イエズス様がお生まれになられたこの聖なる夜、イエズス様をお慰めいたしましょう

ソース: FSSPX Japan

2025年12月25日  主の御降誕(真夜中のミサ)

トマス 小野田圭志神父説教  聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今から2025年前の今日、ユダヤのベトレヘムで、私たちのために救い主がお生まれになりました。人類が待ちに待っていたメシア、人類の贖い主であるイエズス・キリストです。

ベトレヘムのうまやでお生まれになられた、かわいい赤ちゃん!

この方こそ、真の救い主・私たちの主イエズス・キリストです。

そこで、私たちは主がお生まれになったことを考えて、イエズス様をお慰めすることを一緒に黙想いたしましょう。

いったいなぜ、私たちはイエズス様を慰めようとするのでしょうか?

その理由をまず考えます。それから、主を慰めるために私たちはどうしたらよいだろうかということを考えましょう。そして、最後に遷善の決心を立てます。

【1:救い主が生まれた】

今日の福音では、天主が私たちに喜びの知らせを告げたことを読みました。ベトレヘムの牧場で、野宿をしていた羊飼いたちに天使が現れます。

「おそれることはない。全ての人々のための大きなよろこびの知らせを、あなたたちに告げよう。今日、ダヴィドの町で、あなたたちのために、救い主がお生まれになった。すなわちキリストである。」

その時、天使たちの軍勢の大群が喜びの歌を歌いました。先ほど、私たちが歌ったグロリアの歌です。

「いと高き所には天主に栄光、地には善意の人々に平和あれ!」

どれほどの大きな喜びが、天使たちにあったでしょうか!

天使たちが天に響くほどの声を上げ、天と地の王の御一人子の御降誕を、褒め歌を歌いながら賛美している光景を想像してみてください。

天主の御一人子は人間となり、私たちのためにお生まれになりました。私たちに与えられたこの赤子イエズス・キリストこそ、私たちの宝物です。何故かというと、天主の愛の贈り物だからです。

考えてもみてください。

天主の御一人子にして永遠の御言葉、全能永遠の天主にして、全てをご自身によって創られたほどの御方、王の中の王が、私たちを愛するがために、私たちの救いのために、天から私たちのもとに来てくださったのです。

全能の天主は、弱々しい赤子としてお生まれになりました。

永遠の智恵は、言葉も話せない幼子となられました。

最高の存在者である天主が、へりくだり全く無力となられました。

主は、私たちへの愛の贈り物として私たちのもとに来られました。

それはすべて、罪人である私たち全てが、イエズス様を恐れずに近づいて、主を愛することができるためです。私たちのために、私たちからの愛を求めて、主は私たちのもとにお生まれになりました。私たちに本当の喜びを与えるために。

【2:主の愛は拒絶された】

これだけでも、私たちが主を慰めなければならない理由になりますが、もっとこの理由は深いところにあります。何故かというと、せっかくこうして私たちのためにお生まれになった主を、人々は受け入れようとしなかったからです。イエズス様のために、宿屋に部屋はありませんでした。天主の御一人子が、肉をまとい人間となって生まれた場所は馬小屋でした。冷たい洞窟で暖房もなく、馬草桶に寝かされ、貧しく生まれ、泣いておられます。

一方、ヘロデ王は、救い主が生まれたと聞くと、この生まれたばかりの王である主を殺害し、亡き者にしようとさえします。そのために、マリア様と聖ヨゼフは、主を守るために外国へ逃亡しなければなりませんでした。

私たちを愛するために来られた天主は、この世から軽蔑されて捨てられ、無視され、そして排除されてお生まれになります。聖ヨハネが言う通りです。

「光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。… かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。」(ヨハネ1511

これこそ、私たちが主をお慰めする大きな理由です。ですから、少なくとも私たちは、主が私たちのためにお生まれになったこの聖なる夜に、この世から受け入れられなかった主をお慰めいたしましょう。

では、そのためにはいったいどうしたら良いでしょうか?

聖女マルガリタ・マリア・アラコックは、私たちにとって、イエズス様の聖心を慰める模範です。何故かというと、イエズス様が特別に、この聖女を慰めと償いの使命のために選ばれたからです。「少なくともおまえは私を慰めよ」と、イエズス様は言われました。

また、幼きイエズスの聖テレジアも、主を愛し、主とともに苦しんだ方で、私たちにとっての模範です。聖テレジアは自叙伝にこう書いています。

「三歳の時から、イエズス様になにも拒んだことがない(拒否したことがない)」

どれほどイエズス様を愛した霊魂だったでしょうか!

主に対して、いつも「はい」と答えた霊魂でした。

つまり、慰めるとは愛からのものではないでしょうか?

聖女たちは、イエズス様と同じように考え、イエズス様に倣うその愛によって、イエズス様の心と一致することで、主をお慰めしようとしたのではないでしょうか?

そして、多くの聖人たちが、主イエズス様と同じ心を持つために、また、主の聖なる愛を受け、イエズス様を自分のものとするために、主の清貧を真似し、この地上の宝と名誉と快適な生活を放棄しました。

たとえば、聖ベネディクトは、青年時代に父親の家の富と快適な生活を捨てて、モンテ・カッシーノの洞窟で祈りの生活を始めました。

アシジの聖フランシスコは、自分の服さえも父親に渡して清貧の生活を始めました。

大修道院長聖アントニオも、先祖の遺産を全て売り、貧しい人々に配り、修道生活に入りました。

聖フランシスコ・ボルジアは、スペインの宰相(さいしょう)でしたが、全てを捨ててイエズス会に入会しました。

ロヨラの聖イグナチオはこう祈りました。

「ただ主の聖寵とともに主の御愛を我に与え給え。さらばわれは満ち足りて他の何ものをもあえて願わじ。」

特に主の貧しさは、私たちを霊的に富ませるためでした。何故かというと、清貧とは、地上のものに対する愛着、特に罪の機会に対する愛着から、私たちを自由にさせるものです。それこそが、主の私たちに教える清貧です。地上の富を軽視し、そして天のものにもっと愛着を持つようにと。

何故ならば、地上のことに愛着している心は、全てである天主を持つことはできないからです。

聖パウロは言います。

「キリストを得るためには、すべてが芥だと思う。」(フィリッピ38

ところで、イエズス様がこの世に来られたのは、苦しみを廃止させるためではありませんでした。そうではなく、苦しみを喜びにかえることができるようにするためでした。十字架の木に、復活の喜びの花を咲かせるためです。

つまり、慰めとは「苦しみの中にある幸せ」のことを指しているのではないでしょうか?

多くの聖人たちが、キリストのために、この地上のものを捨てて、主を慰めようとされました。しかし、実は、私たちがイエズス様をお慰めしようとするためにもっと良い模範があります。それはマリア様です。全ての聖人・聖女にまして主をお慰めしたのはマリア様だからです。

今日、馬小屋の近くに行って、マリア様と聖ヨゼフに倣いましょう。お二人は愛に燃えて、沈黙のうちにイエズス様を礼拝し、イエズス様を慰めておられます。

しかしそれ以上に、さらなる最高の慰め主がおられます。それは聖霊です。「Consolator Optime 最善の慰め主よ」と、典礼の中で呼びかけている通りです。

イエズス様がお生まれになられたこの聖なる夜、イエズス様をお慰めするようにいたしましょう。愛をもってイエズス様に近づきましょう。そのため諸聖人に倣いましょう。特に、マリア様と聖ヨゼフに倣いましょう。それから、聖霊に祈りましょう。聖霊の助けをもって、私たちが主をお慰め申し上げることができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。