教会について2(2024年11月3日、札幌)

ソース: FSSPX Japan

教会について2(2024年11月3日、札幌)

ブノワ・ワリエ神父

 

初回の講義では、教会の分裂、教会の教えと信者の役割、天主の言葉と聖伝への従順の必要性について考察しました。教会の本質的な属性である可視性、永続性、不可崩壊性、不可謬性については、教会の四つのしるしである「一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承」と併せて説明します。

今日は、教皇と司教の役割に重点を置きながら、教会内部の構造と権威について詳しく説明します。最後に、団体主義や信教の自由に対する誤解など、現代の課題についても一緒に考えていきます。


教会の構造

《教会の体すなわち構造を構成する要素は、どのようなものでしょうか》。教会は、聖職者(秘跡的に叙階され、役務を与えられた者)、信徒(役務の対象となる者)、そして奉献された修道者で構成されています。この修道者には、叙階されている者や叙階されていない者がおり、彼らは聖職者でも信徒でもない別の地位に属しています。

 教皇

一般に教皇と呼ばれるローマ教皇は、キリストの代理人であり、ペトロの後継者であり、地上の教会の目に見えるかしらです。

私たちの主イエズス・キリストは、教会を導き助けるために常に教会の内におられ、教会の目に見えないかしらです。

教皇がキリストの代理人と呼ばれているのは、地上においてキリストを代表するために、キリストの名において行動するために任命されているからです。教皇はまた、ペトロの後継者でもあります。なぜなら、イエズス・キリストの任命によって、使徒のかしらにして普遍教会の最初のかしらだった聖ペトロの権威を受け継いでいるからです。

教皇は、直接キリストから霊的な権能を受けており、キリストは選出された教皇が教皇職を受諾し次第、その権能を与えられます。

 枢機卿、司教、司祭

枢機卿は、教皇の常設評議会を構成します。枢機卿は、ローマ教皇庁のさまざまな省を統率し、教皇の指示の下で教会の統治に特別な職務を行います。聖座が空位の場合、新しい教皇を選出する権利があるのは枢機卿だけです。

司教は、秘跡による司教叙階と教皇によって与えられた教会法上の使命によって、使徒の真の後継者です。司教は、聖霊によって特定の教区の霊的統治を任されるか、あるいは、教会における特別な使命(教区管理者、補佐司教、教皇大使、教皇使節など)を果たします。司祭は、司教または修道会の長上から直接権能を受けます。

《品級の権能とは何ですか》。品級の権能は、司教聖別によって司教に、司祭叙階によって司祭に授与されます。品級の権能は、司教には司祭を叙階する天主の権能を与え、司祭には聖体を聖別し、罪を赦すなどの天主の権能を与えます。

《裁治権とは何ですか》。裁治権とは、統治の職務(munus regendi)のことで、上位者が下位者に与えるものであり、教会において位階的機能を行使する法的かつ道徳的権利、つまり一種の「公的許可」を与えるものです。司祭は、教区の司教またはその地域の教区長から裁治権を受け、司教は、教皇との一致によって裁治権を受け、そして教皇は、イエズス・キリストから裁治権を得ます。

緊急の場合、教会は自動的に、どの司教や司祭に対しても、霊魂の善のために役務を行使するために必要な裁治権を与えます。

 信徒

平信徒すなわち信徒は、天主の御前に聖性と正義をもって自らの生活を整え、愛徳と真理をもって家族を治め、イエズス・キリストの地上における天主の王権を認識しつつ、イエズス・キリストの教理に従って社会を形成するために社会において実践的に行動するよう呼ばれています。

 修道者

叙階されていない限り、奉献された修道者(例えば修道士や修道女)は、「信徒」であると理解されるかもしれません。しかし、これらの男女は、キリストとキリストの教会に奉仕するために、公に清貧、貞潔、従順の誓願を立てており、この誓願によって、彼らは普通の信徒の地位から引き離され、教会生活において独特で神聖な地位に置かれるのです。


教会における権威

キリストは教会に、教え、聖化し、統治するというご自身の三つの権威を授けられました。したがって、教会の司牧者たちは、正しい教理で信徒を指導し、秘跡を正しく執行することと祝福を与えることによって信徒を聖化し、高潔な道徳的生活を育む善き法によって信徒を指導しなければなりません。

教会におけるこのような権威は、主に普遍的に教皇に属し、教区内ではその司教たちに属します。キリストが「だから行って、諸国の民を弟子とせよ」(マテオ28章19節)と言われたのは、聖ペトロと他の使徒たちに代表される、これらの司教たちだけに対してです。

しかし、教会の教導権(教える職務)にはさまざまなレベルがあり、それぞれのレベルの教導権は、信徒から、それに対応するさまざまなレベルの同意を必要とします。

例えば、不可謬的に教えられた真理に対しては、天主の信仰による同意が必要です。その真理とは、次のようなものです。1.「聖座から」(ex cathedra)の教皇の教え。2.教皇の認可を得たエキュメニカル公会議の正式な教義上の定義。3.エキュメニカル公会議の外であっても、世界中に広がる司教たちとともになす教皇の教え。

 ローマ教皇の権威

聖ペトロの後継者として、ローマ教皇は、私たちの主が使徒のかしらであるペトロに授与された首位権を有します(マテオ16章17-19節、およびヨハネ21章15-17節参照)。教皇は、啓示された真理の主要な教師にして保護者、擁護者です。教皇には次のような責務があります。1.天主が啓示された信じ、行い、避けるべきことを守ること。2.教皇が受けた使徒継承の教理に含まれる、この天主の啓示に反する誤謬を断罪すること。3.司教団と信徒の信仰の一致と交わりの、目に見えるしるしにして原則であること。

《教皇は不可謬ですか、つまり誤謬を教えることはできませんか》。教皇は、その日々の役務でキリストの真理を教えるために、さまざまな恩寵によって助けられていますが、その教えは通常、不可謬ではありません。教皇が「エクス・カテドラ」(ex cathedra、聖座から)で教えるとき、教皇は教会の不可謬性のカリスマを行使し、その教えにおいては誤謬を免れているのです。この特別な教皇の教えは、以下のものでなければなりません。1.信仰あるいは道徳の問題に関するものであること。2.普遍教会に向けられたものであること。3.教皇の最高の使徒的職責に基づいて提案されたものであること。4.最終的かつ拘束力のある定義として定式化されたものであること。しかし、不可謬性とは「罪を犯せないこと」(impeccability)とは異なります。不可謬性とは、誤った教理に教会を決定的に拘束することによって教会を欺くことが不可能であることであり、一方、「罪を犯せないこと」とは、個人的な罪によって天主のお怒りを招いたり他者を傷つけたりすることが不可能であることです。教皇は、限られた条件の下では不可謬ですが、罪を犯さないわけではありません。

《教皇の不可謬性は、新しい教えを導入する許可ですか》。そうではありません。教皇は、教会の永続的な教えによって伝えられたカトリックの信仰に忠実に従い、この信仰を守り、それを擁護する義務を負っています。「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは,聖霊の啓示によって,新しい教義を知らせるためではなく,聖霊の援助によって,使徒たちが伝えた啓示,すなわち信仰の遺産を誠実に保存し,忠実に説明するためである」(第一バチカン公会議)。

「エクス・カテドラ」の宣言によって誤謬を教えた教皇はいませんし、教えることもありえません。しかし、どの司教もそうであるように、教皇はその職責の恩寵に抵抗し、日常的な、通常の、確定的でない主張、すなわち、「エクス・カテドラ」の宣言以外においては、教理上の誤謬を教える可能性があります。

《教皇の歴史上、教皇が教理上の誤謬を教えたり、助長したりした例はありますか》。あります。そのようなケースは非常にまれですが、以下のようなものがあります。ホノリウス一世(638年死去)は、イエズス・キリストの二つの意志について誤った内容の手紙を書き、死後、コンスタンチノープル第三公会議によって異端として断罪されました。ヨハネ二十二世(1334年死去)は、天主の至福直観は最後の審判の後になって初めて、聖人たちに与えられる、と教え、神学者たちから広く非難されましたが、死の床でそれを撤回しました。

1969年、教皇パウロ六世は、ユダヤ教の安息日の食事の祝福(ベレコト)に倣った新奇な「奉献の祈り」を含む新しいミサ式次第を認可しました。これらの祈りは、いけにえの贖罪的性格を著しく曖昧にする一方で、食事の側面を強調しているため、これらの「奉献の祈り」は、聖なるミサを単なる宴会とするプロテスタントの理解に非常に近いものです。

2016年、教皇フランシスコは、悔い改めていない公の姦通者に聖体拝領を認めるブエノスアイレスの司教団の規範を認可しました。「婚姻無効の宣言を得ることが不可能な場合、(自制する生活は)実際には実現不可能かもしれません。…特定の場合において、責任と罪責を軽減させる限界があるとの認識に達するならば、特に、(自制する生活を送ることによって)新しい結びつきの子どもたちを害することにより、その後の過ちに陥ると判断される場合には、『愛の喜び』(Amoris Laetitia)は和解の秘跡と聖体の秘跡を受ける可能性を開くのです」。教皇フランシスコはまた、「宗教、肌の色、性別、人種、言語の多元性と多様性は、天主が人間を創造されたその知恵において意図されたものである」と断言する文書に公に署名し、死刑は「それ自体が福音に反している」と教えました。そして最近、シンガポールで次のように述べました。「すべての宗教は天主への道です。すべての宗教は天主に到達するための異なる言語のようなものですが、天主はすべての人のための天主です。もし、『私の宗教はあなたの宗教より重要なものだ、私の宗教が真実で、あなたの宗教は真実ではない』と争い始めたら、私たちはどこへ導かれるのでしょうか。唯一の天主がおられ、私たちはそれぞれ天主に到達するための言語を持っています。シーク教徒もいれば、イスラム教徒、ヒンズー教徒、キリスト教徒もいて、それらは(天主への)さまざまな道です」。

 司教の権威と公会議

教皇が、使徒のかしらである聖ペトロの後継者であるように、天主の権利によって使徒の後継者である司教は、自らの教区において信者を教え統治する権能を持っています。司教は、立法、行政、司法の全権を握っています。すなわち、教皇が全教会に対して行使しているのと同じ直接的、完全かつ個人的な権力を、それぞれの教区内で持っているのです。ただし、普遍教会のために公布されたものを排除したり、省略したり、変更したりすることはできません。

《公会議についてはどうですか》。適切に構成され、教皇によって認可された場合、エキュメニカル公会議は普遍的な教会の名において発言するため、信仰と道徳のすべての事柄において教会自身と同じ権威を持ちます。教皇の「エクス・カテドラ」の宣言のように、エキュメニカル公会議は、その認可された荘厳な教義上の定義において不可謬です。それ以外の声明、懲戒規範、司牧規定などは不可謬性の範囲外であり、将来改訂される可能性があります。

《なぜ第二バチカン公会議が、エキュメニカル公会議が不可謬でない教えを発した最も明確な例なのでしょうか》。それは、教皇ヨハネ二十三世が「(この公会議の)教導権は、司牧的な性格が主です」と主張したように、新しい教義を不可謬的に宣言したり、決定的な教えを提案したりするためではなく、信仰の真理を司牧的に説明するために招集されたからです。教皇パウロ六世もまた、はっきりとこう述べています。「この公会議が司牧的性格を持つことを考慮し、公会議は、不可謬性の注釈が付された教義を特別な方法で宣言することを避けました」。


第二バチカン公会議に由来する現代の誤謬

 信教の自由

自由意志の本質を論じる際には、決定的な区別をしなければなりません。それは、肉体的かつ《心理的に》悪を選ぶことができる(選ぶ自由である)ことと、悪を選ぶ当然の権利があることの区別です。人間には罪を犯す肉体的能力がありますが、罪を犯さないという最も重大な《道徳的》義務があります。

第二バチカン公会議は、「信教の自由」を基本的かつ不可侵の人権としました。しかし、特に宗教に関する誤謬や偽りは、それ自体が悪であり、したがって合法的権利の称号を確立するものではありません。特定の宗教の実践を強制されないという当然の権利は誰にでもありますが、道徳的な悪を選んだり、宗教的な誤謬を実践したり助長したりすることによって天主のお怒りを招く権利は、世俗の権利でさえも、誰にもありません。

第二バチカン公会議は、事実上、国家に偽りの宗教の布教を許可する白紙委任状を与えました。信教の自由は、天主の法に違反し、宗教的無関心主義を助長するだけでなく、しばしば自然法に反する誤った宗教的実践に道を開いてきました。例えば、一夫多妻制、離婚、避妊、不道徳な礼拝、魔術の実践などです。

団体主義とは、特に司教が公会議に集まる際の、司教間の協力関係の一般的な言い方です。教会における団体主義は、教皇と司教の間、そして国家レベルでの司教間の愛徳と相互協力という《道徳的な》団体主義として正しく行使することができます。

しかし、今日の司教協議会に見られるような《法制的》あるいは官僚的な団体主義は、教会全体に対する教皇の最高権威と、司教自らが監督すべき信徒に対する個人的な責任感や役務を、すでに減少させる傾向にあります。第二バチカン公会議以降、団体主義は、事実上、教会の統治を、王たるキリストによって確立された君主制的な位階階級ではなく、民主主義的あるいは平等主義的な議会としてしまいました。

シノダリティとは、(教皇フランシスコが推進する)教会の新しいモデルであり、「聖職者主義」(あるいは位階的教会)から恒久的なシノドスの教会へ移行するものです。それは、千年もの間、教皇、ローマ教皇庁、枢機卿団に依存してきた教会の統治構造を修正することを意味します。

それは、「基底」(平信徒で、カトリック信者でない者や信仰を実践していないカトリック信者を含む)が意思決定の過程に直接参加すべきだという原則に基づいています。シノドスの過程の背後には、司教と司祭の教会的職責を、特定の制度的任務が留保された聖なる役務としてではなく、司牧的促進の機能という観点から再解釈しようとする試みがあるのです。

エキュメニズムを促進する中で、第二バチカン公会議は、キリストの霊が、離れたキリスト教共同体を「救いの手段」として用いることを肯定しています。これは誤謬です。それは、プロテスタントや正教会に正統性があるかのようにほのめかし、カトリック教会の単一性を損ない、教理上の相対主義を助長するものだからです。宗教の多様性は、キリストの意志に反しています。

真のエキュメニズムは、すべての人が、「過去に不幸にも教会を去ったため、教会から離れている人々が唯一にして真のキリストの教会に復帰するのを促すことにより」(教皇ピオ十一世「モルタリウム・アニモス」[Mortalium animos])、カトリック教会がすでに不滅とものとして所有しているその一致に入るべきであるという意向を表さなければなりません。


聖ピオ十世会の立場

50年前(1974年11月21日)、マルセル・ルフェーブル大司教は、私たちの困難な時代において、完璧にバランスのとれたカトリックの信仰告白である公の宣言を、以下のように行いました。

私たちは、カトリック信仰の守護者にして、この信仰を維持するために必要な聖伝の守護者であるカトリックのローマに、知恵と真理の師である永遠のローマに、心を尽くし、魂を尽くして、堅くよりすがります。

しかし、私たちは、第二バチカン公会議と、公会議後に公会議から発せられたすべての改革において明らかに現れた新近代主義的、新プロテスタント的傾向のローマに従うことを拒否しており、常に拒否してきました。

これらの改革はすべて、実際には、教会の破壊に、司祭職の破滅に、ミサのいけにえと秘跡の廃止に、修道生活の消滅に、大学・神学校・公教要理での自然主義的、テイヤール主義的な教えに貢献してきましたし、今も貢献しています。教会の荘厳な教導権によって何度も断罪されてきた、自由主義とプロテスタント主義に由来する教えです。

いかなる権威であっても、たとえ位階階級の最高位であっても、19世紀にわたって教会の教導権によって明確に表明され、宣言された私たちのカトリック信仰を放棄したり、減少させたりすることを、私たちに強制することはできません。

聖パウロはこう言っています。「しかし、私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは違う福音を告げる者にはのろいあれ」(ガラツィア1章8節)。

教皇が今日、私たちに対して繰り返し言っているのは、これではないでしょうか。そして、もし私たちが、教皇の言葉と行いや、各省の言葉と行いにある種の矛盾を見ることができるとすれば、私たちは、常に教えられてきたことを選び、教会を破壊する新奇なものには耳をふさぎます。

「信仰の法」(lex credenti)を修正することなく、「祈りの法」(lex orandi)を大きく修正することは不可能です。「新しいミサ」(Novus Ordo Missae)は、新しいカテキズム、新しい司祭職、新しい神学校、カリスマ運動的な聖霊降臨運動の教会に対応しています。すべてのことが、教会の正統にして永続する教えに反しているのです。

自由主義と近代主義から生まれたこの改革は、徹底的に毒されています。たとえそのすべての行為が形式的には異端でなかったとしても、それは異端に由来し、異端に終わります。したがって、良心的で忠実なカトリック信者がこの改革を支持したり、いかなる形であれこれに服従したりすることは不可能です。

私たちの救いのために、教会とカトリックの教理に忠実である唯一の態度は、この改革を受け入れるのを断固として拒否することです。

だからこそ、私たちは、いかなる反抗の精神も、敵意も、恨みもなく、永遠の教導権を指針として、司祭養成の事業を追求しているのです。私たちは、聖なるカトリック教会に、教皇に、そして後世の人々に、これ以上大きな奉仕はできないと確信しています。

だからこそ、私たちは、全時代の教会によって、信仰、道徳、典礼、カテキズムの教え、司祭の養成、教会の制度において信じられ、実践されてきたすべてことを、公会議の近代主義的影響力以前に日の目を見た書物に成文化されているこれらのすべてのことに、堅くよりすがるのです。聖伝の真の光が永遠のローマの空を覆い隠す闇を消し去るその時まで、私たちはこれを行い続けます。

天主の恩寵と童貞聖マリアの助け、そして聖ヨゼフと聖ピオ十世の助けを得て、これを行うことによって、私たちは、ローマ・カトリック教会とすべてのペトロの後継者に忠実であり続け、「聖霊において、私たちの主イエズス・キリストの神秘の忠実な分配者」(fideles dispensatores mysteriorum Domini Nostri Jesu Christi in Spiritu Santo)であることを確信しています。アーメン。


【参考】ルフェーブル大司教様のローマにおける1974年11月21日の宣言
https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/0194578c842ea15b6da4647630366d7e