キリストの模範に従って愛のうちに歩め
2026年3月8日 四旬節第三主日
トマス 小野田圭志神父説教 日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、四旬節の第三主日に、私たちは四旬節の中にもっと深く入り、今年の四旬節こそ、今までには無い最高の四旬節となるようにいたしましょう。
そのために、私たちは何をしたら良いのでしょうか?
それは「十字架の神秘」を黙想し、その神秘の中に深く入ることです。
聖パウロは、今日の書簡を通して私たちに次のように勧めます。
「天主から愛される子供として私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりのいけにえとして天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」
そこで今日は、私たちが少しでも良い四旬節を送ることができるよう、聖パウロの書簡に基づいてイエズス様の御受難をよく黙想し、イエズス様の模範に倣って、イエズス様の愛に歩む決心を立てることにいたしましょう。
【1:天主から愛される子供として】
聖パウロは、まずこのように言います。「天主から愛される子供として」と。
「私たちを全て、一人も例外なく愛する子供とする」
これが、全宇宙を創造された天主の、永遠の愛の御計画です。
目に見える、そして目に見えない全ての被造物は、私たちが「愛される子供」となるために創られました。「子供」とは、単なる比喩ではありません。
私たちを本当の意味で「天主の子供」にすること。言い換えると、私たちを天主のようにすること、天主の完全性にまで高め、永遠の至福の命と無限の幸せを与えることを、天主は永遠の昔からお望みでした。私たちは、これを目的に天主によって創造され、この世に生まれて来ました。
しかし残念ながら、この愛の計画は、私たち人間の罪によって破壊されました。それにもかかわらず、天主は私たちを愛する子供として愛し続けておられます。私たちが主の愛の御計画を粉々に砕いたにもかかわらず、主は、私たちを愛する子供として常に愛し続けてくださいます。私たちを本当の意味で天主の子供にしたいと、子供としての高い地位を与えようとしてくださっています。
私たちが悪魔の奴隷になり、地獄に落ちる身になってしまったとしても、どうしてもこれを悪魔の手から奪い返したい。そのために想像を絶するようなやり方をされました。天主が人間となり「私たちのために、香ばしいかおりのいけにえとしてご自分をわたされた」のです。ここにキリスト教の神秘の核心があります。
言い換えると、人となられた全能永遠の天主が、私たちのために、いけにえとなって屠られたということです。つまり、私たち人間の罪の贖いのために十字架につけられ、御血を流されて苦しまれ、死にたもうたということです。
そうすることで私たちの罪を赦し、ご自分の命を捨てる代わりに、私たちの霊魂にご自分の天主の命を与えようとされました。すなわち、私たち人間が、イエズス様の十字架を通して天主の本性にあずかり、主と共に永遠の栄光にあずかることができるよう、私たちを回復させるためにこれをなさったのです。
十字架のいけにえの神秘は、今でも続いています。私たちの主イエズス・キリストの十字架の神秘は、カトリック信仰の最も大切な部分であり、ミサ聖祭において常に再現されています。つまり、ミサ聖祭と御聖体こそは、カトリック教会の最も深い核心であり、私たちの救いの中心なのです。
【2:香ばしいかおりのいけにえ】
聖パウロは、言葉を続けます。「香ばしいかおりのいけにえ」と。
いったいこれはどういうことなのでしょうか?
唯一、天主御父に嘉されるいけにえがあります。それは、イエズス・キリストのいけにえです。それ以外にはありません。いけにえであれば、なんでも受け入れられるわけではなく、苦しむことそれ自体が御父に嘉されるわけでもありません。
天主の最愛の御子が、御父を愛するがゆえに純粋に苦しまれたからこそ、それが嘉されたのです。
純粋な愛のうちに苦しむとは、どういうことでしょうか?
イエズス様のいけにえには、愛の純粋さがありました。愛の純粋さとは、利己主義の無さ、自分の無さによって計られます。すなわち、個人の思いや望みがなく、天主の御旨にピタリと一致していればいるほど、純粋な愛になります。
ですから、純粋ないけにえとは、どのように屠られるかを選びません。いけにえを屠り、捧げる方の思いのままに自らをゆだねます。つまり、いけにえとなる者は、ありとあらゆる殉教を、あらかじめすでに受け入れているのです。
いけにえの屠られ方だけではなく、目的においてもそうです。いけにえが屠られる目的はたった一つしかありません。天主の栄光のために、天主の御旨が成就することだけを願うのです。これによって、霊魂たちに善が及ぶこと以外には何も求めませんし、願いません。ここに愛の純粋さがあります。そして、イエズス様の目的がまさにこれでした。このように、イエズス様の御苦しみはとっても純粋でした。ピュアでした。
苦しみの純粋さとは、どうやって計られるのでしょうか?
それは、慰めが無ければ無いほど純粋になります。イエズス様は、なんらの慰めも無くお苦しみになりました。最後には、天主御父から捨てられてしまったかのように神秘的に感じて、その苦しみを覚えられました。その御苦しみの大きさは、
「我が天主よ、我が天主よ、なぜわたしを見捨てたもうたのですか?」
と、十字架の上で祈られたほどでした。しかし、イエズス様の御苦しみは、ご自分のためではありませんでした。私たちの罪の贖いのため、この世の全ての人々の罪の赦しのためにお苦しみになりました。罪人であり、天主に逆らっている私たちに善を勝ち取るため、イエズス様は進んで苦しまれたのでした。
イエズス様は、天主の聖なる御旨が成就するように、天主御父の栄光のために、愛の深淵のうちに、ご自分をいけにえとしてお捧げになりました。ですから、天主御父へのいけにえとしてイエズス様がお捧げになった祈りは、得も言われぬ良い香りとなって天へと昇り、御父がそれにうっとりとされたかのように聞き入れられたのです。
このことを、聖パウロは今日言っています。
【3:キリストの模範に従って】
聖パウロは、さらにこうも言います。「キリストの模範に従って」と。
イエズス様は、私たちに口で教えただけではありませんでした。御生涯を通して模範を示されました。そして、最後の晩餐でこうおっしゃるのです。
「私がしたとおりあなたたちもするようにと、私は模範を示した。」(ヨハネ13章15節)
主が私たちになさった最後の教え、それは最も崇高で高貴にして奥深く、全てにまさる教えであり、イエズス様の御生涯の教えの基礎にして、最も根底にある教えです。それを、イエズス様は最後に高い説教台に登り、皆が見聞きできるような方法で模範を示し、教えてくださいました。それがカルワリオにおける「十字架の御教え」です。この十字架にこそ最も深い神秘があり、キリストの教えの核心が潜んでいます。その御教えは非常に崇高で奥深いので、聖パウロは次のように述べています。
「私は、あなたたちの中にあって、イエズス・キリスト、十字架につけられたイエズス・キリストのほかには、何も知るまいと決心した」(コリント前2章2節)
つまり、聖パウロによれば「十字架につけられたイエズス・キリスト以外のことは、知っても全くの無駄だ。私たちに知る価値のあるものは一つしかない。十字架につけられたイエズス・キリスト、これだけだ」ということです。
カトリック教会が過去2000年間、聖伝のミサ聖祭やお説教を通して伝えようとしたのが、まさに十字架につけられたイエズス・キリストでした。ミサ聖祭によって、十字架の神秘が再現されます。そうして、真に十字架につけられたイエズス・キリストを霊魂たちに与え続けてきました。このように、聖伝のミサ聖祭を通して多くの霊魂が聖化され、カトリック教会は、数えきれないほどの聖なる聖人たちを生み出してきました。
私たちの生活や人生に価値が有るか無いか、意味が有るか無いかは、私たちが、イエズス様の十字架とイエズス様の人生とに、どれだけ一致するか否かにかかっています。一致すれば一致するほど、永遠の価値が出てきます。
聖人たちは、この地上にある間、自分の人生をかけて、自身の全ての生活を十字架につけられたイエズス様にピタリと一致させ、イエズス様の御姿を真似ようと、キリストの模範に従って生き続けてきたのです。
ところで現代、地獄の門がカトリック教会に総攻撃をかけているかのようです。
それはまるで、聖伝のミサを始め、十字架の神秘をこの地上の世から失くしてしまいたいかのような、あたかもそれは、私たちからイエズス様を引き離そうとしているかのようです。
100年前(二十世紀の始め)、聖ピオ十世教皇様は、近代主義という異端を「全ての異端の肥溜めのようだ」と表現しました。ところが、第二バチカン公会議の直後、哲学者のジャック・マリタンは次のように言いました。
「非常に伝染性の高い新近代主義の熱狂 […] それに対して、ピオ十世の時代の近代主義は、ささやかな花粉症に過ぎなかった。」
(今、第二バチカン公会議後のカトリック教会の内部には、非常に伝染性の高い、新しい近代主義の熱病がある。この酷い病気とピオ十世の時代の近代主義と比べたら、昔の近代主義は単なる花粉症に過ぎなかった。ジャック・マリタン著”Le Paysan de Garonne”参照)
「真理の意味そのものが脅かされている。そして、神聖さ(聖なるもの)、天主の超越性、十字架の現実の意味自体も同様に脅かされている(否定されている)」
このように、第二バチカン公会議後のカトリック教会を非難し、警告するほどでした。
カトリック教会の中に異端の考えが侵入・侵略したのみならず、ありとあらゆる誤ったイデオロギーが世界に渦巻いていて、カトリック教会の教えを否定しようとしています。
そればかりではありません。異教の考えが、邪欲や情欲を正当化しようとして、現代の最新で最高の科学技術を使い、拡散しています。映画・音楽・小説は、快楽を追求すれば良い、不倫や不道徳を犯せば良いとばかりに宣伝し、不従順と無神論を賛美してさえいます。
これに対しイエズス様は、カトリック教会を通して、私たちに「十字架の御教え」を示しています。地獄の軍隊が、天主や真理に対する憎しみを燃え立たせ、十字架の神秘を破壊するために総攻撃を仕掛けているならば、カトリック教会は、さらにも増して十字架の神秘を強調し、十字架の犠牲を愛する霊魂たちを育てようとします。
まさに、それにふさわしいのが四旬節です。
イエズス様が、御生涯をかけて教えられたことの核心は「十字架の御教え」です。イエズス様が、ベトレヘムでお生まれになった御清貧、ナザレトでの30年の従順の生活、家庭生活、内的生活、祈りの生活全ては、十字架の神秘を理解して初めて、その深い意味が分かります。
現代世界には大きな問題がありますが、多くの人々は指針を失っています。どうしたら良いのかわからないと、道を探して迷っている人がたくさんいます。そのような私たちに、生きる本当の意味と物事の価値、真の幸せ、本物の平和、あるべき秩序、これを与えることができるのは「十字架のいけにえ」であり、そして、十字架のいけにえの再現である「聖伝のミサ聖祭」です。
【4:愛のうちに歩め】
では、最後に遷善の決心を立て、四旬節の決心を新たにいたしましょう。
聖パウロは言います。「愛のうちに歩め」と。
「天主から愛される子供として私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりのいけにえとして天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め。」
どうしたら、愛のうちによく歩むことができるでしょうか?
二つ提案があります。一つは、
(1)イエズス・キリストの模範を黙想しましょう。インターネットに接続するのをしばしば中断して携帯を手放し、イエズス様の御受難を黙想するための時間として過ごすのはどうでしょうか?
ロザリオの苦しみの玄義について考えること、十字架の道行をすること、十字架の御像を見ながら、イエズス様の御受難を考えてみるのはいかがでしょうか?
考えてもみてください。ユダヤ会堂の二人の大司祭、アンナとカイファの下で真夜中に裁判を受け、イエズス様は断罪されました――当時のユダヤの律法を全く無視し、27点も違反した、歴史上最も邪悪で無効な裁判が天主に対して行われ、イエズス様はこの仕打ちをお受けになりました。
しかも、宗教的な裁判だけではなく、ポンシオ・ピラトによる政治的な裁判も行われました――イエズス様の代わりに、強盗で殺人犯だったバラバが釈放されたばかりか、ピラトがイエズス様の無罪を三度も宣言したにもかかわらず、不当にもイエズス様が鞭打ちと十字架の死刑をお受けになったのです。ぜひ、この裁判などについて黙想することをお勧めいたします。
そうすることによって、私たちは、イエズス様に対する愛、賛美と感謝の念を一層大きくせざるを得ません。主は、どれほど私たちへの愛を持っておられるのでしょう!
イエズス様の御受難を黙想すればするほど、私たちはイエズス様の御跡を慕って苦しみをお捧げする覚悟ができるのではないでしょうか?
私たちの日常生活における務め、あるいは両親に対する従順や兄弟姉妹への優しさも、イエズス様を愛するがために、どのような状況にあっても喜んでお捧げすることができるようになるのではないでしょうか?
罪が無いにもかかわらず、私たちの代わりに罪を全て背負ってくださったイエズス様。
もしかしたら私たちも、それぞれが置かれた環境の中で、天主様の神秘的な御摂理により、将来イエズス様と同じような苦しみ――不当な断罪――を与えられることがあるかもしれません。
たとえば、事の真相とは裏腹に罰が与えられてしまうこと。何も悪いことをしていないのに誤解され、不当な断罪を受けることなどがあるかもしれません。
そのような時でも、もし私たちがイエズス様の模範に従っていたら、愛のうちに歩むことができるようになるでしょう。
四旬節は、まさにイエズス様の御受難を黙想する時です。キリストの模範に従って、愛のうちに歩むことができるよう御助けを願い求め、準備をしましょう。
(2)第二に提案したいのは、邪欲やその他多くの罪が提示される現代世界において、聖ヨゼフにお祈りするのはどうでしょうか?
三月は、カトリック教会の守護者である聖ヨゼフに捧げられた月ですから、特に聖ヨゼフにお祈りしましょう。聖ヨゼフは、イエズス様の家庭生活をずっと守ってこられた方です。イエズス様がどのようにお祈りをし、働かれたのか、どのような生活を送られたのかをよくご存知です。聖ヨゼフに御取次を願うなら、私たちもキリストに倣い、愛のうちに歩むことができるはずです。聖ヨゼフが、イエズス様の命をヘロデの手から守ってくださったように、教会の聖伝や、私たちの信仰生活をも守ってくださるはずです。
ぜひ、聖ヨゼフにお祈りしましょう!
そして、3月19日には、できる限りミサにあずかってください。
さらに、マリア様にお祈りしましょう。
私たちが、残る四旬節をよく過ごすことができますように、マリア様の特別な御取次を願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。