変わらない聖母の私たちへの母の愛
都の聖母マリア
『ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え』
2025年8月15日 童貞聖マリアの被昇天
トマス 小野田圭志神父説教 日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は「マリア様の被昇天の大祝日」です。
日本に住む私たちに対するマリア様の愛を一緒に黙想いたしましょう。
天主の御母は、この地上での生命の最後に、霊魂も肉体も天の栄光に上げられました。そして今、聖母は天国におられます。天のイエズス様の王国から、私たちを、母として私たちのことを愛しておられます。
「主にとっては、一日が千年のごとく、千年が一日のごとく」(ペトロ後3:8)と聖ペトロは言いますが、天国におられるマリア様にとってもまさに同じです。
何百年を挟んでも、何千年が過ぎ去っても、8月15日は、命を与える母の愛、子供の幸せを望む、いつも変わらない母の深い愛を私たちに伝えています。
【聖フランシスコ・ザベリオの来日】
では、いくつかの8月15日の思い出の話をいたしましょう。
マリア様は私たちを愛する母として、日本に住む私たちの永遠の救いのために、8月15日、イエズス・キリストを与えようとされました。あたかも天国におられる聖母から遣わされた使者であるかのように、天竺(インド)から、聖フランシスコ・ザベリオが日本の地に上陸しました。まさに8月15日でした。この時、日本は戦国時代で、幕府の権威は失墜し、京の都も荒れ果てさびれていました。大和の国はどこもかしこも戦いにあふれ、分裂していました。
しかしその時、真の天主、王の王イエズス・キリストの教会の真の司祭が、日本への愛のプレゼントとしてマリア様から遣わされました。聖フランシスコ・ザベリオが、日本に来た目的はただ一つでした。こう書いています。
「私たちは実に、たった一つの事しか頭にありません。それは、日本人に、私たちの主イエズス・キリストの知識と信仰をもたらす事です。」
(聖フランシスコ・ザベリオが1549年11月5日に書いた手紙)
【イエズスを抱く聖母】
「聖なる信仰のパウロ」アンジロ(あるいはヤジロウ)は、聖フランシスコ・ザベリオとともにやって来ました。薩摩の島津貴久と面会するとき、マリア様の御影(ごえい)をもっていきます。これは、聖フランシスコ・ザベリオがインドから持ってきたもので、幼きイエズス様が母の膝のうえに座っている美しいマリア様の絵でした。あたかも、日本で生まれたばかりのキリストの神秘体を、愛をこめて抱きしめているような母のお姿でした。
島津貴久はマリア様を見ると、非常に感激して跪き、深い敬意を表します。ちょうどフアン・ディエゴのティルマに、グァダルーペのマリア様を見たメキシコのフアン・デ・スマラガ司教のようでした。貴久は、そこに居合わせた全ての家来たちにも「ひれ伏せ!」と命じ、自分と同じようなことをさせました。そして貴久の母親も、マリア様の御影を見て深く感動します。
かつてベトレヘムで、三人の博士たちがマリア様と共におられるイエズス様を見て礼拝したように、鹿児島でも、東の国の城主は、マリア様とともにいるイエズス・キリストを見てひれ伏したのです。
都(みやこ)で最初のカトリック教会は、被昇天のマリア様に捧げられた「南蛮寺(なんばんじ・なんばんでら)」です。1576年の聖母被昇天の祝日に完成し、被昇天のマリア様に捧げられました。この時、マリア様の子供たちはどれほど喜んだことでしょうか!
今でも、南蛮寺のこの鐘が現存しています。1577というキリストの誕生を起源とする年号と、IHS(イエズス:人類の救い主)というイニシャルが刻まれているのがわかります。この鐘は、当時の都(日本の首都)で、天主の御言葉が人となられたこと、救い主イエズス・キリストが私たちのところに来られた神秘を、またマリア様の私たちへの愛を、お告げの鐘としてゴーンゴーンゴーンと鳴り響かせていたことでしょう。
今となっては、聖フランシスコ・ザベリオが日本に持ってきた聖母子の御影が、どのようなものだったか具体的にはわかりません。しかし、レオン・ロバン神父様(1802~1882)が作った「都の聖母」のようだったのかもしれません。この「都の聖母」の御像は、幼きイエズス様が母の膝のうえに座っているブロンズの像で、今、京都の司教座聖堂に安置されています。このマリア様を見ると「ひれ伏せ!」「マリア様に敬意を示せ!」と、周囲の人たちに命じた島津のお殿様の声が、今でも私たちの耳に響くようです。
【悲しみの聖母】
日本の子供たちは、喜びと悲しみをいつもマリア様と共にしました。マリア様の喜びを私たちも喜び、そして私たちの悲しみをマリア様も悲しみました。私たちの聖なる母は、子供たちのことを決して忘れたことはありません。
日本に住む私たちの先祖にとって最も深い悲しみは、そしてキリシタンたちにとってとても恐ろしい拷問は、この愛するお母様の姿を足で踏むことでした。200年続いた踏み絵(1660年代から1858年まで)です。毎年毎年お正月に、強制的に踏まされた後、私たちの先祖は泣いて泣いて泣いて祈りを捧げました。母を悲しませたことを悔やんで悔やんで、子供たちは七代にわたって悲しみ、涙を流し続けました。踏み絵が始まると、日本におけるキリストの神秘体は、あたかも十字架につけられ、踏みつぶされ、息の根を絶たれてしまったかのようです。
そんな1708年、マリア様は子供たちを慰めようと、鹿児島のもっと南の屋久島という島に来られました。シドッティ神父様が命がけで日本に持ってきた、十字架の足元で御苦しみの涙を御捧げする悲しみのマリア様です。日本の子どもたちのために涙を流されている悲しみのマリア様のお姿です。子供のことを決して忘れることがない母の愛の姿です。子供たちが迫害に遭う時、マリア様も子どもたちの苦しみに寄り添われました。
ベトレヘムで生まれたばかりの幼子イエズスを膝に抱いたマリア様は、後にゴルゴタで、十字架から降ろされ息の絶えた傷だらけのイエズス様を膝に抱かれます。ピエタの聖母です。そしてイエズス様を抱く同じ母の心で、聖母は日本のキリシタンたちを抱きしめたのでした。
【母を探す子供たち】
子供たちは、母の愛を忘れないように力を尽くしました。そうして考え出し、編み出されたのがマリア観音でした。子供たちは母を探し求めます。ついにマリア様を、お母様を見出す時がやって来ました。1865年3月17日、マリア様は、迫害を恐れて怯え隠れていた子供たちを、ご自分の麗しい姿のもとへお招きになりました。子供たちが、イエズス・キリストの司祭に尋ねた最初の言葉はこれです。「サンタマリアの御像はどこ?」
子供たちは、ついに探し続けた本当の母を見出すと、喜びにあふれてこう言います。
「ほんとにサンタマリアさまだ!」「御子ゼスス様を抱いていらっしゃる!」
【無原罪の聖母の被爆】
マリア様の私たちに対する愛を感じさせるもう一つの出来事は、1945年の被昇天です。もしも第二次世界大戦が終わらなかったならば、もしも竹槍を持って最後まで全滅するまで戦っていたならば、日本の人々は、この地上から消え去っていたかもしれません。戦争を終わらせるために、マリア様はご自分が犠牲となることを決心されました。
浦上では、毎年お正月の頃「絵踏み」がありました。それは、浦上の丘の庄屋の屋敷で行われていました。「幼子イエズスを膝に抱くマリア様」あるいは「ピエタのマリア様」または「無原罪の御やどりのメダイ」が踏まれていました。200年も踏まれて、擦り切れた踏み絵が今でも残っています。こんな俳句もあります。「膝の子も母も顔なき踏絵かな」(森田 孟)」
浦上の信徒たちは、この浦上の丘にマリア様に捧げられた教会を建てたい、そうすることによって償いをしたいと思いました。「無原罪のおんやどり」の大聖堂です。
日本の殉教者たちを列聖・列福した教皇ピオ九世は、聖母の無原罪のおんやどりを信仰のドグマだと宣言しましたが、ルルドでは、日本の建国の日である2月11日に、マリア様が「私は無原罪のおんやどりです」と宣言されました。
高さ2メートルの木製の無原罪のマリア様の像が、1929年にスペイン大使D.Ulibarriによって寄贈されました。これは主祭壇に置かれ、浦上そして日本のすべてのカトリック信者たちを慰め祝福していました。
この「無原罪のマリア様」から、500メートルの距離で原爆が炸裂しました。1945年8月9日午前11時02分のことでした。天主堂は一瞬のうちに壊滅して瓦礫の山となり、夜になると教会は燃え崩れ、浦上一帯は焼け野原になります。浦上の小教区の信者12000人の内8500人が犠牲となり、長崎の人口24万人のうち死傷者は15万人にのぼり、多くは即死しました。
マリア様も被爆されました。マリア様とその子供たちの苦しみを通して、無原罪の御宿りの祝日(12月8日)に始められた戦争は、被昇天に奇跡的な終戦を迎えることになったのです。
浦上生まれの野口嘉右エ門という神父様がおられます。この神父様は、14歳の時に北海道のトラピスト修道院に入りました。浦上を出る前には、この愛する無原罪の母に、お礼とお別れの言葉を伝えるために足を運びました。そして祈りを捧げ、浦上を発ってトラピストに入りました。
そうすると戦争が始まり、戦時中は兵役のために修道院を出て入隊しましたが、終戦後、1945年10月に除隊しました。少年時代の懐かしい浦上の教会が瓦礫となっていると聞いて、トラピストに戻る前に浦上を訪ね、その美しい教会が燃え尽きてしまっているのを見て啞然としました。石の上に腰を下ろして、ふと見ると、瓦礫の下にあのマリア様の顔を見ます。
「寂しそうだが慈愛に溢れた眼差しでジッと私を見つめておられるようでした。」と、野口神父様は言っています。「ああ…マリア様だ!」と叫び、喜んで夢中でマリア様を胸に抱えたそうです。
神父様の言うには「発見というよりは、まさに目の前におられた。」「マリア様が私に拾わせて下さった。」と。
放射能の熱戦で焼け焦げた髪や頬、黒く空洞になった瞳のマリア様の御顔は、現在、浦上の天主堂の小聖堂に安置され、今でも、子供である私たちを母の愛で見守り続けてくださっておられます。
子供たちのために、私たちを愛し続けられるマリア様——。
自分の家族と友人たちと、教会を原爆で失った永井博士は、浦上を代表し弔辞でこう言います。
「浦上を愛し給うが故に浦上に苦しみを与え給い、永遠の生命に入らしめんが為に此世に於て短きを与え給い、しかも絶えず御恵みの雨をこの教会の上にそそぎ給う天主に心からの感謝を献ぐるものでごさいます。」
実に聖パウロはこう言っています。
「今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ8:18)
「「主は、愛するものをこらしめ、受けいれる子を全てむち打たれる」とおおせられている。あなたたちが試練をうけるのは、こらしめのためであって、天主はあなたたちを子のように扱われる。父からこらしめられない子があろうか。だれにも与えられるこらしめを、もし、受けなかったなら、あなたたちは私生児であって、真実の子ではない。」(ヘブレオ12:6-9)
【秋田の聖母】
苦しまない愛は、本物の愛ではありません。マリア様は、どんな苦しみでさえも子供たちのために耐え忍ぼうとする英雄的な母の愛を持っておられます。この特別な愛をもって「聖母は日本を愛しておられます」(秋田の天使の言葉)。
マリア様は私たちを特別に愛するあまり、もはや黙ってはいられませんでした。耳の聞こえないシスター笹川に天の「極みなく美しい声」を響かせます。「わたしの娘よ!」と。
耳の聞こえないシスター笹川は、天の声が聞こえない、天のことに無関心な私たちの代表ではないでしょうか。それでもマリア様は、私たち一人ひとりに呼びかけています。たとえ、私たちにはその声が聞こえなくても、終生童貞なる聖マリア、天主の御母が、私たちに話しかけておられます。「わたしの娘よ!わたしのこどもよ!」と。
天主の御母! イエズス・キリストの次に最も崇高で、最も高貴であり、最も偉大にして最も気高く、最も美しくて愛深い、最も聖なる御方が、私たち一人一人にやさしく話しかけてくださっているのです。その御声を聞いてください!
「ここの一人一人が、わたしのかけがえのない子供たちです!」
マリア様は一人ひとりを特別な愛情を持って、かけがえのない子供として愛しておられます。マリア様は、イエズス・キリストの御母であるがゆえに、キリストの神秘体の母です。
聖ベルナルドは言います。
「聖母に匹敵するものはない。聖母は全ての聖人にまさり、聖母には誰一人として太刀打ちできない何かがある。」
「わたしのこどもよ!」これは単なるリップサービスではありません。マリア様は、本当に私たちの母です。イエズス・キリストを愛するその愛で、私たち一人ひとりを愛しておられます。何故ならば、私たちはキリストの神秘体の一部であるからです。愛する母として私たちにいたわりの声をかけてくださっています。
「不自由は苦しいですか。傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。」
マリア様は、母の声を伝えるだけではありません。日本では、私たちをご覧になり愛の涙も流されました。
「聖母を通してイエズスさまと御父に献げられる霊魂を望んで、聖母はいつも涙を流しておられる」(秋田の天使の言葉)のです。
今日、天に上げられたマリア様の母の愛を思って感謝いたしましょう。
私たちには、偉大な天主の御母が、私たちの母として天におられます。私たちを、得も言われぬ愛で、見守ってくださっています。天国への旅路を守ってくださっています。マリア様に感謝して、マリア様をお愛し申し上げましょう。イエズス様にお願いいたしましょう。マリア様をイエズス様のように愛することができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。