待降節第三主日の説教―洗者聖ヨハネの謙遜(2025年、大宮と大阪)
洗者聖ヨハネ
待降節第三主日の説教―洗者聖ヨハネの謙遜(2025年、大宮と大阪)
2025年12月14日 ブノワ・ワリエ神父
待降節第三主日の説教―洗者聖ヨハネの謙遜(2025年、大宮と大阪)
親愛なる兄弟の皆さま、
司祭やレビ人が、洗者聖ヨハネにその資格を尋ねたとき、彼は、自分はメシアではなく、預言者でさえないと否定しました。彼はただ、「荒れ野で叫ぶ者の声」と、自らを表現しただけでした。
エリアか否か
しかし、私たちの主は、洗者聖ヨハネについて語る際、弟子たちにこう言われました。「彼こそ、来るべきエリアである」(マテオ11章14節)。では、なぜ先駆者は「私ではない」と言ったのでしょうか。
私たちの主が説明されたように、ヨハネは「エリアの精神と力をもって」(ルカ1章17節)、つまり、同じ預言の精神、同じ宣教の熱意、同じ聖性の徳をもって来ましたが、同じ肉体をもって来たのではなかったからです。
マラキは実際、こう預言しました。「見よ、主の日、その偉大な恐ろしい日が来る前に、私は預言者エリアを送る」(マラキ4章5節)。預言者は、この一節で、主の再臨(世の終わり)について明確に語り、再臨の前にエリアが自らやって来ると言っています。しかし、(ベトレヘムへの)最初の来臨の前に、主はヨハネを「エリアの精神と力をもって」送り、民の心に「主の道を準備させ」られました。ですから、自分が「エリア」と呼ばれるのを先駆者が完全に拒否したという事実は、彼の大いなる謙遜を示しているのです。
単なるしもべ、単なる「ともしび」
ヨハネは、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」のであり、後に来られる方を証明するために来たのです。彼は「その方の履物の紐を解く値打ちもなかった」のです。
「天主から遣わされた人がいて、その名をヨハネといった。この人は、光を証明するために、また、すべての人が彼によって信じるために、証人として来た。この人は光ではなく、光を証明するために来た。
(キリストは)すべての人を照らすまことの光であり、まさに世に来るところであった」(ヨハネ1章)。
ですから、ヨハネ自身は光ではありませんでした。そうは言っても、私たちの主はこう宣言されました。「(ヨハネは)燃えて輝くともしびであった」(ヨハネ 5章35節)。実際、ヨハネの使命は、夜にたいまつを持つしもべのように、キリストを示すことだったのです。
しかし、洗者聖ヨハネは、献身的なしもべであり、自分の利益を求めずに、こう宣言しました。「(キリストは)栄え、私は引き退らねばならぬ」(ヨハネ3章30節)。
単なる「声」
ヨハネは、「母の胎内から聖霊に満たされ」、私たちの主によって、すべての預言者よりも偉大であると宣言されましたが、自らの尊厳を全く自覚していないように見えます。彼の目には、自分は単なる「荒れ野で叫ぶ者の声」でしかないのです。
大教皇聖グレゴリウスは、こう宣言しています。「兄弟たちよ、このことは、われらに何を教えているのであろうか。それは、人が天主の恵みに満たされれば満たされるほど、自らの目には謙遜になるべきであるということを教えているのである」。
親愛なる兄弟の皆さま、
人の心は荒れ野のようなものです。天主の恵みがなければ、不毛で乾いており、罪の茨で満ちています。この待降節の間、洗者聖ヨハネは、高慢という山を平らにし、怒りや焦りという荒れ地を滑らかにするために、叫び声を上げています。主は高慢な者のところにではなく、へりくだる者のところに、怒りに満ちた者のところにではなく、柔和で温和な者のところに来られるからです。
ああ、今の日々に、この準備がどれほど必要でしょうか! 冬至が近づくにつれ、罪の闇は、「まことの光」「昇る太陽」である私たちの主に、場所を譲らなければなりません。
主の先駆者の、深く、しかし穏やかな謙遜に倣いましょう。
「天主は高ぶる者に逆らい、へりくだる者に恵みを与えられる」(ヤコボ4章6節、ペトロ前書5章5節)。アーメン。