イエズスの聖なる御名の祝日の説教―イエズスという名前の起源と意味(名古屋)
イエズスの聖なる御名
イエズスの聖なる御名の祝日の説教―イエズスという名前の起源と意味(名古屋)
2026年1月4日 イヴォン・フィルベン神父
イエズスの聖なる御名の祝日の説教―イエズスという名前の起源と意味(名古屋)
親愛なる信者の皆さま、
今日のミサの福音朗読は一年を通じて最も短いもので、一節だけしかありません。しかし、この説教が一年を通じて最も短いとはお約束できません! 実際、この福音朗読が、言葉の数では非常に短いものであるとしても、その意味は非常に深いものです。「彼らはその子をイエズスと名付けた」。
この説教では、なぜこの名前が付けられたのかという問いに答えたいと思います。
一)イエズスという名前の起源
1)この名前の起源は天主
「イエズス」という名前に関して、何か特別なことがあるのでしょうか。その名前自体にはどうでしょうか。全くありません。聖書の他の登場人物も、「イエズス」あるいはそれに似た名前で呼ばれていたからです。最も有名なのは、モーゼの後継者で、ヘブライ人を約束の地へと導いたヨシュアです。重要なのは名前そのものではなく、その起源なのです。
私たちの主イエズス・キリストの名前は、彼の一族や両親、あるいは友人に由来するものではありません。そうではなく、天主に直接由来するものなのです。これを彼の名前と定めたのは天主でした。天主は非常に明確でした。天主は、彼の母である童貞聖マリアにこう告げられました。「あなたは身ごもって男の子を生む。その子をイエズスと名付けよ」(ルカ1章31節)。そして、養父である聖ヨゼフにも、同じことを告げられました。「(あなたの妻は)男の子を生む。その子をイエズスと名付けよ」(マテオ1章21節)。聖書には、生まれたばかりの子に、あるいは大人が名前を変更する際に、天主が名前を与える場面が何度か出てきます。もちろん、これはそれぞれ特別な使命に対応したものであり、その名前は受けた使命を示しています。ですから、アブラハムは「諸国民の父」と呼ばれています。彼がヘブライ人、そして全教会の父祖となるからです。
2)私たちの主は天主である
しかし、主の名前には使命以上の意味があり、イエズス・キリストの本質を象徴しています。もう少し詳しく見てみましょう。「イエズス」とは、イェホーシューア(旧約聖書で「ヨシュア」と訳されている名前)に由来し、その発音は捕囚後にイェシュアに短縮されました。これは同じ名前であり、天主(イェまたはヤ)が救う(ホーシューア)という意味です。しかし、主の名前を、天使が教えた説明の「彼は民を罪から救う」と、決して切り離してはなりません。この一文は、私たちの主の神性を非常に明確に肯定しています。この名前は「天主は救う」と言っており、天使が「この幼子は救う」と付け加えています。したがって、論理的に言えば、この幼子は天主であると結論付けることができます。
イエズスという名前は、天主が救うということを肯定しており、このことはユダヤ人もよく知っていましたが、それだけではなく、この幼子こそが救う天主であるということも肯定しているのです。イエズスという名前は天主の名前です。私たちが理解しなければならないのは、イエズスという名前を発するとき、天主の名前を発しているのだということです。だからこそ、私たちはイエズスという名前は聖なるものだと言うのです。それはまさに天主の御名だからです。だからこそ、典礼において、私たちは、天主の聖なる御名を発するたびに、頭(こうべ)を垂れるのです。
イエズスは天主ですから、イエズスという名前は天主の御名です。これがクリスマスの根本的なメッセージです。もちろん、私たちはこれを知っていて、信じています。しかし、果たしてそのすべての結果を理解しているでしょうか。
二)崇拝
1)位格が天主である
私たちの主は天主です。つまり、主においては、すべては天主に由来するということです。私たちの主は人間の本性、人間の体、人間の霊魂を持っておられますが、人間ではありません。主が話したり、飲んだり、食べたり、泣いたりされるのを見るとき、飲んだり、食べたり、泣いたりしておられるのは人間ではなく、天主ご自身なのです。
例えば、私たちが何かをするとき、その行為は私たち自身の行為です。私が散歩に出かけるとき、私の足で歩くのは私であり、私の足が勝手に歩くわけではありません。ですから、私が行うすべてのことにおいて、行為をするのは私の人格です。
私たちの主においては、すべての行為は、私たちの主イエズス・キリストという天主の位格によって行われます。私たちの主イエズス・キリストにおいては、すべては天主によって行われます。主が歩かれるとき、歩かれるのは天主であり、主が話されるとき、話されるのは天主であり、主が人をご覧になるとき、ご覧になるのは天主である、といったことです。主の行為はすべて、たとえごくありふれたものであっても、天主によって行われる行為なのです。
2)礼拝
この結果はどうなるでしょうか。ミサの入祭唱に注目してください。「イエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも」、つまり例外なく、「みな膝をかがめ」るのです。
「膝をかがめ」とは、「天主として礼拝する」という意味です。単に崇敬したり、敬意を払ったりするだけでなく、それ以上のことです。つまり、礼拝する、天主として認めるということです。そして、このひれ伏すという行為は、少数の人ではなく、すべての人がしなければならないことです。聖パウロは、明確にこう述べています。「イエズスの御名の前に、みな膝をかがめ」。「みな」とは、カトリック教徒だけでなく、イスラム教徒、仏教徒、無神論者など、地上のすべての人々のことであり、すべての人が私たちの主イエズス・キリストを、天主として礼拝しなければならないのです。そうしないことは罪なのです。選択の問題ではなく、そうすることが、すべての人に義務付けられているのです。私たちの主イエズス・キリストを礼拝することを拒むことは、天主を拒むことであり、したがって、私たちの主イエズス・キリストを礼拝することを拒む者には、天国に居場所はありません。イエズスを天主として礼拝することを拒む者は、自らを天主から切り離し、したがって自らを天国からも切り離すのです。
黙示録は、天のすべての被造物が小羊の前に、すなわち彼らが永遠に礼拝するイエズスの御前にひれ伏す様子を描いています。この礼拝を拒む者には、天国に居場所はありません。天主に行うべき礼拝を拒むことは、天主への服従を拒んだサタンの道に従うことであり、したがって地獄への道を歩むことです。地獄は、私たちの主イエズス・キリストを礼拝することを拒んだ霊魂たちで満ちているのです。
親愛なる信者の皆さま、降誕節は来週の主日のあとの火曜日で終わります。ほんの短い期間ですが、私たちはとても単純なことを学べます。それは、私たちの主が天主であるということです。これが、このイエズスの聖なる御名のミサの教えであり、クリスマスの神秘全体の教えでもあります。私たちの主は天主であり、したがって、主の御名は天主の御名です。ですから、主の行いはすべて天主の行いであり、特にミサの聖なる犠牲の際には、私たちは主を天主として礼拝しなければなりません。この降誕節に、時間を取って主にこう祈りましょう。「われ、御身が生涯になし給うたすべてことにおいて御身を天主として認め、御身を天主として礼拝し、すべての人が御身を天主として褒めたたえるよう祈り奉る」。