カトリック司祭の使命は羊たちの霊魂の永遠の救い、ただ一つの門へ導くこと

2021年4月18日 復活後第2主日、良き牧者の主日
トマス小野田圭志神父 説教
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年4月18日、復活後第2主日、良き牧者の主日です。一緒に福音の黙想をいたしましょう。今日、私たちの主は御自分のことをこう言われます。
「私は羊の門である」。
「私を通って入る人は救われ、出入りして牧草を見つけるだろう」。
「私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た」。
また、
「私は良き牧者である。良き牧者は羊のために命をあたえる」。
「私は、自分の羊を知っており、私の羊もまた私を知っている」。
「私は、自分の羊のために、命をすてる」。
1:イエズス・キリストは門であり、また良き牧者である
イエズス・キリストは門です。何故なら、主は御自分を開き、御自分が誰であるかを開示して、御自分を啓示するからです。キリストは、真理であるからです。真理であるキリストを通ってのみ、永遠の命の中に入ることができるからです。「私を通って入る人は救われ、出入りして牧草を見つける」「私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た」(ヨハネ10章)。「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない」(ヨハネ14章)。
キリストという門を「出入りして牧草を見つける」とは、キリストという門から入って信仰を生きるという意味です。「義人は信仰によって生きる」とある通りです。キリストという門を通ってこの世の生活を終えて永遠の世界に出るなら、豊かな命、終わりのない永遠の命が与えられるからです。そうしてのみ私たちは永遠の命に至ることができます。主は「狭い門」です。「亡びに行く道は、広く大きく、それを通る人は多い。しかし、命に行く門は狭く、その道は細く、それをみつける人も少ない」(マテオ7章)。
主は良き牧者です。「良き」牧者とは「悪しき」牧者も想定しています。牧者の「良さ」とは、自分の命を羊のために与えることにあります。「良き牧者は羊のために命をあたえる」。イエズス・キリストは、この通り、私たちのために十字架の上で命を与え、全てを与えられました。御自分の御体と御血を秘跡として私たちに与えました。贖われた羊たちを御自分の体で養うためです。
良き牧者と雇い人とを識別するのは、狼が来た時です。つまり危機の時です。「良き牧者は羊のために命をあたえる」。雇い人は、自分に危険が迫ると逃げます。「雇い人は、狼が来るのを見ると、羊をすてて逃げ、羊は狼にうばわれ、散らされる。彼は雇い人で、羊のことを心にかけない」。聖アウグスチヌスによると、雇い人は、賃金を受け取るから雇い人です。雇い人はこの地上での利益を求めています。
良き牧者と雇い人とを識別するもうひとつの要素は、「羊を知っている」ことです。私たちの主は、御自分の羊を知っておられ、主の羊もまたイエズス・キリストを知っています。「私は良き牧者で、自分の羊を知っており、私の羊もまた私を知っている」。
主はあたかも「私は自分の羊を愛しており、私の羊もまた私を愛して私に従っている。羊たちは真理を愛しているからだ。私は、自分の羊のために命をすてる。羊への愛によって、私は御父を愛していることを示す」とおっしゃっているかのようです。それに引き換え雇い人は羊のことを知りません。
2:カトリック司祭は、イエズス・キリストを羊たちに与える
カトリック司祭は、良き牧者としてのイエズス・キリストに倣うように特に召し出された人です。
司祭の使命とは何でしょうか?
カトリック司祭は、羊たちを、つまり霊魂たちをまことの門に導き、道、真理、命であるイエズス・キリストを与える者です。それは、霊魂たちが永遠の命を受けるためです。
まことの良き牧者であるキリストの声を聞き、キリストの命を受けるためです。カトリック司祭は、イエズス・キリストをこそ霊魂たちに与えなければなりません。イエズス・キリストの真理と聖寵を伝えるために司祭はあります。何故なら、カトリック司祭職の最大の聖なる務めは、イエズス・キリストを祭壇の上に現存させることだからです。聖変化を起こして、御聖体を作ることにあるからです。司祭はこの超自然の目的のために存在しています。これが私たちのカトリック信仰です。
イエズス・キリストこそが、良き牧者であって、司祭はイエズス・キリストと一体化すればするほど、良き牧者となります。主こそが、良き牧者です。使徒ペトロも牧者で、その他の使徒たちも牧者です。良き司教たちも牧者です。しかし使徒も司教も門ではありません。キリストだけが門です。
では、イエズスは司祭たちに一体何を求めているのでしょうか?イエズスのために命を捨てることでしょうか?復活後、御復活後の或る夜明けごろ、ティベリアデの岸辺で、漁をしている弟子たちにイエズス・キリストは現れたことがあります。
その時、主は聖ペトロに愛だけを求めました。イエズスは、シモン・ペトロに「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちより以上に私を愛しているか?」とおおせられたからです。
ペトロは聖木曜日の夜に主を三度否み、主を棄てて逃亡しました。それでも、すでにイエズスの聖心は、ペトロの篤い涙を知っておりペトロをすでに赦していました。イエズスはペトロに償いの機会を与えます。主がペトロに求めたのは、ただ愛でした。ペトロは答えます。「主よ、そうです。あなたがご存じのとおり、私はあなたを愛しています!」
ただ、三たび「私を愛しているか?」といわれた時、ペトロは悲しみ、心の底から謙遜にこう答えます。主よ、私は御身に対して大きな罪を犯しました。しかし、「主よ、あなたは全てをご存じです。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです!」(ヨハネ21:17)
ペトロの謙遜は、愛を浄め、償いを促し、新たな恵みを受けるにふさわしくしました。謙遜を忘れて愛も感謝も伴わない忠実さよりも、こうやって謙遜と涙と完全な痛悔と愛とで償われた罪は、ペトロの霊魂にとってより大きな益になり、イエズスの聖心により大きな栄光を与えました。これは私たちへの教訓となるためでした。
イエズスは、ペトロの愛を証明するために求めたことは「私の小羊を牧せよ」ということでした。最後の晩餐の時にペトロはイエズスにこう宣言したことがありました。「私はあなたのために、命も捨てます」(ヨハネ13:37)。しかし、それよりもイエズスの聖心に適うことは「私の小羊を牧せよ」でした。イエズス・キリストが、この世に来た目的は、霊魂の永遠の救いでした。この救霊の大事業のために主に協力することは、或る意味で、主のために命を捨てることよりもより価値があると教えています。
救霊の事業に協力するとは、救いの道を教えること、主の道に立ち戻るように人々に働きかけること、快楽の誘惑や悪しき模範、悪徳の伝染から霊魂を守り、主の優しいくびきを担うように招くこと、霊魂を永遠の命に導くことです。
イエズス・キリストが天主の尊き血潮の値で贖った霊魂たちが永遠に失われても、私たちは平気でいることができるでしょうか?私たちの祈りと模範と愛徳で霊魂たちを天主のもとに連れもどす、霊魂の永遠の幸せのために尽くす、この努力をしてこそ私たちはイエズスを愛していると言えます。もしも私たちが霊魂の永遠の命のために協力しないのなら、それは本当の愛徳ではありません。
ではどうしたら、できるだけ多くの霊魂を主のもとに救うことができるでしょうか?つまり使徒職は成功するでしょうか?
ペトロに愛を求めたその前の夜、ペトロたちは漁をしていました。しかし魚は一匹も取れませんでした。ところが、イエズスがおられてイエズスの言われるままに弟子たちが網をおろすと「魚は多くとれて、網をひき上げることができないほど」取れたのです。つまり、イエズスと共に、イエズスの御旨のままにする時、多くの実りがあるということです。
3:良き牧者に従う21世紀の司祭たち
キリストの牧場で、一番大切なのは、イエズスを愛することです。イエズスと共にイエズスの御旨を行うことです。霊魂たちの永遠の命を、信仰を、まず第一に考えることです。もしも牧者たちが、羊たちの善のことよりも、この地上の物事を愛するのであれば、牧者という名前にはふさわしくありません。愛のためではなく、この地上の利益のために主の羊の世話をするのならば、牧者ではなく、雇い人です。
雇い人は、霊魂の本当の善つまり永遠の命を求めるのではなく、この世の物事を追い求める人々です。雇い人は、教会の中で、天主ではなく、地上のことを求めています。天主以外のことを愛しています。聖マテオによると主はこう言われます。「偽預言者を警戒せよ。かれらは羊の衣をつけてくるが、内は強欲な狼である」(7:15)。
羊たちはイエズス・キリストの言葉を聞き分けることを知っています。どちらが主の御声でしょうか?
「カトリックにこだわることはなく、どんな宗教でも良いし、教会の他にも救いはあるし、神は神だけが知っている方法で、他の宗教の人たちをも救うに違いない」という人でしょうか?
あるいは、
「私たち人間が救われるには唯一の真理の宗教しかなく、それがイエズス・キリストが使徒聖ペトロという巌の上に建てた教会、つまりカトリック教会である」という人でしょうか?
カトリック司祭はいつもイエズス・キリストと霊的な一致のうちに生きなければなりません。ドン・ショタールが「使徒職の秘訣」という本の中で教えているように、祈りと信心と黙想の生活が必要です。
カトリック司祭の使徒職の根源はイエズス・キリストですし、使徒職の発展もイエズス・キリストです。使徒職の目的もイエズス・キリストです。良き牧者であるイエズス・キリストと共に、イエズス・キリストのように考え、愛し、生活しなければなりません。主の御旨、主の利益、主のお望み、主の愛、主の知識を、できるかぎり、小さな限りのあるやり方で自分の意思、自分の利益、自分の望み、自分の愛、自分の知識へと同化しなければなりません。聖パウロは「イエズス・キリスト、十字架につけられたイエズス・キリストのほかには、何も知るまいと決心した」と言っています。またこうも言います。「主イエズス・キリストを知るというすぐれたことに比べれば、その他のことは何によらず損だとおもう。私はかれのためにすべてを損する。そしてキリストを得るためには、すべてが芥だと思う」。
イエズスの聖心は、憐れみ深い愛に満ちておられ、御自分の知識や愛を、司祭を通して羊たちに与えることをお望みです。司祭たちが、人々をイエズス・キリストのおられる十字架にまで高めることをお望みです。もしも十字架がないなら、イエズス・キリストもおられません。イエズス・キリストがおられないなら、門もなく、道もなく、真理もなく、命もなく、一致もありません。
イエズス・キリストが蔑(ないがし)ろにされるなら、御聖体が敬われないなら、ミサ聖祭が世俗化して人間中心のただの食事会になるなら、司祭が社会活動家になりさがってしまうなら、教会は虚ろになり、存在理由を失ってしまいます。教会は崩壊してしまいます。
今日、良き牧者の主日に、主に祈りましょう。私たちに多くの聖なる司祭を与えてくださるように祈りましょう。
イエズス・キリストを愛し、霊魂たちに、つまり主の羊たちに、イエズス・キリスト全てを与える司祭が与えられますように。御聖体、ミサ聖祭、秘跡、悔悛の秘跡を聖なるものとして、大切にする司祭が多く与えられますように、祈りましょう。
聖ピオ十世会が、カトリック教会の中の一修道会として、天主の御恵みによって、良き牧者に愛と謙遜をもって従い続けることができるようにお祈りいたしましょう。
良き牧者イエズス・キリスト、最高司祭イエズス・キリストは、聖母によって私たちに与えられました。聖母に祈りましょう。イエズス・キリストに続く聖なる司祭が私たちに与えれますように、主に取り次いでくださいますように。
「私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。私は良き牧者で、良き牧者は羊のために命をあたえる」。