待降節第一主日の説教―私たちは終末を恐れなければならないか(大阪と札幌)

ソース: FSSPX Japan

最後の審判

待降節第一主日の説教―私たちは終末を恐れなければならないか(大阪と札幌)

2025年11月30日 イヴォン・フィルベン神父

待降節第一主日の説教-―私たちは終末を恐れなければならないか(大阪と札幌)

親愛なる信者の皆さま、

SF小説を読むのが好きな方なら、しばしば終末論が扱われていることにお気づきになるでしょう。終末論は、現代文学に繰り返し登場するテーマです。この世界が、さまざまな危機を抱えて直面している困難な問題は、この見通しを十分現実味のあるものにしているように思えます。しかし、終末論という思想は、危険なものでもあります。ヨーロッパや日本では、多くのセクト集団が、例えば襲撃するなどの犯罪目的に利用してきました。この思想は、一部の人々を狂気に駆り立てるものなのです。

たとえこの思想が、しばしば問題のある形で用いられることがあったとしても、私たちは、それがキリスト教信仰の一部であることも認識しておかなければなりません。毎週の主日のミサで、私たちは、生ける人と死せる人との裁きを待ち望む、と唱えますが、これは、終末に関する聖書的な表現です。待降節の初めに、教会は、聖ルカが伝えるこのテーマに関する私たちの主の教えを聞かせることで、私たちをこの終末という視点に立たせるのです。誤った思想を受け入れないためにも、この教えをよく理解することが重要です。ここで特に一つの疑問が生じます。それは、カトリック教徒は、世が恐れているように、終末を恐れなければならないのかどうか、ということです。

この説教では、今日の主日の福音とカテキズムを用いて、「私たちは終末を恐れなければならないか」という疑問に答えたいと思います。そのために、私は、時を三つに分けることにします。つまり、終末の前の時、終末のまさにその時、そして終末の後の時です。

1)終末の前

まず第一に、終末にはしるしが現れるということを述べなければなりません。これが、今日の主日の福音のテーマです。終末の到来を告げるためのしるしが現れるのです。「同じように、こういうことが起こるのを見たら、天主の国は近いのだと知れ」(21章31節)。

これらのしるしとは、一体何でしょうか。この福音の中で、私たちの主は天体のしるしについて語っておられます。「日、月、星にしるしが現れるであろう」(同章25節)。カテキズムの助けを借りれば、私たちの主が他の箇所で言っておられる他のしるしを特定することができます。そのしるしの中には、すべての国々に福音が宣教されること、反キリストが現れること、そして背教が広い範囲に及ぶことがあります。多くの神学者は、ユダヤ人の回心というしるしも付け加えています。

ですから、私たちは、この公審判について、ある程度のことを知ってはいますが、知らないこともたくさんあります。例えば、その日付も、これらのしるしに関する詳細の多くも知りません。例えば、反キリストとはどのような存在になるのかといったことは、依然として謎のままなのです。

しかし、教会は、これらのしるしに関する確かなことを教えてくれます。それは、大きな困難と苦しみの時代になるだろう、ということです。教会は常に、千年至福説という異端的なテーゼに反対してきました。千年至福説とは、終末の前に非常に長い平和の時代、千年間の平和があるという思想です。このテーゼは、黙示録の特定の解釈に由来するものですが、カトリック的なものではなく、否定しなければならないものです。終末は困難な時代になるでしょう。それが教会の信仰です。しかし、私たちは、これらの困難の本質について、それ以上のことは知らないのです。

ですから、終末の出来事に対して、ある程度の恐れを抱くのは当然のことです。私たちの主が、終末のしるしとして述べられた出来事は、確かに恐ろしいものです。しかしながら、私たちはこの恐れで麻痺してしまってはなりません。なぜなら、これらの出来事がいつ起こるのか、その日も時刻も、私たちは知らないからです。

2)終末の時

さて、終末のまさにその時に何が起こるのか、という話に移らなければなりません。この時、私たちの主が語っておられるのは、もはや恐ろしいことについてではなく、喜びの時についてです。「これらのことが起こり始めたら、身を立てて頭を上げよ。あなたたちの救いは近づいたのだから」(同章28節)。終末の前には非常に困難な時期が訪れますが、終末それ自体は悲しみの時ではありません。その反対に、解放の時、喜びの時なのです。

どのような喜びでしょうか。私たちの主を見るという喜びです。それは、歴史上最も美しい時となるでしょう。なぜなら、その時、私たちの主は栄光のうちに来臨されるからです。つまり、誰もが、主こそが天主であることをはっきりと見るからです。これは、私たちがクリスマスにお祝いする肉による来臨とは異なります。クリスマスに、主は謙遜のうちに来臨されましたが、多くの人々に無視されました。栄光のうちに来臨されるということは、その反対に、明らかな形で来臨されるということです。私たちの主を愛してきた人々にとって、主がついに認識され、栄光を受けられるのを見るのは、何と幸せなことでしょうか。また、主の花嫁であるカトリック教会は、かつてなかったほどの美しさで光輝くことでしょう。

もちろん、私たちの主に敵対してきたすべての人々にとっては、それは恐ろしい時となるでしょう。彼らの誤りが明らかになるのですから。

3)終末の後

しかし、この喜びに加えて、選ばれた人々にとっては、終末の後にもう一つの喜びがあります。実際、カトリック信仰にとって、私たちが「終末」と呼んでいるものは、本当の滅亡ではなく、一つの段階です。それは、私たちが知っている世の終わりであるとともに、黙示録が「新しい天と新しい地」と呼ぶ新しい世の始まりでもあるのです。

現在の世とこの新しい世の間では、ただ一つ、私たちの主の御言葉以外は、すべてが異なるでしょう。実際、主は、今日の主日の福音の中で、こう語っておられます。「天地は過ぎ去るが、しかし私の言葉は過ぎ去らない」(同章33節)。教会によって私たちに伝えられた福音の教えは永遠のものであり、私たちに、終末の後の新しい世での生活の準備をさせてくれるのです。

親愛なる信者の皆さま、私たちは、終末を恐れなければならないのでしょうか。「はい」でもあり、「いいえ」でもあります。「はい」だというのは、終末の到来に先立つしるしは、本当に恐ろしいものになるからです。しかし、「いいえ」だというのは、終末とは私たちの主の来臨、すべての信者の解放、そして主を信じた人々にとっての新しい世の始まりだからです。ですから、終末を少し恐れるのは当然ですが、私たちは、それ以上に大罪を恐れなければなりません。なぜなら、私たちが終末の後の新しい世に入るのを妨げるのは罪だからです。ですから、何よりも罪を恐れましょう。この待降節を利用して、さらに回心しましょう。それこそが、平和のうちに終末の準備をするための最良の方法なのです。