プロテスタントの神学に合致している新しいミサ

ソース: FSSPX Japan

アンニバレ・ブニーニ神父とパウロ六世教皇

2026年2月14日 聖母の土曜日, 司祭殉教者聖バレンティーノの記念

トマス 小野田圭志神父様説教  (沖縄)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、久しぶりに沖縄でミサを捧げることができて、非常にマリア様に感謝いたします。

今日は、皆さんが今あずかっている聖伝のミサについて一緒に黙想いたしましょう。この昔から捧げ続けられているラテン語のミサと、現在の新しい日本語のミサは、どのような点が違うのでしょうか?

この違いを、ぜひ皆さんによく理解して頂きたいと思います。そして、今でも聖伝のミサが捧げられていることは非常に素晴らしいお恵みであり、私たちはこのミサをどうしても守らなければならないということを確認してくださればうれしく思います。

そこで、今日は三つの事柄について見ていきましょう。

まず初めに「ミサとはいったい何か、カトリック教会は何を教えているのか」を簡単に見てみます。

その次に「カトリック教会に反対するプロテスタントはいったいなんと言っているのか」、

そして最後に「新しいミサはいったいどうなっているのか」を見ていきます。

 

【1:カトリック教会にとってミサとは何か】

では、カトリック教会は、ミサについていったい何を教えているのでしょうか?

カトリック信仰によれば、

1)ミサ聖祭とは「イエズス・キリストの十字架の犠牲の再現」です。

つまり、イエズス・キリストの十字架で行われた全く同じことが、ミサの中で、私たちの目の前において実現するということです。

主の十字架上でいったい何が行われたのかというと、イエズス・キリストが、司祭として、天主の子羊としてご自分をお捧げになりました。そのための祭壇が十字架です。ですから、主の十字架には、司祭といけにえ、そして祭壇があります。

そのため、イエズス・キリストの犠牲を捧げるミサ聖祭においても、主の十字架と同様に、司祭・いけにえ・祭壇の三つが必要です。

2)十字架において、司祭は大司祭であるイエズス・キリストですが、ミサ聖祭においては、叙階の秘跡を受けたカトリックの司祭がその役目を担います。

司祭は、あたかもキリストであるかのように、パンをイエズス・キリストの御体に聖変化させます。これを、カトリックの用語で「全実体変化」と言います。司祭は、キリストの代わりに、主イエズス・キリストのペルソナと、その尊き聖名において全実体変化を起こす役割を果たすのです。そして、イエズス様が十字架上にたった御一人でいらしたように、ミサ聖祭も一人の司祭がこれを捧げます。

3)十字架上において、いけにえは天主の子羊イエズス・キリストですが、ミサ聖祭においても、全実体変化によって、パンがイエズス・キリストご自身の御体と御血になることにより、天主御父に屠られたキリストご自身が、いけにえとして実現します。何故かというと、御体と御血が二重の聖変化を起こして、あたかも屠られたかのように、イエズス・キリストが私たちの祭壇の上に現存するからです。

これが、カトリックのミサです。

 

【2:プロテスタントによる「ミサ」】

ところが、プロテスタントはこのカトリック信仰を否定しました。

プロテスタントによると、

  1. ミサとは「イエズス・キリストの最後の晩餐の記念」です。

晩餐の記念を行うためには、一緒に食事をする会衆と、その集いの司会をする座長、そして食卓が必要です。晩餐に招かれる会衆は、必ず食事をともにしなければなりません。プロテスタントにとって、ミサとは最後の晩餐の記念なので祭壇はありません。

 

  1. プロテスタントには、カトリックのように叙階された司祭が存在しません。

式を司る牧師はいますが、それは司祭ではありません。

プロテスタントによると、洗礼を受けた人は皆「司祭」と定義されています。その役目は、主イエズス・キリストのいけにえを捧げる(ミサ聖祭で聖変化を起こす)ことではなく、福音を宣教する(宣べ伝える)ことだとされています。

 

  1. プロテスタントには、御聖体の秘跡が存在しません。

カトリックのミサと似たような行事はありますが、御聖体は存在しません。パンはただのパンであり、キリストを意味する象徴にすぎません。

そのため、プロテスタントによると、もしキリストがその儀式の際におられるとすれば、あくまでも霊的な存在として、霊的に現存されるとしています。

この考えは、次の御言葉の解釈から来ています。

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マテオ1820

 

【3:新しいミサ】

では、カトリックの新しいミサとはどのようなものなのでしょうか?

1970年から導入された新しいミサは、次のような定義に基づいてつくられました。

「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち"主の記念"を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である」

196946日の新しいミサ典礼書の総則第7項)

この定義によると、ミサとは「十字架(贖罪)のいけにえ」ではありません。

「集会」「主の晩餐」であり「主の記念を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会」です。この定義の中で、ミサが「イエズス・キリストの十字架の犠牲の再現」であることについては一切触れられていません。

また、新しいミサにおける「キリストの現存」の理解については、御聖体における真の現存と、霊的な現存とが混同されています。御聖体における現存に関しては、最後に触れられているだけです。同じ総則の中にはこのようにあります。

「ミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中に、奉仕者の中に、そのことばの中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。」

つまり、新しいミサで重要視されているのは、御聖体がどうかということではないのです。大切なのは、主の弟子である私たち(会衆)が、聖体を分かち合うことで「主を記念していること」であるとしています。

何故なら、新しいミサによれば、人々が集まっているところに主が現存し「私たちと共にいる」と解釈されているからです。ですから、この定義を見る限り、新しいミサにおいて御聖体に対する信仰はありません。

ところで、ローマには検邪聖省(けんじゃせいしょう)という、信仰と道徳について判断する最も重要な機関があります。

新しいミサができた当時、検邪聖省の長官オッタヴィアーニ枢機卿様とバッチ枢機卿様とは、二人で新しいミサについて研究し、すぐにパウロ六世教皇様に報告しました。それは1969925日のことであり『新しい「ミサ司式」の批判的研究』(Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae)として非常に有名な文章です。

「新しいミサの式次第はその全体といいまた詳細といい、トリエント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。」

非常にやわらかい言い方ですけれども、核心を言うと「新しいミサは、カトリックのミサではない」ということです。

「聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が、仮に教義上考察した上でも正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。

新しい式次第における改革を見、さらには『永遠の価値をもつもの全てが、何らかの形であれ新しい式次第にたとえ残っていたとしても、単に隅の方に追いやられている、という事実』を見る時、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変えても、或いは無視しても、あたかも、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることが出来るのではないかという考えを(残念なことにこのような考えは既に多くの所で支配的になってしまっているのですが)、すっかり確信に変えてしまうことでしょう。」

(聖伝からこのように逸脱したものを支持する司牧上の理由が、教義上考察した上で、もし仮に正しく良いことだと考えられたとしても、私たちはその判断を十分だとは思えません。何故かというと、新しいミサが出ることにより、永遠に価値のあるものが全て、隅の方に追いやられてしまうからです。そして、今までずっと信じ続けられてきたこと――カトリック信仰が永遠に結び付けられている教義、つまり信仰の遺産に忠実でなくても良い、ということを教えてしまっているからです。)

このように訴えています。さらに、この新しいミサを詳しく研究し続ける中で、枢機卿様たちはこう言います。

「聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式 (modus significandi) が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っている。」

(新しいミサ典書に基づいて聖別の言葉を判断するならば、聖変化させる様式(modus significandi)が、今までのミサとは本当に変わってしまっているので、それだけでは、有効性を失っている。)

そこで、枢機卿様たちが言うには、

「近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが『教会のしていることをする』ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか? この有効性に疑いを抱くことは許されている。」

(近い将来、聖伝に適う養成を受けずに叙階される司祭たちが、教会のしていることをするために、新しい司式を信用してしまったとしたら、彼らは有効に聖変化を行うだろうか? この有効性に疑いを抱くことは許されている。)

すなわち、枢機卿様たちは何をお伝えになりたいのかというと、

「新しいミサしか知らない、新しいミサだけで教育を受けた司祭たちは、有効に聖変化を行うことができるのかどうか分からなくなる。」

ということです。

また、ルフェーブル大司教様も次のように警告しています。

Lex credendi(信仰の法)を変更することなくles orandi(祈りの法)を深く変更させることは出来ない。新しいミサは新しい要理と新しい司祭職に対応し、新しい神学校、新しい大学、カリスマ運動的教会、聖霊降臨運動的な教会、また正統と常なる教導職とに対立する全てに対応している。」

 

【なぜか?】

いったいなぜ、カトリック教会にこのような変化が起こってしまったのでしょう?

どうして、カトリックのミサが変更され、あたかもプロテスタントのような「新しいミサ」に成り代わってしまったのでしょうか?

新しいミサの制作において中心となったのは、アンニバレ・ブニーニ(Msgr. A. ブニーニ)という司祭でした。この神父が、なぜ、どのような意図で新しいミサを作成したのか、その理由を次のように説明しています。

「教会は、霊魂への愛と別れた私たちの兄弟たちが一致の道へと至るように全てをしようと言う望みとに導かれ、躓きや気に入らないかもしれない危険の陰とでもなるかもしれないものは全ての石を取り除いた。」

(Annibale Bugnini, Documentation Catholique du 4 avril 1965)

(カトリックがプロテスタントとの一致の道に至るように、プロテスタントの人々の躓きや、気に入らないかもしれない危険の陰となるようなものは全て、躓きの石は取り除いた。)

また、ブニーニ神父はこうも言っています。

「変更は単に些細なものであるに留まらず、実に『根本的な刷新 ・・・ 完全な変更 ・・・ 新しい創造物』 ・・・に関わる。」

(変更は、些細なものには留まらない。『根本的な刷新』にして『完全な変更』であり『新しい創造物』だ。)

このように、ブニーニ神父は、新しいミサが従来のカトリックのミサ(聖伝のミサ)とは断絶していると言っているのです。

実際、新しいミサの制作には、プロテスタントが携わりました。

六人のプロテスタントの牧師(Drs.ジョージス、ジャスペル、シェパード、ケナッス、スミス、テュリアン)が協働しています。彼らの写真は「ドキュメンタシオン・カトリック Documentation Catholique」というバチカンの発行物の中に載せられています。

 

【ベネディクト十六世教皇はこう語る】

新しいミサができた時、将来のベネディクト十六世教皇様(ラッツィンガー枢機卿)は、非常に驚きました。そして、後にこう書いています。

「第2バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。」

(ラッツィンガー枢機卿の書いた「序言」---モンシニョール・クラウス・ガンバーの「ローマ典礼の改革」のフランス語版のため)

(過去の教会が行い続けてきたことと、第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼がやって来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度作成過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。)

また、こうも言うのです。

「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計り知れないものです。(a breach into the history of the liturgy whose consequences could only be TRAGIC.)」

(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 162~163ページ)

(古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止――聖伝のミサをしてはいけないと言ったことは、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計り知れないものです。)

「今、教会は危機を迎えている」と、ラッツィンガー枢機卿様は言います。

召命の数が減り、神学校や修道院は空っぽに近く、主日のミサに与るため、教会へ足を運ぶ信者も減りました。若者や子供たちは教会を離れており、誰もカトリック教会に魅力を感じていません。

ラッツィンガー枢機卿様は、その理由を次のように述べています。

「私たちが今日経験している教会の危機は、『もし神が存在しなかったとしても』(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。

今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いて下さるということは、もはや問題外のこととなっているのです。

もし典礼において、信仰の共同体、世界に広がる教会の一致とその歴史、生きているキリスト者の神秘が現れるということがもはやないのであれば、どこにおいて教会はその霊的な本質を現すのでしょうか。

そこでは共同体は自分自身を祝うだけであり、それは何の役にも立たないのです。共同体は、常に主から与えられた信仰によってのみ、一つの教会として存在するのです。

教会は自分自身において存立しているのではないのですから、このような条件の下では、教会が自分自身を引き裂き、党派的な対立と党派への崩壊の道をたどることになるのは、必然的なことであります。」

(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164~165ページ)

ラッツィンガー枢機卿様は、新しいミサについて非常に厳しい批判を何度も何度も行いました。

「歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したと言うこと、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。

これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象が出来上がってしまったのです。」

(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 163ページ)

「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」

(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』158ページ)

「ラッツィンガーによれば、まさに典礼の分野において ----- 専門家たちの研究にしろ、実際的適応にしろ ----- 『第二バチカン公会議の真正の憲章が言っていることと、それが理解され適用されるやり方との間の差異の最も著しい一例が確かめられる。』」

(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』161ページ)

「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され""何ものにも煩わされるものでなければならないのである。

ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さと呼ばれ、"創造性を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作りの渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した。」

(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』166ページ)

 「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。

この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それは典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。

しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。

いかなる権威当局も典礼を『作り上げる』ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」(『典礼の精神』)

そして、後にベネディクト十六世教皇となられた時、聖伝のミサについて次のように訴えました。

今まで、あたかも禁止されているかのように誤解され、間違って教えられてきた聖伝のミサが、実は一度も禁止されたことも廃止されたこともないこと。また、この聖伝のミサこそ、カトリック教会が常に愛し、捧げ続けてきたものであること。そして、過去に教会が愛し、偉大だとされていたものに対して、私たちはふさわしい場所を与えなければならない、ということです。

このような宣言は、非常に多くの攻撃を受けましたけれども、ベネディクト十六世教皇様は、そのことをついに私たちに教えてくれました。

今、カトリック教会の信仰がぐらついているとしたら、それはミサが変わってしまったからです。ミサが、プロテスタントのような儀式に変わってしまったからです。

ですから、カトリック教会のため、そして霊魂の救いと永遠の救霊のために、もしも私たちに何か貢献することができるとしたら、まさに、この昔ながらの聖伝のミサを守り続けることです。このことこそ、ベネディクト十六世教皇様を始め、ルフェーブル大司教様、過去の聖人たちが訴えてきたことです。

そして今日、この祝福された沖縄で、聖伝のミサを捧げることができて心から幸せに思います。このお恵みが、皆さんの霊魂に、そして皆さんのご家族に、この島に住んでいる全ての方々、そして日本に、世界に広がりますようにお祈りいたしましょう。

 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。