毒麦

ソース: FSSPX Japan

2025年2月9日、御公現後第五主日、日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)
トマス小野田圭志神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の福音は「毒麦のたとえ」です。まさに、21世紀に生きる私たちにとって非常にふさわしい福音ではないでしょうか?
なぜかと言うと、現代世界は、あたかも毒麦に満ちているかのように思われるからです。
ニュースを見ても新聞を見ても、戦争や、あるいは不潔・猥褻の罪、あるいは、教会の外でも中でも、信仰に反するような言動が、ますます増え続けているかのように思われます。
いったい、無限に善である天主が、なぜ悪をお許しになるのでしょうか?
なぜ、悪人が栄えるかのように見えて、善人や義人たちは、迫害されるかのように思えるのでしょうか?
まず、今日の福音の黙想、主人と下男たちの態度を見て、第二に、悪からどのような善が生み出されたか具体的な例を見て、最後に遷善の決心を立てましょう。

【1:今日の福音】
マテオによる聖福音にはこうあります。
下男たちが、"おのぞみなら、私たちが、毒麦をぬきにいきましょうか"と言うと、主人は、"いや、…双方とも収穫の時まで、育つにまかせておけ。"と答えるのです。

下男たちは、麦の中に毒麦が育っているのを見て、大変驚きます。そして悲しんでいます。
それはちょうど、良き天主であり、真理の天主がこの世界を創造されたはずなのに、この世界に悪や罪や誤謬が存在するのを見て、驚き悲しむ私たちに似ています。

ですから、下男たちは驚いて、主人のもとに来てその理由を尋ねます。
"ご主人さま、畑におまきになったのは良い種でしたのに、それにどうして毒麦が出たのですか?"と。もちろん良き主は良い種しか蒔きません。それはあまりにも明らかです。
それならなぜ毒麦が生えてきたのでしょうか? 主人は答えます、"敵がしたことだ"と。

主人も下男たちも、毒麦は畑にあってはならないことを知っています。
主人は、この毒麦が最終的にはどのようになるかを知っています。
最後には、つまり収穫のときには、まず毒麦をぬき集めて束ねて焼きはらう、と言っていることからも、それは明らかです。

ところで、下男たちは、これは敵がやったと知って、この悪を取り除くためにいったい何ができるだろうかと考えます。
そして、主人にこう尋ねます。"おのぞみなら、私たちが、毒麦をぬきにいきましょうか"と。
この世にはびこる悪を見て、憤り、悲しみ、悪を直ちに根絶させたいと、悪を行う人が直ちに処罰されることを望み、期待するかのように、下男たちは、毒麦を全て抜き去ってしまいたい、と思うのです。すると、主人は「いや、そうしてはならない」と命じるのです。

いったい、なぜでしょうか?
主人も下男たちも、毒麦が生えてはならない、それは許されないと知っています。
毒麦には、麦畑にいる権利などないと。それはちょうど、罪にも誤謬にも権利がないのと同じです。私たちには、罪を行う権利もなければ、誤謬を言い広めたり、嘘をつく権利もありません。

でも、「罪」と「罪を行う人間」は、別のものです。
ところで、罪とは、人間が行う行為、行ってはいけないにもかかわらず、人間が行う行為です。
ですから、罪とは、罪を犯す何者かがいて初めて存在するものです。
ですから、「罪」と「罪を犯す人(罪人)」とは別のものです。
それと同じように、「誤り(誤謬)」と「誤りに陥っている人」は全く別のもので、同じではありません。私たちは、これをよく区別しなければなりませんし、識別する必要があります。

私たちは、もちろん罪に対して戦わなければなりません。誤謬や嘘とに対して戦わなければなりません。罪は罪だと断罪しなければなりませんし、悪を善だと言うことはできません。
しかし、罪を犯してしまう人、あるいは、誤りを信じて、誤りに陥ってしまっている人に対しては、愛徳と賢明と、識別とを持って接してあげなければなりません。
ですから、誤りにいる人々、信仰を捨ててしまったように見える人々に対して、非常に苦々しく、その人を断罪して呪い、その人の人格を攻撃するのは、私たちの取るべき態度ではありません。本当の愛徳でも賢明でもありません。

人間ではなく、その方々の陥っている誤りや罪を区別して、その誤りや罪を正確に識別するべきです。ですから、この下男たちも、まずそれと同じことをしようとします。
つまり、「毒麦も良い麦も、見かけはほとんど同じだし良いではないか」とは言いませんでした。
毒麦は非常に毒です。食べると命の危険があります。ですから、毒だ、危険だ、食べたら危ない、と識別しました。これは良いことです。
罪人に関しても、罪を良いと言うことはできません。真理も誤謬も同じだとか、どの宗教も同じだ、などと言うことはできません。

ちょうど、これは医者のようです。良い医者は、たとえば右手を患っている病気の人に、「右の手には腫瘍が出来ていますね、それが原因です」と、指摘するに違いありません。
もしも「ああ、右の手には5本の指があるし、左の手にも5本あるから大丈夫ですよ、5本の指があるから」とは言いません。それは、やぶ医者です。
「腫瘍があるから、この腫瘍を癒すためにはどうしたら良いだろうか、手術を受けたらいいじゃないか、でも手術を受けるためには麻酔も必要だし、時間がかかってしまうかもしれない、あるいは、もしかしたら手術をするまでの必要はなく、薬を使えば良いかもしれない」と、賢明に考えるかもしれません。
腫瘍があるから、何でもかんでも今すぐに切ってしまえ、麻酔など要らない、などと言うのは、良い治療ではありません。また、腫瘍を取り除くために、病気の方の命さえも奪ってしまうということは、許されません。

下男たちの問題は、「その時を待たずに、今すぐにこの毒麦を抜き去ってしまおうとした」ところにあります。
しかし、善き天主は、忍耐強く、罪人の回心を待っています。
罪を良いと思っているのではなく、人間は回心することができるからです。

【2:回心の例】
では第二に、いったいどのような回心の例があるでしょうか?
天主のどのような忍耐の例があるでしょうか?

サウロつまり聖パウロがその例です。
「サウロは、教会をあらし、家々に押し入り、男女を引き出して牢に投じ」(使徒行録8:)ていました。ダマスコにいた人々は恐怖に震えていました。
「主の弟子たちにたいして、なおも威嚇と殺害の気にみちていたサウロ」(使徒行録9:)は、ダマスコに行って「人々を見つけ出し、男女をとわず縛りあげて、イェルザレムにひいていこうと思った」(使徒行録9:)のです。

そして、サウロがそのダマスコに行く途中、ダマスコの人々は、どれだけサウロを恐れていたことでしょうか。もしかしたら、サウロの命を奪ってください、と祈っていたかもしれません。
しかし、主のなさったことはまったく別でした。
サウロは、突然光に打たれて回心し、「聖パウロ」になります。
そのお陰で、私たちは今でも聖パウロの書簡を読み、今でもキリストの神秘を知ることができるようになりました。
もしも、ダマスコの信者たちを守るために、パウロの命が奪われていたなら、私たちは、彼の偉大な書簡が手に入ることはありませんでした。

聖アウグスチヌスも同じです。マニ教を信じ、女性と同棲していた罪の男でした。
母から逃げ、アフリカからイタリアまで行きました。
しかし、聖寵の光を受けてカトリックに回心しました。そのおかげで、全キリスト教会を照らし出す光、偉大な教会博士となりました。

【3:アレクシ・カレル】
つい最近の例もあります。明後日2月11日はルルドの聖母の祝日ですから、ルルドの奇跡による有名な回心の例をお話しします。

アレクシ・カレル(Alexis Carrel 1873-1944)というフランス人で、リヨンの医学者、博士です。
アレクシ・カレルは、1912年、血管接合の研究でノーベル賞を受賞しています(臓器移植を含む、近代外科手術のすべての主要な進歩を、カレルがもたらしたと評価されています)。

カレルは、ルルドで奇跡的な治癒を二度目撃しています。一番有名なのは最初の奇跡です。
1902年5月28日のことでした。これは、マリー・バイー(Marie Bailly)の件として、非常に有名です。
マリー・バイーは、結核性腹膜炎を患っていました。
そして、リヨンの医者たちもさじを投げていて、もしも手術をしたとしたら、その手術台の上で命を落としてしまうだろう、私たちは何もすることができない、と言っていました。

唯一の希望はルルドの奇跡でした。
そこで、マリー・バイーは、ルルドへ行きたいと思っていました。
ルルドへの便には、特別に病人を運ぶ列車があったのですけれども、しかし、瀕死の人を運ぶことは禁止されていました。途中で亡くなってしまう可能性があるからです。

しかし、マリー・バイーは、24歳の時に友人にお願いをして、こっそりと列車に乗せて欲しいと頼み込むのです。1902年5月25日の列車でした。列車は、正午にリヨンを出発しました。
その同じ列車にアレクシ・カレルは乗っていました。友人の医者から、自分の代わりに乗ってくれと頼まれたので、その列車に乗ることになったのです。

翌日5月26日の真夜中2時、マリー・バイーの状態は非常に危険で、カレルが呼ばれました、「先生、来てください」と。
初めてバイーと会います。そこで、彼女にモルヒネを与えて付き添います。
3時間の後に、カレルは、マリー・バイーの病名を結核性腹膜炎と診断し、彼女が、このまま生きてルルドに到着することはないだろう、と思っていました。

しかし、マリー・バイーは生き永らえて、ルルドに到着し、そしてすぐさま医者の診断を受けます。翌日5月27日、医者たちは、途中で死んでしまうのではないかと心配したのですけれども、彼女は「どうしても洞窟に行きたい」と言うのです。
カレルは、もしも彼女が、ルルドの病院から洞窟まで(わずか400メートル)生きて辿り着いたなら、自分は、全てを捨てて修道士になると言うほどでした。

しかし、マリー・バイーは、洞窟に行きます。そして、洞窟の隣にあるルルドの水のプールに入りたいと言うのです。しかし、彼女が水に浸かることは許されませんでした。
でも、彼女の強い希望で、ルルドの水がピッチャーの1杯分ほど、彼女の腹部に三度かけられました。一回目をかけると、体中が焼けるような痛みに襲われたと、彼女自身は言っています。
それでもまた同じことを頼みます。すると二回目は痛みは少なかったとのことです。
三度目に水をかけられたとき、とても心地よい感覚を覚えたと言います。
その30分の間、マリー・バイーは、自分の身の上に何が起こったかをよく理解していました。完全な意識がありました。

アレクシ・カレルは、メモ帳を手に、彼女の後ろに立ってそれをじっと見ていました。
医者として、時間、脈拍、表情、その他の臨床的な詳細を記録していました。
その記録によると、巨大に膨張し、非常に硬くなっていた腹部が平らになり始め、30分以内に完全に消失したと、また、体からは一切の排出物がなかったと記されています。
これが5月28日のことでした。

バイーは、その直後バジリカに運ばれ、次にメディカルセンターに運ばれて、数人の医師の診察を受け、そして夕方、彼女はベッドに座り、普通に夕食を食べていました。もう嘔吐することはありませんでした。
その翌日、彼女は自力で起き上がり、カレルに会います。
カレルはバイーに尋ねます。「これから何をするつもりですか?」と。
バイーは答えます。「愛徳姉妹会のシスターに加わって、一生を病人の世話に費やすつもりです」と。

それからその翌日、バイーは、自分の足で列車に乗り、電車の硬いベンチの上で24時間の旅を終え、リヨンに到着します。リヨンに着くと、路面電車に乗り、自分の家に向かいます。
すると、家の人々はびっくりして、「5日前に、瀕死の状態でルルドに行ったあの子? あなた、え?」と、信じようとしません。
そこで彼女は、自分が、わずか5日前に危篤状態でリヨンを去ったマリー・バイー自身であることを証明しなければなりませんでした。

アレクシ・カレルは、後に精神科医に頼んで、2週間ごとに彼女を検査するよう依頼し、それは4ヶ月間ずっと続きます。その後に、結核の痕跡がないか定期的に検査がありました。
11月下旬、彼女は心身ともに健康であると宣言され、そして12月には、彼女は望み通りパリの修道院に入会します。
一度も結核を再発することなく、1937年に58歳で亡くなるまで、彼女は、愛徳姉妹会のシスターとして聖なる生涯を送りました。

カレルの見た第二の奇跡は1910年、生まれつき目が見えなかった1歳半の男の子の視力が、ルルドの水で突然回復するのを目撃したことです。
アレクシ・カレルは信仰を取り戻し、秘跡を受け、カトリックとして、1944年11月にパリで息を引き取っています。

【遷善の決心】
では、最後に遷善の決心を立てましょう。

聖アウグスチヌスはこう言っています。
「天主は無限に善なので、御自分の全能と全き善さ(全善)が、悪からでさえも、より大きなる善を生じしめるほどではなかったとしたならば、一切の悪を許すことがなかっただろう」と(Enchiridion xi)。

聖トマス・アクイナスも、口を揃えてこう言います。
「天主の無限の善には、悪が存在することを許しても、その悪からでさえも善を生み出すことが含まれている」と。

もちろん、天主は悪を行いませんが、悪が存在するのを黙認します。
それは、より大きな善が生じるためです。
天主は義人を守り、将来の義人たちさえも守られます。
今、もしも私たちを憎み、あるいは迫害するような人々がいたとしても、もしかしたらそのような方々は、将来のカトリック教会の大聖人になるのかもしれません。

私たちは、いったい、以前どうだったのでしょうか?
また、今はどうなのでしょうか?

ですから、福音書の主人はこう言います。
「毒麦をぬき集めようとして、よい麦もいっしょに抜くおそれがある。双方とも収穫の時まで、育つにまかせておけ。収穫のとき、私は刈る人に、まず毒麦をぬき集めて焼きはらうために束ね、麦をあつめて倉におさめよ、といおう。」と。

世の終わりには、良い麦と毒麦とは完全に分けられます。悪人たちは地獄の火に焼かれます。
その時、私たちは天主の厳格な正義を見ることでしょう。
しかし、私たちがこの世にいる間には、罪人たちは回心する可能性があります。
大きな可能性があります。ですから、私たちは忍耐しなければなりません。罪人たちの回心のために祈らなければなりません。
聖パウロは言います。
「兄弟たちよ、天主の選ばれた民、聖なる者、愛せられた者として、あなたたちは、深い憐れみのはらわた、善良さ、謙遜、慎み、忍耐を着よ。」

いつの日か、天主の正義と真理が燦然と輝く日がやってきます。
それがいつかは私たちには分かりませんが、しかし、天主はより大きな善のために、全てを許しておられます。そして主は、私たちの回心を忍耐強く待っておられます。

最後にマリア様にお祈り致しましょう。
主が無限に良い方であること、また、たとえこの世が悪に満ちていたとしても、それがより大いなる善のために、主が許されているということを理解する御恵みを請い求めましょう。

下男たちが、"おのぞみなら、私たちが、毒麦をぬきにいきましょうか"というと、主人は、"いや、…双方とも収穫の時まで、育つにまかせておけ。"と答えた。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。