"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ"とは?
2025年10月5日 聖霊降臨後第17主日
トマス 小野田圭志神父説教 日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の福音で、主は第一の最大の掟として、"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ"とおっしゃっています。
「すべての心と霊と知恵をあげて天主を愛する」とは、いったいどういうことでしょうか?
これは、天主以外の愛を捨て、全身全霊をこめて、全てを天主のために、天主の愛によって愛するということです。では、特にこの天主の愛について一緒に黙想してから、遷善の決心を立てましょう。
【1:天主への愛】
天主への愛が霊魂に満たされる時、天主への愛という動機によって、霊魂が全ての行動を行うようになります。その時、他のものへの愛は、天主への愛によって満たされ、豊かになります。そうすると、天主との親密で密接な一致、また完徳に至るための特別な助けとなります。何故なら、天主への愛のために行う場合、それは天主への愛の延長となるからです。
ですから、私たちは、隣人を愛するにも天主への愛のために、天主を愛するがために「隣人を自分と同じように愛する」のです。隣人とは全ての人々のことで、善人や悪人、友人や敵も、全ての人々のことです。そして、自分のように愛するとは、特にこの全ての人たちの「救霊を望む」ということです。
昨日祝ったアシジの聖フランシスコは、この天主への愛のために、隣人だけでは済まされませんでした。父なる天主がつくられた全ての被造物、太陽、水、魚、鳥などを、果てには人間を食べてしまうようなオオカミでさえ、兄弟姉妹として愛を注ぐに至りました。
ですから、天主への愛に由来する全ての愛情とは聖なるもので、私たちの完徳を増してくださるものです。しかし、天主の愛とは関係のない、純粋に人間的で自然的な愛情についてはそうではありません。
【2:天主とは関係のない愛情】
では第二のポイントに、天主への愛とは関係のない愛情について見てみましょう。
天主へと秩序づけられていない愛情は、罪ではないかもしれませんが、罪の原因(罪の根源)となる危険があります。そして、そのような自然の愛情が霊魂を満たすと、大罪や小罪が生じてしまうようになります。
「え? 大罪も生むんですか?」
はい。たとえば、聖書にそのような例があります。
――大罪を生む例――
たとえば、ユダ・イスカリオトは、お金に対する愛着がありました。この被造物への愛着がユダ・イスカリオトの心に根を張り、それが機会を求めて、少しずつ少しずつ表面に出てきます。ある時は、マグダラのマリアが、非常に高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエズス様のおん足にぬった時、イスカリオトのユダは見せかけの愛徳で、あたかも貧しい人を気遣っているかのように「なぜ、この香油を三百デナリオに売って、貧しい人に施さないのか」(ヨハネ12:5)と、マグダラのマリアを叱りました。
でも、これだけでは済みませんでした。お金に対する愛着はあまりにも強く、ついにイスカリオトのユダは、イエズス様をお金で売り渡すことさえしてしまいます。イエズス様が、ユダについてこう言われたほどの犯罪でした。「その人は、むしろ生まれない方がよかったものを!」と。
――寄生の愛情――
天主へと秩序づけられていない愛情が、私たちの心を占領してしまうと、私たちはその愛情のために、喜び・幸福・目的の全てを被造物に置くようになってしまいます。そうすると、私たちはついに大罪を犯すようになってしまいます。何故かというと、大罪とは、天主を愛するよりも被造物を愛することであり、天主への愛よりも被造物に対する愛が勝利してしまうことだからです。
でも、天主のためではない、天主へと秩序付けられていない愛情が全て、大罪までいくとは限りません。むしろ、そこまでいくことは稀です。しかし、天主への愛を脇に置き、天主への愛と同時に、別々に関係なく存在するような愛情は存在しています。それはちょうど、何かに寄生して、宿主の栄養を盗み取ってしまう寄生植物や寄生虫のような愛情です。そのような愛情は、天主への愛の成長と発展を邪魔し、その完成を妨害してしまいます。たとえ大罪にまでは至らなかったとしても、私たちを小罪や不完全へと導き、天主の望んでいる完璧な愛にたどり着くのを邪魔してしまいます。私たちの心に寄生する愛情です。
ところで、農家の人が庭の手入れをしている時、植物らを見比べて「この木はなんか成長できなくなっているなぁ。葉っぱが歪んでいるし、茎もちょっとおかしいし、色がおかしい。それに実もつけていない」となると「あぁ、これもしかしたら寄生虫にやられているかもしれない。病気になっちゃっているよ。根にあるのかなぁ。葉っぱか茎にあるのかわからないけれども、何かに寄生されている」と判断します。
植物が、他の植物や虫に寄生されると、病気になって成長が止まり、実をつけることもできなくなるのと同じように、もしも霊魂が、当然進むべき完徳へと進歩していないと、たとえ大罪や小罪を犯しているのではなかったとしても、霊的な指導者は「それが何か具体的にはわからないけれど、霊的な進歩を妨げているような愛着がある。天主へと秩序付けられていない、乱れた愛着があるのではないだろうか」と判断することがあります。
【3:天主への愛でない愛情を放棄する】
私たちの主は、もしも私たちが完徳を目指すならば、天主以外への愛を、私たちの心から捨ててしまうように、この世の全てのことに対する愛着を捨てるようにと教えています。
本当です。例えば、山上の垂訓で至福八端を教えられたときこう言われました。
「心の貧しい人は幸いである、天の国は彼らのものだからである」(マテオ5:3)と。
天の国とは、天主との愛の一致のことです。天主の愛の命に、永遠に完全に参与し、交わることです。ですから、天の国とは「天主への愛」だけを持っている人々のためのものです。天主への愛ではないものを捨て去り、被造物に乱れた愛着を持たない人々が天国に入るのです。つまり、心の貧しい人たちのものなのです。
また、主は「塔を建てようとする人」や「戦をしようとする王」のたとえを用いて話されました。
「あなたたちの中に、塔を建てようと思う人がいるとする。その人はまず、腰かけて、費用を計算し、自分のもっているもので、完成までに足りるかどうか計算しないだろうか。礎をおいても、完成しなかったら、見ている人は、"あの人はたてかけて完成できなかった"とあざわらうだろう。また、ほかの王と戦をしようとする王なら、出かけるにあたって、まず腰かけ、こちらの一万人で、二万人をひきいてくる相手に対抗できようか、と考えてみないだろうか。もし及ばないと思えば、まだ敵が遠くにいるうちに、使者をおくって和睦を乞うだろう。それと同様に、あなたたちも、自分の一切の持ち物を放棄する人でなくては、私の弟子にはなれないのである。」(ルカ14:28-33)
つまり「塔を建てようとする人」は、それだけのお金があるかを計算し、「戦争をするような王様」は、勝てるだけの兵隊の数を持っているかを計算するだろう。もしそうでなかったら、こんな無茶はしないと。
つまり、塔を建てるためには建設費用が、戦をするには軍人がそれぞれ十分に必要であるように、完徳にたどり着くためには「離脱」が必要だと主は言うのです。
イエズス様のたとえの結論はこうです。
「自分の一切の持ち物を放棄する人」でなければ、私の弟子にはなれない。
つまり、私たちの心が被造物から離脱していなければ、私たちは、天主との完全な一致に辿り着くことができないとおっしゃっているのです。
もちろん、大罪だけが天主の愛を私たちから奪い、完全に失わせてしまいますが、たとえ大罪でなくても、被造物への愛が、あたかも寄生しているかのように脇に共存(併存)していると、主は、私たちの霊魂を自由にできなくなってしまいます。確かに、イエズス様は、私たちの霊魂の素晴らしい客間におられるかもしれませんが、それ以外には行くことができず、私たちの霊魂を完全に所有することはできなくなってしまうのです。
ですから、あるときイエズス様は、福音に出てくる若者にこんなことさえおっしゃいます。特別の召し出しを彼にしたのです。
「もしもあなたが完全になりたいならば、もちものを売りにいき、貧しい人々に施せ。そうすればあなたは天に宝をつむだろう。それから、私について来るがよい」(マテオ19:21)と。
この福音に登場する若者は、小さい時から主の掟をみな守ってきた、まじめで敬虔な青年でした。そして「イエズスはかれをじっとみつめ、いつくしんで」(マルコ10:21)、霊的な莫大な富を与えようと、お待ちになっておられたのですが、残念ながら「このみことばをきいて、若者は悲しそうに去っていった」(マテオ19:22)のです。
何故かというと、福音によればその理由は「かれは大金持だったからである」(マテオ19:22)と書いてあります。つまり、かれは、イエズス様から特別の愛と招き(召し出し)を受けながらも、この世の富に乱れた愛を持っていたのです。しかし、この愛情は罪ではありませんでした。掟を守ってきたのですから、不正な富でもありませんでしたし、富を悪用したわけでもありませんでした。ただ、イエズス様に従うために、被造物を放棄することができなかっただけです。
【4:天主への全てを超えた愛】
では、イエズス様のこの教えは、私たちに何を言おうとしているのでしょうか?
それは、天国の秘密を私たちに理解させてくれる特別の鍵があるということです。それは「愛」です。イエズス様は、聖心の莫大の富を私たちに示し、智恵とお恵み、祝福をも与えようとしてくださいますが、それをしてくださるのは愛です。また、主が私たちの心の中に入って来てくださることや、完徳の高みにまで導いてくださるのも愛です。
ですから、もしも私たちがイエズス様の聖心に入って、その富を見出したいならば、私たちの愛が必要なのです。
確かに、お金でこの世のほとんどのものは買えるかもしれませんが、いくらお金を積んでも心だけは買えません。人は、お金のためにどんな卑しいことも、恥ずかしいことも行い、まるでお金の奴隷のようになるかもしれませんが、心だけは売りません。
イエズス様の聖心も同じです。主の聖心の中に入るのは愛だけによります。
そして、天主への愛を妨げる唯一のものがあります。それは別のものへの愛です。何故かというと、天主は浮気心を嘉されず、一途の愛をお求めになります。
何故でしょうか? 何故かというと、主は限りのない一途の愛で、永遠の昔から私たちを愛しておられるからです。また、無限のご謙遜で、卑しい私たちのもとにまで降りて来られて私たちを愛し、愛しつくそうとされているからです。
イエズス様にとって、私たちの過失や弱さ、みじめさといったものは問題ではありません。何故かというと、イエズス様は無限に憐れみ深く、忍耐強く、そして私たちを常に赦そうとされているからです。たとえ私たちの主への愛が、どれだけ小さなものだったとしても、しかし、私たちの主への愛が、分割・分散していたり、引き裂かれていたり、二心だったりすると、それは容赦されません。主は、私たちの心の全部を求めておられます。ですから、私たちには「すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛する」義務があるのです。
なぜ、主が私たちの心の全てを求めるのかというと、主が私たちを愛しておられるからです。イエズス様は、完全に私たちのものになりたいと思っておられるからです。そして、私たちがイエズス様を完全に所有し、イエズス様も私たちを完全に所有したいと思っておられるからです。何故かというと、愛というのはそういうものだからです。
ですから、主は、私たちの一番良い部分、最高のところや大部分では満足されないのです。全てが欲しいと、私たちの心の全てを求めておられます。
何故でしょうか? 何故なら、天主は私たちの創造主であり、私たちは主から全てを受けたからです。私たちの持っているもの全ては天主のものであり、天主から受けたものだからです。だから、私たちの全ての愛を求めておられます。
また、主が私たちの愛の全てを求めておられるのは、主が、ご自分の血潮を支払って、私たちを買い取られた贖い主だからです。私たちは、天主に高い値段で買い取られ、主のものとなった者です。ですから、私たちをここまで愛してくださった天主に、私たちは全ての愛を捧げる務めがあるのです。
【5:遷善の決心】
では、最後に遷善の決心を立てましょう。私たちが、最大の第一の掟を守ることができますように。主に私たちの愛の全てを、私たちの心を全てお捧げしましょう。そして、そうすることができるようにお祈りいたしましょう。
この世の愛情は見かけの価値しかありません。この世のものは全て、あっという間に終わってしまうからです。福音のあの若い男は、イエズスに従うことはしませんでした。それは「大金持だったから」です。かわいそう、というか残念です!
もしかしたら、かれは何千億円というものすごい莫大な富、大邸宅や財産を持っていて、それを放棄するのが惜しかったのかもしれません。人間の目から見ると、理解できなくはないかなと思うかもしれません。
しかし、もしも誰かが、たかが数十円のことに愛着を持っていたので「イエズスに従いたくない」と言ったとしたら、かわいそうというよりは愚かだ、馬鹿馬鹿しいと。なんでそんなくだらないもののために、イエズス様からのものすごい富を捨ててしまうのかと言わなければなりません。
信仰の目からみれば、何百億円も数十円も、そのために天主を選ばなかったのですから同じく愚かです。主は、私たちのこころに「寄生」する他の愛情を根こそぎにするために、私たちに試練を送ることがあります。
ところで私たちは、非常にしばしばつまらないもののためにイエズスに従うのを拒み、また邪魔されてできなくなっています。私たちにとって、それはなんでしょうか?
寄生虫のような、寄生する愛着はなんなのでしょうか?
もしかしたら、それは携帯なのかもしれませんし、特定の人や場所なのかもしれません。あるいは自分のある考えや、自分のメンツかもしれません。または、なんでしょうか?
私たちが完徳に至るには、イエズス様との完全な一致に到達するためには、私たちの心に「寄生」する他の愛情を取り払わなければなりません。それは、どのような人間的愛情でしょうか?
主は言われます。
「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ」
この心を全て、イエズス様を愛するがための愛情に変えてくださいますように。私たちの心を清めてくださいますよう、主にまたマリア様にお祈りをしましょう。
私たちの心が、悪魔からの汚染を避けて、純粋に主にだけ仕えることができるようにお祈りをしましょう。
特に10月はロザリオの月ですから、マリア様に倣い、全てをイエズス様への愛のために送る人生とすることができますように、ロザリオを捧げながらマリア様にお祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。