カナの婚礼での聖母の聖徳を黙想して聖母を賛美しよう

ソース: FSSPX Japan

2024年1月19日 聖なる日本の殉教者聖堂 10時30分のミサ説教 トマス小野田圭志神父

聖なる日本の殉教者聖堂にようこそ!
今日は、御公現後第二主日です。
来週の主日のミサは、いつもの通り、午前8時半と10時半からです。

今日は、フォルティン神父様がいらしております。…
フォルティン神父様は、今、告解室で、皆さんの告解をお待ちしております。特別の聴罪司祭、必要な方は、どうぞ、フォルティン神父様のもとにいらしてください。

2月2日(主日)ですが、聖母の清めの祝日で、そして、ローソクの祝別も行われます。もしも、その日の特別の祝別によって、ローソクの祝福をご希望する方は、あらかじめ、それをお持ちください。10時半のミサの時に、その祝別を行ないます。


 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神父様、愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2024年1月14日、御公現後第二主日です。

今日の福音で、公生活の始めに、私たちの主イエズス・キリストは、カナで最初の奇跡を行われます。カナの奇跡は、私たちに多くの黙想の題材を提供しています。
が、今日は特に、マリア様の方に、「マリア様の聖徳」に目を向けて、マリア様のお持ちの徳を賛美致しましょう。

そこで、今日は、三つのポイントを黙想することを提案致します。
まず、マリア様のご謙遜、その単純さと優しさ、
それから、マリア様が、どれほど人々を気遣っていたか、
また最後に、マリア様の祈りの力と、取り次ぎの偉大さを黙想致しましょう。

【1:聖母のご謙遜と単純さと優しさ(愛想の良さ)】

マリア様のご謙遜と単純さ、あるいは愛想の良さについて、まず目を向けてみると、福音にはこうあります。

「ガリラヤのカナに婚礼があったので、イエズスの母もそこに来ておられた。イエズスも、弟子たちと一緒に、婚礼に招かれておられた。」

実は、このせっかくの披露宴で、パーティーで、ワインを切らせてしまった新郎新婦は、おそらく、あまり裕福ではなかったと思われます。
でも、この夫婦は、マリア様のことを良く知っていたらしく、マリア様に、「ぜひ、結婚式に来てください」と、マリア様をご招待したのでしょう。

この二人は、そしてこの家族は、マリア様が、天主の御母であるということは、一切知りませんでした。まさか、その御子であるイエズス様が、救い主である、人となった天主の御言葉(みことば)である、ということも知りませんでした。

福音の描写によると、マリア様が来ておられたので、イエズス様も、マリア様のお陰で、マリア様に付いて招かれたようです。

ガリラヤのカナは、ナザレトの近くにあって、7~8キロくらいの距離にある村だと考えられています。【現在の Kefr Kenna あるいは Khirbet Qana 】
こうやってこの道程を歩いて、マリア様は、天主の御母は、結婚式のパーティーに参加されます。

もしかすると、私たちは、聖徳というのは、「お祈り、苦行、断食、沈黙」が、それが聖なることだとして、そこだけにあると誤解してしまうかもしれません。
もちろん、お祈りも大切ですし、罪の償いも大切ですが、それらはすべて、天主を愛するための手段で、究極の目的ではありません。

マリア様は、婚礼の喜びも、聖なるものとすることを私たちに教えています。
すべては、「天主を愛するという目的のためにすることによって、聖なるものとなる」と教えています。
こうやって、マリア様は、ごく単純に、ご謙遜に、そして愛想良く、婚礼の宴会の席に着かれます。

マリア様が単純にいらしたというのは、見栄を張るでもなく、飾り気もなく、誰とでも嫌がることなく、天邪鬼(あまのじゃく)をすることなく、素直に、ただ「天主のために」婚礼に参加されました。

また、マリア様がご謙遜だったというのは、もちろん、天主の御母という最高の威厳にも関わらず、この若く貧しい、慎ましい夫婦の招きに応じられたからです。

マリア様は、罪人たちの間に交じっておしゃべりをしたり、食べ物を食べたり、微笑んだり、喜びを分かち合ったりされていました。
天主の御母、何というご謙遜な方でしょうか——!

また、マリア様は、非常に愛想が良く対応されました。
これはどういうことかというと、誰に対しても機嫌良く、気持ち良く、笑顔で相手に接しておられたからです。マリア様が、微笑みもせずに苦々しい顔をして、どこかの片隅に暗い顔をして、皆から離れて、パーティーに参加されていたのでは絶対にありません。

何故かというと、天主は、私たちを、社会生活を送るように創造されました。
私たちが、誰に対しても、気持ち良く、楽しく、そして調和のある、平和な社会生活を送ることを天主は欲して、そのように計画されて、私たちを創られました。
ですから、私たちが愛想が良いということは、社会生活を気持ち良く送るために、必ず必要な要素です。

聖トマス・アクィナスによると、これは、「愛徳というよりは、正義の徳から生じる、当然、私たちがしなければいけないことをすることである」と、説明しています。
「正義」というのは、自分ではなくて、他者に対して正しいことをする徳です。
つまり、「隣人に当然返すべきことを、それとまったく等しいものを与える」こと、それが正義です。
もっと簡単に言うと、「あなたのものは、あなたに与えます」——これが正義です。

毎日の社会生活を気持ちよく送るために、聖トマス・アクィナスは、「真理を語る」ことや、あるいは「御礼をする」こと、あるいは「寛大である」こと、「友情を持つ」ことなどと同時に、「愛想が良い」ことも必要だと言っています。

愛想が良いことには、三つの要素があります。
一つは、気持ちよく接するために、「相手に微笑む」こと。
次に、外的に「相手に敬意を払う」ことだと、たとえば挨拶をするとか。
更に言うと、外的だけでなく、内面的にも、相手に対する親しみを感じることだと、つまり、「相手に対する関心を持つ」ことだと、この三つを挙げています。
これらは、私たちが、隣人に対して、当然与えるべき三つの要素です。

でも、これを、この徳を実践するには「天主の御助けが必要」です。
マリア様のように行動するには、「聖寵の御助け」が、どうしても必要です。
何故かというと、自分が悩んでいる時とか、辛い思いをしている時でも、隣人に常に微笑みで返すとか、あるいは、自分の気分が悪いとか、調子が悪いという時でも、常に相手に敬意を払うとか、自分のことだけでいっぱいだ、という人には、なかなかできません。
あるいは、したとしても、心からの相手への関心や愛情がなければ、それは、おもてっつらの偽善になってしまう可能性があります。

【2:聖母の気遣い】

第二のポイントは、マリア様は、他の方を非常に気遣っていたということです。
マリア様も、イエズス・キリストも二人とも、単純に、皆と一緒に、婚礼の喜びに参加していました。おしゃべりもしていましたし、皆と仲良くしていました。
「そのとき、婚礼のぶどう酒がつき、ぶどう酒がなくなった」のです。

もちろん、お二人は、婚礼の喜びにワインが必要だということを知っていましたし、当然あるべきものであるということを認めていました。
そのことに気付いたのは、まずマリア様、そして給仕係です。他は、どうも気が付いていません。

すると、マリア様は、すぐに若い夫婦のことを気遣います。
善き母として、すべてが上手くいくように心を配っていました。

マリア様が、ぶどう酒に関心があった、ぶどう酒をもっと飲みたいなぁと思っていたわけではありません。
そうではなくて、このお祝いの席が、成功するということを望んでいました。それに関心がありました。
自分のことだけというよりは、周りの人の皆の喜びや幸せに、もっともっと関心がありました。

このお友だちの夫婦が、せっかくお客様を招待して、皆が遠くから来てくれても、ワインも十分に出すことができないのでは、この夫婦が、辱しめを受けて可哀相ではないか、悲しんでしまうのではないか、ということを心配されたのです。

マリア様は、冷たい態度は一切取りませんでした。
「パーティー? 私は水を飲みます。ワインは飲まないの。No, thank you.」
とは、おっしゃいませんでした。また、
「私はお客さんですから、ワインが無くなろうがどうなろうが、私には関係ありません。これは、主人がする話ではありませんか?」
「誰かが、酔っぱらうまで飲み過ぎたのではないの?」
「この若い夫婦は、必要な量をちゃんと準備しておかなきゃダメじゃないの。」
などと一切言いません。
マリア様は、隣人を辱めたり、悲しませたりすることは一切なさいませんでした。それよりも、なんとかこの状況を救おうと、隠れて救おうとされました。

【3:聖母の祈りとその力、取り次ぎの力の偉大さ】

第三に、「マリア様のお祈りの力」を見てみます。
そこで、それに気が付いた聖母は、こっそりと、そして単純に、全幅の信頼を込めて、イエズス様に事実をこう伝えます。
「あの人たちに、ぶどう酒がなくなりました」と。
これは、なんと優しい、そして気遣いに満ちた、隠れた祈りだったことでしょうか! しかし、非常に謙遜で、そして偉大な祈りでした。

その時、イエズス様にとって、まだ「御自分の時」は来ていませんでした。
マリア様は、イエズス様を、人間の本性においてお産みになった方ですが、天主の本性については、お産みになったわけではありません。

ですから、イエズス様が奇跡を行なうように、母として命令するということは、本来ならば、できなかったはずです。まだ、イエズス様にとって、聖母を人類の霊的な母として、超自然の恵みを分配する方として、すべての聖寵の分配者として、仲介者として定める時は、その「御自分の時」は、まだ来ていませんでした。

しかし、マリア様は、イエズス様を信頼します。
聖母は、この祈りで、イエズス様に奇跡を起こさせます。
マリア様は、主を、この世に肉体的にお産みになったのみならず、御自分が現存することによって、参加することによって、カナに主を、イエズス様をお招きして、そして、人々にイエズス様を与えて、イエズス様に奇跡を起こさせ、イエズス様の本当の姿を現わして、イエズス様を高めて、イエズス様への信仰を固めました。
福音の最後には、「弟子たちは、イエズスを信じた」とあります。

マリア様はいつでも、そうなさいます。ご自分のことではなくて、「イエズス様を高める」——グァダルーペでも、マリア様は同じことをおっしゃいました。
御自分が、ここに聖堂が欲しいのは、「イエズス様を高めるため、イエズス様を与えるためで、皆を慰めるためで、母として皆を癒すため」とおっしゃいます。

ところで、カナの奇跡の後に、ヨハネの福音を読んでいくと、御自分は、まったく存在していないかのように、福音から姿を消されます。

マリア様は、カナで、イエズス様の公生活の始めを輝かせて、そしてその後、姿を消されます。もちろん、マリア様は、天主の御母、罪の汚れなき御方、聖寵に満ち満ちた御方ですが、マリア様は、出てこられません。
イエズス様の聖性の偉大さの前に、御姿を消されます。
あたかも、洗者聖ヨハネのように、「彼は栄え、私は姿を消さねばならない」と、言われているかのようです。

でも、イエズス様が、その御自分の時がやって来た時、もう一度、三年後、十字架の足元で、御姿を現わします。
「主の時」が来ました。カルワリオの苦しみの時が来ました——。

カナで、主は言われました。
「婦人よ、それが私とあなたとになんのかかわりがありましょう。
私の時はまだ来ていません!」

しかし、御受難の直前には、「人の子が栄光を受ける時が来た」「父よ、時がきました」と言われ、そして、十字架で宣言します。
「婦人よ、これがあなたの子です」と、ヨハネを示して言います。
そして、ヨハネを通して、すべて私たちを指して、イエズス様は宣言します。
「婦人よ、これがあなたの子です」

【4:遷善の決心】

最後に、遷善の決心を立てましょう。
マリア様は、私たちの霊的な母として宣言され、本当に、私たちを霊的に生み出す母です。私たちの幸せを、願って、欲しています。
私たちの生活上のどんな些細なことでも、天上から、母として気を配ってくださっています。私たちの生活の喜びと平和がありますように、祈ってくださっています。特に、私たちが、永遠の喜びに、天国に至る道を確かに歩むことができるように、心にかけてくださっています。

もしも、カナでの婚宴のワイン、たったワインのことで、あれほどの奇跡を起こしてくださった、起こさせてくだったマリア様でしたら、私たちの人生が、快いワインのような、天主の御旨に適うものとなるために、どれほど心を割いて、心を配ってくださることでしょうか!

その秘訣はなんでしょうか?
それは、マリア様が、いつも私たちの生活にいらっしゃることです。
遷善の決心として、マリア様と、日常生活をともに過ごすことに致しましょう。
聖母とともに、毎日を過ごすことに致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。