愛のあまり私たちのために人間となられ天からお降りになった主を、私たちから拒絶されている主を、聖霊を通してお慰めするとは?

ソース: FSSPX Japan

2025年12月25日  主の御降誕(日中のミサ)

トマス 小野田圭志神父説教  聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、私たちの主イエズス・キリストの御降誕の大祝日です。かつてベトレヘムのうまやでお生まれになった、私たちの主イエズス・キリストに心を馳せながら、主をお慰めすることを一緒に黙想いたしましょう。

なぜ、私たちが主をお慰め申し上げたいのかと言うと、全能永遠の天主でありながら、その御愛のあまり私たちのために人間となられ、天からお降りになった主は、その御恩を受ける私たちから拒絶されているからです。王の中の王である私たちの主は、何も受けることなく捨てられ、それは、寒さの厳しい冬の時期に、うまやでお生まれにならなければならないほどでした。

もし、私たちの大恩人である主の、赤子の姿で泣いておられる御姿を拝見したならば、私たちは何もせずにいられるのでしょうか?

ですから、私たちはこの愛の王を少しでもお慰め申し上げたいと思っています。

主をお慰めした聖人たちは、過去にたくさんいます。しかし、色々な聖人聖女の中で、最も主をお慰めされたのはマリア様であり、また聖ヨゼフに違いありません。しかし、さらなる最高の慰め主がいます。それは聖霊です。

私たちは、典礼において「最善の慰め主よ Consolator Optime」と聖霊に呼びかけ、歌います。ですから今日は、主をお慰め申し上げるためにどうしたら良いかを考えるにあたり、聖霊を通して主をお慰めすることが、最大にして最善であることについて特に黙想したいと思っています。

【1:慰めとは】

「聖霊を通して・聖霊によって・聖霊と共に主を慰める」

これはいったいどういうことでしょうか?

慰めには、二つの種類があります。一つは「人間的なもの」であり、もう一つは「天主によるもの」です。

まず、人間的な慰めとはどのようなものでしょうか?

これは、私たちがよく行うものですが、あくまでも外からのものに過ぎず、非常に表面的で力が無いため、不完全なものと言えます。たとえば、私たちが苦しんでいる相手に対して、いくら一生懸命に愛情を注ぎ、慰めの言葉をかけ、同情の意を表したとしても、ほとんどの場合、その苦しむ心の中には大して染み透っていきません。時々、このような人間的な慰めが人の心に響くことがあるかもしれませんが、それは非常に稀です。人間に人間を慰める力は、ほとんどありません。

特に、大きなものを失った人を前にした時、私たちはいったいどうやってその人を慰めることができるでしょうか?

とてつもなく価値のあるものを失った人へ、その代わりに何を与えられるのでしょうか?

子供だましのようなもので、果たして慰めを受けることができるのでしょうか?

このように、人間の・人間的な・人間による慰めとは、表面的で無力、つまり不完全だと言わなければなりません。そして、そのようなやり方で主をお慰めするのではないということです。

かつてイエズス様は、聖霊について話して「私は、パラクレトゥス(慰め主)を送る」(ヨハネ1416)と言いました。ギリシア語の「パラクレトゥス」とは、横に・そばに(パラ)呼ばれた者(クレトゥス)で、困った時に近くにいるように呼ばれた者、法廷では弁護者ですが、苦しい時には慰める者、という意味があります。私たちに送られたパラクレトゥスによる慰め、聖霊による慰めとはいったいどのようなものでしょうか?

私たちにとって、天主による慰めだけが本当の慰めであり、聖霊こそが、最高にして最善の慰め主でいらっしゃいます。何故なら、聖霊の慰めとは内的なもので、心の奥深くにまで及び、染み込んで、その影響は長く続くからです。

聖霊が慰め主と呼ばれるのは、聖霊が、時として、私たちの心を天の光で照らし「ああ、そうだったのか!」と、私たちに理解させることがあるからでしょうか。あるいは、時々私たちに聖なる愛情を引き起こし、イエズス様への愛に燃えさせてくれるから、もしくは地上の物事から私たちの心を引き上げて、この世のものから離脱させ、天の甘美で満たしてくれることがあるからでしょうか。

しかし、このような御恵みは一時的で、次第に消えてしまうものです。そして、聖霊が「慰め主」であると言われるのは、このような一時的な甘い慰めのためではないと、神学者たちや霊的指導者たちは説いています。

たとえば、アビラの聖テレジア(1515-1582)は、このような甘美さが一切ない、真っ暗で、無味乾燥な霊的生活を何十年も過ごしました。でも、だからといって、聖霊が聖テレジアに何も慰めを与えていなかったわけではありません。

そもそも「慰め」とは何でしょうか?

慰めとは、苦しみや辛いことの中における、幸せや喜びのことです。聖霊は、この逐謫(ちくたく)の地――つまり、天国から追放され、苦しみと悲しみにまみれたこの地上の世にいる霊魂たちに、幸せと慰めを与えてくださいます。

ところで、この地上を生きる私たちにとって、本当の苦しみとは何でしょうか?

最大の不幸や悲しみとは、いったい何でしょうか?

それは、私たちが「天主を完全に所有していないこと」です。

私たちがまだ天国に到達していないがために、罪を犯し、天主を失う危険に囲まれていることこそが、私たちにとって本当の不幸なのです。

私たちは、目に見える地上の物事にいつも気を紛らわされて、天主や永遠のことをコロリと忘れてしまっているかもしれませんが、私たちにとって本当の、永遠にして絶対の善とは、天主なのです。

聖パウロはこう言っています。

「私としては、この世を去って、キリストとともにいたいとおもう。その方がはるかによい。」(フィリッピ123

霊的暗闇にずっと苦しんでいたアビラの聖テレジアもまた、いつも天主との一致を熱望していました。そして、今のこの世の肉体の生命は本当の生命ではなく、死のようだ。死んでこの世を去ってこそ、本当の生命がある。今は死んでいるような人生だけれども、それは死んでいないからだ、というような詩を書いています。

Vivo sin vivir en mi,

y tan alta vida espero,

que muero porque no muero.

われこそは、生きずに生きる、この身にぞ、

いと高き命希望し、生きるのは

死ぬがごとしぞ、死なぬがゆえに。(トマス小野田神父試訳)

私たちの本当の悲しみとは、天主から遠く離れて生活していることであるはずなのです。つまり、天主と完全に分かち難く結びついていないことです。しかし残念ながら、私たちはそれにあまりよく気が付いていません。

このように、私たちが逐謫(追放)の身としてこの地上の生活を送る間、聖霊は、この地上で受けることができ、また所有できる限りにおいて、私たちに天主を与えてくださいます。

聖パウロの言い方によれば「希望するものの保証」(ヘブレオ111)です。

そうすることによって、聖霊は、私たちが熱望している究極の目的(現実)である天主を、絶対的に恒久的に与えようと働きかけておられます。

たとえ、今この地上では、この世を遥かに超える天国の輝きを持つことができなくても、それへの保障をお与えくださいます。ですからその意味で、聖霊の与える慰めは、奥深く内的で、ずっと続く継続的なもの、力強く完全なものなのです。

【2:拒絶された救い主を慰める】

聖霊が私たちを慰めるように、私たちもイエズス様をお慰めしたいものです。

とは言っても、ふさわしく真にイエズス様の聖心をお慰めすることができるのは、聖霊だけです。しかし、聖霊はあまりにも愛と憐みに満ちあふれた御方ですから、私たちを道具として使い、イエズス様の聖心をお慰めしようとしてくださいます。

ところで、聖霊はイエズス様に何をされたでしょうか?

聖霊は、マリア様を通してイエズス様の御体をかたちづくられました。

「聖霊によりて宿り、童貞聖マリアより生まれ」と言われた通りです。それと同じように、聖霊は今、マリア様を通してキリストの神秘体をかたちづくろうとしておられます。かつてイエズス様は、御自分を信じる人々がうけるはずの霊について話された際、このように言われました。

「かわいている人があれば、私のもとに来て、そして飲むがよい。私を信じるものは!聖書のことばにあるとおり、生きる水の川が、そのふところから流れ出るだろう」(ヨハネ737

そして、聖霊降臨の日以後、主の御受難と御死去の実りである聖霊が私たちに与えられました。ですから聖霊は、御自分を通してイエズス様の聖心をお慰めし、イエズス・キリストの神秘体をつくることを望まれています。

先ほど「慰め」とは、苦しみや辛いことの中における幸せや喜びのことだと言いましたが、私たちはしばしば、価値のある何かをまだ所有していない人、あるいは失った人に、その代わりに何かを与えて慰めます。まだ手に入れていないものが小さいものなら、慰めるのは簡単です。この世の大きな価値を失った人を慰めるのは大変ですが、でもこの世のものはそれでも小さなことです。また別の機会もありますし、さらに大きな霊的な善もあるからです。失ったものに匹敵する何か別のものを提示することが可能です。

しかしながら、これはあくまでも私たちについての話です。

イエズス様は、何を欲しておられるのでしょう?イエズス様は、何をまだ手に入れることができないでおられるのでしょうか?

それとも、何かを失ってしまったのでしょうか?

イエズス・キリストは、天主として、天においては全てを所有しておられますから、イエズス様が失われたものはありません。しかしながら、イエズス様がまだ欠けていると思っておられることがあります。それは「キリストの神秘体が完成すること」です。イエズス様は、これを望んでおられます。

それは、キリストの神秘体において、聖パウロが言う通り「キリストのおん苦しみの欠けた所をみたす」(コロサイ124)ことができるようになるためです。

あるいは、聖パウロの言うように、

「満ち満ちるキリストの背丈にまでいたる完全な人間をつくる」(エフェゾ413)ためです。

つまり、主は、霊魂たちが主と一致して、天主の聖寵の命を生き、キリストのように思い・願い・感じることを望まれます。最後の時が来て、贖い主によって最後に救われるべき霊魂が天国に到達する時まで、主の御業は続きます。

私たちの主は、ますます多くの霊魂たちが主の愛の御許に集まり、イエズス様との完全な愛の一致に到達することをお望みです。それを求めて、イエズス様はこの地上にお生まれになったからです。イエズス様は、この地上で主の御国が確立し、完成することを欲しておられます。この大勝利の日がくるまで、御自分の最高に欲しておられることを得て満足するまで、主は慰めを望まれます。

【3:私たちが主を慰めるためにできること】

では、私たちは、イエズス様をお慰めするために何ができるでしょうか?

それは三つあります。ぜひ全てを覚えて、遷善の決心を立てましょう。

一つは、私たちがイエズス様と一致することです。つまり、私たち自身を主にお捧げすることです。制限も条件もなく、私たちの心をはじめ、私たち自身を全て奉献することです。こうすることで私たちは聖化され、主もまた愛の慰めを受けます。

ところで「子供は親の心を知らない」とは、よく聞きます。

親がどれほど子供のことを思い、愛を込め、世話をしても、子供はそのことを全然知らずに、言いたい放題を言うことがあります。そのような時に、私たちは「ああ、なんという親不孝な者だ!」と思うことでしょう。

また、歌謡曲の中には、愛するけれども愛されない苦しみが綴られた歌もいっぱいありますが、このような片想いという状況もまた、この世でよく嘆かれ歌われるものの一つでしょう。

もしも、私たちがこのような場合に苦しみを感じるのならば、イエズス様にとってはどれほどでしょうか?

イエズス様が、これほど私たちを子供のように愛しておられるにもかかわらず、その御愛に私たちが応えなかったとしたら。

永遠の愛にして、私たちを真に愛される主にとって、私たちから愛を受けないことは、どれほどの大きな苦しみと悲しみを伴うことでしょうか?

ですから、私たちはいつも自分の全てを完全に主へ奉献し、主の愛に私たちの愛をもってお応えすべきなのです。

二つは、イエズス様の愛の御計画に、私たちが積極的・能動的に参与することです。つまり、私たち自身のことだけではなく、他の多くの霊魂たちの救いと聖化のために、私たちも協力するということです。

三つは、聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様がお願いされたことで、罪の償いです。ゲッセマネの園で、主は、人々の霊魂において天主の命が罪によって破壊されることを苦しまれました。主の御苦しみとその御愛にもかかわらず、多くの霊魂たちは主を離れ、永遠の苦しみへと落ちています。そしてあろうことか、救われる霊魂たちからも忘恩や冒涜、無関心、冷淡を受けておられます。イエズス様はそれらについて非常に苦しんでおられ、その御悲しみの大きさは計り知れず、とても慰められ得ないかのように思われます。ですから、そのようなイエズス様を少しでもお慰め申し上げるために、私たちは罪の償いをさせて頂くのです。

【4:遷善の決心】

愛する兄弟姉妹の皆様、私たちへの愛ゆえに、天主の御子が私たちに与えられました。幼児(おさなご)となってお生まれくださった、救い主の御降誕を心から祝いましょう! 天主の主権は彼の肩の上にあります。その御名は、大いなる救いと愛の御計画の使者と呼ばれます。

私たちは、主の近くに馳せ参じて、主をお慰め申し上げましょう。

そのために、マリア様に御取次を願いましょう。マリア様は、聖霊と共にこの三つをなさっておられました。天主に御自分を捧げ、霊魂たちの救いのために全面的に協力され、そして罪の償いまでも捧げておられました。無原罪の御宿りであるその清らかな御身には、罪が全く存在しなかったにもかかわらずです。

どうぞ、聖霊の御力とマリア様の御助けによって、私たちが主の近くにいつも留まり、主をお慰め申し上げることができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。