イエズス・キリストはなぜ洗礼を受けられたのか?旧約で前兆として予告された洗礼とは?

ソース: FSSPX Japan

2025年1月13日 私たちの主イエズス・キリストの洗礼の記念

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、私たちの主イエズス・キリストの洗礼の記念を行なっています。
イエズス・キリストは、御降誕、また御公現、それからナザレトでの私生活の終わりに、そして、つまり公生活の始めに、洗者聖ヨハネから洗礼を受けました。

では、なぜ、洗者聖ヨハネから洗礼をお受けになったのでしょうか?
また、洗者聖ヨハネの洗礼とは、いったい何だったのでしょうか?
また、旧約の洗礼の前兆には、どんなものがあったのでしょうか?
また、新約の洗礼とは、いったい何なのでしょうか?

一緒にいくつかの点を黙想して、そして最後に遷善の決心を立てましょう。

【洗者聖ヨハネの洗礼】

まず、洗者聖ヨハネの洗礼は、いったい何だったのでしょうか?
洗者聖ヨハネの洗礼は、洗礼の秘跡ではありません。全く別物でした。
新約の洗礼の秘跡の準備のための、つまり、悔悛のための洗礼、「罪の悔い改めのための洗礼」でした。

たとえ洗者聖ヨハネから洗礼を受けていたとしても、本物の洗礼、つまり洗礼の「秘跡」を受ける必要がありました。
ですから、秘跡にとって代わるものでありませんでした。
言ってみればこれは、「罪を痛悔する、悔悛する儀式」でした。
罪を忌み憎み、そして罪を捨て去って、回心して、聖なる一生へと大転回させるという、特別なセレモニーでした。

洗者聖ヨハネは、痛悔の念を起こさせて、来たるべき救い主を準備させていました。ですから、洗者聖ヨハネは、ユダヤの荒れ野で教えをのべて、こう叫んでいました。「くいあらためよ、天の国は近づいた。」
そして、ご自分のことを、預言者イザヤの預言にある「荒れ野に叫ぶ人の声である。」と、言っていました。
洗者聖ヨハネは、こうも言っていました。
「私は、あなたたちのくいあらためのために、水で洗礼をさずけるが、私のあとでおいでになる方は、私よりも勢力のある方で、私はその方のはきものを持つ値打ちさえもない。かれは聖霊と火によって、あなたたちに洗礼をおさずけになるだろう。」(マテオ3:)
また、今日の福音にも、洗者聖ヨハネの証言が載っています。

【なぜ、洗者聖ヨハネから洗礼をうけたのか?】

では、私たちには、こんな疑問が起こります。
なぜ、イエズス様は、洗者聖ヨハネのところにわざわざ行って、洗礼をお受けになる必要があったのでしょうか?
主は、罪も無いのですから、痛悔する必要も無いし、回心する必要も無いし、救い主ご自身ですから、準備をする必要も無い。

なぜ、洗者の悔い改めの洗礼をお受けになったのでしょうか?
なぜ、天主の御言葉ご自身が、「荒れ野に叫ぶ人の声」のもとに行って、洗礼を受けなければならなかったのでしょうか?

聖トマス・アクイナスは、三つの理由を私たちに提示しています。

第一は、イエズス様は、洗礼の水を受けることによって、「洗礼の秘跡の制定を行なうため」、つまり、「洗礼の水を、聖なるものとするために洗礼を受けられた」と言います。

イエズス様は、公生活の時に、らい病に触れる時があります。
イエズス様は、らい病の患者に触れたとしても、らい病がうつったわけではありません。その反対でした。
らい病に、ご自分の聖徳を、ご自分の聖なるものをうつしたのです。らい病を清めて癒し、聖なるものとしました。イエズス様は、らい病をうつされたわけではありません。その反対でした。

それと同じように、イエズス様が、ヨルダン川に入って、洗者聖ヨハネから洗礼を受けたとしても、イエズス様が、それによって、水によって浄められた、聖となったのではありません。その反対です。
イエズス様の聖なる聖徳が、ヨルダン川を聖化し、すべての洗礼の水を聖化したのです。「イエズス・キリストの接触によって、すべての洗礼の水が、聖なる水と、私たちを罪から清める力を持つものとなった」のです。
そのために、洗者聖ヨハネから洗礼を受けました。

第二の理由は、天主が人間となって洗礼を受けるということで、教えがありました。「私たち全ての人間のために、人となった天主が洗礼を受けたのだから、私たちもすべて、人間は洗礼を受けなければならない」と教えるためです。

もしも、天主が目に見える人間の本性を取ったのならば、私たちも、天主のようになるためには、天主の命を生きるためには、新しい霊的な命に生まれ変わるためには、洗礼を受ける義務がある、ということを教えるためです。
天主ご自身が、人となった天主が洗礼を受けました。

聖トマス・アクイナスによると、第三の理由があります。
それは、模範を示すためです。人間の本性を取った天主ご自身が洗礼を受けることによって、「私たちも、主に倣って洗礼を受けて、キリスト者として全く新しい生活を始めなければならない」と教えるためです。

ご自分の洗礼をもって、私たちに、洗礼というものが、どれほど重大な秘跡であるかということを、身を持って教えようとされました。
そして、洗礼を受けた者と受けていない者とが、どれほど違うかということを示そうとされました。

イエズス様が洗礼を受けた時に、聖霊は、鳩のかたちを取ってイエズスのもとに降り、そして、天主御父は宣言します。「これは私の愛する子である。」と。
それと同じことが私たちに起こるということを、模範を持って示されました。

【旧約の前兆の例】

では、洗者聖ヨハネは、いきなりこのような洗礼を授けたのでしょうか?
準備をしたのでしょうか。主は、洗者聖ヨハネの洗礼を完成させただけなのでしょうか? ——そうではありません。

旧約には、洗礼のかたどり、予告する前兆が多くあります。
たとえば、ノエの大洪水——それによって、地上の罪の世界がまったく破壊されて清められた——ノエの大洪水とその箱船も、洗礼のかたどりの一つです。

あるいは、モーゼの指導の下に、イスラエルの民が、紅海を、海を濡れずにわたったのもその一例です。

皆さんもよくご存知の通り、ユダヤ人たちは、太祖ヨゼフがエジプトの宰相だった時に、エジプトに避難、移住しました。何故ならば、エジプトには、飢饉の時でも食べ物があったからです。太祖ヨゼフのお陰です。

しかしヨゼフの死後、ファラオは、ユダヤ人たちを非常に残酷に取り扱いました。奴隷にしてしまいました。厳しい強制労働をさせて、そして苦しめました。

しかし、主には、特別の愛の計画がありました。ユダヤ人たちを、ファラオの奴隷状態のまま置くことはできない。彼らを解放して、自由な民にしたい。自由な民にするばかりか、彼らをもっと素晴らしい地に、土地に導き入れて、蜜とそして乳の流れる麗しい土地に導いて、約束の地に導いて、そしてそこで、彼らのために救い主が生まれるように準備する、という計画でした。

そこで、モーゼは、主から奇跡的に命を助けられ、そしてユダヤの民たちに送られます。特別の教育を受けて、ユダヤ人たちを指導することができるような能力を受けます。
主の命令を受けたモーゼは、ユダヤ人たちをエジプトから脱出させます。
過ぎ越しの子羊を屠ったあと、ユダヤ人たちは、三日間海の方へと逃げますが、前面には海が横たわっています。見渡す限り海です。
そして、後ろにはエジプトの大軍が、馬車を持って迫ってきます。弓矢を持って、剣を持っています。武器を持っています。こちらは裸足で、歩くままです。

絶対絶命の時に、モーゼは、この海を、紅海を真っ二つに分けます。
そして壁のようになった海の底を、ユダヤの民は、何も濡れることなくわたっていきます。
紅海をわたる前は、ユダヤの民は奴隷の集まりでした。
しかし、紅海をわたった後には、自由の民と、新しい民となりました。
ユダヤを追っていた、ユダヤの民を追っていたエジプトの大軍は、紅海の中で、波に呑まれて海の藻屑となり、全滅します。大敗します。消え去ります。

そして、イスラエルの民は、モーゼの指導のもと、約束の地に至るまで、40日間砂漠を歩きます。色々な新しい敵があるのですけれども、彼らと戦いながら歩き、そしてマンナを食べながら、約束の地までヨスエの指導の下に到達します。
これは教父たちによると、また聖パウロの断言によると、洗礼の前兆であり、かたどりであると言います。

私たちも、悪魔の、そして罪の奴隷状態にいたにも関わらず、洗礼の水を通して、罪と悪魔の奴隷状態から解放されて、自由になりました。
そして、御聖体に養われながら、この砂漠のようなこの地上を、短い人生を、天の約束の地まで、天国に至るまで、私たちは巡礼をしています。
ミサに与っているのも、ちょうどモーゼの指導のもとに、ユダヤの民、イスラエルの民が、天の国まで巡礼をしているものに似ています。

ところで、一部のユダヤ人たちは、エジプトでの奴隷状態を懐かしく思って、モーゼに何度も何度も不平を言います。文句を言います。

「ああ、味気の無いこんなマンナよりも、エジプトの肉の方が、もっと美味しかった。エジプトの玉ねぎが食べたい! なんで、エジプトから連れ出したんだ! 戻りたい! もっとおもしろおかしく生活したい!」

そして、ユダヤの民が不平を言う度に、主は彼らを厳しく罰します。
私たちも同じく、洗礼の前の罪の状態を、奴隷状態をもう一度、「ああ、あんな罪を、自由に犯していたなぁ。」などと思うことは、許されていません。

何故かというと、私たちの主のくびきは快く、そして非常に軽く、見かけ上の奴隷状態の楽しさというのは、非常に苦しく、苦々しく、虚ろで、何の実りも無い、辛いものであるからです。見かけ上は、あるいは、匂いは良いかもしれませんが、私たちを何も養うことはありません。

しかし、時として、罪の放埓、自由勝手に気ままに、おもしろおかしく、主を忘れて罪を犯す人たちが、何か幸せそうに見えるかもしれません。そこでもしかしたら、世の色々な騒音が、あるいは雑音が、ああ、エジプトのたまねぎを望ませるかもしれません。

しかし、そのような時に、モーセは彼らを励ますのです。

私たちはいったい、どのような苦しい、悲惨な奴隷状態から解放されたことだろうか! ファラオのもとにいたとき、どれほど酷かったか、エジプトの肉のどこが良かったのか、玉ねぎのどこが良かったのか!

そして、私たちの約束された地は、約束の地はどれほど美しいものか、麗しいものか、ということを見せて、説得して、そして約束の地まで、この巡礼の道を歩むように励まします。

今日、私たちの主も、洗礼を受けることによって、同じことを約束されています。同じことを励まします。新しいモーゼ——イエズス・キリストは、私たちにマンナを与えながら、洗礼の約束を思い出させます。

私たちは、悪魔と悪魔の業と、その栄華を捨てたではないか!
奴隷状態から解放されて、天主の子供となったではないか!
自由の身となったではないか!
私たちには、天国の永遠の遺産が約束されているではないか!
と、励ましています。

【洗礼】

聖ヨハネ・ユードによると、「洗礼とは、新しい人間を創造すること」だと言います。何故ならば、聖パウロは、キリスト者は新しい創造物である、新しい被造物であると言っているからだ、と言います。

最初の創造で、天主は、塵から、自分の似姿と肖像に似せてアダムを創った、人間を創った。
しかし洗礼では、天主は、主に逆らう無限の罪の邪悪から、サタンの奴隷から、新しい人間、決定的な天主の子供、永福の世継ぎを創った。

アダムの世界では、天に星々が輝いた。
しかし、洗礼を受ける新しい世界では、天というのは、本当の天主、
太陽というのは、イエズス・キリスト、
月というのは、聖母マリア様、
星々というのは、諸聖人、また天使たち、
大地は、イエズス・キリストの御人性——人間の本性、
また、水というのは聖寵のこと、
大気は聖霊、
火は愛徳——愛の炎、
パンは、イエズス・キリストの御体、
葡萄酒は、イエズス・キリストの尊き御血、
そして私たちは、イエズス・キリストを着る者となった。

アダムは、この天主が創った創造の世界を、罪によって汚らわしく汚してしまった。悪魔の奴隷状態に陥らせてしまった。
しかし、新しいアダム——イエズス・キリストは、この世を、贖いによって素晴らしく建て直した。

この新しい世界に、洗礼を受けることによって、参与することができるようにしてくださった。
イエズス・キリストは、洗礼の水を受ける時に、あたかも墓に葬られたようになり、そこからまた出て来られたように、私たちも洗礼を受けることによって、キリストとともにこの世に死に、罪に死に、イエズス・キリストとともに復活し、新しい命に生きる者となる。まったく新しい命、まったく新しい世界、まったく新しい被造物となる、と言っています。

では、今日、私たちの主の洗礼の記念の日に、洗礼のお恵みを心から感謝致しましょう。そして、2025年、天国へ行くために、至福についに到達するために、この洗礼から始まった新しい人生を、新しい命を、迷うことなく歩み続けることができるように、マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。