急逝した私たちの兄弟トビアス・アントニオ

2025年2月1日 聖母の汚れなき御心聖堂 葬儀ミサ
トマス小野田圭志神父 説教
聖伝の葬儀ミサ 先日急逝した私たちの兄弟のために 2025年2月1日(初土)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
バートネックご家族の皆様、
特に、カーステン・バートネック様、
トビアスのご友人、同僚、恩師の皆様、
そして、愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの大切なトビアス・アントニオ・バートネック兄弟は、突然、主の御許に召されました。
才能があり愛に満ちて、これから大きな活躍を期待していたトビアスが、一足先に、永遠の世界に旅立ってしまいました。
私たちは皆、大きな喪失を強く感じています。
私共は、きっとトビアスが、将来の聖アウグスティヌスのようになってくれるだろうと思っていました。
今日、トビアス・アントニオの霊魂の安息のために、ミサ聖祭を捧げています。
このミサ聖祭は、祭壇で行なわれるイエズス・キリストの十字架の犠牲の再現です。
ですから、今、トビアスの霊魂は、主の無限の十字架の功徳を受けて、私たちのしているこの祈りに感謝して、喜んでくれていると確信しています。
トビアスは、このミサを心から愛していました。そして、このミサという最高の祈りを頻繁に祈るために、この聖堂に通っていました。
今日、多くの方々が、お友達や同僚の方々、また恩師の皆様が来てくださったので、心から私たちも感謝しております。
本来ならば、トビアスのご遺体をここに安置してお別れをしたかったのですけれども、ご遺体の状態があまり良くなかったので、ここに運ぶことは叶いませんでした。
そこで、今日の午後の5時から6時の間、公益社にて、最後にお別れをすることができる時間を、公益社様が作ってくださいましたので、皆様、もしもよろしければ、どうぞいらしてください。
トビアスの人柄を皆さんに思い出して頂くために、私の知っている限りのことをいくつかお話ししたいと思っています。
どうやって私がトビアス兄弟と出会ったのか、そして洗礼を受けて、何を考えていたのかなどについてお話をしたいと思っております。
私がバートネック兄弟と知り合ったのは、コロナのために世界がおかしくなっていた時でした。2022年1月13日にトビアスからのメールを受け取りました。突然のメールでした。
それはちょうどイエズス・キリストの洗礼の記念日で、私は韓国のソウルにおりました。そのメールの内容は、自分は、カトリックの洗礼を受けるために勉強をしたい、というものでした。
その後、トビアスと時間を作って、毎週一回、オンラインで公教要理の勉強を二人で始めて、私と同時にレネ神父様からも公教要理を学ばれました。
これは後にトビアスから聞いた話ですが、何故カトリック教会の洗礼を求めたか、ということを教えてくれました。それは、彼が、子供の頃から真理を追求してきたからだ、と言ってくれました。
きっと彼自身が、いつの日か、その霊的な旅路について詳しく話をしてくださる日が来ると信じていたのですけれども、残念ながら、それが叶わなくなってしまいました。ですから、そのお話を、かいつまんで申し上げたいと思っています。
トビアスは、ドイツの大学で、真理を求めて哲学を専攻しました。
しかし、勉強しても勉強しても、答えは得られませんでした。
日本語の勉強をするようになって、日本の仏教、特に浄土真宗や真言宗の研究を深められました。その知識の深さには驚くべきものがありました。
そして、研究の最終の到着点がカトリック教会でした。
彼の話によれば、仏教を深めれば深める程、そこには回答がないということに気が付いた、とおっしゃっていました。
そんな時に、京都大学でもコロナの自主規制がますます強くなっていきました。
希望する学生たちは、オンラインでも授業に参加することができるようになりました。また後には、授業はオンラインでライブ発信のみになった、とのことです。ついには、教授も録画した講義を発信するようになりました。
そこでトビアスは、京都大学で助手としてオンライン講義の操作を担当していたとのことです。
そんな2021年12月のある日、ある先生の録画された講義を発信する操作を行なうために、トビアスは京都大学にいました。
先生が不在で、学生たちも不在の、つまり誰もいない大学の教室で、彼がぽつんと一人で機械を動かしていたとのことです。
実はその日は、学生さんたちも、教授の話をただダウンロードしただけで、同時に聴講した方はいらっしゃいませんでした。ただ機械だけが動いていたそうです。そして、彼の話によると、講義の内容は、人間には自殺をする権利があるのではないか、という内容だったとのことです。
その時、彼が考えたのは、人間中心主義——つまり、人間の理性だけが最高の、そして唯一の判断の基準だとする21世紀の高度な科学技術の行き着く先が、人間の不在・人間の消滅であることを示しているということに気が付いた、それを感じた、とのことです。
京都大学という、日本の最高の頭脳の持ち主が集う学究の場で、その人間中心主義の論理的結論にいち早く到達したことを感じ取った、とのことです。
そこで、トビアスは、アントニオという洗礼名で、一昨年2023年の復活祭に洗礼を受けました。代父は、ここにおられるヨゼフ森さんでした。聖にして、母なるカトリック教会のふところに受け入れられたことを永遠に感謝すると、トビアスは私に言ってくれました。
復活祭の前の数か月は、洗礼の準備のために、この大阪の聖母の汚れなき御心聖堂にミサがある時は必ず出席して、すべてのミサに与りました。どんなに早い早朝のミサでも、また夕方のミサでも、京都から通われて、必ずミサに与りました。
そして、ミサに来ると、聖堂では、どのような方々にも、お年寄りの方でも若い方にも子どもにも、日本の方や外国の方すべてに、彼の特有の慎み深い、そして優しい微笑みを見せながら、控えめで、そしてとても知的に多くの方に接しておられました。ある時には、トビアスを慕って、大学の若いお友達もミサに来られた時がありました。
私が思ったのは、トビアスが多くの方々から愛されていて、慕われているということでした。それは誰の目にも明らかでした。
今日、皆さんがこうやってお集まりくださったのも、トビアスの人柄を表わしていると思います。
洗礼を受けて直後の5月には、私共がいつも毎年行なっている、秋田のマリア様のところへの巡礼に参加されました。
彼が、その時私に言ってくれたのは、
主を愛し始めたのが実に晩(おそ)かった。主が自分に目覚めているようにと言われたのに、自分は眠りこけていた。
主の憐れみの深い淵と無限の赦しの中に、今入り始めたのだけれども、主を知らずに虚しく過ごした時が悔やまれる。
そして、時間を無駄にしてしまったということについて、自分の胸には言うこともできない苦痛があると、私に教えてくれました。
そして、彼の言葉を少しお伝えすると、
私たち信者は、ミサ聖祭に与る時に、マリア様のように、御子イエズス・キリストが、真の過ぎ越しの小羊となって屠られるのを止めることもできずに、主の十字架の足元に佇んでいるのではないだろうか、
マリア様と同じではないだろうか。
そして、マリア様がついには、十字架から降ろされた主を膝元に受け取られたように、私たちも、御子イエズス・キリストの御体と御血を舌に拝領するのではないだろうか。
マリア様こそが、御聖体を最初に受けた方であって、いつも最初の方ではないだろうか。
だから、祭壇というのは、マリア様のイメージではないだろうか。
マリア様の第六の悲しみ、主が、マリア様の膝の上に抱かれている、その世の終わりまで抱かれているピエタのイメージが、祭壇ではないだろうか。
そして、御聖櫃が開かれて、御聖体が信者の皆さんに配られる時に、マリア様の汚れなき御心も剣で貫かれて開かれ「多くの人々の考えが明らかにされる」(ルカ2:35)時ではないだろうか、ということも教えてくれました。
また、ドイツの作家が14世紀に造ったピエタの像が、ボンの博物館にあるけれども、そのマリア様の御姿はショッキングなほど歪められている。しかしこれが、自分が御聖体拝領をする時のイメージだ、と。
十字架から降ろされたイエズス様を受ける、マリア様の悲しみに添う自分の心だ、ということも伝えてくれました。

Pietà Roettgen
洗礼を受けた6月には、コロンビアのボゴタで学会に参加されました。その際、モンセラット聖地(the Sanctuary of Monserrate)を訪問し、「倒れたキリスト」 (El Señor Caído) という聖像を、そしてその教会の外にある「ホームレスのイエズス」という題の、ベンチに横たわって毛布をかぶって眠っているキリスト像も見たと、日本に戻ってから、私に教えてくれました。
そして、その印象をこんな風に語ってくれました。
新しいミサにおいて、御聖体がどのように取り扱われているか、また御聖体に対する真の信仰が、どれほど忘れ去られているかということを考えると、キリストが教会の外に追いやられて「ホームレス」になっているようだ、と。
聖ピオ十世会と聖伝のミサも、ある意味で、毛布以外のすべてを取り除かれて、教会の建物のすぐ隣のベンチで、ホームレスになっているようなイメージに重なってこないだろうか、と。
また同時にトビアスは、こんなことも私に教えてくれました。
聖伝のミサのホームレス状態が、終わりを告げることを確信している、と。
何故ならば、聖ピオ十世会の司祭たちが、世界の各地で聖伝のミサ(ラテン語のミサ)を捧げているからだ、と。
ちょうどその時、私は札幌でもミサを捧げていたので、その札幌のミサは、それへの大切な一歩だと、非常に喜んでくれていました。

El Señor Caído de Monserrate


また、普通の「めでたし聖寵……」と始まるマリア様のお祈りに似せて、聖ベルナルドが作った、悲しみのマリア様に対するアヴェ・マリアの祈りのことを教えてくれたのもトビアスでした。
私の司祭叙階30周年の時に、彼が私に言ってくれたことは、マリア様にいつもお祈りしている、という内容でした。それは、多くの方々が、多くの霊魂たちが真理に心を開いて、永遠の幸せへの道を歩むことができるように、マリア様にたくさんお祈りしている、とのことでした。
そして、多くの日本人司祭が、小野田神父の後に続くように心から祈っている、という祝福の言葉でした。
一昨年の8月には、聖イグナチオによる霊操の黙想会にも参加されました。そして、いつものようにトビアス・アントニオは、キリストの御受難に大変深い関心を示して、黙想会中に度々私のところに質問に来られたのを覚えています。
キリストは、この地上におられた時に、幾たびも涙を流されたのは福音書に書かれているけれども、笑ったことについては書かれていない、と。
また、チェスタートンの書いた『正統性』という本によると、キリストには、誰にも言わなかった御自分の秘密がある。それは、至福の喜び(mirth)についてだ、と。
去年は、秋田の巡礼に5月に行った後、7月に転倒して足を骨折し、入院されました。
この事故は、もしかしたら今回の前兆だったのかもしれません。
本当は、その夏休みに故郷のドイツに帰って、ご家族の方々はもちろん、シュミットバーガー神父様やその他のお友達にもお会いしたいと楽しみにしておられましたが、あいにくこの帰国は叶わず、クリスマスの休暇に延期されました。
しかし、この病院で入院されている間、トビアスは、静かに祈る時間が与えられたこと、黙想する時間が与えられたということを、特別の御恵みの時だったと言ってくれました。
きっと、私たち人間が持っている霊魂の価値、また、人生の本当の意味とは何か、創造主であり救い主であるイエズス・キリストの御受難について、深く考察して黙想して、考えておられたと思っています。
実は、私は彼のことを非常に高く評価しており、敬意を持っておりました。ですから、十字架のいけにえに深い関心を持つ、ミサ聖祭を深く愛する彼に、彼も同じように、キリストの代理者としていけにえを捧げる道を選ぶのはどうだろうかと、それとなく仄めかしたことがあります。
すると彼が私に言ったのは、最近、時々、御聖体拝領をする度に、十字架の主の御言葉の声が、自分にこだますると言ったのです。
それは、「父よ、彼らを赦し給え、彼らはそのなすところを知らざるがゆえなり」という言葉で、もしも自分が主の犠牲の神秘の中に深く入ってしまうと、実は主が(私のために)取って置かれた憐れみ、つまり(私の)無知のために取って置かれた憐れみや赦しを失ってしまうのではないだろうか。
自分は、その憐れみが必要なのだけれども、その特権を失ってしまうのではないかということを畏れている、とのことでした。
しかし、主はトビアスを別のかたちで永遠の世界に召され、そしてその命の犠牲を、私たちのためにお捧げくださったと思っています。
最後に、愛する兄弟姉妹の皆様、トビアスが愛しておられた悲しみのマリア様に思いを馳せることに致しましょう。
今日は初土曜日、月の最初の土曜日で、特に汚れない悲しみに満ちたマリア様に捧げられた日です。
トビアスが愛した、この悲しみのマリア様にお祈りして、早くトビアスを、マリア様のいらっしゃる天の至福のところに導いてくださるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。