イエズス・キリストは本当に復活された
2026年4月5日 御復活の主日
トマス 小野田圭志神父説教 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)聖フランシスコ・ザベリオ巡回聖堂(名古屋)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
改めて、私たちの主イエズス・キリストの御復活のお慶びを申し上げます。
私たちの主イエズス・キリストは、本当に、真に、現実に、ご自分の天主としての力で復活されました。
今日は、イエズス・キリストが真に復活されたことを黙想し、その御復活が、今を生きる私たちにとってどのような意味があるのかを考え、味わいましょう。
そして、最後に遷善の決心を立てましょう。
【1:御摂理】
天主の御摂理は、私たちの主が真に死去されたこと、つまりイエズス様の霊魂が、肉体から分離されたこと、そして、その後に死から真に復活されたことを確実に証明させました。キリストの敵が荒立てば荒立つほど、キリストにとっては、その反抗と妨害のすべてが、ますます確実な証拠として成立し、キリストを信じ愛する者たちにとっては大きな利益となりました。
当時、イエズス様は、律法を全く無視した無効で違法な裁判によって、ユダヤの宗教当局から死刑を宣告されました。その後は、ローマの政治当局によって何度も無罪が宣告されたにもかかわらず、不当な判決を受けて鞭打たれ、ついには死刑さえも執行されてしまいました。
当時の裁判は、単なる言葉によるものではなく、死刑も今のような首吊りではありませんでした。主は、聖木曜日の夜から、衆議所によってリンチを受けました。法を外れた私的な拷問や暴行のことです。ローマの軍人たちから激しい鞭打ちの拷問の刑をお受けになります。また、総督から命令されていないにもかかわらず、御頭には茨の冠を押し被せられ、屈辱をもお受けになりました。その上、ズタズタに引き裂かれたその御体に、重い十字架を担がされました。主は、その十字架の重みに耐えきれず、何度も何度もお倒れになります。十字架の木が主の御体を押しつぶしたとき、主はどれほどの痛みや苦しみをお感じになられたことでしょうか。
傷付いた御体は十字架に釘付けにされ、死後、その御体はローマ兵のロンジーノの槍によって刺し貫かれます。槍は主の脇腹を通して心臓にまで達し、主の聖心からは血と水が流れ出ました。これでもまだ生き続けているとしたら、人間の業ではあり得ません。こうして、ローマ当局によって主の死が公式に確認されました。その後、主の御遺体は御母マリア様に返されます。マリア様は、その御眼と御手を通して主の御死去を目の当たりにされ、悲しまれます。
天主の深い御摂理は、この世のすべてに及び、一切を支配しておられます。
普通でしたら、ローマの十字架刑を受けたような犯罪人の死体は、共同の墓地に捨てられるか、あるいは、見せしめのまま、腐るまで十字架の上に放置され、後に捨てられるかでしたが、主の亡骸は、公式にピラトの許可を得て埋葬されることになります。何故かというと、イエズス様の隠れた弟子で、非常に財産家であったアリマテアのヨゼフが、自分の所有する誰も葬られたことのない墓を、イエズス様のために提供したからです。彼が主の埋葬の許可をローマへ願い出ると、ピラトは公式に許可を出します。こうして、大きな岩で入り口を閉じることのできる、岩を削ってできた新しい墓に、主御一人だけが埋葬されることになりました。
確かにイエズス様が亡くなられたことを確認するかのように、そしてこれを絶対のものとすることに執念を抱いたユダヤの衆議所(シナゴーグ)の憎しみは、イエズス様が、生前に何度も「自分は復活する」と予告なさっていたことを思い出します。そこで、ローマの厳重な警戒と、警備のための守衛を求めます。これは、弟子たちが主の御遺体を盗みに来ないようにさせるためでした。しかしながら、弟子は弟子たちで逃亡しており、恐れて隠れ、主の復活などは全く想定していませんでした。
こうやって、安息日(聖土曜日)に、衆議所の代弁者たちはピラトのもとへ赴き、墓を守るローマ兵の警備を得ます。彼らはこの警備兵と共に墓へ向かい、封印を施します。その方法は、もしも封が破られれば明らかな痕跡が残るように設計されていました。おそらく、封印をする前には、墓の内部を確認したに違いありません。確かな証言はありませんが、遺体の盗難が起きていないことを確認する必要はあったでしょう。イエズス様は、確かにそこに横たわっておられました。静かに、動かず、手つかずのまま、聖骸布に包まれておられました。
それはまるで、死がイエズス様を支配しているかのように見えたことでしょう。アダムの罪以来、すべての人間を支配してきた死が、イエズス・キリストにも及んでいるかのように。
こうして、墓の封印を施した後に、ローマの兵たちはそこにとどまります。
今私たちが知ることのできるローマの記録によると、イエズス様の墓で任務に就いていたようなローマ兵の警備分遣隊は、通常16名で構成され、少なくとも常に4名が交代で警戒に当たっていました。警戒中に眠ることは、死刑に値するような大罪でした。ローマ軍は、ローマのために、ローマの知っていた世界のほとんどを征服した熱意と、自国への正義感と忠誠心を持ち合わせた強力な兵士たちです。規律を忠実に守り、自身の義務を遂行する決意に燃えていた軍団です。ですから、総督ピラトの官邸から、わずか500メートルほどしか離れていない場所で任務に就いていた、この特別な訓練を受けていたローマの兵士たちが、全員眠りこけていたなどと想像することもできません。その夜、たとえその任務がどれほど退屈だったとしても、です。
こうして、安息日が終わり、過越祭の最初の祝いが終わると、聖なる墓では、週の最初の日つまり主日の早朝を迎えます。
「光あれ!」――かつて創造の最初に光を創られた天主は、週の最初の日に死という最後の敵を打ち倒されます。未だ誰も出ることの叶わなかった死の深い淵から、イエズス・キリストはご自分の力で戻って来られます。その燦然とした輝きは、今でも聖骸布に映し出されて、トリノに安置されています。
主が復活なさったとき、ローマの兵士たちはうずくまり、地面に倒れ伏します。稲妻に包まれたような輝かしい天使が、墓の入り口の大きな石を転がします。天使たちの力の前では、世界を征服したローマの剣や盾といったすべての武器も、ただのおもちゃにすぎません。ローマの兵士たちは、ようやく立ち上がるや否や、恐れて逃げ去るしかありませんでした。
聖母マリア様は、母親としてイエズス様を誰よりも愛された方でした。これまでも、そしてこれからも、誰一人として成し得ないほどまでに深い愛を、主に対してお持ちでいらっしゃいます。
そのようなマリア様が、他の人たちと同様に、もしイエズス様の御遺体がまだ墓に安置されていると信じていたならば、主を墓に置き去りにしたまま、他の人たちに墓の世話を任せて満足していることができたでしょうか?
しかも、他の婦人たちでさえ、朝早くに起きて主の墓へ向かっているというのに、自分はすやすやと眠っていることができたでしょうか?
ここに、復活後イエズス様が最初に現れたのは(たとえ聖書に書かれてはいなくても)御母マリア様であったという、古代キリスト教の伝統の真実性を示す最良の証拠があります。聖母マリア様が、復活の朝に主の墓へ行かなかったのは、御子がすでに墓を去られ、そこにはおられないことをご存知だったからです。だからこそ、マリア様は主の墓まで行く必要がなかったのです。
最初に墓へ着いたのは、マグダラのマリアでした。彼女は、墓が空であることを知ります。マグダレナはすぐに戻って、ペトロとヨハネにそのことを知らせます。隠れていたペトロとヨハネは、全速力で駆けて墓に向かいます。ヨハネは若かったので、ペトロよりも速く走って墓に着き、空の墓を確認します。しかし、ヨハネはすぐに墓へ入ったのではなく、墓の前でペトロを待ち、二人は一緒に中へと入ります。そうして二人は、岩の床に、イエズス様の手首や足首、顎に巻かれていた亜麻布の帯と、聖骸布そのものと思われる一枚の埋葬布が「別の場所に巻き上げられていた」のを見ました。墓荒らしや遺体を盗もうとする窃盗犯が、このようなことをするはずがありません。もし盗むためでしたら、シーツに包まれたままの遺体を墓からそのまま持ち去ったでしょう。
ペトロとヨハネは、この布だけで満足します。そしてヨハネが埋葬のために使用された布(聖骸布)を見たとき、おそらく布にうっすらと浮かんでいるイエズス様の御姿を認識したでしょう。そして、何か超自然的な出来事が起きたに違いないと察したかもしれません。イエズス・キリストが、預言された通り、本当に死者の中から復活したのだと確信した可能性も考えられます。しかしその当時、使徒たちは、たとえヨハネでさえも、そのときはまだ、イエズス・キリストが死から復活するという預言の真の意味を理解するまでには至っていませんでした。
けれども、私たちにはその後のすべての歴史の事実が明らかにされています。主は、ご自分の力で三日目によみがえられました。本当に復活されたのです。イエズス様は、栄光の体をもって復活され、その体は壁を通り抜け、私たちが知っている空間を移動せずに場所から場所へと移動できました。そうして、イエズス様は、使徒たちが隠れていた部屋にもするりとやって来られます。主のことをよく知っていた使徒たちでさえ、必ずしもすぐにイエズス様だと認識できたわけではありませんでした。
【2:私たちに対する意味】
では、私たちの主イエズス・キリストの御復活という歴史的な事実は、今を生きる私たちにとってどのような意味があるのでしょうか?
イエズス様の御復活を証しする多くの証言があります。その多くの証人たちは「本当にキリストを見た」「復活したイエズス・キリストに触れた」と述べ「その事実を否定するぐらいなら死んでいく」と言って、殉教していきました。
もしも、私たちがありのままの現実を素直に認めるならば、すべての歴史の事実は、イエズス・キリストこそが真の天主であり、預言されていた真のメシア(救い主)であることを証明し、雄弁に語っています。これを否定するには、事実を無視するか、あり得ないことがあり得たと嘘をつくしかありません。たとえば、ローマの兵士が寝ていたとか、あるいは、ローマの兵士が寝ている間に、弟子たちが墓をこじ開けて主の御遺体を盗んでいった、などです。
私たちがありのままの現実を直視する限り、どうしても辿り着かなければならない論理的な結論(真理)があります。それは、愛する兄弟姉妹の皆様と私の信じている、イエズス・キリストが立てたカトリックの宗教こそが本物であるということです。これ以外にはあり得ず、イエズス・キリストこそが、真の生ける天主にして真の救い主であるという結論に辿り着くことができます。
私たちの主イエズス・キリストは真に復活し、今も生きておられ、私たちを愛してくださっています。イエズス・キリストがおっしゃったこと、なさったすべては本物で、真理です。
私たちが受けた洗礼は、単に額に水を流されただけのことではありません。これは超自然の力を持っており、私たちの罪と罰がすべて赦され、私たちが天国へ行くために必要なすべてを、超自然のお恵みを受けたということです。
また、御聖体は生ける天主イエズス・キリストの真の御体そのものです。私たちに特別な聖寵を与える、命と真理とに満ちておられる御方、その御方を私たちはお受けするのです。
ミサ聖祭は十字架のいけにえであり、無限の価値があります。何故かというと、天主の御子イエズス・キリストが、私たちの罪の償いのために捧げた犠牲であり、唯一、天主に嘉されることのできる、完全にして真のいけにえであるからです。これ以外にはあり得ません。
私たちが信じているカトリックは本物の宗教です。唯一にして真の宗教を信じるために、私たちは集まっています。そして、私たちが辿り着く論理的な結論はそれだけではありません。
真にして全能の愛の天主は、人々の悪意や敵意、弱さでさえも使って、主を愛する人々の善へと変えてくださいます。そうして、天主は歴史を通してこの御業をなさり続けておられます。キリストの敵が、悪知恵やあらゆる力を使って反対しようとすればするほど、それがかえって、キリストを信じ愛する人々のための利益となるのです。信憑性に満ちた証拠にもなり、キリストの愛の偉大な証拠となっていきます。もちろん、これは過去のみならず、現代を生きる私たちにとっても同じことです。21世紀のインターネットの時代、そして日本に住む私たちにとっても、天主の御摂理は、すべてを支配し統治しておられ、いかなることも私たちの霊魂の利益へと変えてくださいます。
そして今、ここ高槻では、私たちに新しく与えられた新しい聖堂を通して、その天主の御摂理の愛の業と知恵が、もうすでに私たちの目の前に表れているかのようです。
聖フランシスコ・ザベリオによって日本に蒔かれたキリストの御言葉の種、信仰の種は、戦国時代の日本で、大きな木へすくすくと育っていきました。この高槻の地にゆかりのある福者ユスト高山右近を始め、多くの大名たちがキリストへの信仰へと辿り着き、多くのキリシタン大名が生まれました。多くの日本人は、キリストの信仰を喜んで受け入れました。天主の深い御摂理は、日本に厳しい迫害が起こることを許されましたが、それにもかかわらず、七代にわたる潜伏キリシタンが信仰を守り続けました。そうして、何万人という日本人たちが、代々、信仰を守り続けてきました。
「殉教者の血はキリスト信者の種」とは、古代ローマからのキリスト教の格言であり、真理です。イエズス様も言われました。「一粒の種が、地に落ちて死ななければそのまま残るが、もしも落ちて死ぬならば、多くの実を結ぶ」と。188名の福者殉教者たち(その内の一人が福者ユスト高山右近です)もまた日本に落ちた一粒の種となりました。特に福なる百八十八人は地に落ちた一つの白米と言うことができるでしょう。多くの実を結んでいます。
かつて、天主の御摂理により、聖フランシスコ・ザベリオを通して日本に伝えられたままのカトリック信仰、ミサ聖祭、御聖体とマリア様への愛と信仰を、私たちは今、福者ユスト高山右近ゆかりの地で続けていくことができるようになりました。この高槻の地に新しい聖堂を持たせて頂けたことは、あたかも福者ユスト高山右近の信仰と愛の精神が、今またここに復活し、再び大きな木へなろうとしているかのようです。
また、この聖母の汚れなき御心聖堂は、まるで洗礼を受けた私たちのかたどりであるかのようです。何故かというと、外見は純粋な日本の家屋ですけれども、中は、イエズス・キリストが真に生きておられる聖堂であり、私たちに注がれる愛によって満たされています。そして、私たちはこの建物をずっと所有しているわけではなく、土地も建物も借りているだけです。
それと同様に、私たちもまた、この世でずっと生き続けるわけではなく、あくまでもこの地上で仮初めの生を生きているにすぎません。
しかしながら、私たちの霊魂の中には、真の天主イエズス・キリストが生きておられます。見た目にはわかりませんが、私たちの心の内には、生き生きとした真の天主が生きておられるのです。やがて、私たちは最後に永遠の天主と一致させて頂き、イエズス・キリストがまさに私たちの永遠の神殿となることでしょう。
【3:遷善の決心】
では、最後に遷善の決心を立てましょう。
今日は、ぜひこの真理を確信なさってください。
イエズス・キリストは、唯一、真の天主にして真の救い主であり、復活して今も生きておられます。私たちの惨めさや弱さにもかかわらず、永遠の昔から私たちを愛しておられます。天主の愛は、私たちを決して見放すことがありません。
そして、私たちはその本当の天主を信じています。私たちの信じている宗教は本物です。たとえ、反キリストの勢力が反対したとしても、何もご心配なさらないでください。どのようなことが起きても、どのような敵に対しても、キリストは必ず勝利なさいます。私たちにとっては不可能に思えても、たとえ軍隊の力に囲まれていたとしても、キリストにとってはおもちゃであり、紙切れのようなもので、なんでもありません。ですから、私たちは、どのようなときでも天主の御摂理に深く信頼いたしましょう。天主は私たちを愛しておられ、私たちに起こるすべてを用いて、ご自分への信仰と愛をますます強めるために、私たちを天国へ連れて行くために、私たちの善へと変えてくださるからです。
ですから、私たちは主を信じ、信頼してお愛し申し上げましょう。主の御名を、主イエズス・キリストがお立てになった宗教を誇りに思いましょう。そしてこれを決して恥ずることがないように。イエズス・キリストをお愛し申し上げるために、罪を避けるお恵みを乞い求めましょう。もしも罪を犯し、主を悲しませるようであれば、むしろ死を選ぶほどの力を頂くようにお祈りいたしましょう。
そのためにも、私たちはマリア様に、そして福者ユスト高山右近にもお祈りいたしましょう。マリア様は、キリストの御復活を深く信じ、私たちにその信仰のお恵みを取り次いでくださる御方です。
マリア様の御取り次ぎを願い、聖フランシスコ・ザベリオが私たちに伝えてくださったままの聖伝の信仰を、私たちも清く守り続けることができますように。
そして、私たちの信仰が私たちだけにとどまらず、かつてマリア様がなさったお祈りのように、また福者ユスト高山右近がしたように、この信仰が、多くの方々と私たちの兄弟姉妹に伝えられ、ついには多くの霊魂が永遠の復活へと導かれますように、お祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。