旧約の全てのいけにえを完成させたイエズス・キリスト

ソース: FSSPX Japan

2025年4月6日  御受難の主日

トマス小野田圭志神父説教  聖フランシスコ・ザベリオ巡回聖堂(名古屋)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日の聖パウロの書簡を見ると、イエズス・キリストが大司祭であると、永遠の最高の大司祭であると、旧約の預言を成就させた、前兆を成就させた大司祭であるということを教えています。

そこで今日は一緒に、イエズス・キリストは「旧約の全てのいけにえを完成させた方である」ということを黙想しましょう。そして、最後に遷善の決心を立てましょう。

 

【キリストは旧約の犠牲を完成させた】

聖パウロはヘブライ人への手紙の中で、旧約の儀式と新約のイエズス・キリストとを比較しています。五つの点を挙げています。

旧約では、大司祭だけが一年に一度だけ、幕屋の中の特にその奥にあった第二の幕屋、至聖所といわれるところに入ることができた、そして、自分の罪と民のさまざまの罪のために動物のいけにえを捧げて、その血を携えて入った、一年に一度。それをイエズス・キリストが完成させたと話しています。

旧約時代では大司祭が入りましたが、新約では、将来の恵みの大司祭キリストが入ります。なぜキリストが大司祭かというと、聖ペトロがこう言うからです。

「牧者のかしら【キリスト】があらわれるとき、あなたたちは不朽の光栄の冠を受けるであろう。」(ペトロ前54

あるいは、聖パウロはヘブライ人への手紙の中で「天にはいられた偉大な大司祭、天主の子イエズス」(ヘブレオ414)と言って、イエズス・キリストこそが大司祭であると言っています。

しかも、単なる地上の良いものを与える司祭ではなくて、将来の天上の天国の霊的な御恵みを、善を与える大司祭がイエズス・キリストだと言っています。

 

旧約の時代には、至聖所というのは大司祭しか入ることができませんでした。ですから今でも、エルサレムに行ってください。エルサレムの大神殿は、もう破壊されて平らになっていますが、ユダヤ人たちはそこに入ろうとしません。

何故かというと、どこが至聖所かわからなくて、そこは大司祭しか入ることができなかったからです。とても神聖な場所で、普通の人が入ることはできないので、ユダヤ人たちは誰も入ろうとしません、行こうとしません。

しかし、旧約のその聖なる至聖所も、イエズス・キリストが入った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋と比べればなんでもありません。

何故かというと、新約の至聖所は人の手ではつくられなかった、この世がつくったものではない幕屋であって、天の栄光にイエズス・キリストは入られたからです。昔は、羊や子牛の血を捧げて、それを持って至聖所に入りましたが、イエズス・キリストは、天主の子羊として、御自分の尊い天主の血をもって天にあげられました。イエズス様は最後に、聖木曜日にこう言われます。

「みな、このさかずきから飲め。これは、多くの人のために、罪のゆるしを得させるため流す契約の私の血である。」(マテオ2628

旧約時代では、一年に一度だけ至聖所に入ることができました。

キリストはただ一度だけ、聖金曜日のいけにえを通して、永久に至聖所に入られました。そして、常にそこにおられます。何故かというと、イエズス・キリストは、復活して天におられるからです。

イエズス・キリストは、旧約時代では、ユダヤの司祭は、自分のためと民のさまざまの罪のために捧げましたが、イエズス・キリストは、永久の贖いを、全人類の贖いを成し遂げられました。何故かというと、イエズス・キリストの力は無限であるからです。しかも、その力は聖霊によって与えられたものであって、汚れのない御自分を捧げたものであるので、私たちの良心を清める力があります。なぜ御血を流されたのか、なぜキリストが大司祭になったかというと、それは、選ばれた人々に、約束された永遠の遺産、天の国を受け継がせるためでした。このことを考えると、私たちはどうしても一つの結論に到達します。

イエズス・キリストは、私たちにとてつもない御恵みを、とてつもないいけにえを遺してくださったということです。つまり「ミサ聖祭」です。

 

【聖伝のミサは唯一の真の犠牲】

皆さんが今日与っているミサ聖祭は、イエズス・キリストが完成させた、全ての旧約が預言していた本物のいけにえです。唯一、天主が快く受け入れ、天主が嘉される、嘉納することができる唯一のいけにえ、それがミサ聖祭です。

何故かというと、ミサ聖祭は、イエズス・キリストが捧げた十字架の再現であるからです。再現であるということは、イエズス・キリストの十字架がもう一度、私たちの目の前に実現するということです。イエズス・キリストは十字架の上で苦しまれませんが、しかし、それと同じ効果が、私たちの目の前であらわれるということです。あたかも、私たちがタイムマシンに乗って、二千年前のカルワリオに行って、十字架のもとにいたのと同じようなことが今、目の前で起こっています。

ミサ聖祭は、最後の晩餐の記念ではありせん。ミサ聖祭は、十字架の記念だけではありません。本当に、私たちの目の前で、ミサのいけにえ、十字架のいけにえが再現されます。どうやって?それは、二つの聖変化が本当に起こるからです。パンがイエズス・キリストの御体になって、ぶどう酒がイエズス・キリストの御血になって、あたかもイエズス・キリストが屠られたかのように、秘跡的に分離するからです。

旧約のいけにえ、犠牲を全て完成させた十字架のいけにえは、ミサによって皆さんの目の前で今捧げられています。血を流さないやり方で捧げられます。

そして御恵みが、溢れんばかりの無限の御恵みが、ミサに与っている皆さんにドクドクと、なみなみと与えられます、注がれます。

イエズス・キリストのいけにえを見て、御父は「これは、私が喜びとする愛子である」(マテオ17:5)と、二回宣言されました。イエズス・キリストの洗礼の時と、そして御変容の時です。そして、同じことを私たちにおっしゃいます、ミサの時におっしゃいます。イエズス・キリストの天主の御子の捧げたいけにえ以外、旧約のいけにえを完成させる、このいけにえ以外、天主に嘉されるいけにえはあり得ません。唯一の、本当の本物のいけにえです。それに皆さんは与っています。

カトリック教会には、天主の御恵みによって、この本当のいけにえの祭壇があります。本当の司祭職があります、カトリック司祭です。これこそが、私たちの宗教の中心です。カトリック教会の心臓です。でも、本当の宗教でないところには、偽物の宗教にはいけにえがありません。ユダヤ教には祭壇がありません。イスラム教にも祭壇がありません。プロテスタントにも祭壇がありません。新しいミサは、祭壇が食卓になってしまいました。

 

【遷善の決心】

では、私たちは最後に遷善の決心を立てましょう。

イエズス・キリストが命をかけて、御血を流して私たちにくださった最高の宝物、永遠の宝物、お金では買うことができない、金銀よりももっと価値がある、この地上の全ての喜びや、財産や権力よりももっと力がある、それがミサ聖祭です。それに皆さんは与っています。このミサの神秘を、深く理解する御恵みを請い求めましょう。十字架上のイエズス様に、心から今日お祈りしましょう。私たちの愛を申し上げましょう。イエズス様は言いました。

「私は地上からあげられて、すべての人を、私のもとに引きよせる」(ヨハネ1232

つまり、十字架の上にあげられた時に、私は全ての人を十字架のもとに引き寄せると約束されました。約束の通り、私たちの心を、主のもとに引き寄せてください。罪を忌み憎む御恵みを祈り求めましょう。主は十字架を担いましたので、私たちも苦しみを喜んで捧げる、イエズス様と一緒に捧げる御恵みを請い求めましょう。

イエズス様への愛へのために、イエズス様の十字架を愛するがために、私たちも罪を避ける御恵みを請い求めましょう。

悲しみのマリア様にお祈りしましょう。マリア様の御取り次ぎで、十字架の神秘を深く理解することができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。