イエズスというお名前の意味とその力
2025年1月5日(主日)イエズスの聖名の祝日 聖なる日本の殉教者聖堂(大宮)
トマス小野田圭志神父
ルカによる聖福音の続誦
“そのとき、幼児が割礼をうける八日目になったので、胎内にやどる前に天使によって呼ばれたように、その子の名をイエズスと名づけた。”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、「イエズスの聖名(みな)の祝日」です。
このイエズス様というお名前が持っている意味、また、その力がどれほど偉大なものであるか、どれほど高貴なものであるかということを、一緒に黙想いたしましょう。
そして、私たちの人生の究極の目的である、「天国の福楽」というところに、私たちをどれほど大きな力で導いてくださるか、ということについて、黙想することを提案いたします。
【1:イエズスという聖名】
ではまず第一に「イエズス様の聖名(みな)」には、どういう意味があるのでしょうか。
「イエズス」というのは、「天主(ヤーウェ)が救う」という意味です。つまり「救い主」という意味です。
この名前は、救い主に与えるべきものとして、永遠の昔から定められていました。この全宇宙が創られるその前から定められていました。
そして、天主ご自身が、大天使聖ガブリエルを通して、マリア様へのお告げの時に、これを明らかにしました。聖ルカの福音には、こう書いてあります。
マリア様に、大天使聖ガブリエルはこう言います。
「あなたはみごもって子を生むでしょう。その子をイエズスと名づけなさい」。(ルカ1:)
同じ大天使聖ガブリエルは、聖ヨゼフにも、このお名前を伝えます。マテオの福音にはこうあります。
「ダヴィドの子ヨゼフよ、ためらわずに、マリアをあなたの妻としてむかえよ。マリアは、聖霊によってみごもっている。かの女は子を生むから、あなたは、その子をイエズスと名づけよ。なぜなら、かれは、み民をその罪から救うお方だからである。」
そして、これが起こったのは、預言者(イザヤ)に告げられた預言が、みことばが、実現するためのものだった、と言います。
「童貞女がみごもって、子を生むであろう。その名はエンマヌエルと呼ばれる」。(マテオ1:)
イエズスとエンマヌエル——何故かと言うと、「エンマヌエル」というのは、「天主は私たちと共に」という意味です。
つまり、全能の、永遠の、全世界の創造主、天主が、私たちのために人間となって、救い主となって私たちのもとにおられるようになった、人間としてお生まれになる、という意味を持つ名前であるからです。
ですから、イエズス、エンマヌエルということは、苦しむこともない、また、死ぬこともない、また、目に見えない天主が、私たちの罪の贖いのために、私たちの救いのために、私たちに限りを知らない、主の憐れみ深い愛を見せるようにするために、苦しみ死ぬことができる人間となった、救い主になった、ということです。
実際に、イエズス様は、人間として苦しみ、そして御血を流すことによって、また、天主としてその御稜威(みいつ)の持つ無限の功徳によって、私たちを罪から贖い、永遠の地獄から、地獄の死から、私たちを救われます。
新約では廃止された旧約の割礼は、新約の洗礼の前兆でした。
割礼には、来るべき救い主の流される贖いに与る、という意味がありました。
イエズス様は、お生まれになって八日目に、人間として、また天主として、はじめておん血を流されます。
私たちを罪から救うためです。この時に、「イエズス(天主は私たちを救う)」という名前が付けられました。
イエズス様が救い主であったというのは、この最初の瞬間ではありません。この瞬間から、生涯最後の最期まで、十字架の上に付けられて亡くなるまで、この使命を果たされます。
イエズス様の御生涯は、救い主としての御生涯、従順と十字架の御生涯でした。ですから、この名前には、特別の価値があります。
聖パウロはこう言っています。
「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。
そこで、天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。
それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の栄光をあがめ、「イエズス・キリストは主である」と言いあらわすためである。」(フィリッピ2:)
イエズス様の流された御血、特に十字架の上で流された御血によって、イエズス・キリストは、最高の栄光ある名前を頂くようになりました。
ですから、聖ペトロはこう断言します。
「救いは、主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名( 「イエズス」の名前以外 )は、人間にあたえられませんでした。」
これが「イエズス」という名前の持つ、本当の意味です。
【2:イエズスという聖名のもつ力、奇跡】
では、これほど素晴らしい、高貴な最高の名前、聖名を持つイエズスという意味は、名前には、どれほどの力があるのでしょうか。
もしも、私たちが、イエズス様の聖名を、信頼を込めて、信仰を持って呼び求めるならば、イエズス様は奇跡さえも起こします。
福音書には、色々な話がありますが、たとえば、こんなことが起こりました。
イエズス様が、イエリコというところに近づかれると、道ばたで施しを乞うていた、めくらの乞食がいました。
すると、この目の見えない男は、「ダヴィドの子イエズス、私をおあわれみください!」と、叫び出します。
まわりの人が「シーッシーッシーッ!黙れ、黙れ!うるさい!」と言うのですけれども、もっと大きな声で、「ダヴィドの子イエズス、私をおあわれみください!」と、叫び立てます。
イエズス様は、彼を呼び寄せて、「あなたは、私になにをしてもらいたいのか?」と、おたずねになります。
すると、このめくらは「主よ、見えるようにしてください」と、答えます。
イエズス様が、「見えよ。あなたの信仰があなたを救った!」と、おっしゃると、たちまち、めくらは目が見えるようになって、天主をたたえつつ、イエズス様についていった、と、ルカの福音書に書いてあります。(ルカ18:)
イエズス様は、こうも断言します。
「あなたたちが、私の名によって願い求めることはすべて、父が子において光栄をおうけになるように、私がはからおう。あなたたちが、私の名によってなにかを願い求めるならば、私がはからおう。」(ヨハネ14:)
イエズス様は、この約束を守られます。
実際、使徒行録にはこんなエピソードもあります。
エルザレムの神殿に、生まれつき足なえの男が運んでもらってきて、施しを得ようと待っていました。それを見たペトロとヨハネは、彼に言います——「私たちをごらん」と。
すると、「あ…なにかもらえるのかな…」と、この男は、二人の使徒たちの方を見ます。ペトロが、こう言います。
「私は、金銀をもっていない、だが、私のもっているものを、あなたにあげよう。ナザレトのイエズス・キリストのみ名によって歩きなさい!」
ペトロが、彼の右の手をとっておこすと、すぐに足が強くなって、おどりあがって立って歩いたのです。彼の喜びを想像してください!
歩いたり飛んだりしながら、主を賛美しつつ、かれらといっしょに神殿にはいった——使徒行録には書いてあります。(使徒行録3:)
【3:イエズスという聖名への信心:IHS】
イエズス様の聖名への信仰は、古代から、使徒の時代から、初代からありました。そして今、現代に至るまで、脈々と続いています。
特に、その信仰、信心で有名なのは、たとえばアシジの聖フランシスコです。また、フランス人の間では、ジャンヌ・ダルクが亡くなる時に「イエズス!マリア!」と、叫びながら亡くなったということが、非常に有名なエピソードです。
シエナの聖ベルナルディーノという方は、特別な信心を持っていたので、IHSという言葉を書いて、色々なところに飾るように、と勧めていました。
このIHSというのは、実は、ギリシャ語でイエズス(ΙΗΣΟΥΣ)という名前を書く時の最初の三つの言葉です。イオタ、エータ、シグマ(ΙΗΣ)です。
それがちょうど、IHSのように見えるので、そこからラテン語で、
・Iesus Hominum Salvator “ イエズス——人々の救い主 ”
・In Hoc Salus “ ここに救いあり ”
・In Hoc Signo (vinces) (コンスタンティノ皇帝が空に見た)“ この印において勝て ”
・Iesum Habemus Socium
“ イエズスという伴侶を私たちが持っている ”。(イエズス会の人たちは、イエズスという伴侶を私たちが持っている、などという意味だと解釈しました。)
聖フランシスコ・ザベリオが日本に来た時、イエズス会の司祭として、「イエズスの聖名」を非常に高め、そして、この聖名への信心を勧めました。
ですから、イエズス会の教会には、IHSという印がついています。
つまり、イエズスという名前が、どこにもついています。
イエズス会の本部であるローマに、イエズス(Jesus)という聖名に捧げられた教会があります。
そして、世界中で最も有名な信心は、「イエズスの聖名の連祷」です。
日本では、これを毎朝唱えることが勧められています。
【遷善の決心】
では、これほど大切な「イエズス様」というこの聖名を、私たちはどうやって褒めたたえていったらよいのでしょうか。
どのような信心を持ったらよいでしょうか。
最後に遷善の決心を立てましょう。
私たちは是非、「イエズスの聖名」というこの聖名が、どれほど高価で高貴で、そして、どれほど尊く聖なるお名前であるか、ということを理解いたしましょう。
「私たちを救う唯一のお名前」です。特別の尊敬に値する、最も高められたお名前です。そして、このお名前には、「特別の力」があります。
ですから、お祈りをする時、このイエズスという聖名によって、お祈りいたしましょう。誘惑の時——特にこの聖名を呼び求めましょう!
「イエズス様、助けてください!誘惑に負けないように助けてください!」
聖徳とは、いったいなんでしょうか。
聖徳とは、愛の程度です。愛徳の程度です。愛徳が大きければ大きくなるほど、聖徳が高いということです。
ですから、イエズス様への愛がますます大きくなるように、この聖名を呼び求めましょう。
「イエズス様、御身を愛し奉る!
私の愛、愛徳、信仰を増してください!」
もしも、私たちが不幸にしてイエズス様を悲しませてしまったら、罪を犯してしまったら、私たちは、完全な痛悔を起こすことができるように祈りましょう。
完全な痛悔とは、愛による痛悔です。ですから——
「イエズス、御身を愛し奉る!痛悔し奉る!
私の痛悔を完全にしてください!愛による痛悔を起こさせてください!」
最後に、イエズス様の聖名を愛し給うたマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は、私たちを必ずイエズス様へと導いてくださいます。
マリア様の御取次ぎで、この地上では、イエズス様の聖名を愛し、そして、その聖名を心に刻んでいたこの私たちが、イエズス様によってますます愛されて、そして、天国の命の書の中に、私たちの名前を刻み込んでくださることができますように、お祈りいたしましょう。
この地上では、「キリスト者」という名前を頂いています。
その名前にふさわしく生きる私たちが、ついには、天国でイエズス様にまみえ、そして、「イエズスとともにいる者」という名前を、栄光を受けることができますように、お祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。