復活後第三主日の説教―主人の喜びに加わる(2026年、大宮)

ソース: FSSPX Japan

教会の勝利

復活後第三主日の説教―主人の喜びに加わる(2026年、大宮)

2026年4月26日 ブノワ・ワリエ神父

復活後第三主日の説教―主人の喜びに加わる(2026年、大宮)

親愛なる兄弟の皆さま、

復活後第三主日に、教会は、私たちの主が、最後の晩餐の終わり、御受難の直前に語られた言葉を示します。
この箇所を通して、典礼は、キリストの御受難、御復活、御昇天を結びつける深い一致を明らかにします。

「あなたたちは、しばらくの間、私を見なくなる」。キリストは、その夜ユダヤ人に捕らえられ、翌朝十字架につけられ、夕方に埋葬され、それによってすべての人の目から姿を消すことを暗示されました。しかし、これらの言葉は慰めの言葉でもあります。なぜなら、こう続くからです。「私は父のもとに行くからである」。キリストの死は一時的なものにすぎませんでした。さらに慰めの言葉は続きます。「またしばらくの間、私を見るだろう」。これは、キリストが再び戻って来られ、短い別れの後、彼らと共に永遠に生きることを示唆しています。
「あなたたちはもう私を見なくなる」という言葉は、彼らがもう見ることのない、死すべきキリストを指しています。最初の「しばらくの間」とは、イエズスが墓の中で休まれた三日間を指し、二番目の「しばらくの間」とは、御受難から御昇天までの四十日間のイエズスの御出現を指しています。「私は父のもとに行くから」、弟子たちはその限られた期間だけ主を見ることになります。なぜなら、主はここ地上に肉体で永遠にとどまられるのではなく、ご自分がお取りになった人間性によって天に昇られるからです。

そして主は、あわれみ深い明瞭さでこう説明されました。「まことにまことに私は言う。あなたたちは泣き悲しむだろう」。主の死によって弟子たちは悲しみますが、主の復活によってすぐに喜びます。「あなたたちは泣き悲しむが、世は喜ぶだろう。あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びに変わるだろう」。世、すなわちイエズスを死に至らしめた敵どもは、弟子たちが悲しんだまさにその時、喜んだのです。

主は、自然から引いた例えによって、この神秘を説明されました。「婦人は子を生むとき苦しむ。その時が来たからである。だが、子を生んでからは、もう生みの苦しみを忘れる。この世に一人の人間が生まれ出たことを喜ぶからである」。
この婦人は、善業で実り豊かになり、天主のために霊的な子を生む、聖なる教会を象徴しています。教会は、誘惑や苦難の中でこの世を歩む際、その時が来たことを悲しみます。しかし、その悲しみを和らげる喜びがないわけではありません。希望に満ちているからです。苦労した後に褒美を受け取ると、もはや以前の苦しみは忘れています。そのような報いを得た喜びと、この世に人間が生まれた喜びのためです。信者が永遠の命に生まれるとき、教会は歓喜に満たされます。この世を去る人が生まれると言われるのも不思議ではありません。人が母の胎内から日の光の中に現れるときに生まれるように、肉体という牢獄から永遠の光へと昇る人も生まれるのです。聖人たちの祝日は、彼らが亡くなった日に祝われるため、「ディエス・ナタリス」(dies natalis)、誕生日と呼ばれます。

「あなたたちも今は悲しんでいるが、再び私を見るとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びの奪われることはない」。
正しい人々が泣く一方で、世は喜びます。なぜなら、世は来世への希望を持っておらず、喜びのすべてを現世に見いだすからです。しかし、選ばれた人々は「主人の喜びに加わり」、その幸福は永遠に続くのです。


ここ地上の巡礼者である、親愛なる兄弟の皆さま。
私たちの主イエズス・キリストの御受難、御復活、御昇天の神秘を観想しつつ、十字架のふもとで御子の悲しみに深くあずかられ、御復活と御昇天の喜びにも深くあずかられた聖母に、信頼をもって目を向けましょう。聖母の母としての執り成しによって、私たちの悲しみが誰も奪うことのできない喜びに変わるその日まで、私たちが耐え忍ぶことができますように。アーメン。