第二バチカン公会議後の教会の態度とカファルナウムの人々
2026年3月15日 四旬節第四主日(喜びの主日)
トマス 小野田圭志神父説教 日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、四旬節第四主日「レターレ(喜び)の主日」です。
今日の福音では、イエズス様が大麦のパン五つと魚二匹で奇跡を起こし、およそ五千人をそれで食べさせた歴史的な出来事について読みました。ちなみに、五千人とは女性や子供たちをのぞいた数です。五千人というと、日本の聖なる殉教者聖堂が満席になると百人くらいですから、イエズス様は、この御聖堂の少なくとも50倍の人々に、満腹になるまでパンと魚を食べさせ、十分に養ってくださったということです。これは、主が本当になさった奇跡です。
主は、いったいなぜパンの奇跡をなさったのでしょうか?
イエズス様は、40日の断食の後、悪魔から石をパンに変える奇跡を行うよう言われた際に「"人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出る総てのことばによって生きる"と書かれてある」と断ったのではなかったでしょうか?
確かにそうですが、これには理由があります。私たちの主イエズス・キリストは、悪魔の要求を断ることで「私たちにとって一番大切なのは、この地上のことではなく天国のことである」と教えたかったのです。
それならば、今回はなぜパンの奇跡を行われたのでしょうか?
その理由は三つあり、今から順を追って皆さんと一緒に黙想していきたいと思います。
第一は、私たちに、主の御摂理に信頼することや主の御国を求めることを教えるためです。
第二は、もっと深い理由ですが「御聖体」という理由です。
第三に、このイエズス様の御聖体の宣言を聞いて二つの反応があったということを知ってください。そして、最後に遷善の決心を立てましょう。
【1:天主に信頼して天主の国とその義を求める】
第一の理由は、この大群衆が、イエズス様からの霊的な祝福を求めてイエズス様に付いてきたことにあります。主はこう言われます。
「何を食い、何を飲み、何を着ようかと心配するな。······あなたたちの天の父は、あなたたちにそれらがみな必要なことをご存じである。だから、まず天主の国とその正義とを求めよ。 そうすれば、それらのものも加えて、みなお与えくださる。」(マテオ6章31-34節)
今日の福音を通して、この御教えはベトサイダの平原で実現しました。この人たちは、イエズス様の霊的な善「天の御国とその正義」を求めてやって来たのです。そして、霊のパンを求めたこの人たちには、同時に体を養うパンも与えられました。
イエズス様が教えたかったことは、ご飯(体を養うパン)は第二義的(二次的)なものであって、手段に過ぎないということです。私たちにとって最も大切なのは霊魂のことであり、永遠の命と天の御国、そしてその御国の発展なのです。ですから、イエズス様は私たちに「天主の愛深い御摂理に信頼して、全てを天主の御手に委ね、天の御国と永遠の命、天の義を求めること」を教えます。そうするならば「それに必要な手段は全て与えられる」と。「何も心配するな」と、主は奇跡を通して実際に私たちの目に見せ、このことを教えてくださったのです。
【2:御聖体の宣言】
第二の理由は、もっと深い理由です。この奇跡は「御聖体」の前兆・前じるしでした。
これは何を意味するかというと「これほど素晴らしいパンの奇跡をすることができるのは、全能の憐れみ深い天主でしかない。イエズス様はそれをなさったのだから、イエズス・キリストこそが真の天主であり、本当のメシア(救い主)だ」ということです。すなわち「イエズス・キリストこそが本物であり、その言われることや教えることは全て真理である」ことを証明するために、そのための十分な「しるし」として、このような奇跡を起こされたのです。
今日のミサの福音では、ヨハネによる福音書の第六章の最初だけを読みましたが、この続きを読むと御聖体の奇跡の深い意味がよく理解できます。ですから、皆さん聖ヨハネの福音書の六章を是非読んでみてください。とってもおもしろいです。
しかしながら、ここで少しネタバレをしてしまうと、イエズス様は私たちに永遠の命を与え、永遠の命のパンを与えるのであり、イエズス様こそが「天からのパン」だと宣言されています。それのみならず、イエズス様は「私の肉は食べものだ、私の血は飲みものだ」と仰せになり「永遠の命のため」には、イエズス様の「肉」を食べ、その「血」を飲まなければならないと、繰り返し説かれるのです。
御言葉を少し聞いてみましょう。
「いつかなくなる食物のためではなく、永遠の命のために残る糧を得ようとして働け。人の子が与えるのがそれである。かれは父なる天主の判を受けているものである。」(ヨハネ6章27節)
「まことにまことに私はいう。天からのパンをあなたたちに与えたのはモイゼではない。私の父が、天からのまことのパンをあなたたちにくださるのだ。天主のパンは、天から下って、世に命を与えるものである。」(ヨハネ6章32節)
「命のパンとは私のことだ。私に来るものはもう飢えることがなく、私を信じるものは、いつまでも渇きを知らないだろう。」(ヨハネ6章35節)
「命のパンは私である。あなたたちの先祖は、荒野でマンナを食べたが、死んだ。しかし、天から下るパン、それを食べる人は死なない。天から下った生きるパンは私であって、このパンを食べる人は永遠に生きる。そして私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である。」(ヨハネ6章48節)
「まことにまことに私はいう。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血を飲む人は永遠の命を有し、終わりの日に、その人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血を飲む人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。生きておられるおん父が、私を遣わし、そのおん父によって私が生きているように、私を食べる人も、私によって生きる。天から下ったパン、これは先祖が食べてもなお死んだそのようなものではない。このパンを食べる人は、永遠に生きる」(ヨハネ6章53節)。
「命のパンとは私のことだ。私に来るものはもう飢えることはない。私を信じるものは、いつまでも渇きを知らないだろう。」(ヨハネ6章35節)
イエズス様がおっしゃったこれらの御言葉は、この地上の御生涯の最期である聖木曜日に、御聖体を制定することによって真に実現します。イエズス様は、今日の福音のパンの奇跡よりも遥かに素晴らしい奇跡を、ミサ聖祭の時に私たちの祭壇において日々行ってくださっています。十字架の木という生命の木に実を付ける命のパン――つまり、イエズス・キリストの真の御体である御聖体が、私たちに配られるのです。
【3:聖体は、人間の霊魂の救いのため】
では、なぜ私たちの主イエズス・キリストは、御聖体の奇跡(命のパンの奇跡)を私たちになさるのでしょうか?
それは、主が私たち人間を極みまで愛されたからです。御聖体というパンの奇跡は、私たちに対する天主の愛の保証なのです。「この世にいるご自分の人々を愛し、最後まで彼らに愛を示された主は、この世から御父のもとに移るべき時がきたのを知り」(ヨハネ13章1節)、私たち人間に対するご自分の愛の保証を与えるため、また、私たち人間から決して離れることがないように(マテオ28章20節)、世の終わりまで常に一緒にいるために御聖体を制定しました。そして、御聖体はさらに旧約を成就させ、永遠に完成された新約のいけにえを私たちに与えるために制定されました。弟子たちと共に過越しの子羊を食して過越を祝われた主イエズスは(ルカ22章15節)、旧約のかたどりの代わりに、新約の完成を遺そうと思われたのです。
【永遠の命】
いったいなぜ? なぜ、ここまでイエズス様は愛されるのでしょうか?
なぜここまでされるのでしょう? なんのためだったのでしょうか?
それは、私たち人間に永遠の命を与えるためです。霊魂の救いのためです。何故ならば、私たちは他の動植物とは全然違うのです。私たちは天主の似姿と肖像に寄せて創られ、私たちにはたった一つの、決して死ぬことのない永遠の霊魂が与えられており、永遠の命のために、天国に行くために生きているからです。
「永遠の命」といっても、現在流行のトランスヒューマニズム(人間改造主義)が目指しているような、人間を機械化させるといったことではありません。人間は機械に成り下がるわけではありません。そうではなくて、主の永遠の愛の御計画は、人間を天主のようにすること、天主のように高貴なものとするという御計画なのです。私たちが、今この地上にこうして生きている本当の目的は、私たち人間が天主のように上げられ、天主の子供となってその至福に与るためです。
そのために、霊魂の救いのために、全能永遠の天主は人間となり(御托身)、しかも十字架の上で亡くなりました。そうして、世の終わりまで私たちと一緒になりたいという愛のしるしを、保証を遺してくださいました。主は、毎日捧げられるミサ聖祭において命のパンの奇跡を行い続け、御聖体として私たちに食されています。ダマスコの聖ヨハネはこう言います。
「この秘跡は私たちをキリストに合致させ、その御体と天主の本性にあずからせ、また私たちを同じキリストにおいて一致和合させ、いわば一つの体とする」と。
御聖体とは、イエズス・キリスト御自身の御体です。「恩寵と真理とにみちて」(ヨハネ1章14節)おられる方、「私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた」(ヨハネ1章16節)そのお方だからです。「天主の恵みは、主イエズス・キリストにおける永遠の命である」(ローマ6章23節)と言われている通りです。
御聖体は、この世を旅する私たちが、永遠の命に確かに辿り着くことができるように私たちを支え、また私たちに力を与えるために、霊的な糧として私たちを助けてくださいます。こうして、永遠の栄光と至福への道を私たちに確保してくれます。
これが、カトリック教会が常に説いてきた教えです。そして、カトリック教会は、御聖体が世の終わりまで続くように存在しているのです。
【4:命のパン】
これが「命のパン(御聖体)」です。愛する兄弟姉妹の皆様が、頂くことのできるお恵みです。
私たちは、何と幸福なのでしょうか!
私たちは、あまりにも幸せな中にいるので、この幸せを理解できないかのようです。
「身在福中不知福(幸せの中にいる人はそれを知らない)」
この命のパンについて二つの態度がありました。どのような態度があったのか、ぜひ知っておいてください。一つは、命のパンの意味を正しく理解した姿勢です。
そこで、二人の方のお話をご紹介したいと思います。
一人は、2010年に『支払うべき代償』という本をフランス語で出版された、ヨゼフ(ジョセフ)・ファデル(旧名モハメド・アル=サイイド・アル=ムサウ)という方です。
彼は、1964年にイラクのイスラム教シーア派の裕福な上流階級の家庭に生まれました。彼の家は、マホメットの七代目の子孫で、指導者ムーサー・カーズィムの子孫の家系でしたが、イスラム教を捨ててカトリックへと改宗し、それが原因で家族から何度も殺されかけました。そのため、妻と子供たちと一緒にフランスに亡命し、今でもご存命です。
なぜカトリック信者になったのか――そのきっかけは、今日皆さんが読んだ福音の「命のパン」の箇所だったのです。
彼は、若い頃に兵役の義務を行っていましたが、ある時に夢を見ました。夢の中で、ある美しい男性が彼に「川を渡るためには、命のパンを食べなければならない」と言うのを見ました。
そうして目が覚めたその日の朝、同じ兵舎にいた友人のカトリックの兵士が、福音書を彼に手渡してくれたのです。その友人は「最初のマテオから読むと良いよ」と勧めてくれましたが、モハメドはなぜか「聖ヨハネによる福音書」から読み始めることにします。やがて、今日のミサで私たちが読んだ第六章に辿り着きます。その時、彼は突然立ち止まり、呆然とし、一瞬、幻覚を見ているのかと思ったほどでした。「命のパン」という言葉が出てきたからです。それは、数時間前に夢の中で聞いた言葉と全く同じ言葉でした。
イエズス様が群衆のためにパンを増やした後、弟子たちに「命のパンとは私のことだ。私に来るものはもう飢えることがなく、私を信じるものは、いつまでも渇きを知らないだろう。」(ヨハネ6章35節)という箇所を、何度も何度もゆっくりと読み返しました。雷に打たれたかのような、いえ、もっと大きなそれ以上の衝撃を受けました。まるで酔っぱらっているかのような感覚を受け、それと同時に、福音書に記されたイエズス・キリストへの激しい情熱的な愛の感情、喜びが心に湧き上がってきたと言います。その時、モハメドの心には、イエズス様についてもっと、全てを知りたい、そしていつの日か、自分もこの「命のパン」を頂きたいという願いだけしかありませんでした。この「命のパン」のために、イエズス・キリストの御聖体を拝領するために、彼は死の危険を冒してまでもカトリックに改宗したのです。
次にご紹介するのは、あるプロテスタントの牧師さんのお話です。
この方は、私たちのミサに与っている方のお父様で、もう亡くなられていますが、プロテスタントの牧師さんです。一代で教会を築き、とても名誉ある方でした。
その方のお嬢様が私たちの教会に来ておられ、ある時「お父さんが危篤だから、是非」と、私は呼ばれたことがあるのです。そこで、牧師先生にお会いしに伺いました。とても歓迎してくださり「カトリックの神父様が来てくれてうれしい」とお言葉をかけてくださいました。
私は牧師先生に「もうこれで最後なので、是非、命のパンを頂いてもらいたい」と願い、その旨を申し上げ、この聖ヨハネ福音書の箇所の話をしました。そうしたら、牧師先生は「命のパンが欲しい」とおっしゃるのです。
ご子息様がいらして「神父様、命のパンを頂くということはどういうことですか? カトリックになるのですか?」と尋ねられたので「そうです」と申し上げたところ、とても難しい顔をされました。
結局、この命のパンを受ける前に、お父様はお亡くなりになり、残念ではありましたけれども、しかしその時に「命のパンが欲しい」と、牧師先生は心から願っておられました。
ヨゼフ・ファデルのように、イエズス様のメッセージの深い意味が正しく理解される一方で、そうではない場合もあります。
今日の福音に登場したカファルナウムの人たち(五千人)は、「御国」についての話を聞き、確かに霊的な教えを求めてイエズス様についていきました。そして、イエズス様から物質的な恵みを受け、奇跡のパンを食べたのですけれども、霊的恵みを認めることができかったために、メシアについて誤解してしまいました。
「メシアがこれほど、こんな奇跡ができる人なら、全世界を征服して、イスラエルのために政治的に統治してくれるのではないか」と、人々は「メシア」をこの地上のための救い主であると誤解し、メシアの政権を夢見て発狂してしまいます。しかしながら、イエズス様は政治的な王ではありませんから、一人でまた山に退かれました。
この出来事は、私たちに非常に大きなメッセージを送っています。つまり「私たち全ては、永遠の命のために生きている」ということです。もしも、私たちがこの地上の世に捕らわれるあまり、永遠の命のことを追求せず、誤解さえしてしまったなら、私たちはこの地上に楽園を作ろうとするに決まっています。政治的な手段によって、この地上を良くしようと、この地上のことだけしか考えなくなります。でもそれは成功しません。何故ならば、イエズス様は山に退かれてしまうからです。イエズス様は、そのためにこの地上に来られたのではないからです。
現代、残念ながら周りを見てみると、第二バチカン公会議は司牧的公会議として現代の人々に話しかけ、超自然のことについてはほとんど語りませんでした。
そこで、この地上を楽園にしようと、政治的な手段によって、この地上を良くしようと、この地上のことだけに目を向けたかのようです。人間を信じ、人間に希望し、人間を愛するように、と。
ですから、第二バチカン公会議後の教会は今、リサイクル、環境、動物の保護について盛んに話しています。もちろん、これらはとても良い話ですけれども、しかし、イエズス様の御教えは、そのためにあったのではありませんでした。天主が人となり御聖体を制定したのは、地球や大地のためではなく、宇宙的な愛のためでもありません。罪人である私たち人間の罪が赦されて、永遠の命を受けるため、私たちが天主のように上げられるためでした。
カトリック教会は、永遠の命へと私たちを導くために制定されました。ですから、もしも私たちがまず天主の御国と永遠の命を求めるなら、天主は、地上の世を生きる私たちに必要な全てのことをお与えくださるでしょう。ですから、教会はまず主の御国を求めなければなりません。永遠の命を求めなければなりません。
カトリック教会の使命は、グローバル経済の管理、経済の再生、食糧安全保障と平和の確立、環境保護の保障、移民の法的管理、その他、世界規模の政治的権威を打ち立てることではありません。
【注】
教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」では、こう言われている。
「…なぜなら、神の独り子は、人となって物質界と結ばれ、そこに決定的な変化の種を蒔かれたからです。」(235)
「…創造されたすべてのものがもっとも高められるのは、聖体においてです。感覚で捉えられるしかたで自らを顕わにしようとする恵みは、神ご自身が人となられ、被造物のためにご自分を食べ物としてお与えになったとき、このうえなきかたちで表現されました。主は、受肉の神秘の頂点において、ひとかけらの物質を通じて、わたしたちの内奥にまで達することを望まれました。…全宇宙は、聖体の中に現存なさる受肉した御子に結ばれて、神に感謝をささげます。実に、聖体は、宇宙的な愛の行為そのものです。」(236)
「主がご自身をわたしたちの地球と決定的に結ばれ」(246)
「地球温暖化の流れを食い止めるという根本的な決定を下すことを阻む考え方は、同時にまた、貧困撲滅という目標の達成をも阻みます。汚染低減の問題と、貧しい国や地域の開発問題、これら双方を扱うには、もっとしっかりと責任を果たす世界的な対応が必要とされています。…「グローバル経済の管理、危機に見舞われた経済の再生、現在の危機のさらなる悪化とそこから生じるいっそうの不均衡の回避、全体的かつ時宜にかなった軍縮、食糧安全保障と平和の確立、環境保護の保障、そして移民の法的管理、これらすべてには、…真の世界規模の政治的権威が緊急に必要です」。」(175)
【5:遷善の決心】
では、最後に遷善の決心を立てましょう。
私たちが、パンの奇跡の深い意味を理解させて頂けるよう、よくお祈りをいたしましょう。
日ごと私たちの祭壇で行われる、命のパンの奇跡のとてつもなく深い意味を是非味わってください。ミサ聖祭がどれほど大切であるか、御聖体がどれほどものすごいものであるかを理解してください。私たちは永遠の命のために生きています。カトリック教会は、永遠の命のために、霊魂の救いのために存在しています。そして、私たちがこうやって今、聖伝のミサで、永遠の命のために、命のパン(御聖体)を尊敬と愛を込めて拝領できることは、どれほど素晴らしいお恵みであるかを感謝しましょう。
そして、マリア様にお祈りいたしましょう。
御聖体の神秘を深く理解する恵みを祈り求め、マリア様に御取次を乞い求めましょう。
「イエズスは、パンをとって感謝をとなえ、座っている人々に分け与え、魚も同様にして、望みのままにおあたえになった。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。