待降節第一主日の説教(2024年、大阪)

ソース: FSSPX Japan

マリアのベトレヘムへの旅

待降節第一主日の説教(2024年、大阪)

2024年12月1日 ブノワ・ワリエ神父

喜びに満ちた期待の時である待降節

親愛なる兄弟の皆さま、
待降節は典礼年の始まりであり、贖い主の到来を前にして待ち望む期間です。民全体が、原罪の直ぐあとに約束された救い主をいつの日か手中にするという確固とした希望に力づけられて、何世紀も生き続けたのです。

待降節の登場人物

旧約聖書は、預言者たちの教えを通して、私たちの主イエズス・キリストへと、私たちを導きます。その預言者たちの中でも、イザヤは特別な位置を占めています。
次いで、御摂理によって選ばれた時に、天主は洗者聖ヨハネを遣わされました。聖ヨハネの唯一無二の栄光は、主の先駆者として歩み、民に救いの術(すべ)を教えることでした。
「時満ちて」【ガラツィア4章4節】、天主は、御子のために宝石でできた住まい、すなわち無原罪の童貞マリアの御体とご霊魂を造られました。天主は、無原罪の聖母を、人類を救う計画に組み込まれ、教会は、待降節を通じて、私たちを、聖母と共に歩む旅に連れて行くのです。

典礼周期

待降節という典礼上の季節は、イエズスがご自分の教会の中で典礼的にご自身を現され、また教会を通して、この世にご自身を現されることを、私たちに思い起こさせます。
教会は典礼周期を通して、悔悛の期間と喜びの期間、禁欲の期間と祝祭の期間を交互に繰り返します。教会は、自身が天主を起源とするものであることに由来する絶妙なバランスにしたがって、ある時は私たちに悲しみの感情を起こさせ、またある時は、私たちを喜びへと招きます。実際、天主の期待に応えるためには、人間はこの両方の感情を経験する必要があるのです。
さらに、教会は典礼周期を、北半球の自然の周期に、巧みに合わせています。ですから、冬の寒さは、イエズスがこの地上に降られることでそれを払拭するために来られた、人間の心の冷たさを思い起こさせるのです。そうです、冬の初めの主のご生誕の瞬間が示唆しているように、キリストは、罪によって冷え切った私たちの心を温めるために来られたのです。キリストは正義の太陽、世の光であり、罪の闇を払拭するために来られたのです。
地上での生活と苦しみの死の後、キリストは、復活祭の日に復活されました。それはちょうど、植物が再び命を吹き返した時であり、それは主のご復活が、いかに人間を死から命へと変わらせることができるかを示しています。
最後に、葉が落ち、植物が枯れ、鳥がさえずりをやめる頃、教会は信者を、死について考えるよう招きます。このようにして11月が、典礼年の周期に見事な締めくくりをもたらすのです。

天主が少しずつ贖い主を明らかにされたように、教会も典礼において、これを模倣するのです。私たちの霊魂の一生においても、物事はこのように起こるのではないでしょうか。もし信者が、天主が特別な方法でご自分を現されるのは典礼の中においてであるという確信を、これまで以上に持つならば、その信者自身、典礼が、聖性と平和の最も実り豊かな源泉であることに気づくことでしょう。私たちは典礼年に、何を期待できるでしょうか。それは、天主の命、豊かな命です。

喜びに満ちた期待の時である待降節

民はメシアの到来を待ち望みました。しかし、天の天主であるメシアは、何を望まれたのでしょうか。預言者ハガイの書に、その答えがあります。「いましばらくたてば、私は、天と地、海と陸を揺り動かす。そして、諸国の民のあこがれるお方が来られる」(ハガイ2章7-8節)。ダヴィド王は詩篇18篇で、メシアを、私たちのところに来ようと急ぐ巨人として描いています。「彼は巨人のように、自分の道を喜び急ぐ」【詩篇18篇6節】。
イエズス・キリストが二千年前、私たちを救うために地上に降りてこられたように、イエズス・キリストは今日、私たちの中に入って来て、私たちをイエズス・キリストのように変容させたいと望んでおられます。ニッサの聖グレゴリオはこう言いました。「イエズスが渇き望んでおられるのは、私たちがイエズスを渇き望むことである」。私たちの主の私たちに対する願いが、私たちの心の中で燃え上がらなければなりません。その願いとは、成長する愛徳により、より一層寛大な愛により、主と一体となって、主と一致することを望むことなのです。
クリスマスに主が私たちのもとへ来てくださるのは、私たちが主の恩寵にどれだけ心を開いているかに比例していることを忘れないようにしましょう。ですから、この待降節を、待ち望む、いやむしろ喜びをもって期待する時として過ごしましょう。もちろん、喜びは、生ぬるい罪人の霊魂にある恐れを排除しませんが、私たちが自分のみじめさを認識する勇気を持ち、天主の子としての尊厳を保ちつつ生活するために必要な手段を取ろうという決意をする限りにおいて、その喜びは、やがて大きな確信に変わるに違いありません。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、
新しい典礼年の始まりであるこの待降節第一主日に、典礼はこう歌います。「主がその恩寵を賜れば、われらの地は実を生むであろう」(聖体拝領誦―詩篇84篇13節)。
「めでたし、聖寵充ち満てるマリア、…ご胎内の(実)御子イエズスも祝せられ給う」(めでたし)。
「尊き(実)御子イエズスをわれらに示し給え」(元后あわれみ深き御母)。

この世に救い主をもたらしてくださった聖母が、私たちが天国の祝せされた永遠において、救い主とともにあることを待ち望むように、私たち一人一人の霊魂に、救い主をもたらしてくださいますように。