復活後第四主日の説教―一致の喜び(2026年、大宮と大阪)

ソース: FSSPX Japan

聖アウグスティヌス

復活後第四主日の説教―一致の喜び(2026年、大宮と大阪)

2026年5月3日 ブノワ・ワリエ神父

復活後第四主日の説教―一致の喜び(2026年、大宮と大阪)

親愛なる兄弟の皆さま、

「Cantate Domino canticum novum, alleluia」―「新しい歌を主に歌え、アレルヤ」(入祭唱)。
教会がこの復活節中、ずっと歌い続けている喜び、霊的な喜びとは、たとえ心が悲しんでいても霊魂のうちに存在する、深くて永続的な喜びです。

1)揺るぎなき喜び

書簡(ヤコボ1章17-21節)は非常に適切です。聖ヤコボはこう記しています。「すべてのよき賜物と、すべての完全な賜物は、変わることなく変化の影さえもない光の父から、上から下る」。常に変化するこの世では、富は移り変わり、健康は衰え、私たちの気分さえも4月の天気のように変動しますが、天主は完全に揺るぎなきお方であり続けます。
ミサの集祷文では、こう祈ります。「この世の変わりやすいものの中にあって、われらの心が、真の喜びのあるところにとどまるようになし給え」。
聖アウグスティヌスの有名な祈りはこうです。「主よ、御身はわれらを御身ご自分に向けて造り給うた。われらの心は、御身のうちに憩うまで憩うことなし」。その憩いのない状態は、喜びへの渇望です。そして、その憩いとは、喜びを所有することです。キリスト信者の喜びは、揺るぎなき喜びです。それは天主の賜物なのです。

2)霊的な喜び

今日の福音(ヨハネ16章5-14節)の中で、弟子たちは悲しんでいます。なぜでしょうか。イエズスが、ご自分が去らねばならないと彼らに告げられたからです。しかし、次に主は驚くべき真理を語られます。「私が去るのは、あなたたちにとって良いことである。私が去らぬなら、あなたたちに弁護者が来ないからである。しかし、去れば、それを送ろう」。ここに、喜びについての天主の論理があります。キリストの目に見える現存がなくなることは、さらに深く、さらに親密な現存、つまり聖霊の内住への道を開くものなのです。弟子たちは、イエズスのそばを歩き、イエズスの声を聞き、イエズスが奇跡を行うのを見るという喜びを味わってきました。それは、途方もない賜物でした。しかし、聖霊はさらに偉大なことをされるのです。聖霊は弟子たちの内に住み給い、物理的に離れていても決して引き裂かれることのない愛の絆で、弟子たちを御父と御子に一致させるのです。
これこそが、キリスト信者の人生のあり方です。天主はしばしば、霊魂にもっと大きな慰めを与えるために、一つの慰めを取り去られます。天主がご自分の現存の感覚を取り去られるのは、私たちが信仰によって天主によりすがることを学ぶためです。霊的な喜びは、感覚で分かる喜びよりもずっと尊いものなのです。

3)天主との一致による喜び

最後に、密誦は、本物の喜びを得るための手段を明らかにします。「このいけにえによる尊い交わりにより、われらを御身の唯一にして至高の天主の本性にあずかる者とさせ給う天主よ、願わくは、われらに、御身の真理を悟らせ、また同時にそれにふさわしい生活によって、われらをその真理に従わせ給え」。
「天主の本性にあずかる者」(ペトロ後書1章4節)。これこそが、驚くべき現実です。ミサの聖なるいけにえによって、パンとぶどう酒という聖なるベールの下にある私たちの主イエズス・キリストの御体と御血を拝領することによって、私たちは、天主が私たちのためにしてくださったことを思い起こすだけではありません。私たちは、天主と一致するのです。私たちの心に注入された聖霊が、私たちを御父への捧げ物において御子と一致させ、御子を通して、聖霊のうちに、私たちは御父ご自身の抱擁へと迎え入れられるのです。
聖なるいけにえにおいて受けた天主との一致の喜びが、その賜物にふさわしい生活の中にあふれるほどにならなければなりません。そして、その喜びは、すでに永遠を前もって味わうものなのです。


親愛なる兄弟の皆さま、
入祭唱は、「新しい歌を主に歌え」と私たちを招いています。新しい歌、それは贖われた霊魂による、新たな調べ、天に昇っていく調べです。
過ぎ去るこの世で束の間の慰めを求めるのではなく、私たちの愛を不変の光の父へと定めましょう。そして何よりも、聖なるいけにえに近づきましょう。私たちが天主の本性にあずかる者となり、また永遠に私たちのものとなる喜びをすでに味わうことができるのですから。
この復活節に、「われらの喜びの源」である聖母の執り成しにより、私たちが「天主の御命令を好み、天主の御約束を望む」(集祷文)ようになり、そして、憩いのない私たちの心が、ついに天主において憩いを見いだせますように。アーメン。