パリャラーニ神父、司教聖別決定に関する若者の質問に回答
2026年2月7日(土)、聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父は円卓会議に参加しました。議題は、エコンで7月1日に司教聖別を行う決定をしたことに関することで、この会議は、シャトールー近郊のラ・マルティヌリーで開催された聖ピオ十世会フランス管区の冬季大学の一環として行われました。このイベントには数百人の参加者があり、大部分が20代の若者でした。
パリャラーニ神父との円卓会議
この円卓会議は、もともと口頭で行われたものですが、読みやすくするために若干編集されています。発言の意味は変えずに、話し言葉のスタイルを文章の形に調整しました。
第一の質問:なぜ今なのか?
質問:ティシエ・ド・マルレ司教様の死去後、特にここ数カ月、司教聖別の噂が広く流れていました。なぜ今まで待ったのかと不思議に思う人もいれば、なぜもっと長く待たなかったのかと疑問に思う人もいるでしょう。
パリャラーニ神父の回答
それは賢明の問題です。このような決断――究極の決断、重大な決断です――は、他に選択肢がない場合にのみ可能です。このような選択には、長く困難な識別が必要であり、それは冷静かつ祈りをもって行わなければならないものです。私たちのしたことは、まさにそれです。
ティシエ司教様が亡くなられたからといって、後任の司教聖別を直ちに行わなければならないというわけではありません。確かに司教を一人失いましたが、聖ピオ十世会は二人の司教で数カ月間は活動を続けることができましたし、今後も続けることができます。
しかしながら、一方では、高齢の司教が二人しか残っていないという状態であり、他方では、教会の状況は今後数年間で変化する見込みはないように思われます。したがって、私たちは、霊魂の善のためにいつも行ってきたように、天主の御前でこのような決断を下すことのできる段階、実際には下さなければならない段階に達したのです。
これは賢明の問題です。このような決断を下す際には、考慮すべき要素が数多くあります。時間が必要です。
私は、状況自体が熟していると思っています。それは客観的な必要性という観点からだけではありません。善意あるすべての信徒が、この決断の背景にある理由を理解できる時が熟していると言えるでしょう。これもまた重要なことです。それは、私たちが説明しなければならないこと、信徒が理解できなければならないことだからです。
そして、今日の教会で起きていることを考えると、そうするためのあらゆる要素が揃っていると思います。
第二の質問:教皇に送った手紙
質問:2月2日の説教で、神父様は、教皇様に何度か手紙を書いたと言われました。確か2回だったと思います。もし可能であれば、もう少し詳しく、具体的にどのような手紙を書かれたのか、そして教皇様からの返信はどのようなものだったのか教えていただけますか?
回答:
ローマで聖年の前に、つまり8月の初めに初めて教皇様に手紙をお書きしました。謁見をお願いするとともに、もちろん教皇様の選出をお祝いするためでもあります。しかし、その手紙には返信がありませんでした。
そこで11月に二通目の手紙を書きました。教皇様に口頭で説明したいと思っていたことを、文章にまとめたものです。その中で、聖ピオ十世会が新しい司教(の聖別)をお願いしている理由、また必要としている理由を説明しました。教理上の違いや、私たちが承知している問題点を隠すことなく、このことをご理解いただきたいと教皇様にお願いしました。そして、聖ピオ十世会は教会に奉仕したいと強く願っていることを強調しました。私たちが聖伝を守るのは、教会のためであり、いつの日か教皇様にそれを活用していただくためです、と。
なぜなら、聖伝を守るということは、単に原則を守ることに関することではないからです。聖伝を守るということは、聖伝を体現して聖伝を生きている霊魂を守ることなのです。それは皆さまの場合、聖伝のカトリック家庭の場合、修道生活や司祭職を選ぶ人々の場合です。これこそが聖伝そのものです。単なる書物や原則ではありません。
ですから、私は教皇様に、教皇様ご自身、あるいは後継者の方々の一人がそれを活用したいと思われる日が来るまで、私たちが教会に提供したい奉仕はこれですと説明しました。
二通目の手紙を11月に送り、返信は数日前、つまり1週間前、先週の金曜日、そうです、八日前に届きました。しかし、その返信は、私たちの提案が全く考慮に入れられてはいませんでした。聖ピオ十世会が、この司教聖別の考えを進めるなら、さらなる制裁を加えるという単なる脅しでした。
以上です。本当に残念でした。実に残念です。
数日後には、ご存じの通り、聖別を発表しました。
第三の質問:なぜ聖別するのか
質問:では、まだ教皇の承認を得ていないのに、なぜ司教を聖別しなければならないと感じておられるのですか?
回答
それは霊魂の善のためです。考えるべき唯一のことは、私たちがこの地上にいるのは霊魂を救うためだということです。皆さまもご存じでしょう。私たちの職業、家庭、事業、その他あらゆることは、例外なく、直接的または間接的に、私たちの霊魂の救いへと、私たちの救いへと向けられているのです。
さて、教会は、この救いに必要な手段を保証するために存在します。この点については、私たちは皆同意しています。
しかし、今日の公式の教会、つまり普通の小教区では、私たちが救いを達成するために必要な手段を提供しているでしょうか? そこに必要なものがすべて揃っているでしょうか? 真にカトリック的なカテキズムは存在するでしょうか? カトリックの道徳、つまりどのように振る舞うべきかが本当に教えられているでしょうか? 真理は教えられているでしょうか? 救いに必要な秘跡は、教会が常に行ってきたように執行されているでしょうか? 罪の感覚、赦しの感覚、道徳的な回心の感覚は、今でも存在しているでしょうか? これらすべてが、普通の小教区で教えられ、実践されているでしょうか?
そうでないことは明らかです。違います。もしそうなら、皆さまはここにおられないでしょう。もしそうなら、聖ピオ十世会は存在しなかったでしょう。
司教聖別は別にしても、私たちは教会内に必要性の状態が存在するからこそ、使徒職が正当化されるのです。そして、まさにこの必要性の状態があるからこそ、この決断は必然的なものとなるのです。それは、改めて言いますが、司教聖別は霊魂の善のために不可欠なのです。
そして、これは教会へメッセージを送ることでもあると言えるでしょう。教会自身、そして教会人たちは、霊魂に奉仕し、霊魂を天国へ導き、霊魂を地獄から、罪から救い出すために存在していることを理解しなければなりません。教会は、まさにこの目的のために存在しているのです。
しかし、この目的が欠けており、ますます深刻化しています。だからこそ、私たちは霊魂を救うために可能なあらゆることをする必要性があるのです。これこそが、必要性の状態と呼ばれるものです。
したがって、これは極端な状況ですが、それに釣り合った極端な解決策が要求され、必要とされているのです。私たちはこのことを認識しています。
第四の質問:聖ピオ十世会は教会に挑戦しているのか?
質問:神父様は奉仕という概念、すなわち霊魂への奉仕、教会への奉仕について多く語っておられます。しかし実際には――そしてこれは聖ピオ十世会に対して向けられた非難です。2月2日の説教の翌日、ラ・クロワ紙の見出しもそうでした――聖ピオ十世会は教会に挑戦しているように見える、と。この主張に対して、神父様はどのような立場を取り、どのような対応が適切だとお考えですか?
回答:
正確には、私たちは教会に挑戦しているのではなく、教会に奉仕しているのです。私たちは再び、霊魂を通して教会に奉仕しているのです。そして、私たちが行うすべてのことは――忘れてはなりませんが、先ほども申し上げたように――目的は、
聖伝を組織としての教会自体に奉仕させること、すなわち教皇と位階階級に奉仕させることです。なぜなら、聖伝は教会に属するものだからです。
私たちは遺産を受け継いでそこから恩恵を受けています。この遺産は、1970年の聖ピオ十世会の創立から始まったものではありません。この遺産は、二千年にわたる教会の歴史の、二千年にわたる教導権の、そして二千年にわたる聖伝の遺産です。
私たちは、この遺産を守り続けます。それは、私たち自身がその遺産に従って生きるため、そして私たちに助けを求める霊魂たちのためです。しかし、繰り返しますが、これは教会自身のためでもあります。これは、他人のため、たとえ私たちの考えを共にしない人々であっても、カトリック信者でない人々であっても、他人のために私たちが照らし続けている灯火です。誰であっても問題ではありません。いつの日か、霊魂たちは回心しなければなりません。しかし、真理を説く人が必ず必要です。そうでなければ、これらの霊魂たちはいったい何へと回心するのでしょうか?
私たちは教会に反抗しているのではなく、教会に仕えているというのは、この意味においてです。聖ピオ十世会が教会に反抗していると主張するのは、結局のところ、非常に表面的な解釈です。そうではありません。聖ピオ十世会は、教会を破壊するあらゆるものを拒絶しているのです。
さて、こうしたあらゆる新たな考え方について――多くの例を挙げることができるでしょうが――ここでは、非常に具体的で、しかもごく最近の事例を一つだけ挙げたいと思います。数日前、1月27日はホロコースト犠牲者追悼の日でした。ホロコースト、すなわちショアを記憶に捧げられた日です。
この日、教理省、つまり、かつてローマ異端審問所として知られていた検邪聖省の後継機関で、名称は変わりましたが、依然として聖座の教理裁判所であり、今日でも存在し、その機能が中心的な機関です。この機関、このローマの省、この省のトップである枢機卿が、同省の全職員に対する公式演説で、異端審問所、彼自身が後継者であるまさにその機関(教理省)がゲシュタポにたとえられると宣言したのです。
言い換えれば、何世紀にもわたり信仰を守るために多大な努力を注いできた聖なる教会が、ナチス政権下のゲシュタポのように振る舞ったというのです。
では、誰が教会を愛するのでしょうか? 誰が教会の聖伝を愛するのでしょうか? 教会が何世紀にもわたって守り続けてきた信仰、真理、教理の純粋さの擁護を愛するのでしょうか? これらのことを愛する者は誰でしょうか?
私たち自身は、検邪聖省のことを恥だとは思っていません。誤謬を断罪することを恥だとは思っていません。私たちは信仰を守ることができたのは、これらの断罪、そして教義上の定義のおかげです。
諸教皇が何世紀にもわたり多大な注意と努力を注いできたこの教理裁判所をゲシュタポにたとえるとは、ひどい侮辱です。それは単に受け入れられないだけでなく、一つのしるしです。それは、残念ながら、教会を恥じる人々がいるというしるしなのです。彼らは自分の母を恥じているのです。
しかし、私たちは母を恥じてはいません。違います、私たちは教会の子どもなのですから。
聖ピオ十世会が教会に奉仕しようとする理由は、まさにこの精神によるのです。このことを理解することが極めて重要です。
私たちには二千年の歴史があります。決してそれを忘れてはなりません。
第五の質問:必要性の状態と教会法上の使命
質問:神父様、神父様は必要性の状態についてお話しされましたが、私たちは、この必要性の状態を、霊魂が秘跡を受け、完全な信仰を教えられる必要性であることを明確に理解しました。また、この必要性の状態は普遍的であることも理解しました。ここやそこの特定の小教区だけに関わるものではなく、ある意味では、今日の全世界の小教区に関わるものです。
しかしながら、聖ピオ十世会が行う霊魂への奉仕に関して、しばしば異議が唱えられます。それは、聖ピオ十世会が霊魂に対して裁治権を持たない、あるいは教会法上の使命を持たないという主張です。こうした状況は、聖ピオ十世会の奉仕をいわば野蛮な行為とみなします。実際、エコンの神学校はかつて「のら猫神学校」とレッテル張りされたことがありました。もちろん、野蛮人たちの神学校という意味ではなく、あくまで「のら猫のような神学校」という意味です。これは、その運営が確立された規則から逸脱していることを示唆するものでした。
これに対して、どのように答えればいいでしょうか? 教会の現状において、聖ピオ十世会の行う霊魂への奉仕をどのように正当化できるでしょうか? 単に必要性を主張するだけでは、あらゆることを正当化するために使われる一種の「切り札」になってしまうのではないでしょうか?
回答:
基本的な原則は、私たちの霊魂の救いです。それこそが、私たちがこの地上に存在する理由です。天主が私たちに60年、70年、あるいは100年という寿命を与えてくださるのは、私たちの霊魂の救いのためです。
さて、もし教会の通常の枠組みの中で、この救いに必要な手段を見いだすことができないのであれば、私は、それが可能なすべての人が、他の手段を通してその必要を満たす義務があると信じています。どの名においてでしょうか? 愛徳の名においてです。はい、愛徳という名においてです。
聖ピオ十世会はしばしば厳格だと非難されます。ですから、ここで明確にしておきたいのは、私たちも原罪から免れているわけではないということです。私たちも秘跡を、告解の秘跡を必要としています。私たちも他のすべての人々と同じように原罪を負っています。これは紛れもない事実です。
とはいえ、私たちには愛徳の義務があります。すなわち、それぞれの立場で、霊魂を救うために、できる限りのことを尽くすということです。
もし私たちに教会法上の使命、公式な使命が欠けているとしたら、それはまさに教会内部に問題があるからです。教会はますます、霊魂の救い以外の、この世に深く根ざした目標に注意を向けるようになっています。例えば、環境問題などです。
教皇フランシスコの「グリーン神学」について、何時間でも語ることができます。なぜ木や水、雨、そして気候に、これほど執着するのでしょうか? なぜこれほどまでにこだわるのでしょうか?
なぜなら、もし私たちが永遠の視点を見失うならば、もしこの人生が永遠、来世へと向かっていて、私たちが自分の救いを成就するためにここにいるという事実を見失うならば、私たちは天国への準備ではなく、この地上の開発に全力を注ぎ、ついには人工的な楽園を創造したいと思うまでになるからです。なぜなら、事実上、私たちはもう真の楽園があることを信じていないからです。
それ以降、真の問題は芝生の手入れ、街路の清掃、ごみ、飲料水などといったものになります。これらは興味深い問題かもしれませんが、教会が対処すべきことではありません。
ですから、公式な使命がなくとも、他の事柄や他の優先事項に追われている権威からの直接的な委任がなくても、霊魂への愛徳の名において、私たちは霊魂を助けなければならないのです。
これは、別の名称の下ではありますが、決して重要性の劣らない義務なのです。
これは、聖ピオ十世会に欠点がないという意味ではありません。愛徳を唱えるからといって、私たちの行いがすべて人間的な過ちから免れているわけではありません。違います、私たちは他のすべての人と同じように人間です。しかし、私たちは最大限の自由をもって教会に奉仕しようという決意を持っています。そして、これは非常に重要なことです。
皆さまを阻むものは何もあってはなりません。真理の告白、真理の知識、そして皆さまの救いのために必要なあらゆる手段の行使を妨げるものは何もあってはなりません。
これは極めて重要です。私たちがここにいるのは、この理由なのですから。
第六の質問:聖伝か、それとも交わりかのジレンマ
質問:神父様、ここにいる信徒のほとんどは、1988年の聖別を経験していません。彼らは、選択を迫られることはありませんでした。私たちの中には改宗者もおり、彼らはこの選択を迫られました。しかし、私たちの多くは、ある意味で聖ピオ十世会の中に生まれ、その中で育ちました。夏期・冬期大学に通い、卒業に必要な条件をすべて満たしました。
しかし、たとえ今神父様が私たちに語っておられることをすべて完全に理解したとしても、司教聖別の時が来れば、私たちの中には、あらゆることを踏まえても、そしてそこに人間的な要素が絡むことを考えると、ある種のコルネイユのジレンマ(Corneillian dilemma)【愛情や個人的な感情と義務や理性との板挟みとなり、残酷な選択を迫られる状況を指す】を感じる危険があるかもしれません。私たちは、自分自身の選択の時が来たと感じ、神父様が語られる完全な聖伝と、教会との完全な交わりとのどちらかを選ばなければならないと感じるかもしれません。
このジレンマは、まさにこのような形で私たちの前に現れる可能性があります。この特別な視点から、この問題に関するご回答をもう少し詳しく説明していただけますか?
回答:
このジレンマについて論じる前に、人生において、遅かれ早かれ、避けられない決断をしたり、必要な選択をしたりするのを迫られる時が必ず来るということを明確に理解しなければなりません。いわば、これが子供と大人の違いです。
子供は親に依存しています。親が子供に代わって決断を下します。しかし、子供が大人になると、これまで以上に重大で重要な責任を負わなければなりません。
さて、司教聖別は、間違いなく選択を迫られることを意味します。困難なものになるかもしれない選択です。なぜでしょうか? なぜなら、この聖別は人々を分ける性格を持つからです。いわば、逆らいのしるしとなるでしょう。この概念については、さらに深く掘り下げて考察する必要があります。
したがって、私たち一人ひとりは、それぞれの立場において、選択を迫られることになります。社会的な影響を含め、さまざまな影響をもたらす可能性がある選択です。おそらくは、理解してくれない友人もいるかもしれません。
改めて申し上げますが、この選択には極めて重大な意味が伴うのを理解することが不可欠です。問題となっているのは、私たちの霊魂の救いであり、他人への模範となるということです。
さて、このジレンマそのものについて考えてみましょう。それによると「完全な信仰、完全な聖伝、教会との完全な交わり、この三つのうち、どれかを選ばなければならないのか?」です。
いいえ。実際には、このジレンマは設定が不適切です。最大限の敬意を込めて申し上げます。質問自体は正当ですが、表現が不十分なのです。
教会内における交わりは、何よりもまず信仰に基づいています。交わりの状態にあるとはどういうことでしょうか? 教皇や教会の位階階級と交わりの状態にあるとは、同じ信仰を共有することを意味します。たとえ最も正確な言い方ではないとしても、簡潔に言えば、そう言えるでしょう。
同じことを信じているからこそ、交わりの状態にあるのです。教会が教えるすべてのことを信じ、それに従い、これによって人は交わりの状態にあるのです。
このことは、非常に重要です。これこそが交わりなのです。感情でもなければ、形式的なゴム印でもありません。そうではなく、交わりとは信仰における交わり、すなわち完全な信仰における交わりなのです。
言い換えれば、教義も、真理も、この交わりの基盤からなくなるものではなく、誤謬もそこに持ち込まれてはならないのです。これは極めて重要なことです。
さて、まさに教会の信仰と聖伝を守ることによって、私たちはこの交わりの基盤を支えます。したがって、教会の位階階級との交わり、そして完全な聖伝との交わりは、私たちが決して放棄することのできない二つの現実なのです。どちらか一方を選ぶという問題ではありません。ジレンマでもありません。私たちは両方を、何の留保もなく守らなければならないのです。
言うまでもなく、それ自体における、それ自体の属する、教会の交わりの基盤になり得ない要素に関して、人は交わりの状態にあることはできません。誤謬は交わりの基盤にはなり得ません。これは極めて重要なことです。
教理上の誤謬の例
ここ数日、引用している例、特に衝撃的なものは、教皇フランシスコが、宗教の多様性は天主の知恵、すなわち天主ご自身の意志によるものだと主張している点です。その主張は、天主が宗教の多様性をそのようなものとして意図されたというものです。
この主張はカトリック的なものでしょうか? 天主は、真の宗教を、その傍らに誤謬が存在するものとして意図されるのでしょうか? いいえ。それは異常なことです。到底考えられません。
天主はご自身を啓示され、ご自身を知らしめられました。なぜでしょうか? それは、真理はただ一つ、私たちの主イエズスを通して、御托身を通して私たちのところにやって来る真理だからです。
なぜ私たちの主イエズスは御托身になったのでしょうか? それは、ご自身の人性を通して、またその説教を通して、唯一の天主、唯一の真理、唯一の福音を明白にするためです。
一人の教皇が、天主が宗教の多様性を意図されたと、どうして主張できるでしょうか? それは到底受け入れられません。狂気です。そうです、狂気です。
したがって、このような主張と交わりの状態にあることは可能でしょうか? このような主張がカトリックの交わりの基盤となり得るでしょうか? それはSFであり、スター・ウォーズです。到底考えられないことです。
それは笑いを誘いますが、同時に悲劇でもあります。はい。悲劇です。
あわれな霊魂たち! このようなことを耳にする霊魂たちの苦境を考えてみてください。それならば、唯一の予想できることは、やがて人々が教会から離れていくことです。もし天主が本当に宗教の多様性を意図されたのであれば、このような主張は無関心以外の何も生み出しません。そして、無関心になれば、遅かれ早かれ教会を離れることになります。
皆さまは自問されるでしょう。「なぜ人々はもう教会に行かなくなったのか?」と。まさに、このような主張は、結局のところ、真理に対する無関心以外の何も生み出さないからです。
私たちは、このような主張と交わりの状態にあることができるでしょうか? 絶対にできません。不可能です。天主は唯一です。それが第一戒です。
交わりの話題が出ましたから、この機会に一言付け加えたいと思います。しばしば、聖ピオ十世会は完全な交わりの状態にないと言われます。皆さまも耳にしたことがおありでしょう。私たちは教会の交わりの周縁にいる、完全な交わりの状態にはない、と。
しかし、部分的な交わりとは何でしょうか? それは可変的なものなのでしょうか? これもまた、典型的な現代的概念であり、教会の神学とは何の関係もありません。
教会においては、人は教会員であるか、そうでないかのどちらかです。人は交わりの状態にあるか、そうでないかのどちらかです。
それは結婚と同じです。結婚しているかどうかは、結婚しているか、していないかのどちらかです。妻と意見が合わないとか、問題があるからといって、90%結婚しているということにはなりません。違います。結婚は有効であるか、無効であるかのどちらかです。
教会においても同じことが言えます。カトリック信仰を持つ者、すなわち教会と交わりの状態にある者と、そうでない者、すなわち交わりの状態にない者の、どちらか一つです。
聖ピオ十世会についていわれる「彼らは離教者だ」「彼らはそうではない」「彼らは交わりの状態にある」「彼らはそうではない」「彼らは完全な交わりの状態にはない」といった現代の言い回しは、すべて単なる空論に過ぎません。
交わりの状態にあるか、ないかのどちらかです。そして、もし交わりの状態にあるとしたら、なぜでしょうか? それは、同じ信仰を共有しているからです。信仰こそが交わりの基盤なのです。
教会内に位階階級が存在するなら、なぜ天主はそれを定められたのでしょうか? なぜ教皇や司教がいて教えを説くのでしょうか? それはまさに、信仰を教えるためです。それ以外の目的はありません。環境保護のためでも、植樹のためでもありません。教会の目的はそんなものではありません。
第七の質問:インターネットは秘跡の代わりにならない
質問:神父様、神父様は現在の教会内にあるこれらの誤謬について語ってくださり、私たちにそれらを認識するよう促してくださいました。しかし、先に述べた認識は、今やかなり広まっています。これらの誤謬は、特にインターネット上で、長い間非難されてきたことが分かります。神父様が言われたように、ある種の分裂を生み出し、この運動を阻害する可能性のある、このような公的な行為、これらの聖別によって介入するよりも、聖ピオ十世会が天主の御摂理への信頼の中で発展していく方が適切ではないでしょうか?
回答:
この運動を継続させるべきだと考える人もいるかもしれません。天主のおかげで、教会内ではこれらの誤謬に対する認識が高まっています。20年、30年前には考えられなかったような反応が今日では見られます。あらゆる困難にもかかわらず、プラットフォームやインターネットは依然として良い考えの普及を可能にしています。この認識は、聖ピオ十世会外のプラットフォームも含めた交流によって促進されています。誰もがそれぞれのペースで、それぞれの視点から進歩していますが、この現象は否定できません。
したがって、これらの誤謬に対する認識はより一層高まっています。それならば、表面上はすべてを破壊する恐れがある司教聖別のような強い介入をすることなく、この動きが発展するのを待つべきではないでしょうか? これは一つの見方です。
しかし、私たちは注意しなければなりません。キリスト教生活は、単なる立場表明だけで完結するものではありません。信仰を表明するとは、オンラインでカトリック関連の記事を読んだり、YouTubeのポッドキャストを聴いたりした後に「いいね」をクリックするだけではありません。これらの信仰の教義、これらの信仰告白から生まれるキリスト教生活は、真に恩寵が霊魂に働く生活へと移行していかなければなりません。
そして、これには必然的に秘跡、すなわちミサの聖なるいけにえ、御聖体、告解、そして教理の教えが含まれます。
教会を秘跡の上に築かれたのは、私たちの主ご自身です。霊魂は世の終わりまで秘跡によって聖化されます。これが主の御旨です。
秘跡を持つためには司祭が必要です。そして司祭を持つためには司教が必要です。したがって、霊魂を支えて助ける具体的な手段がなければ、単なる一般的な認識だけでは不十分です。そして、これらの手段には司祭職、ひいては司教が関わっています。
第八の質問:なぜ聖ピオ十世会はエクレジア・デイの修道会にならないのか?
質問:神父様が語られるキリスト教的生活は、単に理論だけではなく、単なる知的遵守の行為でもありません。ミサと秘跡を通して実際に適用されることを前提としています。
今日、1988年当時よりも間違いなく、わが国だけでなく、世界中の多くの共同体が聖伝のラテン語ミサ、そしておそらく聖伝のカテキズムや告解などからも恩恵を受けています。
今日では、それで十分ではないでしょうか? 聖ピオ十世会自身も、これらの共同体と同様の地位を目指すべきではないでしょうか? 秘跡は、これらの共同体が既に提供しているもの以外に、どのような点で何か特別なものを与えるのでしょうか?
回答:
それはデリケートな質問です。なぜなら、具体的には、エクレジア・デイの修道会について話す必要があるからです。フランスでは、より一般的に「ラリエ」(ralliés)と呼ばれることもありますが、ここではエクレジア・デイと呼ぶ方が正確でしょう。そして、エクレジア・デイの修道会だけではありません。特定の団体に属さずとも、特に教皇ベネディクト十六世の自発教令以降、トリエント・ミサを再発見した教区司祭も数多く存在します。
そこで、こう問われるかもしれません。聖ピオ十世会も、この地位を採用すべきではないでしょうか? 具体的に言えば、エクレジア・デイの修道会になるべきではないでしょうか?
これは非常に大胆な質問です。波紋を呼ぶでしょう…。
もう一度、簡潔かつ率直にお答えしたいと思います。原則に立ち返りましょう。ここでは個人を裁いてはいません。
エクレジア・デイの修道会が存在するのは、聖ピオ十世会が存在するからです。歴史的には、1988年の司教聖別の後に、それらの修道会は存在し始めました。ローマは、聖伝のトリエント典礼に共感しながらも、ルフェーブル大司教のいわゆる「離教」に賛同しない人々のために、代替となる組織を創設しようとしたのです。これが歴史です。
こうして、さまざまな修道会が属するエクレジア・デイというカテゴリーが創設されました。
さて、振り返ってみると、これらの修道会の活動について何が言えるでしょうか? ローマはそれらを保護したでしょうか? 何らかの保証を与えたでしょうか? 約束は守られたでしょうか? これらの修道会は、ローマの保護のおかげで本当に安全なのでしょうか? 彼らは、自分たちの考え、あるいは少なくとも私たちが期待する考えを自由に表明できるのでしょうか? 実際には、ダモクレスの剣がそれらの頭上にぶら下がっているのではないでしょうか?
これらは事実であり、起きたことであり、歴史であり、皆さまは私よりもよくご存じでしょう。
これらの修道会は、まず第一に、地元の司教が彼らを歓迎するか追放するか、承認を与えるか排除するかの権限を持っているという状況に置かれています。しかし、もし皆さまに家族があって、司教の心変わりでミサに出席していた聖堂が突然閉鎖されたら、家族と一緒にどこへ行きますか? 新しいミサに戻りますか?
彼らが置かれているこの極めて特殊な状況、頭上にぶら下がるダモクレスの剣は、彼らに沈黙を強いるのです。しかし、トリエント・ミサを執り行うと、必然的に新しいミサへの疑問が生じます。なぜなら、単に両者は一致しないからです。そして、結果として、公会議、新しい教理などへの疑問も生じます。
しかし、自由に発言できない、自由に説教できない、自由に自己表現できないのは、そうすればその聖堂でトリエント・ミサを執り行う特権が剥奪されるからです。ですから、事実上、身動きが取れなくなってしまいます。
そして、明確さが求められる時に、物事を明確に述べられないと、長い目で見れば、最終的には考え方を変えざるを得なくなるのです。
私はこれを、恨みからではなく、これらのあわれな司祭たち、より真摯で、より聖伝のものを心から求めているあわれな霊魂たちへの同情から、心から言っています。彼らにはそうする権利があります。しかし彼らは、それを永遠に保持できる保証が全くない状況の中でそれを求めているのです。
さて、私たちは、永遠の聖伝に合致する教理と説教の確証とともに、ミサを常に保持できるという保証なしに、本当に生きることができるでしょうか? 私たちは、これほど根本的に不安定な状況に霊魂たちを置くことはできません。絶対にできません。
2019年、エクレジア・デイ委員会、すなわちこれらのさまざまな修道会を監督する機関は、教皇フランシスコによって廃止されました。興味深いのは、修道会自体は今も存在しているにもかかわらず、それらを統治していた組織が消滅したことです。なぜでしょうか? 聖座が公式に説明しているのは、エクレジア・デイ委員会はルフェーブル大司教の「離教」に従わない人々を教会に再統合するために1988年に設立され、今日では、彼らはそれぞれの教区に十分に再統合されているとみなされているからもうこの委員会は不要になった、というものです。
それは事実ではありません。しかし、その背後にある意図はお分かりでしょう。
私としては、私たち一人ひとりがたった一つの霊魂しか持っていない以上、その霊魂に確かな保証を与えるためにあらゆる努力を尽くすべきだと考えています。私たちが生きるために家を求め、暖房をつけ、食卓に食べ物を並べるように、霊魂にも少なくとも同等の保証を与えなければなりません。
だからこそ、聖ピオ十世会がエクレジア・デイの修道会になることは理想的ではないと考えています。以上です。それは天主の御旨ではないと思います。以上です。私はそう思っていません。
第九の質問:今日の必要性の状態
質問:神父様、少し率直にお伺いします。霊魂の救いの必要性は、1988年当時と同じくらい、今日においても深刻だとお考えでしょうか?
回答:
今日では、その必要性はさらに明白になっていると思います。私たちはすでに、必要性の状態の定義を述べました。それは、教区内で、私たちの救いを確実なものにするために必要な手段、すなわち真理、真理の説教、カトリックの道徳、そして秘跡を見いだすことが困難な状況です。
今日では、状況はさらに悪化していると思います。はるかに悪化しています。教皇フランシスコの決定は破滅的です。そうです、破滅的です。結婚に関する聖伝の道徳は破壊されました。崩壊したのです。もちろん、常に理解、傾聴、そして適応の名の下にです。ですから、すべてが正当化されています。
具体的な例を挙げましょう。皆さまの中には多くの若者がいます。皆さまは皆若い…いや、実際には全員ではありません。私の見るところ、一人か二人くらいでしょうか。しかし、皆さまの大部分はそうでしょう。
いつか、皆さまにも子供ができます。もしお子さんと一緒にミサに行き、教会で同性カップルが――このようなことを言って申し訳ないのですが――司祭から祝福を受けたとしたら、それはどんな意味を持つでしょうか。
お子さんに対して、どう説明しますか。これは結婚ではない、特別なことだが、それでも教皇フランシスコが教会の包摂という名の下に望まれたことだ、と? お子さんが、それを理解できると、どう期待しますか? そして、これはさらに事態を難しくします。
子供たちにどう説明すればいいのでしょうか? 忘れてはいけません、子供たちは、極めて攻撃的な世界に直面することになるのです。このLGBT運動全体、このあらゆる圧力――皆さまは私よりもこれらの異常事態をよくご存じでしょう――は、ますます激化していくでしょう。それは悪魔的なものです。
しかし、教会が、自分の子供たちに警告を与えて霊魂を守るどころか、このようなことを祝福するなら、皆さまのお子さんにどう説明すればいいのでしょうか? 彼ら自身が疑念を抱き始め、何が起こっているのか理解できなくなった時、どうやって彼らを育てていけばいいでしょうか?
子供たちを守らなければなりません。それがまさに必要不可欠な状況なのです。この例は少し極端かもしれませんが、現実です。まさに現実です。
教会は現在、現代世界の主要な願望をすべて全面的に受け入れています。LGBT問題全体が教会に影響を与えています。彼らはローマへ巡礼に行きました。ローマへ、巡礼に! しかし、つまずきや罪の赦しを請うためではありません。そうではなく、LGBTQ+として、そしてそれに伴うあらゆることを含めて、ついに自分たちの巡礼ができるようになったことを公に示すためなのです。信じられません。信じられないことです。
それが、まさに必要性の状態なのです。そして、この事態の深刻さを認識せず、人々の霊魂をあらゆるものから守らなければならないことを理解しないことは、聖霊に対する罪に近いと私は信じています。つまり、私たちが身を守らなければならない重大な問題が存在することを否定することなのです。
これこそが、必要性の意味するところです。1988年当時、私たちはまだこの地点には達していませんでした。そこには、ある種の自然な道徳観、結婚に対するある種の理解が存在していました。しかし今日、すべてが崩壊しつつあります。
第十の質問:聖別は並行的な位階階級を生み出すか?
質問:神父様が説明してくださった通り、この必要性の状態は普遍的なものです。事態は深刻であり、悪化の一途をたどっています。世俗社会にも影響を及ぼしており、宗教的側面と世俗的側面の両方において、人間の生活全体に関わる問題です。
このため、ルフェーブル大司教は1988年の聖別を進めることになりました。年を追うごとに、この例外的な状況は長期化しています。聖別を通して教会内に並行的な位階階級を確立しようとしていると非難する声も上がっています。霊魂の救いを求める主張は理解できますが、並行的な位階階級、あるいは並行的な教会を創設しようとしていると非難する人々に対して、私たちはどのように答えるべきでしょうか?
回答:
並行的な教会とは何かということを、特に司教職との関連において、理解することが不可欠です。
カトリック教会の位階階級の司教の代わりにテリトリーをもつ司教たちがいる教会、それが真の並行的な教会です。しかし、教会の位階階級、すなわち教導教会の位階階級は、教皇と裁治権を有するすべての司教、つまり一般的に教区司教の称号を持つ司教、通常の教区司教、すなわち教える責任を負う通常の司牧者から成っています。彼らは裁治権を有すると言われています。
しかし、すべての司教が教会において裁治権を有するわけではありません。少なくとも同じ意味ではそうではありません。真の司教でありながら、例えばシャトールーの司教やパリの司教ではない司教もいます。補佐司教を例にとってみましょう。補佐司教は他の司教の職務を補佐しますが、彼自身は教区司教ではありません。
また、引退した司教、名誉司教もいます。例えば、パリの名誉司教はもはや教区の司教ではありません。彼は司教の称号は保持していますが、もはやその裁治権を行使しません。
聖ピオ十世会の司教は、まさに裁治権を有しない司教です。彼らは、霊魂たちを助け、秘跡を執行し、霊魂たちに奉仕することのみを目的としており、正統な位階的教会に属する位階的権威を有してはいません。
この意味において、私たちの司教、すなわち既にいる司教も、天主の御旨によって7月1日に任命されるであろう司教も、教皇のみが授けることができるこの性質、この権能、裁治権を所有していません。
付け加えておきますが、聖ピオ十世会は常にこれらの原則を保持してきました。40年近くたった今でも、司教は人々を助け、支えるために存在するのであって、教皇のみが授けることができる裁治権を簒奪するために存在するのではないという明確な認識を持っています。
これは聖ピオ十世会内部では非常に明確なことです。
第十一の質問:聖ピオ十世会は唯一の救いへの道か?
質問:神父様、率直に申し上げます。今日、聖ピオ十世会が霊魂の救いにおいて果たしている役割を踏まえて、聖ピオ十世会の外には救いはないと言えるでしょうか?
回答:
大変率直なご質問であることは承知しております。
ですから、答えは「いいえ」です。正しくは「教会の外に救いなし」です。「聖ピオ十世会の外に救いなし」という表現は正しくありません。神学的に言えば、後者は正確ではありません。
では、私たちは聖ピオ十世会を、そして聖ピオ十世会への愛着を、どのように捉えるべきでしょうか? この危機的な状況において、聖ピオ十世会は私たちにとって教会への忠実を保つための手段の一つであることを理解しなければなりません。それは同じことではありません。私たちにとって、聖ピオ十世会は教会への忠実を保つための特権的な手段なのです。
教会への忠実を保つための他の手段はあるでしょうか? はい、あります。聖ピオ十世会が絶対的な意味で唯一の手段であるとは言えません。
しかし具体的に言えば、真理の説教を受け、それを告白し、誤謬とそれを広める者を非難し、信徒に警告を与え、秘跡を保証するという、同じ自由と保証を私たちに提供してくれる他の手段は、私たちの手の届く範囲にあるでしょうか?
理論的な観点では、聖ピオ十世会が利用可能な唯一の選択肢であると主張することはできません。他の手段が存在する可能性は十分にあります。しかし、もしそうであれば、同じ保証を提供する他の手段とは何でしょうか?
では、皆さまに質問を投げかけます。教えてください。今日の小教区において、同等の保証はどこに見いだせるでしょうか? 教えてください。
なぜなら、私の考えでは、ここで、理論的な原則と、「今ここで」(hic et nunc)の実践を明確に区別する必要があるからです。
そして私自身は、聖ピオ十世会の外に、この同じ保証があることは、実際には、非常に困難だと感じています。
これが十分に直接的な回答になることを願っています。
第十二の質問:聖ピオ十世会はファリザイ派にたとえられるか?
質問:キリストの時代、ファリザイ派は伝統の守護者でした。彼らは傲慢さのゆえに道に迷い、待ち望んでいた救い主さえも拒絶するに至りました。聖ピオ十世会が傲慢という罪に陥っていると主張する人々に対して、どのようにお答えになりますか? 私たちは現代のファリザイ派なのでしょうか?
回答:
この質問は直接的であるだけでなく、遠慮がなさすぎます。
しかし、まず区別したいと思います。「伝統」という言葉は、この文脈では曖昧です。
ファリザイ派の伝統は、人工的な伝統、つまり私たちの主が批判された人間の伝統でした。それは、真のモーゼの律法に付け加えられた、数多くの二次的で、ありふれた、取るに足らない儀式でした。これらの人間の伝統が他者に押し付けられ、ファリザイ派はそれを基準として用いて人々を裁いていました。
したがって、それは完全に外的で儀式主義的になり、その本質は空虚なものとなってしまった宗教でした。
しかし、私たちにとって、聖伝は全く別のものです。それを忘れてはなりません。聖伝は聖書と共に、啓示の源泉の一つです。教会の聖伝を通して、天主はご自身を知らせてださいます。幾世紀にもわたり教会を助け続けてくださる天主は、聖伝を通して、私たちに信仰を知らせてくださるのです。
この理由で、何世紀にもわたって教義が発展し、その結果として新たな定義が生まれてきたのです。これこそが、使徒たちから私たちに伝えられてきた聖伝の知識、聖伝の宝なのです。
したがって、私たちは全く異なる二つの現実について語っています。第一の伝統は廃止されるべきものであり、まさに私たちの主イエズスがそうされました。第二の伝統、すなわち私たち自身の聖伝は不可欠です。それは私たちの救いのために必要なものなのです。
さて、もしこう問う人がいるとしましょう。「私たちはあらゆることにもかかわらず、21世紀のファリザイ派になる危険性をはらんでいるのではないか?」。それはもっともな質問です。
ここでもまた、区別を明確にしておきたいと思います。以前にも申し上げたように、私たちは他のすべての人と同じように原罪を負っています。私たちは人間の条件から免除された火星人ではありません。私たちは他のすべての人と同じ人間です。
さて、人間的な要素が関わるあらゆる具体的な状況において、原罪もまた存在します。したがって、いかなる場合であっても、私たちは時に不適切な態度を示すことがあるかもしれません。しかし、それは組織そのものに影響を与えるものではありません。
これらは、人が犯しうる人間的な過ちです。真理を守ろうとするとき、人は時に、あまりにも人間的なものが熱意の中に忍び込んでしまうことがあるのです。
そうです、それは起こり得ることです。私たちは時折、少し厳しすぎる言葉を口にしたり、他者が私たちを理解すること、聖伝に近づくこと、あるいは必要な一歩を踏み出すことの難しさを十分に考慮しない態度を取ってしまったりすることがあるかもしれません。
これは起こり得ることです。そして、もし過ちを犯したならば、他のあらゆる個人的な欠点を正すのと同じように、それを正さなければなりません。
逆に、この過ちやこの個人的な欠点を根拠に、聖ピオ十世会全体をファリザイ派や熱心党の範疇に押し込めるのは、不当であり、実際容認できることではありません。
違います、そうではありません。私たちが体現しているのは教会の聖伝です。そして、改めて強調しますが、組織そのもの、そしてそれが擁護する真理と、個々の会員に存在するかもしれない人間的な欠点とを区別しなければなりません。
第十三の質問:ローマが司教聖別を非難した場合、聖ピオ十世会はどのような対応を取るか?
質問:もっと具体的に、7月1日に予定されている聖ピオ十世会の司教聖別に関する発表についてお伺いします。この聖別は聖職の権能、すなわち秘跡を授ける能力を与えるものですが、裁治権は与えません。教会法に定められている通り、教皇の委任を教皇に求める必要があります。
憶測をしたりSF的な話をしたりするのは抜きにして、教皇レオ十四世はこの要請を受け入れると思われますか? あるいは、少なくとも介入を控え、明示的な承認はせずに事態の進行を容認するでしょうか? この状況をどのように見ておられますか?
回答:
何でもあり得ます。ええ、何でもあり得ます。
こう申し上げたいのです。2009年にベネディクト十六世が破門を解除したように――当時、それは全く予想外のことだったように思われました――教皇様は、聖ピオ十世会が正しい意向をもって行動していることを理解できると信じています。これは私にとって明白なことです。私たちは正しい意向を持っています。そして、これまで述べてきたように、私たちは非常に率直です。つまり、私たちは考えていることをそのまま述べています。
ですから、教皇様は私たちの立場に必ずしも賛同しなくても、このことを理解し、評価することさえできるはずです。そして、もし教皇様が真に霊魂の救いを願っておられるのであれば、直接的であれ間接的であれ、何らかの形で聖ピオ十世会に頼る、あるいは聖ピオ十世会を拠り所とするすべての霊魂のために、教皇様は、理論的には、聖ピオ十世会のこの特別な必要性を理解できるはずだと私は思います。
それは可能です。確かに可能です。しかし、繰り返しますが、すべては天主、御摂理、そして教皇様の善意にかかっています。
司教聖別を5、6カ月前に発表することで、最悪の事態に備えることができると思います。また、教皇様にも熟考する時間を提供し、私たちの善意をより深く理解していただけるよう、私たちからの説明をさらに受けていただけることを願っています。
これらはすべて可能なことです。一方で、教皇様が7月1日までに聖伝を完全に受け入れてくださるとは考えていません。人間的な観点から言えば、それはあり得ないことです。しかし、教皇様が理解を示してくださる可能性はあります。
第十四の質問:フェルナンデス枢機卿の脅迫
質問:聖座が聖ピオ十世会を非難することを決定した場合、聖ピオ十世会はどうするのでしょうか? フェルナンデス枢機卿の返答書簡には、脅迫めいた内容が多かったと言われました。信徒として、私たちは、当時司教たちに下された破門を当然のことながら思い起こします。また、私たち自身にも何らかの影響があるのではないかと懸念しています。私たちはこの状況をどう捉えるべきでしょうか?
回答:
人生において、私たちは選択を迫られます。先ほども申し上げました。真の質問はこうです。天主の御前で、霊魂の救いに必要なものを保証する方が良いのか――なぜなら、これは余暇活動でも、好みでも、特権でもなく、必要不可欠なことだからです――たとえそれがどんな結果を招くとしても、そうする方が良いのか、それとも、その結果を恐れてこの使命を放棄する方が良いのか、です。
お尋ねになるなら、私個人としては、すでに決断は下されています。2月2日に発表しました。これは非常に重大な決断であり、祈り、待ち、熟慮を重ねた上で下されたものです。私たちは後戻りしません。後戻りはできないのです。
これはすべて、憐れみ深い天主の御摂理の御手に委ねられています。しかし、天主は私たち一人ひとりに、それぞれの役割を果たすことを求めておられます。そして、2026年において、私たち一人ひとりがそれぞれの立場で果たすべき役割は、まさに前進し、未来を見据えることにあると私は考えています。
あえて言えば、それはまさに、私たちの先人たちが私たちを思いやったようにです。私たちが今日ここにいるのは、私たち一人ひとりが信仰を守り続けることができたのは、両親、家族、そして(言うまでもなく)聖ピオ十世会、そしてルフェーブル大司教のおかげです。
紛れもない事実として、時がたつにつれ、ルフェーブル大司教の聖性はますます輝きを増しています。
どうして一人の人間が、これほどの偉業を成し遂げることができたのでしょうか? どうして彼は抵抗し、信仰を伝え、聖伝、教会の愛、霊魂への愛を伝えることができたのでしょうか? そして、この世を去る前に、まさに適切な時に、たった一人で、自分の事業を受け継ぐことのできる司教たちに司教職を伝えることができたのでしょうか? どうして彼は、たった一人で、これほど重大な決断を下すことができたのでしょうか?
今日の私たちにとって、それは容易なことです。なぜなら、私たちは後知恵という恩恵を受け、彼の足跡を辿っているからです。しかし、私の目には、その答えはまさにそこにあります。それこそが、最も美しい聖性のしるしなのです。
真の聖性とは、聖霊、天主の知恵、そして天主の勧めによって霊魂を動かすことができるようにするものです。清い霊魂のしるしは、聖霊が導くあらゆることに従順であることです。
時がたてばたつほど、より多くの視点を得れば得るほど、この人が真に聖霊に導かれていたことがますます明らかになります。何という聖性でしょうか! そして、この世においても教会においても、天主が適切な手段と、なすべきその時になすべきことを知ることができる人々を立てる用意をしてくださらない危機は存在しないということを理解するのは、どれほど励みになることでしょうか。
この人は私たちに何という素晴らしい模範を示してくれたのでしょうか! 何という偉大さでしょうか! 何という聖性でしょうか! 実に素晴らしいことです。
そして、年を重ねるごとに、このことはますます明白になっていきます。それがなければ、私たちはここに存在しなかったでしょう。たった一人の人間、たった一人の男が、もし本当に善き主の御手の従順な道具となり、天主の御旨を成就させるために何でもする覚悟があるならば、歴史を変えることができるのです。
これこそが幸福への道です。私たちの主は、永遠においてだけでなく、すでにこの時、この世においても、私たちに報いてくださいます。皆さまが幸福について黙想しておられる今、この模範は、まさに幸福を最も美しく示しているのです。
第十五の質問:最後の助言
質問:では、神父様、まさにその点を踏まえて、あまり時間を取らないように最後に一言お伺いします。この現状において、信徒に、私たちの信徒に、そして今日ここにお集まりの皆さまに、より広くどのような助言をいただけるでしょうか。どのような心構えを持つべきでしょうか。具体的な助言をいただけますか。祈りについては既にお話しいただきましたので、おっしゃる必要はありませんが、具体的には何をすべきでしょうか。
回答:
この機会に、ルフェーブル大司教が私たちに残してくださった模範に倣いたいと思います。
こう申し上げたいと思います。彼はカトリックの意味で自由な人でした。皆さまもまた、自由でなければなりません。世の中がいかにさまざまな恐怖、奇妙な考え、そして障害物を私たちの周りに積み上げ、私たちを阻んでいるかは、皆さまもはっきりとお分かりでしょう。
自由な人とは、心にはただ一つの理想を持ち、すべてをその一つの理想へと向ける人のことです。
私が皆さまにお伝えしたい助言は、ルフェーブル大司教が私たちに残してくださったこの模範、この遺産について黙想していただきたいということです。彼はキリスト教的な意味で真に自由な人でした。つまり、何物も彼を止めることはできませんでした。彼の内には、天主の御旨を見極めたり実現したりすることを妨げるものは何もなかったのです。
真に自由な人は、その意味で、その観点からすれば、この地上においても、そしてもちろん永遠の世界においても、幸福な人です。
ですから、私の助言はこうです。障害物となるもの、重荷となるもの、霊魂がどこへ向かうべきか、人生がどこへ導くべきかを見通すことを妨げるものから、自らを解放するよう努めてください。そうすれば、困難や妨げを受けることなく前進できるでしょう。
これは極めて重要なことです。
では、具体的にどのようなものが妨げとなるのでしょうか? 時には、それはほんの少しの野心かもしれません。時には、それは恐れかもしれません。そして時には、「周りの人は私のことをどう思うだろうか?」という思いかもしれません。こうした障害物は際限なく増えていく可能性があります。
私たちは真の自由を発見しなければなりません。それは、今日語られている自由とは全く異なる自由です。真の自由とは、善を行い、天主に仕えるという自由です。私が皆さまに求めていただきたいのはまさにこの自由であり、皆さまがそれをより深く、より完全に手に入れられるよう願うのは、まさにこの自由なのです。