何故私たちはこの地上に生きているのか?

ソース: FSSPX Japan

2025年3月23日  四旬節第三主日

トマス小野田圭志神父説教  日本の聖なる殉教者教会(大宮)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、イエズス様が、悪魔つきの唖(おし)を癒します。

その福音を一緒に黙想いたしましょう。

 

【1:悪魔つき】

福音の悪魔つきは唖だと、聖ルカによるとありますが、聖マテオによると「盲目で唖だった」と書かれています。つまり、彼は悪魔のせいで、見ることもできなければ、話すこともできなかったということです。

もちろん、すべての不自由な方が悪魔のせいだというわけではなくて、特にこの福音に出てきた登場人物が、実は悪魔のせいで、見ることもできずに話すこともできなかったということです。

これは祈ることができない霊魂、祈らない霊魂のイメージです。

あるいは、悪魔の奴隷(悪魔つき)となり、自分が何のために生きているのか、その目的が見えない、分からない、また悪魔のせいで、心を天主に挙げることができない、この地上のことという鎖に縛られている人々のかたどりです。

「ああ、他の人が自分のことを何と言うだろうか」とか、「みんなから変わっているんじゃないかと言われるのではないか」と恐れて、自分の人生の目的が見えないばかりか、信仰のことや天主のこと、真理を口にすることさえもしない(口を閉ざす)、祈ることさえもしない霊魂のイメージです。

しかし、今日の福音で、イエズス様はこの悪魔つき(唖)を癒します。イエズス・キリストだけが、癒すことができます。どうするかというと、悪魔を追い出すからです。何故かというと、イエズス様は「悪魔よりもさらに強い方」であるからです。主はもちろん、悪魔よりも遥かに力ある方です。イエズス様の力のおかげで、唖に言葉が戻り、目が見えるようになります。人生の目的が分かるようになります。真の天主に祈りをすることができるようになります。天主の真理について、イエズス・キリストについて話すことができるようになります。

本当に目が開いて、本当に口が開かれる時、真理について口が、目が開かれる時、これはキリストがなさるわざです。

しかしそれと同時に、イエズス様は悪魔に打ち勝つ時に、いつも私たちの協力をも求めます。ですから、主は今日の福音でこうおっしゃいます。

「私といっしょにいない人は私の敵である」と。

これは非常に強い言葉ではないでしょうか?

イエズス・キリストと共にいるか、あるいは、キリストと共にいないか、この二つに一つということです。

つまり、キリストの友であるか、あるいは反キリストであるか、です。

天主を愛するか、愛さないか——人類の歴史の最初からそうでした。

天主の側につくか、あるいは天主に逆らって悪魔の側につくか、です。

もちろん、イエズス・キリストと共にいる、いないというのは、イエズス・キリストを愛さない、つまり、中には真理を攻撃する、キリストの教会を破壊しようとするという人もいることでしょう。

しかし、必ずしも主を攻撃しているとは限りません。ただ単に、主に無関心だったり、冷淡だったり、生ぬるかったりするだけで、天主よりも自分のことを愛する、それだけでよいのです。それだけで常に、キリストと共にいる者ではなくなってしまいます。つまり、自分のやりたいように、好き勝手に、あたかも天主が存在していないかのように生きる、これこそ、悪魔が私たちにするようにと、そそのかす内容です。つまり、とどのつまり、自分が究極の目的であるとして生きることです。

アダムが罪を犯す時もそうしました。悪魔はもちろん、アダムは天主の掟を無視しても、エワを喜ばすことを選びました。

現代でも、もしかしたらそうではないでしょうか?

主日のミサよりも、もしかしたら自分の仲間付き合いだ、あるいは部活だ、あるいはその他のことだとして、自分を優先させてしまっているのかもしれません。

でも、イエズス様にとっては、それは御自分の敵だと目に映られるのです。

「私と共にいない者は私の敵である」と。

私たちは洗礼を受けた時に、荘厳に悪魔を棄てること、悪魔の業とその栄華を棄てることを約束しました。そして、イエズス様と一緒にいることを約束しました。何故かというと、イエズス・キリストは「さらに強い人」であって、悪魔よりもさらに強い人であるからです。

しかし、残念ながら「イエズス様と共にいる、悪魔を棄てる」と言いながらも、その言葉を実行し続けようとする方は、その数はあまり多くありません。

 

【2:キリストの戦い】

では、「私といっしょにいない人は私の敵である」とは、いったいこれは何の意味なのだろうかということを、黙想いたしましょう。

イエズス様の敵というのは、イエズス・キリストのなさることを、その事業を阻む敵ということです。

いったい、キリストと悪魔は何について戦っているのでしょうか?

何を、私たちはキリストと共に戦わなければならないのでしょうか?

イエズス様は、私の霊魂の永遠の救いのために戦っておられます。

罪のために、永遠に失われた私の霊魂を救うために、命がけの戦いをされます。

私の霊魂を奪うために、守るために、悪魔に戦いを挑んでいます。

イエズス様の敵とは、つまり私の救霊の敵のことであり、私の霊魂を救わないことです。悪魔の支配下にあるということは、つまり、私が天国に行くことができない状態にあるということです。

私たちの人生の目的は、ただ一つしかありません——「永遠の命」です。

このために、イエズス様は、私たちのために戦っています。

私たちの生まれてきた目的は、永遠の命以外の何物でもありません。

私たちが、一生にしなければならない大事業、私たちに与えられた使命、一生に一度の大勝負というのは、霊魂の救いです。地獄から霊魂を救い出すことです。

私たちの人生の成功というのは、「天国に行くことができるかできないか」で計られ、評価されます。これだけです。

たとえ、この世で莫大な財産と、名誉と名声を築いたとしても、この地上の全ての快楽と喜びを経験し尽くしたとしても、たとえ全世界を儲けたとしても、霊魂を失ったら、いったいそれがおまえに何の役に立つだろうかと、イエズス様はおっしゃいます。

たとえ、日本の国民すべてから愛される歴史上最高の総理大臣になったとしても、あるいは、全世界の人々が、賞賛の拍手を送る偉大なインフルエンサーになったとしても、しかし、天国に生き損ねてしまうならば、大失敗の人生だと言わなければなりません。

しかし、今日の唖の、悪魔つきの唖がそうであるように、たとえこの世にいる間、病気や貧しさや苦悩の連続であったとしても、イエズス・キリストを信じて、希望して、イエズス・キリストを愛し、永遠の天国の幸せにたどり着くことができるならば、それこそ人生の成功です。

私たちの究極の目的は、「人間の自然本性を遥かに、遥かに、また遥かに超える、超越する永遠の至福の命を所有すること」です。

この目的を達成するために、イエズス・キリストは戦っています、悪魔と戦います。どこまで戦ったかというと、主は、十字架のいけにえとして御自分をお捧げになるまで戦われました。私の永遠の命のためでした。

ですから、イエズス様の今日おっしゃりたいことは、「キリストの側について、キリストをまねて、キリストを愛して生きる」ということです。

まさに四旬節は、私たちにこの人生の目的をはっきりと見させてくれて、そのために祈らせてくれます。そのための、特別な聖なる時期と言わなければなりません。

ですから、聖パウロは、今日の書簡で私たちにこう勧めています。

私たちは間違っていた、暗闇に住んでいた、しかし今は、光の中に呼ばれた、

「天主から愛される子供として私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりの生贄として天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」と。これに合わせて、教会もこう祈らせます。

「私の目は、この両の目は常に主に向けられている。」

「主よ、御身にわが霊魂をあげ奉る。」(入祭文)

 

【3:遷善の決心】

では、最後に遷善の決心を立てましょう。

私たちは、今日の福音の唖のように、盲目で唖でした。何も分からず、人生の目的も知らずに、祈ることもできずに、真理を語ることもできずに、暗闇にとどまっていましたが、今は違います。イエズス様から、悪魔を取り払って頂いたからです。

私たちの洗礼の決心を更新いたしましょう。

悪魔を棄て、悪魔の業とその栄華を棄てましょう。

そして、人生の目的をはっきりと見据え、祈りをする決心を立てましょう。

また同時に、悪魔につかれて唖となったこの男は、自分の罪を告白しないようにさせる悪魔に負けた私たちのようであり、悪魔にそそのかされた人々のイメージでもあります。ですから、特に四旬節という恵みの間、良い罪の告白をして、悔悛の秘蹟を受けて、罪の赦しの御恵みを受けられるように、また、多くの人々が罪の告白をして、悔悛の秘蹟による赦しの恵みが与えられるようにお祈りいたしましょう。

明後日325日は、マリア様の御告げの祝日でもあります。

マリア様は、いつもイエズス様と共におられました。御告げの時に、イエズス様を御胎内に宿されました。

マリア様のように私たちも、主と共にいつもあり続けることができますように。

もしも不幸にして罪を犯してしまった場合には、すぐに主のもとに行くことができますように。マリア様に祈りましょう。

最後に、聖ヨゼフに祈りましょう。

悪魔の畏れである聖ヨゼフが、私たちを守ってくださいますように。

イエズス・キリストの命を奪おうとする手から聖ヨゼフが守ったように、私の内にいつもイエズス・キリストがおられますように。

「私といっしょにいない人は私の敵である」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。