あなたたちは、他国人であり旅人である

ソース: FSSPX Japan

2026年4月26日  御復活後第三主日

トマス 小野田圭志神父説教  聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日のミサの書簡で、初代教皇聖ペトロは私たちにこう言っています。

「あなたたちは、他国人であり旅人である」

Obsecro vos tamquam ádvenas et peregrínos

(私はあなたたちに、他国人であり旅人として、すすめる)と。

他国人とはどういうことなのか?

旅人とはいったい何を意味するのか?

もしも私たちが他国人で旅人であるならば、いったい私たちは何をしなければならないのか?

今日は一緒にこの意味を黙想し、遷善の決心を立てましょう。

【他国人】

私たちは、この世では他国人です。何故なら、私たちが住んでいるこの世は、私たちの本当の祖国ではないからです。聖パウロはこう言います。

「私たちの国籍は天にある」(フィリッピ320

主は、ポンシオ・ピラトの前でこう宣言しました。

「私の国は、この世のものではない。もし私の国がこの世からのものなら、私の兵士たちは、ユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう。だが、私の国は、この世からのものではない。Regnum meum non est de hoc mundo. Si ex hoc mundo esset regnum meum, ministri mei utique decertarent ut non traderer Judæis : nunc autem regnum meum non est hinc.(ヨハネ1836

そして、イエズス様は御復活後に40日間だけ地上にとどまった後、天へと昇られました。聖パウロはこう言っています。

「あなたたちがキリストとともによみがえったのならば(霊的によみがえったのならば)、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座しておられる。あなたたちは地上のことではなく上のことを慕え。」(コロサイ31-2

なぜ、私たちの国籍は天にあるのでしょうか?

それは、天国こそが私たちが永遠に所属すべきところだからです。もしも危機があるときは祖国から助けが来るように、天こそが、私たちが最も大きな助けを期待する源だからです。詩篇にもこうあります。

「私は、そこから私のために助けが来る、山々に向かって目を上げた

Levavi oculos meos in montes, unde veniet auxilium mihi”」(詩篇1201

【旅人】

私たちがこの世で他国人であるとは、本当の祖国に向かって旅する旅人であるということです。何故なら、私たちはこの地上で永久に生きているわけではありません。この地上は永住するところではないからです。私たちは、天国に向かって旅をしています。私たちの目的地はこの世ではありません。この世は、天国という永遠の命に辿るための手段にすぎません。私たちは今、移動中の身です。聖パウロはこう言っています。

「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を向ける。見えるものは限られた時間のものであるが、見えないものは永遠のものである。」(コリント後418

ですから、主イエズスは弟子たちにこうおおせられます。

「あなたたちは間もなく私を見なくなるが、また間もなく私にあうだろう」と。

この「間もなく」という表現は、いくつかの意味に理解できます。「間もなく私を見なくなるが、また間もなく私にあうだろう」というときの「私」を、御受難の前のキリスト・御復活した後のキリスト・天主としての霊的な現存としてのキリストと、三つの意味で理解することができるからです。

ところで、教父たちによると、キリストの天主としての霊的な現存、あるいは御聖体の秘跡における現存として理解した場合、この「間もなく」とは「世の終わりまでの間」を意味します。つまり、世の終わりまでの時間が「間もなく」とは、この世が、永遠に比べればあっという間に「間もなく」過ぎ去ってしまうからです。

聖ヨハネは書簡の中でこう書いています。

「小さな子らよ、最後のときである」(1ヨハネ 218

主は肉体的には私たちをお離れになりますが、世の終わりまで、霊的にあるいは御聖体としてとどまられます。主はこう言われました。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」(マテオ2820

「あなたたちは間もなく私を見なくなる」――しかし、この全世界の歴史は「間もなく」終わり、この世の終わりが訪れると、選ばれた者にとっては、主と一致する新しい永遠の命が「間もなく」始まります。

そうです。終わりを迎えるのは全世界の歴史だけではありません。私たち個人にとっても、裁きに至るまでの私たちの一生は「間もなく」終わってしまいます。私たちの人生の終わり、つまり私審判において、主は栄光のうちに審判者として現れ、私たちを裁かれます。ですから、この世のすべての歴史だけでなく、私たちの人生もまた、永遠に照らしてみれば「間もなく」あっという間に終わってしまうものです。詩篇にはこうあります。

「御身の目には、千年も過ぎ去った昨日のようである」(詩篇904

【永遠の観点】

では、私たちが「他国人であり旅人である」とは、どういうことなのでしょうか?

それはこの世が、永遠の現実から比べると儚い夢のようにあっという間に過ぎ去ってしまうということです。しかし、この悪夢のような浮世を終えた後には、永遠の命という素晴らしい朝の目覚めがあります。「ああなんだ、夢だったのか」と、この世のことを思うときが来るだろうということです。この世は、永遠のスタート地点にすぎないのです。この世でどれほど長く生きたにせよ、医学が進歩して、たとえ150年生きたとしても、若くして夭折したとしても、永遠の観点から見ると、束の間にすぎません。この世とは、永遠の最初の瞬間です。何故なら、私たちの霊魂は永遠に生きるからです。

ですから、聖ペトロの言う、私たちが「他国人であり旅人である」とは、私たちが「永遠という現実を直視しなければならない」ということです。永遠という、どうしても変えられない現実があることを認め、受け入れることです。そして今は、どちらの永遠に向かっていくかを決める時です。天主に向かうか、あるいは天主に逆らうか。真理を受け入れるか、もしくは嘘にこびりつくか。真の人間となられた真の天主イエズス・キリストをそのまま信じるか、それともイエズス・キリストに反対し、対立するのか。そのどちらかであり、これ以外の選択肢はありません。この選択によって、永遠の生命(天国)か、あるいは永遠の不幸(地獄)かが決定します。私たちの人生も、全人類の歴史も、天使たちの永遠の運命も、イエズス・キリストの真理を受け入れるか否か、キリストの友となるか反キリストとなるかによって決定します。

また、私たちが「他国人であり旅人である」とは、この世にこの世の富と宝を積んでも結局は自分のものにはならないということです。何故かというと、永遠の富以外は、あっという間に終わる夢の世界の宝にすぎないからです。

聖ベルナルドは、この問いを口癖にしていました。

Quid hoc ad aeternitatem?

これは永遠のために一体何の役に立つのだろうか?

私たちの主も、私たちにこう問いかけています。

「よし、全世界をもうけても、自分の霊魂を失ったら、それが何の役にたつだろう」(マテオ1626

そして、私たちが「他国人であり旅人である」とは、この世に愛着して、この世の奴隷になってはならないということです。聖ヨハネも言っています。「この世を愛するな」と。罪は私たちをこの世の奴隷にし、この世に縛り付けます。罪によってこの世に縛りつけられている者は、滅びゆくこの世と共に滅びてしまうでしょう。何故ならば、罪は私たちを自由にしないからです。真理こそが、私たちを自由にします。ですから、聖ペトロは書簡の中で「自由民(自由の民)としてふるまえ」そして同時に「天主の下僕(しもべ)としてふるまえ」と言います。つまり「罪と悪から解放された自由な人として生活し、行動しなさい」ということです。

さらに、私たちが「他国人であり旅人である」とは、この世を愛する人々から憎まれるだろうということです。主は言います。

「まことにまことに私はいう。あなたたちは泣き悲しみ、この世は喜ぶだろう。そうだ、あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。」

至福八端を通して、主はこう教えておられます。

「悲しむ人はしあわせである。かれらは慰めをうけるであろうから。」

すなわち、この世が天国に行くための手段にすぎないにもかかわらず、この世を究極の目的であるかのように生活することを悲しみ、この世の物を罪のために使う危険に囲まれていることを悲しむ人々は、たとえこの世を愛する人々から軽蔑されていても幸せである、何故なら永遠の慰めが待っているからだと、主は教えています。

これをもっと具体的に言うと、どういうことでしょうか?

私たちは、学校や職場で、あるいは近所づきあいやその他の繋がりの中で、この世の様々な傾向、流行や娯楽などに理解を示し、順応していなければ仲間外れにされることがあるかもしれません。「なぜ、あなたはしないのですか?」と言われるかもしれません。

また、たとえば堕胎や安楽死、自殺ほう助といったことに反対すれば「でも、皆がしていることだ」「苦しみなく死ねるのは良いことだ」「死にたいなら助けてあげればいい」などと言われるかもしれません。

「個人の自由であり権利だ、皆もしているから良いのだ」と言わんばかりに、多くの罪が犯されているこの世においては、私たちが持つ信仰や道徳観念を嘲笑い、愚か者や悪人であるかのように見なす人がいるかもしれません。

しかし、私たちが「他国人であり旅人である」とは、永遠の命・天国という現実を第一に考えなければならないということです。三位一体の唯一の天主という現実を直視し、そこに行かなければならないということです。唯一の救い主イエズス・キリストを通ってでなければ、その永遠の命には入れないと認めることです。カトリック教会という、イエズス・キリストが創立した唯一の教会を優先的に認めるということです。イエズス・キリストは、ご自分の教会であるカトリック教会を、罪・嘘偽り・誤り・この世・サタンと地獄から霊魂たちを救うために設立されました。この世のためではありませんでした。私たちは霊魂を救い、天国に行くために信仰を深く知り、これを宣言しなければなりませんし、これを実践しなければなりません。これこそが、私たちがこの世を「他国人であり旅人である」として生きるということです。

【聖ペトロの勧め】

聖ペトロは、この世をどのように生きるべきかについて、私たちにこのように勧めます。

「異邦人の中にあって、すぐれたおこないをせよ。それは、あなたたちを悪人としてそしる人々の中で、あなたたちの善業がよりよく評価されるためであり、訪れのときに天主にほまれを帰するためである。」

私たちは、善いことをしてそしられることでしょう。しかし、私たちの主イエズス・キリストは、今日のミサでも歌ったように、十字架をとり、十字架の苦しみを経て復活されたではなかったでしょうか?

聖ペトロは言います。

「善をおこなって、あなたたちをみとめない愚かな人々の口を閉ざさせることこそ、天主のみ旨である。」

「天主のために、患難と不正な苦しみを耐え忍ぶことは、天主によみされることである。」

これが、初代教皇聖ペトロの私たちへの勧告です。そして、歴代の教皇様たちもまた、口を揃えて同じことを私たちに教え続けてくださいました。

「この世を愛するな」

「私たちは、他国人であり旅人である」

「天国を目指せ」と。

私たちは、この精神でカトリック教会の信仰と実践を守り続けています。

71日に、聖ピオ十世会が新しい司教様たちを聖別するとしたら、まさにこの永遠の命のため・霊魂の救いのため・カトリック信仰とその実践のためであり、それ以外の何ものでもありません。もしかしたら、私たちはそのために、まるで悪人であるかのように、反乱者や離教者として破門だと言われることがあるかもしれません。しかしながら、私たちの望みはただ一つ。それは「永遠の命と霊魂の救いのため、カトリック教会に忠実に奉仕すること」です。私たちの行いのすべては、この望みに基づいています。もしも、私たちのカトリック教会の過去を断罪する人がいたとしても、私たちはこの不正な苦しみを耐え忍び、天主に嘉されることだけを望んでいます。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。

マリア様も、この世を「他国人として、旅人して」イエズス・キリストと共に過ごされました。そしてその結果、罪の汚れなくこの世を過ごし、天の元后に立てられました。マリア様にお祈りいたしましょう。マリア様の御取り次ぎで、私たちもイエズス・キリストの跡を歩むことができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。