「結婚式に招待されるとき、あなたは上席についてはいけない」とは?
2025年9月28日 聖霊降臨後第16主日
トマス 小野田圭志神父説教 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)
【札幌】 小野田神父様 2025年9月28日 聖霊降臨後第16主日
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の福音から「謙遜」について――つまり、天主は、私たちの卑しさにおいてこそ、私たちのもとに来られるということを一緒に黙想したいと思っています。
そこで、今日の福音が教えることは何か、またイエズス様が、どうやってそれを模範で教えてくださったのかを黙想してから、最後に遷善の決心を立てましょう。
【1:私たちは「婚姻」に招かれている】
福音では、よく「婚姻」のたとえが語られます。この婚宴とは、天主と私たちの霊魂との霊的な一致のことです。天主との愛の一致は、既にこの地上で始まり、天国の永遠の聖なる宴会で完成させられます。天の婚姻において、新郎はイエズス・キリスト、花嫁は教会です。私たちは、教会の肢体であり教会の一員ですから、この婚姻は、花嫁の一部を成している私たちの婚姻でもあります。この天主との霊的な婚宴とは、聖パウロが言っているように「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮ばず、天主がご自分を愛する人々のために準備された」(コリント前2:9)、想像を絶するような、永遠の完全な至福、天主と私たちとの永遠の愛の交流のことです。そして、私たちはすべて誰でも、この天における幸せな、永遠の婚宴(婚姻の宴会)に招待されています。
ところで、私たちの主はこう教えておられます。
「結婚式に招待されるとき、あなたは上席についてはいけない。招待された時には、末席につきに行け。」
これは、私たちが友人の結婚式に招かれた時のことだけを話されているのでしょうか?
そうではなく、イエズス様は私たちにもっと深いことを教えようとされています。つまり、私たちが天主に近づくためには、謙遜でなければならないということです。では、天国における永遠の婚宴の席に招待された私たちにとって「末席につく」とは、いったいどういう意味なのでしょうか? これが、私たちの今日の黙想のテーマです。
【2:逆説(パラドクス)】
先ほども申し上げましたように、私たちの天主との愛の一致は、この地上で始まりますけれども、これを霊的な生活(spiritual life)と言います。
霊的な生活を通して、私たちはこの地上のことから天上のことに心を向かわせ、ますます天主へと上がり続けていかなければなりません。
上に上がる(私たちの完成・完徳を得ること)とは、天主との愛の一致のことですが、天主は全ての被造物を超越し、上におられる方ですから、私たちが天主に近づくためには、地上のこと(被造物)から離脱して、天上の天主に向かって、上へ上へと昇っていかなければなりません。
ところが、どうしたら天主に向かって上へ昇っていくことができるのでしょうか?
その秘訣はなんでしょうか? それは、下がること(くだること)にあります。
――天主に向かって上がるために、下に下がる。
ここに一見、矛盾しているように思える、霊的生活の「逆説(パラドクス)」がありますが、イエズス様は繰り返しこのことを教えています。
聖アウグスチヌスもまた、このことをいつもの非常に上手い言い方でこう言っています。
「兄弟たちよ、この偉大な不思議を考えよ。天主はいと高きにおられる。天主へと身を高めると主はあなたたちから逃げていかれる。天主の御前で身をかがめると主はあなたたちのところに降りてこられる。」
また、こうも言います。
「自分のことを弱いと思わない限り、誰も天主から強められるものはいない。」"Nemo erit a Deo firmus nisi qui se a seipso sentit infirmum." Sermo 76, n° 6, PL 38, 481.
十字架の聖ヨハネという有名な大聖人も「カルメル山登攀(とはん)」という本で、聖アウグスチヌスと同じことを教えています。
「全てである方に来るために(天主へと行くためには)、全てにおいて無であることを欲せよ(望まなければならない)。」
つまり「全てを得る(受ける)ためには、何も望んではいけない」ということです。
幼きイエズスの聖テレジアも、「小さき道」という霊的な道で、これと全く同じ逆説を説いています。イエズス様の腕に抱かれて、天主の力によって上げられるためには、単純で小さく、幼子のようにならなければならないと教えています。
主はこう言われます。
「すべて自ら高ぶる人は下げられ、自らへり下る人は上げられる」と。
また「あなたたちの中で、偉くなろうとのぞむ人はしもべになり、またあなたたちの中で、第一の人になろうとのぞむ人は奴隷にならねばならない」(マテオ20:27)と。
私たちは、確かにこの主の御言葉をよく知っていますが、実生活ではすっかりコロッと忘れており、主のやり方を私たちの人間的な基準で判断してしまい、自分の考えの通り、主のやり方を押し付けようとしてしまっているので、主のご謙遜の本当の意味が分からないのかもしれません。
たとえば、日本には「能ある鷹は爪を隠す」「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざや「なんだ、あの人は上から目線で話しているなぁ」「なんだ、何様だと思っているんだ」などと言って、謙遜の大切さを教える言い方もあります。
しかしイエズス様のご謙遜の教えと、日本のこのような言葉や態度とを同じレベルで考えてしまっているところに、私たちの誤解があります。主の教えと世間で一般的に考えられている謙遜とには、天と地ほどの差があるのです。何故なら、イエズス・キリストが、みずからの模範をもって、私たちに教えられた謙遜とは限りない謙遜であり、人間の考えや理性を遥かに超えたものだからです。
【3:イエズス・キリストの模範】
では、どのような違いがあるのでしょうか? また、私たちが天主に向かって上がるために下がるとは、どういうことでしょうか?
そこで、イエズス様の模範を見てみましょう。
主は、私たちとの愛の一致をするためにどのようなことをなさり、どれほど末席につかれたのでしょうか?
イエズス様が公生活を始める時、罪人の群れに交じり、洗者聖ヨハネの手から悔い改めの洗礼の水をうけました。砂漠では四十日の間断食をされ、飢えを感じられ、悪魔から誘惑を受けることさえお許しになりました。
【天主は私たちが無に等しいことを確信するために、私たちがしばしば誘惑をうけることを許されることでしょう。私たちを守ることができる唯一の方に頻繁に助けを求めるために。】
主は、常に御父のお望みの通りを行おうとされました。
「私は自分では何事もせず、ただおん父に教えられたとおりに、これらのことを話した」(ヨハネ8:28)。
御父について話されて「私は、そのお方について知っていることを、世に告げている」(ヨハネ8:26)。
「私の父は、今もはたらいておられるのだから、私もはたらく」(ヨハネ5:17))。
主は、ご自分が、天主の本性によれば御父と等しい方であったにもかかわらず、いつも御父に祈り、御父の御旨だけを行われました。主はあたかも、ご自分の天主としての偉大さや権能をお忘れになってしまったかのように、力のないか弱い人間であるかのように、ご自分のことを「人の子」と呼ばれました。
また、ゲッセマネの園ではこう祈られました。
「父よ、御旨ならば、この杯を私から遠ざけてください。しかし、私の意のままにではなく、あなたのみ旨のままに!」(ルカ22:24)
主はモーゼの規定に従い、神殿に税も払い、正当な当局に従順と敬意を示されました。
さらに、イエズス様は全ての人々のしもべであるかのように行動されました。イエズス様がカファルナウムに来られると、一人の百夫長が自分のしもべが中風で大へん苦しんでいる、と告げると、イエズス様はすぐに「私が行って治してあげよう」(マテオ8:7)とおおせらました。
主は言われます。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく仕えるためである」(マテオ20:28)と。
主は、ありとあらゆる謙遜の模範を、私たちに見せてくださいました。特に御受難の時をご覧ください。総督の兵卒たちが、イエズス様の服をはいで赤いマントを着せる時も、主は服を脱がされるままに、いばらの冠をあんでおん頭にかぶらせる時も、抵抗せずされるがままに、右の手に葦竹をもたせようとする時も、手を広げてそれをお持ちになり、殴られるままに、嘲られるままになさいました。
主は、ご自分の死刑執行人に対してさえ従順でした。十字架を担がれ、釘を打たれるために腕を伸ばされました。人々が酢にひたした海綿を投槍につけて、イエズス様の口に寄せると、酢をうけられます。御父の御旨に全て従い「すべてはなしとげられた」と言って息を引き取られました。
誰をも必要とされない、最高の主権をお持ちの全能の天主の御言葉、全てを成すことができるお方、永遠の智恵であり、全てをご存知のお方である主イエズス・キリストは、人間という被造物としては何ものでもないかのように行動され、人々に従っておられました。
【私たちとは何と反対なことでしょうか。私たちはこの地上で生活するために、多くのものの助けと必要としており、自然の法則と定められた秩序に従わなければなりません。ところが、私たちは、自分の置かれた分際と条件を忘れて、自分の優れたところ・自分ができることだと思うことだけを考えて、自分の盲目の判断に従い、自分を何ものであるかのように思い、自分のやり方を好み、自分の考えに信頼し、他の経験を積んだ人の助言を軽視して、賢明な人の優しい警告を無視して、自分のやりたいようにしようとします。】
【限りのない謙遜】
ところで、私たちの霊的生活でよくある誤解として指摘されているのが「謙遜には限りがある」という誤解です。つまり、ここまで謙遜にくだったら、もうそろそろ上がる時だろう、と勝手に思うことです。
でも、霊的指導者は口を揃えて言います。謙遜には極みがなく、天主に向かって上がるためには、ひたすら下がらなければならないと。下がるしか上がることはできないということです。
すなわち、私たちがつきに行くべき末席には、限度がないということです。何故なら、私たちの貧しさやみじめさには、底がないからです。私たちは無であって、自分が無であることを認めれば認めるほど、天主に近づくということなのです。
これはどういうことかというと、たとえば、昔はお祈りをすることがとても甘美であり、よくお祈りできたけれども、今はできない。霊的な無味乾燥であり味気がない。誘惑があり、気も散る、苦しみがある。何故こんなにも上手くいかないのか、どうなってしまったのか、もう天主から見捨てられてしまったのかなど、天主から捨てられてしまったかのように思える時、実は天主が、私たちのすぐそばに、最も近くにおられるということなのです。
聖パウロは、こう言います。
「私は、とくに喜んで自分の弱さを誇りにしよう。そうすれば、キリストの力は私に住まれるであろう。…なぜなら、私は、弱いときに強いからである。」(コリント後12:9-11)
なんというパラドックスでしょう!
アブラハムは、信仰の男であったと同時に、非常に謙遜でした。彼は、祈る時にこう祈ったと創世記に書いてあります。「私は塵と灰に過ぎない者だけれども」(創世記18:17)と言って主に語りかけるのです。
「私は塵と灰に過ぎない者だから、あなたに祈ります。」と。
つまり「私は塵や灰、芥に過ぎない何の価値もない者ですから、御身の憐れみだけが頼りです。そして、御身の憐れみは無限ですから、私は信頼することができます。また、主は信頼する者を決して失望させませんので、私には希望があります。ですから、私は主にあえて願い、祈っています。全てを、最高のものを願っています」という祈りだったのです。
ですから、私たちは、次のような祈りをしないようにしなければなりません。悪い祈りの模範を紹介します。
「主よ、私は今まで、あなたのために〇〇をしてきました。私には、〇〇の功徳があります。祈りや断食、献金をしてきました。清い霊魂を持ち、聖徳も積んできました。ですから主よ、〇〇をしてください」
主は、このような祈りを全く聞いてくださいません。何故かというと、私たちは何も持っておらず、私たちの持っているものは全て、主から受けたものだからです。もしも私たちに何か良いものがあるとすれば、それは私たちが天主から譲り受けたからです。聖パウロはこう言っています。
「あなたのもっているもので、もらわなかったものがあるか? もらったのなら、なぜ、もらわなかったもののように誇るのか?」(コリント前4:7)
イエズス様もまた「あなたたちも、命ぜられたことをみななし終えたら、"私たちはとるに足らぬしもべである、すべきことをしたにすぎない"といえ」(ルカ17:10)と言われました。
聖パウロは、自分のことを「私は、取るに足らない者である」(コリント後12:11)と言い「何者でもないのに、何者かであるかのように思うのは、自分を欺くことである」(ガラチア6:3)とも言っています。
私たちの本当の姿は、罪のうちに宿され(詩篇50:7)、「過ちと罪とによって死んだ者」であり「本来は怒りの子」(エフェゾ2:1と3)だからです。
そのような私たちが、しかも全てを天主から頂いている身でありながら、いったい何を誇ることができるでしょうか?
では、福音のたとえに戻りますが、主は、私たちと愛の一致をするために末席へ行かれました。聖パウロが言う通り「自分自身を無とされ」(フィリッピ2:7)ましたし、そのご謙遜には限りがありませんでした。
天主の御言葉、いと高き最高の御稜威の天主が、小さく人間となられました。最高の主権と権威、全能の力が苦しみ、死すべきかよわい人間となられました。主の三十年間にわたる私生活は、聖ヨゼフとマリア様への服従の生活でした。しかも「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われ」ました。イエズス様が下におりたその効果、そのくだり方の大きさはどれほどかということについて、大聖グレゴリオはこう言っています。
「主がどのようなジャンプをされたかをしりたいでしょうか? 主は天から童貞女の胎内に降りてこられました。汚れなき胎内から、主は馬小屋の馬草桶に行かれました。馬草桶から十字架に行かれました。十字架から墓に行かれました。」
これで、大聖グレゴリオは言葉を終えているのですけれども、私たちは更にイエズス様のご謙遜を続けていくことができます。イエズス様は、墓に行かれたばかりではなく御聖体へと行かれました。御聖櫃の中におられ、私たちの口の中でとろりと溶けてなくなってしまうような、小さなパンのかけらにさえなられました。
全能のいと高き最高の御稜威の天主、全能永遠の御父、天主の御言葉、初めもなく終わりもなく、最高の御方が御聖体になられて、世の終わりまで私たちとともにおられます。主のご謙遜には限りがありません。そしてこのイエズス様が、ご自分と私たちとが一つになろう、霊的な婚姻を結ぼうと、ご自分の後についてくるようにと招いておられます。ですから、イエズス様がついた末席に、私たちも喜んでついていかなければなりません。
【遷善の決心】
最後に、アウグスチヌスや聖書の言葉とともに、末席につくという意味を考えながら、遷善の決心をたてましょう。
聖アウグスチヌスはこう言っています。
「これこそが偉大な知識である。すなわち、人間が自分では無であること、また、何であれ天主から頂いたのであり、全ては天主のためであるということを知ることこそが、偉大な知識である。知識の全てである。」
"Haec est ergo tota scientia magna : hominem scire quia ipse per se nihil est ; et quoniam quidquid est, a Deo est et propter Deum" S. Augustin, Enarratio in Psalmum 70, sermo L n° 1, PL 36, 874.
「崇高な道を、謙遜な足取りで突き進みなさい。謙遜に後に従う者たちを主は高めてくださる。主は葬られる者たちのところまでへりくだるのを拒まなかった。」
"Pergite viam sublimitatis pede humilitatis : ipse exaltat humiliter sequentes, quem descendere non piguit ad iacentes."
「天主は驕る者にさからい、へりくだるものを恵まれる、と聖書にある。」(ヤコボ4:6)
「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主はあなたたちを高めてくださる。」(ヤコボ4:10)
また、10月は聖なるロザリオの月ですから、ぜひロザリオの玄義を通して、イエズス様がおっしゃる末席とはどこなのかということを、ますます黙想いたしましょう。主との結婚式へと招かれている私たちが、ひたすら末席について、高みに上がることができますようにお祈りいたしましょう。
そして、大天使聖ミカエルにもお祈りしましょう。
ルチフェルを筆頭に天使たちが「私は従わない。さぁ、おまえたちも従うことができるんだろうか?」と反乱を起こした時、大天使聖ミカエルは言いました。
「いや、私たちは従う。誰が天主のように等しいものか!」
そして、大天使聖ミカエルは、ルチフェルの大軍を制覇しました。
マリア様も同じです。天主から「天主の御母となる」ことを伝えられた時に「私は主のはしため(しもべ)に過ぎません。仰せのごとく我になれかし」とおっしゃいました。つまり「どんなことでも私はいたします。何が起ころうと全て私はそれを行います」ということです。
そして最初になさったことが、おばあさんのところに行って奉仕することでした。聖エリザベトが「ああ、主の御母となられた方、なんて素晴らしいこと!」と言った時に、マリア様は主を賛美し「私の霊魂は主をあがめ、何故かというと、全能の方が私の卑しさに目をとめられたから。私は全くなんでもないにもかかわらず、目をとめてくださったからです」とお答えになりました。
マリア様はあまりにもご謙遜だったので、天主の御母となられたことを、聖ヨゼフにも伝えることができないほどでした。聖ヨゼフは、そのために苦しみましたけれども、だからといって「なぜ言ってくれなかったのか」と、文句を一つも言わず、マリア様のご謙遜に合わせ、全てに従いました。マリア様がローマ皇帝の命令に従うと言われた時には、その通りに従いましたし、天主の御子が馬小屋で生まれるといった時にも、それを主になんら不平も言わずに全て受け入れました。
そんな聖ヨゼフ、全てに従った聖ヨゼフ、夜中に起こされます。
「ヨゼフ、起きろ。ヘロデがこの幼子の命を狙っている。さぁ、母親と子供を連れてエジプトに行け。」
聖ヨゼフはなんと言ったでしょうか?
「天使さん、待ってください。今、何時だと思っていますか? 夜中の一時です。準備もありません。それに、エジプトへはどうやって行くんですか?」
などとは言わず「はい」と答えただけでした。そしてすぐにマリア様を起こして、そのまますぐにエジプトへ脱出しました。
また、マリア様はその時、ヨゼフに起こされて何と言ったでしょうか?
「ヨゼフ、夢を見たの? 悪夢よ」とおっしゃったでしょうか?
いえ、マリア様は「ヨゼフ、はいわかりました」と夜中に起き、すぐに子供を連れて出かけました。
聖ヨゼフは、マリア様と一緒に何年もエジプトで生活をしなければならなかったので、様々な苦労があったでしょう。エジプトの言葉を勉強したでしょうし、友だちもつくって仕事もいろいろ、お客さんもできたでしょう。しかし、さぁこれからだという時に、また起こされます。
「ヨゼフ、ヘロデは死んだ。幼子の命を狙っているものは死んだ。戻れ」
その時、聖ヨゼフは「え? 今までの築いた事業、お友だち、勉強した言語、それはどうなるんですか?」などとは言いませんでした。
聖ヨゼフは「はい、わかりました」と答え、マリア様に「マリア、俺たちは起きて帰るよ」と伝えると、マリア様もまた「はい、ヨゼフ」と従われました。
そのまま周りには何も言わずに、天使の言われた通りにされたのです。なんというご謙遜でしょうか!
どうぞ10月にロザリオを唱えながら、イエズス様を始め、マリア様や聖ヨゼフがどれほどご謙遜であったか、そのご謙遜をもぜひ黙想なさってください。それを良い遷善の決心といたしましょう。最後に、イエズス様の言葉を聞いてください。
「高ぶる者は下げられ、へりくだる人は上げられる。」(ルカ18:14)
「結婚式に招待されたとき、あなたたちは上席についてはいけない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。