教会法に反する秘密叙階 ヴォイティワ枢機卿とスリピ枢機卿の教訓

ソース: FSSPX Japan

ヨハネ・パウロ二世とスリピ枢機卿

今年7月1日に行われる予定の聖ピオ十世会の司教聖別と、その不正規性に関するニュースを考慮して、私たちは、数年前にonepeterfive.comに寄稿された、ピーター・クワスニエフスキ博士によって示された、この歴史的問題を日本語に翻訳して紹介する。ここに提示された証拠によると、聖なる品級の秘跡が、20世紀の非常に尊敬されている二人の教会人によって、教会法に反して授与されたのである。この重要な記事に対して、聖ピオ十世会を批判する人から返答があったことはない。印刷されたそのような回答をご存じの場合は、onepeterfive.comの編集者 Timothy S. Flanders まで連絡されたい。

教会法に反する秘密叙階 ヴォイティワ枢機卿とスリピ枢機卿の教訓

ピーター・クワスニエフスキ博士

カロル・ヴォイティワ(将来のヨハネ・パウロ二世)の生涯で最も注目に値するエピソードの一つであり、今日私たちが多くのことを学ぶことができるエピソードは、彼がクラクフ枢機卿だった時代に起こった。ヨハネ・パウロ二世に惜しみないほどの注目が注がれていても、この事件が注目を集めることができず、ましてや論評を集めることもできなかったのは、私には驚くべきことである。偉大なヨシフ・スリピ枢機卿の人生における重大な出来事にも、同じことが当てはまる。

秘密の司祭叙階

馴染みのない読者のために説明すると、「東方政策」(Oskpolitik)とは、バチカンの冷戦戦略のことで、最低限の教会の存在が継続することへの寛容とされるものと引き換えに、東ヨーロッパの共産主義者の特定の要求に譲歩するというものである。ワイゲル(ヨハネ・パウロ二世の伝記の著者)自身も「東方政策」を率直に厳しく批判しており、つい2週間前にその立案者アゴスティーノ・カサローリ枢機卿に関する記事[1]で、このテーマに戻ったばかりである。

ワイゲルの権威ある伝記「希望への証人」は、少々甘めに味付けされているものの、重要な事実を正確に提示している。

ヴォイティワ枢機卿は、「東方政策」におけるパウロ六世の善意を決して疑うことはなかったし、迫害されている教会を擁護したいという心の本能と、「サルヴァーレ・イル・サルヴァビレ」(salvare il salvabile、救えるものは救う)政策を追求しなければならないという心の判断との間で引き裂かれていた教皇パウロ六世の個人的な苦悩を確かに知っていた。――ヴォイティワがかつてカサローリ大司教に述べたように、「東方政策」は決して「栄光の政策」ではなかった。クラクフの大司教ヴォイティワはまた、迫害され深い傷を負った隣人であるチェコスロバキアの教会との連帯を維持する義務があると信じていたが、このチェコスロバキアでは新しいバチカンの「東方政策」の数年間に状況は悪化していた。

そこで、ヴォイティワ枢機卿と、その補佐司教の一人であるユリシュ・グロブリツキは、チェコスロバキアでの活動のために司祭たちを秘密裏に叙階した。聖座がチェコスロバキアの地下司教たちにそのような叙階を行うことを禁止していたという事実にもかかわらず(あるいは、おそらくその事実が原因で)である。クラクフでの秘密叙階は常に候補者の長上、つまり司教、または修道会の会員の場合は管区長の明示的な許可を得て行われた。安全保障システムを工夫する必要があった。サレジオ会の場合、引き裂かれたカードのシステムが使用された。叙階を許可する証明書は半分に引き裂かれた。国境を越えて密入国しなければならなかった候補者は、半分をクラクフに持ち込み、残りの半分は地下宅配便でクラクフのサレジオ会の長上に送られた。その後、二つの半分が一致し、フランシスカンスカ3番地にある大司教の聖堂で叙階が行われることになった。

ヴォイティワ枢機卿は、これらの叙階のことを聖座に知らせなかった。彼は、それらの叙階をバチカンの政策に反抗する行為としてではなく、苦しむ仲間の信者に対する義務とみなしたのである。そしておそらく彼は、あらゆる方面に苦痛を与えなければ解決できないような問題を起こしたくなかったのであろう。またヴォイティワは、聖座と教皇がクラクフでそのようなことが起こっていることを知っていると信じて、自分の判断と思慮分別を信頼しているいると信じていたのかもしれないし、ますます絶望的な状況になりつつあった状況におけるこのような一種の安全弁を彼は歓迎したのかもしれない[2]。

ワイゲルが、自分が提示した事実の重要性をいかにして回避しようとしているかに注目してほしい。世紀半ばの教会が疑う余地のない教皇権至上主義(ultramontanism)に支配されていた真っ只中で、ヴォイティワ枢機卿はそのような叙階に関する教皇の差し止め命令に単に反抗したが、それでも補佐司教の関与と問題の長上の承知を得て手続きを進めた。「にもかかわらず(あるいはおそらく)」という書き方は、驚くべき分かりにくさである。禁じられているから、禁じられているという理由で、誰かが禁じられた叙階を進めたと言うのは、どのような意味になり得るのだろうか。繰り返すが、自分が教皇の意志と法に反して行動していることを知っていた枢機卿が、教皇に知らせなかったのなら、それがまさにそのような行為であったにもかかわらず、「彼はそれらをバチカンの政策に反抗する行為とはみなさなかった」と正直に言えるだろうか[3]。彼がこの問題を当局に提起しなかったのは、この件で「当局」が間違っていると信じていたためであることは明らかである。さらに、ヴォイティワが「聖座と教皇がクラクフでそのようなことが起こっていることを知っていると信じて、自分の判断と思慮分別を信頼しているいると信じていたのかもしれない」と、無害化の努力の一環として主張するのはまったく不当である。この証拠はどこにあるのだろうか。バチカンが地上・地下を問わず叙階を禁止していたのは、当時の教皇と国務長官が、ステファン・ヴィシンスキ枢機卿や(後述するように)ヨシフ・スリピ枢機卿のような信仰の英雄や証聖者の判断と裁量を信頼していなかったからである。ワイゲルはただ真実を固守すべきであった。彼が正しく言っているように、枢機卿は天主の御前で自分には義務があること、そして苦しむ仲間の信者に対する義務があることを知っていたのである。このことだけを言えば十分である[4]。

カロル・ヴォイティワの別の伝記作家は次のように述べている。

ヴォイティワはプラハの春と、表に出せる以上に深いつながりを持っていた。長年にわたり、彼はチェコの地下司祭の秘密叙階を徐々に拡大していった。1965年までに、彼はまた、同じく神学校が閉鎖されていた共産主義国のウクライナ、リトアニア、ベラルーシからの秘密の司祭候補者を養成・叙階していた。こっそり国境を越えてポーランドに入国した候補者もいたが、合法的に渡ることのできる世俗の仕事を手配した候補者もいた。たとえば、ある心理学者はポーランドの保健研究所を定期的に訪れていた。ヴィシンスキ枢機卿は、ワルシャワで、これらの活動を、詳細ではないにしても、その本性を認識していた。もし当局がそのことを知っていたら、ヴォイティワを投獄していたかもしれない[5]。

私たちが「大教皇ヨハネ・パウロ」と称賛する者の中にいるかどうかにかかわらず、一つ明らかなことがある。それは、彼がクラクフで行ったことは完全に正当化されており、彼の人格の輝きを損なうのではなく、むしろ高めるものだったのである。

秘密の司教叙階

次に、ヨシフ・スリピ枢機卿(1892年~1984年)の類似の事例を見なければならない。彼は、列聖のための準備がローマに導入されている人物である。彼は、ソビエト連邦のウクライナ・ギリシャ・カトリック教会(UGCC)の利益のために必要であるという内なる確信により、禁じられていた秘密の《司教》叙階を実行することで、ヴォイティワよりも一歩上にいた。レイモンド・J・デ・スーザ神父は、それについて次のように要約している。

1976年、ソ連の強制収容所で18年間過ごした後、ローマに亡命中のUGCCのトップであるヨシフ・スリピ枢機卿は、UGCCの将来を懸念した。スリピ自身がすでに80歳を超えていることを考えると、指導する司教を持てるだろうか。そこで彼は、教皇福者パウロ六世の許可を得ずに、秘密裏に3人の司教を叙階した。当時、聖座は、共産圏に関して自己主張しない方針を取っていた。パウロ六世は、ソ連を怒らせることを恐れて、新しい司教に許可を与えなかった。教皇の委任なしに司教を聖別することは非常に重大な教会法上の罪であり、その罰則は破門である。福者パウロ六世は、おそらく非公式にはスリピの行ったことを知っていたが、いかなる罰も与えなかった[6]。

私は最近、まだ英語では入手できないスリピ枢機卿の回想録を読み情報をもっている知識人と、この問題について話し合っていた。彼の話によれば、枢機卿は「会合を持つ」という口実でローマに誘い出され、その後、ソ連に戻って人々とともに暮らして苦しむためにローマを離れることはできない――枢機卿は収容所に進んで戻ろうとさえしていたにもかかわらず――と言われたということである。彼の信者たちの群れが共産主義者と東方正教の抑圧の下で苦労している間、自分がローマで快適に暮らすことは枢機卿にとって大きな苦しみの源であった。ヤロスラフ・ペリカンは「東西のはざまの証聖者」(Confessor Between East and West)で次のように書いている。

亡命中のここローマで、彼と彼の教会はこのローマのために多大な犠牲を払ってきたが、ウクライナ首都大司教スリピ枢機卿は、「ローマ教皇庁の各聖省」から遭遇し続けた「否定的な態度」と呼ぶもの――これは教皇に提出した文書の副題の一つでもあった――によって、ますます囲われていると感じた。時には、その態度に憤慨して、彼が現在ローマにいる仲間であるはずのカトリックの人々や聖職者たちから受けているようなひどい扱いは、ソ連の無神論者からさえも一度も受けたことがないと宣言する誇張表現に訴えたことさえある[7]。

前述の情報源によると、パウロ六世は秘密の司教聖別を知っていたのは確かだが、枢機卿は信仰告白者として広く尊敬されていたため、枢機卿を処罰することを断ったという。秘密に聖別された司教の一人はルボミル・フサール(Lubomyr Husar)だった。ヨハネ・パウロ二世は、後に彼の聖別を正式に認め、ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会の大司教に任命し、2001年には枢機卿に任命した[8]。

また、スリピ枢機卿の行動が、ピオ・ベネディクト教皇制定による教会法典(1917年)がまだ施行されていた時代に行われたことも注目に値する。1917 年の法典の第2370条には、次のように書かれている。Episcopus aliquem consecrans in Episcopum, Episcopi vel, loco Episcoporum, presbyteri assistentes, et qui consecrationem recipit sine apostolico mandato contra praescriptum can. 953, ipso iure suspensi sunt, donec Sedes Apostolica eos dispensaverit.(第953条の規定に反し、聖座の委任なしにある者を司教に叙階する司教、その場合における補佐司教、または司教に代わる補佐司祭および叙階される者は、使徒座によって免除されるまでは、法律上当然停止制裁に服する。)

教会法典の文言は、そのような聖職者が刑罰の発表によって聖職停止制裁されるのではなく、単に彼らが行ったこと、すなわちパウロ六世が決して与えなかった使徒的委任なしに聖別することを理由に聖職停止の制裁を受けることを明らかにしている。法実証主義者は、彼が受けた聖職停止制裁は後で明示的に解除される必要があったと言うであろう。しかし、聖職停止制裁が決して解除されなかったという事実は、法の解釈と適用における「エピケイア」(epikeia、法の精神を尊重して柔軟に解釈すること)の役割を雄弁に証明している。つまり、教会法典がただ効力のない状況が存在したのである。このことは、私たちに法実証主義の限界について立ち止まらせるはずである。

エコンを見るための新しいレンズ

教会が攻撃にさらされ、教会の生き残りが危機にさらされているとき、あるいは教会の共通善が重大な脅威にさらされているとき、教皇の命令や法律に対するあからさまな「不従順」が正当化されることがある――実際、正当化されるだけでなく、正しく、称賛に値し、聖なるものである。司教聖別に関する規則は制定する権利を教皇が持つことや、ヴォイティワとスリピが疑問の余地なく故意に教会法に違反していることを疑う者は誰もいない。その違反行為は、彼らをルフェーブル大司教と並んで非難の場に立たせるに値するはずであった。その代わりに、私たちは、彼らを共産主義に対する抵抗の英雄としてたたえているのである。

私たちがそうする理由は、教会法上の規定よりもさらに基本的な法、すなわち「霊魂の救いは至高の法」(salus animarum suprema lex)を認識しているからである。教会法の全体構造が存在しているのは、霊魂の救いのためである。教会法は究極的には、キリストの命を人類と分かつことを保護・前進させること以外に目的はない。通常の状況では、教会法は、教会の使命が秩序をもって平和的な方法で展開する構造体をつくり出す。しかし、無政府状態や崩壊、汚職や背教といった状況が発生する可能性があり、その場合には通常の構造が教会の使命を促進するのではなく、障害となるのである。このような場合、良心の声は、至高の法の実現のために、慎重かつ愛徳をもって、行う必要のあることを行うよう命じるのである。

年月を経て、カトリック教会がますます教理的、道徳的、典礼的混乱に陥っていくのを見ていると、私はマルセル・ルフェーブル大司教が「不正な不従順」の罪を犯したという意見をもはや受け入れることができない[9]。大司教は、聖伝をまったく気にしていないように思われた敵意あるバチカンによってひどい状況(そして2021年はどれほど私たちがまさにその状況に引き戻されたことであるか!)におかれていたし、世界中に散らばる聖伝のカトリック信者らが大司教に半分安定的な解決策を求めるという状況にあった。公会議によって始まったノブス・オルドとアジョルナメント神学の押し付けは、一種の「近代性を持つ東方政策」であり、これに対してルフェーブルは正しく抗議し、信仰がかつてないほど脅かされているように見えるときは、進んで決定的な措置を講じる用意があった。

ヴォイティワとスリピの行動は、エコンに新たな光を当てる。とはいえ、すべての困難が消えるわけではない。なぜなら、敵味方を問わず、誰が見ても、公的な裁治権なしに世界中の教区で一つの修道会の司祭が活動するのは普通のことではないからである。また、天主の教会に対して、職務怠慢でサタンの煙が教会に入り込み、そして今では明らかに、燃える同性愛の炎の山が浸透するのを許した人々によって引き起こされた緊急事態が、幸福に解決をされるよう祈らなければならないからである。建物が燃え落ちたとき、人は消防隊の到着を待つのではなく、あらゆる手段を使って火を消し、犠牲者を救出しようとするものである。特に、消防署長が不在か、寝ているか、酔っ払っているか、あるいは火災が利益をもたらすと信じ込んでいる、ということを苦い経験から知っている場合、そして消防士のほとんどはその方法がうまくいかないドジな愚か者であり、さらに悪いことに、妨害者から火にガソリンを噴霧するためにお金をもらっている場合にはなおさらである。

次のことは本当に明らかである。この危機については、天主の御前での義務と、苦しむ仲間の信者たちへの義務を意識し、他のすべてを支配する究極の法、すなわち「霊魂の救いは至高の法」(salus animarum suprema lex)に従うという輝く武器を持って、できる限り最善を尽くしてこの危機に対応してきた人々のせいにして非難すべきではない。

私たち自身への教訓

もしバチカンが「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)に倣い、あえて聖伝に従う司祭叙階を禁止するとしたら、何が問題なのかを理解している司教が、《許可を求めたり得たりすることなく》、聖伝にしたがう司祭たちを秘密裏に叙階し続けることは完全に正当化されるであろう[10]。たとえ新しい叙階の儀式が(新しいミサの儀式と同様に)有効であるとしても、それは典礼の観点から見て重大な欠陥があり、不適切であり、真正のものではない。聖伝による儀式の「祈りの法」(lex orandi)の持つ権威ある証し、優先性、優位性は、トリエントのローマ司教儀式書(Pontificale Romanum)が普遍的に回復されるまで、教会の生活の中で維持されなければならない。

同時に、ヴォイティワとスリピが秘密裏に行動していたことが分かり、このことは、彼らのような行動は公に発表する必要はなく、いわば見せ物になる必要はないというヒントを与えてくれる。彼らは差し迫った絶望的な状況に対して、自分たちがどうすべきかを知っていたように、できる限り静かに、そして断固として対応していた。このことを言う際に、私はそのような行動が白昼堂々と行われない状況があり得ないということを示唆しているのではなく、むしろ、質料的な不従順(見かけ上の不従順)が要求される場合には、《通常は》公のルートよりも秘密のルートの方が好ましい、ということを指摘しているのである。

これは私たちの現在の状況に明らかな影響を及ぼす。司祭が良心に基づいて、教会の権威から発せられる不当な命令や要求に従わないことを選択した場合、自分が従わないことを世界に宣言するのは必ずしも必要ではなく、ただ従わずに司牧的かつ司祭としての仕事を続けるべきである。刑罰を課せられた場合、それについて大騒ぎすべきではなく、無視して続けるべきである。繰り返しになるが、キーワードは《通常》である。つまり「時には、公然と抵抗することが最善の道である場合もあるかもしれない」ということである。モンシニョール・デュコー=ブールジェの指導で行われたパリのサン・ニコラ・デュ・シャルドネ教会の所有と、教会のドアが板で打ち付けて塞がれていたサン・ルイ・デュ・ポール・マルリー教会の接収のように[11]。

間違いなく、ソーシャルメディアに即座に頼りたいという誘惑があるが、ソーシャルメディアが生み出す大衆の支持の賛否両論を考えると、これは最も賢明な行動(これは「人に知られずに行動する」でもあり得る)の取り方について適切に識別することをこれまで以上に困難にする。

結論

ルフェーブル大司教の正しさを証明する多くの方法があるがそのうちの一つがこれである。大司教は聖伝による儀式による司祭(そして司教)の叙階を継続せねばならないと考えていた。「古い典礼の使用」(usus antiquior)は、全く調和がとれて一貫しており、カトリック信仰の「信仰の法」(lex credendi)を体現する、統一的で首尾一貫し継承された「祈りの法」(lex orandi)なのである。確かに、新しい儀式で有効に叙階された司祭たち(大聖伝主義者のグレゴリー・ヘッセ神父のように)が、後に聖ペトロ会や聖ピオ十世会などに加わる例もある。しかし、古い叙階の儀式を、あらゆるレベルで、完全な形で維持し、生かし続けることの重要性は、多くの人が認識している以上に重要なのである。

もし典礼省や修道者省が、古い叙階の儀式をもう使用しないことを要求するとしたら、それも私たちにとって「われらはできぬ」(non-possumus)の瞬間でなければならない。これは私たちが絶対に受け入れることはできない。しかし、それ以上に、今後数年間で最大の課題に直面する時期となるであろう。そのような状況下で、聖伝による儀式の中で秘密に聖なる品級を授与しようとする枢機卿、大司教、司教がいるであろうか。御摂理によりローマ教会の輝かしい遺産を私たちに授け給うた私たちの主は、必要なときに必ずその保存を手配してくださるであろう。

この記事は更新済み。初版は2021年10月13日に発表された。


[1] ワイゲルは、マラカイ・マーティン神父著の『風吹き荒れる家』を読んでいないようである。もし読んでいれば、アゴスティーノ・カザローリ枢機卿(マラカイ・マーティンの小説ではコジモ・マストロヤンニ枢機卿として登場する)や、あるいは、パウロ六世について、それほどナイーブな見方をしていなかっただろう。

[2] ジョージ・ワイゲル『希望への証人:ヨハネ・パウロ二世の伝記』改訂版(ニューヨーク:ハーパー・ペレニアル、2020年)、233ページ。

[3] 秘密の叙階を禁止したのはチェコスロバキアのみであったため、ヴォイティワは神学生たちをクラクフに呼び寄せ、この問題を巧みに回避しており、実際にはいかなる規則にも違反していないという見方もある。しかし、禁止の理由は共産主義当局をなだめるためであったことは明らかである。神学生たちが国境を越えて他国で叙階を受けていることを知れば、当局が快く思わないのは確実だった(ジョナサン・クウィトニーによれば、ヴォイティワはウクライナ、リトアニア、ベラルーシの教会のために密かに叙階も行っていた)。したがって、バチカンの東方政策(オストポリティーク)は、もしその事実を知れば、ヴォイティワの行為を確実に阻止したであろう。つまり彼の行為は、立法者の既知または推論可能な意図には反していたが、教会のあらゆる法規の目的、すなわち霊魂の救いには反していなかったと言える。これが本稿で論じた諸事例における私の主旨である。人が安息日のために作られたのではなく、安息日が人のために作られたように、教会が教会法のために作られたのではなく、教会法は教会のために作られたのである。

[4] ワイゲルがこれらの叙階について、1996年にヨハネ・パウロ二世が個人的に認めた事実(本書の脚注で明記されている)から初めて知ったという事実は、ヴォイティワの良心が自らの行為に動揺していなかったことを示している。少なくとも騒動が収まった後では、彼はそれを隠す意図は全くなかったのだ。また指摘すべきは、もしヴォイティワがローマから何らかの示唆や指示を受けていたなら(ワイゲルが根拠なく想像するように)、この話を語る際に必ずワイゲルに言及したはずだということである。しかしヴォイティワはそうしなかった。実際、この点についてローマとヴォイティワの間で何の議論もなかったという方がはるかに信憑性が高い。

[5] ジョナサン・クウィトニー『世紀の人物:教皇ヨハネ・パウロ二世の生涯と時代』(ニューヨーク:ヘンリー・ホルト、1997年)、220頁。

[6] 「ウクライナ人枢機卿フサルとスリピイは教会共同体の英雄である」『カトリック・レジスター』誌 2017年6月22日付。
別の情報源によれば、その年は1977年であった。執筆時点において、デ・ソウザはパウロ六世の列福を正当と認めていたようである。多くの聖伝のカトリック信者たちは、この列福と彼の「列聖」の両方に疑問を呈している。詳細な説明については、ピーター・A・クワシュニエフスキ編『列聖は誤り得ないか? 論争の的となった問題を再考する』(オンタリオ州ウォータールー:アロウカ・プレス、2021年)、特に219-41頁を参照のこと。

[7] ヤロスラフ・ペリカン『東方と西方の証聖者:ウクライナ人枢機卿ヨシフ・スリピの肖像』(グランドラピッズ:ウィリアム・B・アードマンス、1990年)、173頁。本書全体にわたり東方政策の興味深い事例が見られる。例えば182-186頁を参照。

[8] UGCC(ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会)はそれ自体が希望の物語である。以下の統計を考察し、それを1960年代から現在に至るラテン典礼の教会と典礼の「死と復活」の状況に類推して適用してみよ。「1939年、UGCCはウクライナに約3,000人の司祭を擁していた。1989年、50年にわたる戦争と迫害の後、司祭職は90%減少してわずか300人となった。平均年齢70歳のウクライナ・ギリシャ・カトリック教会の司祭職は、わずか1世代で消滅寸前だった。しかし天主の救いが訪れ、殉教者の教会が復活した。それから約30年後、同教会は再び3,000人の司祭を擁し、平均年齢は39歳となった。全世界ではウクライナ・ギリシャ・カトリック信者500万人に対し、約800人の神学生が存在する」(同上)。

[9] 私は、H.J.A.サイア著『灰燼からのフェニックス:カトリック聖伝の形成、崩壊、そして復興』(オハイオ州ケタリング:アンジェリコ・プレス、2015年)410-430頁及び随所に掲載されている、ルフェーブル大司教に対する共感的でありながら客観的な扱いを推奨する。2019年4月3日にOnePeterFiveサイトで発表した論考と同様の考え方で、私は今もなお、緊急時または道義的不可避性(すなわち、合理的な範囲内に自分の住んでいる教区の司教と一致した聖伝の教会や聖堂が存在しない場合)においては、聖ピオ十世会の聖堂に行くべきだと考える。これは、聖ピオ十世会の信徒に対して全く敵意を持たない者としての発言である。彼らの中には私の個人的な友人もおり、主流派の対応が不適切極まりなかった「パンデミック」期間中もミサを捧げ秘跡を授け続けた司祭たちに対しては、私は最高度の敬意を持っている。

[10] 典礼の中で、叙階の秘蹟の儀式ほど深刻な損害を受けた部分はないといえるだろう。この儀式は、地上の教会の存在と繁栄に最も密接に関わっている。この主題に関する古典的な著作は、マイケル・ディビスの『メルキゼデクの位による司祭(The Order of Melchisedech)』である。この本は、長い間絶版となっていたが、最近、Roman Catholic Books から再出版された(リンクをクリックすると、この本を販売している Sophia のサイトが表示される)。ディビスは、新しい叙階式におけるプロテスタント化および近代化による歪みを指摘し、聖伝による叙階式を維持し、復活させることの緊急性を主張している。新旧の儀式を詳細に比較し、いくつかの印象的な結論を述べている文献としては、ダニエル・グラハム著『Lex Orandi: Comparing the Traditional and Novus Ordo Rites of the Seven Sacraments(プレビュープレス、2015年)』159-85ページを参照のこと。これらのトピックについては、今後の記事で改めて取り上げることを希望している。

[11] 第二バチカン公会議後の世代の英雄的行為についてさらに詳しく知りたい方は、https://rorate-caeli.blogspot.com/2020/12/resistance-is-never-futile-interview.html を参照されたい。

ピーター・クワシュニエフスキ博士はトマス・アクィナス大学およびカトリック大学アメリカ校を卒業。オーストリアの国際神学研究所、ステューベンビル・フランシスコ大学オーストリアプログラム、2006年に設立に尽力したワイオミング・カトリック大学で教鞭を執った。現在は聖伝のカトリック主義に関する専業作家・講演者として活動し、多数の著書を執筆するとともに多様な媒体で発表している。著作は20言語に翻訳されている。個人ウェブサイトwww.peterkwasniewski.com、サブスタック(配信プラットフォーム)「Tradition and Sanity」、出版社 Os Justi Press、作曲家サイトCantaboDominoなどがある。