリストは、天主の御ひとり子、「御父の愛する子」です。天主御父は、愛する御子には、御自分の全ての善を完全に与え尽くします。「おん父はおん子を愛し、その手に全てをゆだねられた。」(ヨハネ3:35)御子は御父と全く同じ本性による天主です。「御父の心にかなったもの」です。
御父は、旧約律法でも預言でもなく、イエズス・キリストの福音を聞け!福音に従え!と命じます。イエズス・キリストはこう宣言します。
「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない。」(ヨハネ14:6)
「自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。」(マテオ16:24)
福音とは、預言された唯一のまことの救い主イエズス・キリストによって、私たちのために天国の門が開けられた、ということです。
【2:カトリック教会も天主による設立であると当時に人間による】
では、第二の点を見てみます。
私たちは、現代のカトリック教会の状況が、主の御受難の時と非常に似ていることに気が付きます。私たちは、キリストの弱さにつまずいた弟子たちのように、今の教会のありさまにつまずいていると言えます。
教会は不可謬で、決して誤ることがない。そして、私たちを騙すこともないのではなかったのでしょうか?
カトリック教会は、真の天主イエズス・キリストが立てたものではなかったでしょうか?
教会は、真理を失うことがあり得ないのではなかったのでしょうか?
確かに、カトリック教会は、真の天主イエズス・キリストによって設立されたものでありながら、その一方、罪人である人間によって構成され、成り立っているという神秘があります。
けれども、教会は天主によるものですから、御聖体を始め、永遠に変わることのない真理、永遠に続く秘跡、聖寵やお恵み、賜物を私たちに与えます。本当に天主的なものです。カトリック教会は、主の約束された通り、この世の終わりまで必ず続きます。滅びることはあり得ません。
そのため、教皇様は、教会が天主による設立であることに特別に参与して、不可謬権を行使することができます。つまり、決して誤ることのできない特別な教えとして私たちに示し、それを遵守させることができます。
しかしながら、教皇様といえども人間であり、罪を犯すことはあり得ます。けれども、教皇様が、第一バチカン公会議で定義された条件を全て満たして不可謬権を行使する限り、間違うことはないでしょう。
ところで、今のカトリック教会の様子を見ると、ある人は、アリウス派のようになってしまいました。「誤りを教えている教皇様は、教皇ではない」と。ちょうどアリウスが「もしも、キリストが苦しみ死ぬのであれば、天主ではない」と言ったように、第二バチカン公会議後「新しいミサや、同性愛を祝福するような教皇は教皇ではない」と言う人がいます。
あるいはその反対に「教会の全てが天主からであり、全てが完璧で、ローマから来たことは、全てにおいて盲目的に従うべきだ」と言う人もいます。「教会が苦しむわけがない。教会は完璧だ。ローマが今そう言うならば、たとえ過去二千年間、教会が信じ、愛し、行い続けてきたことに反対し、それを捨てても仕方がない。教会が禁止してきたことをやり始めるし、今のローマがOKと言うならば、同性愛も何でも許される。離婚をしても良い」と。
これら二つの態度は間違っています。客観的に現実を直視していません。
私たちは「天主よ、我が天主よ、御身は何故われを見捨てたもうや」と申し上げたくなるほど、カトリック教会の内部にまで悪と誤謬が浸透してしまうとは、想像さえもしていませんでした。しかし、目を開いて現実を見てみると、第二バチカン公会議以後、想像を絶するような恐ろしい危機が起きています。
今、キリストの花嫁であるカトリック教会は、まるで弟子たちの裏切りによって苦しみを受けているかのようです。もちろんイエズス・キリストが御復活なさったように、将来、カトリック教会も栄えある復活を成し、過去の栄光を取り戻すでしょう。しかし、今は教会の受難の時だと言わなければならないようです。
教皇ベネディクト十六世は、教皇になる直前、当時は教理省の長官ラッツィンガー枢機卿として、十字架の道行の時にこのような黙想を指導していました。ラッツィンガー枢機卿の言葉を引用します。
「主よ、私たちにはしばしば、御身の教会は沈みかけている小舟のように、あちこちから水が入っている小舟のように思えます。私たちは、御身の畑において良き麦よりももっと頻繁に毒麦を見いだします。御身の教会のかくも汚れている服と顔は、私たちをして恐れさせます。しかしこれを汚しているのは私たち自身なのです。私たちの美しい言葉ときれいなジェスチャーの後で、毎回御身を裏切っているのは、私たち自身なのです。・・・」
また、ベネディクト十六世は、2013年2月8日(教皇を引退すると宣言した後)に、次のように述べています。
「修道院が閉鎖され、神学校が閉鎖されているのに彼らはこう言います。
"しかし ... 何でもありません。全ては順調です。"
... いえ、全ては順調ではありません。」
つい最近、日本のある枢機卿様が、NHKのドキュメンタリーフィルムで「カトリック教会が行き詰まった。だから今、シノドスの教会をつくっている」と言われました。しかし、それは間違っています。カトリック教会が行き詰まったのではなく「第二バチカン公会議の教会が、行き詰まってしまった」のです。
先日、私は横浜教区に在住の方から電話を受けました。その方によると、
「今、まだ神父様はいらっしゃるけれども、しかし、もう神学生もいないし、そして司祭の数も減っているので、準備をして、これからは司祭のいない集会祭儀を開いて、そして将来のために準備をしようとしている。」
つまり、負け組なのです。司祭はいなくなって教会はなくなってしまうのです。今、教会は行き詰まっているのです。それなのに、この道を進もう、進もうとしているのです。
私たちは「教会の当局から来た」という理由だけで、過去とは反対の道、誤りの道を歩むべきなのでしょうか?
そうして、永遠の天主から頂いた教会の宝物を捨てても良いのでしょうか?
いいえ、私たちは永遠のカトリック教会を捨てるわけにはいきません!
聖ペトロの後継者であるローマ教皇から離れることはできません。歴代の教皇様たちが教えた教えを捨てることはできません。たとえ、教会で権威を持っている指導者たちが、教会を捨てて逃げてしまったとしても、私たちは、主の御恵みとマリア様の御取次で、主の十字架の下に、マリア様とともに、永遠のカトリック教会にとどまりたいと思っています。
天主なるイエズス・キリストがお立てになったままのカトリック教会は、どれほど栄光に満ちているでしょうか!
どれほど多くの人がそれを信じ、どれほど多くの人が聖人聖女となったことでしょうか!
キリストの教会はキリストの花嫁です。イエズス・キリストが聖ペトロの上に立てられた教会、つまりカトリック教会です。一・聖・公・使徒継承の教会です。私たちの永遠の救いのためにある使徒継承のローマ・カトリック教会こそが、唯一の真のキリストの教会です。私たちはこれを固く信じています。
また、ローマ教皇は聖ペトロの後継者で、全世界における最高の完全な裁治権を直接的に持つために、全ての司教たちの上に首位権を持っています。
そして、私たちの信仰は超自然の信仰です。天主の権威に服従するがゆえに、イエズス・キリストが教会に教えた全ての教えを信じます。
たった一つでも教義を否定することは、天主よりも自分の理性を信じ、自分を天主の権威の上に置くことです。ですから「これとこれは信じることができるが、これは信じない」と、信仰箇条を選ぶことは異端であり、信仰を失ってしまうことです。私たちは、カトリックの信仰を、異端者や離教者の信仰と同一視することはできません。
【3:遷善の決心】
では、最後に遷善の決心を立てましょう。
四旬節は、私たちの信仰と聖徳を強める特別なお恵みの時です。聖寵を祈り求めましょう。聖パウロは、今日の書簡でこう言っています。
「実に、天主のみ旨はこれである、あなたたちが聖となることである。」
主は、特別に御変容をお見せになった使徒たちに、ゲッセマネの園では近くに来て祈るよう招かれました。主は、私たちにも「もっと近くに来て一緒に祈れ」と招いておられるのではないでしょうか?
私たちは、四旬節の償いと犠牲に何を捧げたらよいでしょうか?
痛悔の心、特別な祈り、大小斎、施し、犠牲。
いろいろなやり方がありますが、特に携帯の使用時間を制限するのはどうでしょうか?
動画などの視聴を「断食」するのはいかがでしょう?
また、聖ピオ十世会の聖堂では、四旬節の毎金曜日に十字架の道行を行います。毎日、個人的に十字架の道行をするのはどうでしょうか?
司教聖別のために、多くの祈りと犠牲をお捧げいたしましょう。
私たちは、カトリック教会を続けるために、聖伝の司教様が必要です。私たちの望みはただそれだけです。教会を続けること。カトリック教会が今までやってきたことを、そのまま続けること。カトリック教会に奉仕すること。霊魂の救いのためにカトリック教会を愛すること。
マリア様にお祈りいたしましょう。悲しみのマリア様にお祈りいたしましょう。
私たちが聖なる四旬節を過ごし、そして、来たる司教聖別のために特別なお恵みを準備することができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。