イエズスは愛の交換を通して人間を天主に結びつける
2026年1月4日 イエズスの聖名
トマス 小野田圭志神父説教 日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、イエズス様の聖名(みな)の祝日です。
【1:イエズス】
私たちの主は、永遠の昔から、天主の愛の御計画によって「イエズス」という聖なる名前を持つように定められていました。「イエズス」とは、ヘブライ語でヨシュア(יהישע)つまり「天主(ヤーウェ)は救う」「救い主」という意味です。何故ならば、天主様御自身が、私たちを罪の罰である永遠の死(地獄)から救ってくださるからです。
その語源は: (1) יה (yah), ヤー(ヤーウェ:主)(2) 動詞 ישע イシャヤ(救う)から来ています。ちなみに、イエズス(ヨシュア)の語順を逆にすると、イザヤ(イシャイヤ ישעיה)となります。
ところで、日本におけるカトリック教会では、ラテン語のJesusという名前から、その発音通り「イエズス」と呼びならわしてきました。何故かというと、カトリック教会は、ラテン語を尊重するからです。
一方、プロテスタントは、日本で最初に聖書を翻訳した時、中国語経由で訳しました。そこで、中国語の耶稣(やそ)と書いてイェースー(Yēsū)という言葉から、イエズス様の名前が「イエス」と訳されました。
では、どのようにして「ヤーウェは私たちを救う」のでしょうか?
ここに今日の黙想のポイントがあります。
ヤーウェ(天主)は、人間となることによって私たちを救おうとされます。天主が人間となることで、今度は人間が天主のようになることを可能にされます。すなわち、地上を天上に結びつけることで、私たちの救い主イエズス・キリストは、私たちをお救いになります。
イエズス様の御生涯は、まさに救い主としての御生涯でした。何故ならば、私たちを天主に似たものとするために、ご自分は、人間の苦しみやみじめさ、悩み、悲しみの全てを受け取られたからです。
今日、私たちの救い主であるイエズス様の聖名(みな)を褒め称え、その御生涯を黙想しましょう。そうすることで、イエズス様の御生涯が、まさにそのお名前の通りであることがわかります。かといって、私たちはイエズス様の御生涯の全てを見ることはできませんので、今日は特に、ポイントを以下の三つに絞って黙想しましょう。
(1) ベトレヘムの喜びと希望の夜
(2) ゲッセマニの愛と苦しみの夜
(3) 喜びと栄光の夜
つまり、イエズス様がこの世にお生まれになった御生涯最初の夜、次に、生命を終えてこの地上を去られる最後の夜、そして、この最後の夜に密接に結びつく御復活の夜です。この三つの夜の黙想を通して、主がどのようにして私たちを救われたのか、またそのお名前が持つ神秘について黙想いたしましょう。
【2:幼児イエズスの御誕生の夜:天主の苦しみの始まり】
第一のポイントは、イエズス様の御誕生の夜です。この夜は、天主の御苦しみの始まりでした。主が、私たちの持つ全てのみじめさ、悲しみをお受け取りになられた、その最初の時でした。
しずけき真夜中、主が降誕されます。ベトレヘムの付近では、この真っ暗闇にもかかわらず天が開け、主の栄光が燦然(さんぜん)と辺りを照らし、夜がまるで昼間のように明るくなります。そうして主の天使が現れ、羊飼いたちにこう告げます。
「おそれることはない。全ての人々のための大きなよろこびの知らせを、あなたたちに告げよう。今日、ダヴィドの町で、あなたたちのために、救い主がお生まれになった。すなわち、主キリストである。」(ルカ2:10-11)と。
こうして、旧約聖書の知恵の書にある「静かな沈黙があらゆるものを覆い、夜が早い足取りで真夜中に至ったとき、天の高みから全能のみことばが王の座を飛び降り」(知恵18:14-15)という預言が成就します。時満ちて「御父の懐にまします御ひとり子の天主」(ヨハネ1:18)が、言い換えると「ヤーウェは救う」と呼ばれるべき方がお生まれになりました!
教会の典礼は、御降誕の8日目(1月1日)にこう歌います。
O admirabile commercium !
「何という驚くべき・感嘆すべき交換 (引き換え) であることか! 人類の創造主が肉体をとって童貞女からお生まれになり、ご自分の天主の本性を私たちに与え給うた!」
Creator generis humani, animatum corpus sumens de virgine nasci dignatus est; et procedens homo sine semine, largitus est nobis suam Deitatem.
この歌を通して教会が私たちに教えるのは、私たちを天主のようにするために、天主は人間になられたということです。
私たちを豊かにするために、天主は貧しくなられました。私たちを幸せにするために、天主は私たちの苦しみの全てを受け取られました。
これが、天主のなさった交換・引き換えであり、この交換こそが「ヤーウェは救う」という愛の御計画です。つまり、キリスト教の土台にして、キリストの神秘の最も根本にある基礎です。
ベトレヘムは、この交換の第一歩であり、天主の御苦しみの始まりでした。
何故ならば、天主は人間の本性と結合してお生まれになったからです。この苦しみを通して、ヤーウェは私たちを救おうとされます。天主へと引き寄せ、高めようとなさいます。そして、この御苦しみは、ゲッセマニの夜とカルワリオの暗闇で頂点に達します。と同時に、天の光に照らされたベトレヘムの夜は、人間の栄光の始まりでもありました。この栄光の喜びは、御復活の夜にその最高点に達します。
イザヤの預言によると「私たちのために一人のみどりごが生まれ、私たちのために子が与えられ、その肩には王の印がある。その名は、"感ずべき方"、"顧問"、"大能の天主"、"来世の父"、"平和の君"と唱えられる。Parvulus enim natus est nobis, et filius datus est nobis, et factus est principatus super humerum ejus : et vocabitur nomen ejus, Admirabilis, Consiliarius, Deus Fortis, Pater futuri saeculi, Princeps pacis.」(イザヤ9:6)とあります。
肩の上にある「王の印」つまり「主の王国」とは、いったい何を示しているのでしょうか?
主の王国は、天国の全ての栄光と、地上の全ての苦しみの二つの要素から成り立ち、これらにより構成され、結ばれています。
それを示すかのように、御公現では、みどりごなる王のもとに、地の果てから、三人の博士たちが貢物(贈り物)を持ってやって来たではないでしょうか?
黄金・没薬・乳香の三つです。すなわち、天主の愛の黄金・地上の苦しみの没薬・天と地をつなぐ祈りの乳香です。
ベトレヘムの夜は、幼児イエズスの優しさで二つの神秘が覆い隠されています。それは、十字架の屈辱的な悲劇(御受難の苦しみ)と御復活の栄光の喜びです。
そして、この二つの神秘を繋ぐかのように、天使の大群が「ヤーウェは救う」の御誕生を賛美して歌いながら、天と地をつなぐ祈りを捧げるのです。
「いと高き所には天主に栄光、地には善意の人々に平和あれ!」
【3:イエズスの最後の夜:天主の愛と苦しみの頂点】
話は、33年後に飛びます。イエズス様がお生まれになった最初の夜から、イエズス様がこの地上を去られる最後の夜に視点を移しましょう。
イエズス「ヤーウェは救う」の全生涯は、愛の連続でした。ベトレヘムでもナザレトでも、荒れ野でもタボル山でも、その宣教の全ての地で、この世にいる人々を愛されました。人々を照らし、教え導き、癒し、慰め、悲しむ人々の涙をぬぐわれました。
イエズス様の御生涯は、ちょうど、ダムに川の水がどんどん入り込んで、ダムが水でいっぱいになるかのようです。ベトレヘムでお生まれになった夜から、イエズス様の聖心には、巨大な愛がますます増え続け、最期の夜には、なみなみとたたえられた大海のような愛を、せき止めることができなくなっているかのようでした。主のあふれ出る愛・限りない愛を、止め得るものは何もありませんでした。
福音史家聖ヨハネは、このように記しています。
「イエズスは、この世から父のもとにうつる時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、かれらに限りなく愛をお示しになった。」(ヨハネ13:1)
しかし、最高の愛のしるしは、最後の時までとっておかれました。イエズス様は、最後の夜、御自分の愛する弟子たちを招いて共に時を過ごされます。
この時まで、イエズス様は、弟子たちの前に跪いて、弟子たちの足を洗ったことはありませんでした。この夜ほど、弟子たちに優しく微笑み、愛を込めた言葉をおかけになったことはありませんでした。使徒聖ヨハネは、それを生涯忘れることができませんでした。その生涯の終わりに記した福音に、克明に記録しています。
イエズス様は、弟子たちにいったいなんと呼びかけ、何を話されたのでしょうか?聖ヨハネの記録によれば、弟子たちを「小さな子供たちよ、友よ」と呼びかけ、愛について語られました。
「小さな子らよ、…あなたたちは、たがいに愛しあえ。私があなたたちを愛したように、あなたたちもたがいに愛しあえ。」(ヨハネ13:33-34)
「父が私を愛しておられるように、私はあなたたちを愛した。私の愛にとどまれ。」(ヨハネ15:9)
「私が愛したように、あなたたちがたがいに愛しあうこと、これが私の掟である。」 (ヨハネ15:12)
「友人のために命をあたえる以上の大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)
「…私は父からきいたことをみな知らせたから、あなたたちを友人と呼ぶ。」 (ヨハネ15:15)
キリストの聖心にある愛の王国は、ベトレヘムで始まり、最後の晩餐で堰を切って洪水のように流れだし、天主御父の懐において完成します。「私は、父から出て世に来たが、今や、世を去って父のもとにいく。」(ヨハネ16:28)
ついに「キリストの時」が来ました。最後の晩餐の高間と、それに続くゲッセマニの夜は、愛と苦しみの夜であり、天主ヤーウェは、どのような高い値を払っても、たとえ御自分の血を流し、その命を支払ってでも私たちを救いたいとお思いになる時でした。
キリストに対する憎しみが、暗闇のように主を覆いますが、その闇が最高潮に達した時、主の愛の光はますます輝き出ます。キリストの愛は、死のように強く、天国のように甘美です。
イエズス様は、御自分の愛を、全ての場所で全時代のために残されました。それが「御聖体」です。これこそ「ヤーウェは救う」の愛の狂気です。私たちに全てを与え尽くす、天主の私たちに対する狂ったほどの愛です。何故かというと、御聖体とは、私たちが天主を食することによって、私たちが天主のようになるための「保障」であるからです。聖トマス・アクィナスは御聖体の神秘をこう歌います。
「従ってかくも偉大な秘跡をひれ伏して礼拝しよう。」
Tantum ergo Sacramentum Veneremur cernui!
イエズス「ヤーウェは救う」は、罪を一切知らないお方です。聖パウロはこう言います。
「天主は罪を知らなかったお方を、私たちのために罪となされた。それは、私たちを、かれにおいて天主の正義とするためである。」(コリント後5:21)
ゲッセマニの夜、まさにこの交換が行われました。イエズス様が罪となり、私たちが義となるために、主はこの世の全ての罪、無数の限りない邪悪さ、忘恩の深い闇、無関心と冷淡の全てをお受けになり、イエズス様の至聖なる聖心は、そのおぞましさに苦しめられました。主はこう漏らしています。
「私の霊魂は、死なんばかりに悲しんでいる。」(マテオ26:38)
また、聖ルカはその時の状況を次のように記しています。
「イエズスはもだえて、いよいよ切に祈られたので、おん汗は、血の雫のように地に落ちた。」(ルカ22:45)
ゲッセマニの苦悩の夜に、天主は最も深く人間的なものをお受けになりました。
逮捕・連行・拷問・違法で無効な裁判、そして死刑の判決――。
やがて、カルワリオにおいて、世の光は十字架にはりつけにされます。
その時、日はにわかに暗み「十二時ごろから三時にいたるまで、地上一帯がうすぐらくなった」と福音史家は記しています。あたかも、昼間は、人間の罪によって「夜」になってしまったかのようでした。
【4:御復活の夜:人間の栄光の始まり】
しかし、救い主イエズス・キリストの御生涯は、ベトレヘムの喜びと希望の夜で始まり、ゲッセマニの愛と苦しみの夜で終わってしまったのではありませんでした。永遠の王は、復活の栄光の輝きで、夜を昼間よりも明るく輝き出させます。昔から預言されていた通り、"夜が真昼のように照らし出されるであろう"(詩篇138:11-12)というその夜がやって来ました。御復活の夜です。教会が聖土曜日に歌う通り、この夜にイエズス様は救いの御業を完成させます。
「この夜こそが、全世界で、この世の悪習と罪の邪悪とから区別されたキリストを信じる者たちを、聖徳と結びつけ、聖寵を再び与える夜」
「この夜こそが、死の鎖を打ち壊し、キリストが勝利者として地獄から上った夜」
「幸せな夜、エジプト人たちから奪い取り、ヘブライ人たちを豊かにした夜!この夜において地上のものは天上のものに、人間的なものは天主的なものに結びつく!」
(聖土曜日の復活の讃美歌 エクスルテット)
十字架の聖ヨハネは、天主が私たちを清め、天主のように変容させてくださること、そしてその変容に至るまでの過程を、また天主が、愛する私たちの霊魂を、主との愛の一致に結びつけてくださるための働きかけを「霊魂の暗夜」と呼んでいます。
おお、導きの夜よ、
夜明けよりも愛すべき夜よ、
愛する者と愛された霊魂とを一つに結び付けた夜よ、
愛された霊魂は愛する者に変容した!
(十字架の聖ヨハネ「霊魂の暗夜」トマス小野田神父試訳)
¡Oh noche que guiaste,
Oh noche amable más que el alborada;
Oh noche que juntaste
Amado con amada,
Amada en el Amado transformada!
【5:遷善の決心】
では、最後に遷善の決心を立てましょう。
愛する兄弟姉妹の皆様、「イエズス」というお名前には、天主の愛のプログラムが隠されています。天主は私たちを愛され、私たちを天主のようにしようと御計画されました。この「御計画の使者」が、イエズス・キリストです。そして、私たちが救われ、天国へ行き、天主の命に入るためには、イエズス・キリストこそが必要であり、他にその手段はありません。これを確信してください。聖ペトロは断言します。
「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」(使徒行録4:12)
ですから、私たちが真の救い主を信じていることを感謝いたしましょう。そして、聖なるイエズスの聖名を全ての人々の前で尊び、お愛し申し上げる決心を立てましょう。私たちは、主の名を決して恥じてはなりません。イエズス・キリストを信じるということを、決して恥じてはなりません。イエズス様は、こう言われたではないでしょうか?
「私と私のことばを恥じる人を、人の子もまた、自分の栄光と、おん父と聖天使たちとの栄光をもって来るそのとき、恥じるだろう。」(ルカ9:26)
願わくは、主の御憐れみとマリア様の御取次により、この世ではイエズス様の聖なる聖名(みな)を尊び奉り、お愛し申し上げ、そしてついに天においては、イエズス様御自身の栄光を見奉ることができますように。
私たちがイエズス様によって救われ、天主の幸せを受けた暁には、聖パウロが証言する通り「イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の栄光をあがめ、『イエズス・キリストは主である』と言い」(フィリッピ2:10-11)あらわし、イエズス様の聖名へ栄光を帰すことができますよう、マリア様にお祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。