復活後第三主日の説教―外国人居住者(2026年4月26日、大宮)
聖ペトロと聖アンドレアの召命
復活後第三主日の説教―外国人居住者(2026年4月26日、大宮)
2026年4月26日 イヴォン・フィルベン神父
復活後第三主日の説教―外国人居住者(2026年4月26日、大宮)
親愛なる信者の皆さま、
今日のミサの入祭唱は、非常に単純で美しいものです。「地のすべての者よ、喜べ」。
復活節は大きな喜びの時期ですが、この喜びは私たちだけのものにとどめていてはなりません。地のすべての者が喜ぶべきなのです。ですから、私たちには、周りの人々とこの喜びを分かち合う義務があります。しかし、どうすれば、そのようにできるでしょうか。天主に対する無関心や無知が蔓延しているように見える日本においては、特にそうです。その答えは、今日のミサの書簡の中に示されています。私たちは、この世のただ中にあって、キリスト教徒としてのアイデンティティを生き抜かなければなりません。そうすれば、福音の喜びが私たちの周りに広がっていくことでしょう。キリスト教徒であるということは、単に主日の信心や祈りの問題ではなく、そのことを私たちの社会生活の中で具体的に表さなければならないのです。
私たちは、どのようにすれば、この世のただ中でキリスト教徒として生きることができるでしょうか。この説教では、書簡から引用しながら、この問いについて考えていきます。
1)歴史的背景
聖ペトロは、書簡の中でこう述べています。「愛する者よ、私はあなたたちに勧めたい。あなたたちは外国人居住者であり旅人であるから、霊に逆らう肉の欲を避けよ」(ペトロ前書2章11節)。
ここで重要なのは「外国人居住者であり旅人」という言葉です。これはどういう意味でしょうか。古代の背景に立ち返る必要があります。当時、人々は三つに区分されていました。第一は国民です。ギリシャ・ローマ世界では市民権を持つ者を指し、旧約聖書ではイスラエル人を指していました。第二の区分は、国境の向こうの別の国に住む人々という意味での外国人で構成されていました。しかし、第三の区分も存在し、聖ペトロが言及しているのは、まさにこれです。それは、前の区分の人々のように国外に住むのではなく、町の中に住む外国人のことであり、彼らは「外国人居住者」と呼ばれていました。この問題を日本の現在の政治的・社会的状況と関連付けて、現代風に解釈すれば、これは在留資格を持つ外国人を指していると言えるでしょう。この区分は現在、日本で多くの議論の的となっているものです。
したがって、彼らは不法滞在者や法に違反している人々ではなく、一定の法的地位は持ちながらも、その社会の完全な一員になることができないまま、長期にわたって異国の社会で生活している人々です。それは、彼らが社会に溶け込むことを望まないからなのか、あるいはそうすることが許されていないからなのかのいずれかです。そのため、彼らは住んでいる社会で常に部外者であり続けることになります。彼らは、私たちが在留資格によって享受しているのと同様に、一定程度の保護を受けてはいますが、規則は突然変更される可能性があり、また政治情勢の変化次第ではいつでも国外退去させられる可能性があるため、彼らの地位は比較的不安定なままなのです。
ギリシャ語には、こうした外国人居住者を表す言葉がいくつかあり、聖ペトロも書簡の中で、まさにそういう言葉、パロイコイ(paroikoi)やエピデモイ(epidemoi)を用いています。
旧約聖書では、こうした外国人居住者は一定程度の保護を受けていました。しかし、新約聖書はさらにその先を行きます。このグループの人々はもはや単に保護されるべきグループであるだけでなく、キリスト教的アイデンティティのモデルとなるのです。聖ペトロは、「愛する者よ、…あなたたちは外国人居住者であり旅人であるから」と明確に述べています。この言葉は聖ペトロの書簡の中で、冒頭の第一節を含め三度繰り返されており、その重要性が強調されています。キリスト教徒は外国人居住者なのです。この主張には二つの意味があります。
2)二つの意味
キリスト教徒がこの世において外国人居住者であるということは、一つには、キリスト教徒は、自分の住む国の法を尊重しなければならないという意味です。キリスト教徒は、政治的権威に従うことを拒む無政府主義者ではありません。聖ペトロは明確に反対のことを述べています。「あなたたちは、主のために、人間の立てた制度に従え。それが主権者としての皇帝であっても、総督であっても」(同2章13-14節)。社会で生活するのは天主が望まれたことであり、キリスト教徒は自分が住む国の法を尊重しなければなりません。また、自分の国を愛し、先祖に感謝することも必要です。キリスト教徒は、社会がカトリック的になるよう、国家がカトリックの真理を公に認めるようになるよう社会を変革させようとしますが、決して社会秩序を乱そうとする革命家ではありません。それどころか、キリスト教徒は隣人と平和に暮らすために全力を尽くします。同様に、キリスト教徒は社会に奉仕しようとします。「ディオグネートスへの手紙」として知られる、初期キリスト教時代の匿名の文書は、このような姿勢を次のように要約しています。「キリスト教徒は、国や言葉や服装によって他の人間と区別されることはありません。(…)彼らは定められた法に従い、その生き方は法を完全に守る以上のものです。彼らはすべての人を愛し、すべての人から迫害されているのです」。
しかし他方では、この世において外国人居住者として生きることは、キリスト教徒が自分の住む国と完全には同化しないことを意味します。「ディオグネートスへの手紙」にはこう付け加えられています。「(キリスト教徒にとって)あらゆる外国の地は祖国の地であり、あらゆる祖国の地は外国の地です。(…)彼らは肉体の中にいますが、肉に従って生きるのではありません。彼らは地上で生涯を過ごしますが、天の市民なのです」。私たちが何よりもまず天の市民であると知ることは、他の民族とは全く異なる起源を持つと主張する多くの民族の神話、例えば日本の神話やその他の神話に見られる太陽の子孫といったものと対立します。こうした幻想は、私たちの文化的アイデンティティを本質化してしまい、「国体」といった悲劇的な思想のように、一般的に文化の歴史に対する誤った見方をもたらします。私たちは自分の国を他の国とは全く異なり、世界の他の国々からは何も負うところがないかのように考え、世界は私たちと他の人々に、つまり「国内」と「国外」に分かれていると想像します。キリスト教徒は、こうした幻想に陥ることはありません。なぜなら、自分がこの地上にいるのは限られた時間だけであり、自分の最も深いアイデンティティは文化に還元されるものではないと、つまり、自分が根本的には天の市民であると知っているからです。
3)実践的な意味
私たちが周りの人々に主の福音を広めることができるのは、これらの原則を遵守してこそです。つまり、ナショナリズムの幻想に決して屈することなく、良き市民、あるいは良き外国人居住者として生きてこそです。この点について、私たちは皆、自分の良心を糾明することができます。ですから、日本に住む外国人であるなら、税金、社会保険料、ごみの分別といった、この社会の法や多くのルールを適切に守っているかどうかを自問しなければなりません。この国の国民であるなら、時に外国人嫌悪の偏見に屈していないかどうか、思想やSNSでの不適切なコメントで、そうしていないかどうかを自問しなければなりません。
親愛なる信者の皆さま、聖ペトロは書簡の中で、私たちのキリスト教的アイデンティティの核心そのものを指摘しています。つまり、私たちは、この世において「外国人居住者であり旅人」なのです。このアイデンティティを完全に受け入れることによってこそ、私たちは周りに平和を広げ、地のすべての者が主の復活を喜ぶようになるのです。