5つのパンと2匹の魚の奇跡--「聖ヨゼフのもとに行け」
2021年3月14日 四旬節第四主日
トマス小野田神父 説教
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2021年3月14日、四旬節第4主日(レターレの主日)です。一緒に福音の黙想をいたしましょう。
1:福音のパンの増加の奇跡
今日の福音ではパンの増加の奇跡の史実が読まれました。これは本当に起こったことです。
時は過ぎ越しの近くで、冬も終わり、多くの草が生えている頃でした。ティベリアデ湖の向こう岸の山での事でした。大群衆をご覧になった私たちの主は、大麦のパン5つと魚2匹で、およそ5000人の男と、さらに女性と子供たちをじゅうぶんに食べさせました。パンと魚を人々の望みのままにおあたえになった残りを集めると、5つの大麦のパンをさいて食べた残りが、12のかごにいっぱいになりました。
この奇跡ののちに、イエズス・キリストはカファルナウムの会堂でこう宣言します。
「まことにまことに、私はいう。信じる人は永遠の命をもつ。命のパンは私である。あなたたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べたが、死んだ。しかし、天からくだるパン、それを食べる人は死なない。天からくだった生きるパンは私であって、このパンを食べる人は永遠に生きる。そして私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である」。
御受難の直前、主は御聖体を制定されます。1度や2度ではなく、毎日、世の終わりまで、数えきれないほどの何百万、何千万という全地の信徒たちを、ご自分の御体と御血で養おうとされます。ベトレヘム(パンの家)で生まれた主は、私たちが思う存分、主を拝領し、恵みを味わってもまだ尽きることはありません。
史実が意味する霊的な意味
ガリラヤ湖は、神秘的にはいつも変わるこの世を意味しています。時が満ちてキリストはこの「湖」「海」に来られ、死と復活を通してこれを過ぎこされました。群衆もキリストの後に従います。主は次に山に登られますが、これは神秘的に御昇天を意味します。
過ぎ越しの少し前に主は多くの人々を養います。これは霊的に悪徳から聖徳へと移る過ぎ越しのために、主は御言葉のパンと、御体と御血で私たちを養うと言うことの前兆です。
大麦のパン5つは、神秘的に旧約の律法を意味します。何故なら旧約のユダヤ人たちはまだ肉的だったので五感のもとに支配されていたからです。ですから群衆も5000人でした。また律法はモーゼの五書(5冊の書物)によって与えられたからです。大麦も律法を暗示しているといわれます。何故なら大麦は固い殻に包まれているからで、肉の情欲に包まれている心を暗示しているからです。また大麦は家畜や奴隷の食べ物だったからです。
2匹の魚は、私たちの主のシンボルで、王の権威と司祭の権威の二つを暗示すると聖アウグスチヌスは言います。尊者聖ベーダは、2匹の魚は預言者と詩篇のことだと言います。
子供は、神秘的にユダヤ人を意味していると聖アウグスチヌスは言います。大麦のパン5つと2匹の魚を持っていたにもかかわらず、それを食べずに重荷として持っていただけだからです。これらは多くの人々に役に立たなかったのです。しかしイエズスがそれを取って成就させて始めて多くの人々を養うことができるようになりました。モーゼの五書が、イエズスによって開かれて完成するからです。
残り物は、聖アウグスチヌスによれば、神秘的には、群衆が理解することができない深い真理と神秘のことです。それは理解できる使徒たちのもとに集められ収められます。だから12のかごにいっぱいになりました。
2:天から下った生きるパンをいただくために「ヨゼフのもとに行け」
今日は特に来る金曜日3月19日の全世界におけるカトリック教会の守護者である聖ヨゼフの祝日を目の前にしているので、考えはどうしても聖ヨゼフに向かってしまいます。何故なら、全世界を養うお方であるイエズス・キリストを養ったのが養父聖ヨゼフだからです。天から下った生きるパンに日々の糧を与えたのが聖ヨゼフだからです。
聖ヨゼフは、旧約の太祖ヨゼフという前兆を実現した方です。長い間忘れられていたかのようですが、危機の時にその偉大な力を発揮するからです。旧約時代、7年にわたる全世界の飢饉でくるしむ時、ヤコブの子のヨゼフのおかげでエジプトにはパンがありました。エジプトの国民さえ飢えるようになってファラオにパンを求めると、ファラオはこう言います。「ヨゼフのもとに行け。しかして彼がおまえたちに言うことをなせ」と。するとヨゼフは全ての穀倉を開いて、糧を売りました。
2021年3月、聖伝のミサが世界中で消滅しかけてはや50年となり、今では、コロナ禍のために新しいミサも世界中でたてることができなくなっています。御聖体をいただくのが難しくなっている霊的な飢饉の時のようです。この時こそ、前兆が成就しつつあるようです。「ヨゼフのもとに行け。しかして彼がおまえたちに言うことをなせ」。
聖ヨゼフは、イエズスと聖母とに対して三位一体の代理者だった
何故、聖ヨゼフがそれほど大切なのでしょうか?
教皇聖ペトロは、この地上におけるイエズス・キリストの代理者として名誉を受けています。教皇は地上の全ての皇帝と王たちよりも上に立ちます。何故ならキリストの代理者だからです。
しかし、聖ヨゼフは三位一体の代理でした。聖パウロは「天主はどんな天使にむかって『あなたは私の子である。私は今日あなたを産んだ』とおおせられたことがあろうか」と問いましたが、御父は聖ヨゼフにご自分の父の愛を与え、聖ヨゼフは御子を「我が子よ、あなたは私の子である」と言います。御子は聖ヨゼフを「父よ」と呼び、聖ヨゼフに服従し、ナザレトではご自分のことを全て聖ヨゼフに代理者として全権を委ねました。天主聖霊も、雅歌の中で汚れなき童貞聖母を「花嫁」と呼び、ご自分に代わって聖ヨゼフを選んで聖母のことを委ねました。つまり、御父は、聖ヨゼフに御子を与え、御子は聖ヨゼフにご自分を与え、聖霊は聖ヨゼフに聖母を浄配として委ねたのです。聖三位一体は全人類と全世界を支配し宰統していますが、この聖三位一体の委託をうけて一人の男が人となった天主の御言葉と天主の御母を統べているのです。
聖ヨゼフと使徒聖ペトロ
キリストは、聖ペトロを選んで使徒たちの頭となし、天国の鍵を与えました。聖ペトロに自分の羊と小羊を牧することを命じました。聖ペトロに、キリストの代理者として全教会の世話を委ねました(マテオ16:18)。聖ペトロは、イエズスから、他の使徒たちよりも愛するかと尋ねられて、その通りだと答えました。また受難の前には主の命を剣で守ろうとさえしました。聖ペトロこそ、主から足を洗われ、司教と聖別され、御聖体を授けられた最初の人間でした。
*聖ヨゼフには天国の鍵は与えられませんでした。しかし、鍵はしもべ・管理者に与えられます。聖ヨゼフには御子イエズスが与えられ天主の御母が与えられたので、ただの鍵ではなく天国の門が与えられました。イエズスはこう言います。「まことにまことに私はいう。私は羊の門である」。教会は聖母にこう祈ります。「天の門、我らのために祈り給え」。聖ヨゼフは、この2つの門を自分の思い通り(つまり天主の思い通り)これを開けたり閉めたりするのです。
*聖ヨゼフは、羊と小羊を牧する単なる牧者ではありません。「良き牧者」と「天主の小羊」と「天主の小羊の母」を養う方です。聖ペトロがしもべたちを養うなら、聖ヨゼフは天と地の支配者であるイエズス・キリストと、天地の元后聖母を養うのです。
*聖ペトロが、キリストの代理者として地上における全教会の頭であるなら、聖ヨゼフは聖三位一体の代理者としてイエズスと聖母マリアの頭です。
*聖ヨゼフは、イエズスから他の使徒たちよりも愛するかと尋ねられませんでした。聖ヨゼフの全生涯がそれを証明していたからです。イエズスと聖母の命を守り抜いたからです。
*イエズスは一度だけ聖ペトロの足を洗いました。しかし主は子供のころから聖ヨゼフにそれ以上の奉仕と親切を毎日どれほど多くしていたことでしょうか。
*聖ヨゼフは叙階の秘跡を受けず、司教にはなりませんでした。しかし聖家族の監督者となり、聖家族がそのいわば「司教区」でした。
聖ヨゼフと使徒聖パウロ
大使徒である聖パウロは、ダマスコへと向かう途中に天の光に包まれイエズスの声を聴き回心し、イエズスと対話をしました!聖パウロは第三天にまで挙げられて、天主を一時的に見ることさえしました。天主の御言葉の剣で武装し、福音を異邦人たち、王たち、イスラエルの子らに告げました。
しかし、聖ヨゼフは、天が自分の家にまで降りてきました。自分が天主の玉座にしもべとして挙げられるのではなく、天主の御子が聖ヨゼフの子供として降りてこられました。聖ヨゼフは、聖パウロのように肉体をもってかあるいはそうではないか分からないまま天に挙げられはしなかったかもしれませんが、聖ヨゼフの全生涯は肉体をもった絶え間ない天主をまみえる生活でした。イエズスは、使徒たちにはしもべがあるいは友が知るべきことを教えましたが、聖母と聖ヨゼフとには父母が知るべき親密な秘密を全て明かしました。
聖ヨゼフと使徒たち
使徒たちは、全世界に行ってイエズス・キリストを御聖体として与えようとする宣教師となり、イエズスのために家も故郷も全て棄てました。
しかし、聖ヨゼフは、イエズス・キリストの命を守るために家も故郷も捨てて異国の地に行き、異教の地であるエジプトにイエズス・キリストをもたらしたいわば最初の宣教師、いわば最初の「使徒」でした。
使徒たちは、イエズス・キリストの御体を分配する「しもべ」らです。キリストのしもべ、servus Christiです。
しかし聖母と聖ヨゼフは、イエズスの父母です。天主の御言葉であるイエズス・キリストが、「父よ、日々のパンを与えてください」と言ったのは、天主御父と聖ヨゼフとにだけでした。
私たちは御聖体におけるイエズス・キリストを礼拝しています。
しかし聖ヨゼフこそ聖母とともに最初にイエズスを礼拝した方、主とともに生活した方、最初に主に語り掛けた方、イエズスへの愛のために最初に苦しんだ方でした。
3:遷善の決心
天から下った生きるパンであるイエズス・キリストを受けるために、聖ヨゼフのもとに行きましょう。そして聖ヨゼフが私たちに言うことをしましょう。聖ヨゼフは、私たちにご自分の聖徳から学ぶように言われることでしょう。
霊的生活の指導者は、天主の現存に生きることの大切さを強調します。完徳にたどり着くためにもっとも効果的な手段であると教えています。ところで聖ヨゼフは、常に、絶え間なく、私たちの主イエズス・キリストと聖母の現存のうちに生活していました。聖ヨゼフの日常は、いわばタボル山で聖ペトロが思ったことを常に目の当たりにしていました。聖母という白い雲とともにいるイエズス・キリストを見ていたからです。聖ヨゼフは、主と共に、いわば同じ「幕屋」に住んでいました。いわば常に御聖体降福式に与っていました。聖ヨゼフの祈りはどれほど熱烈でどれほど愛に満ち、どれほど深く、どれほど清らかで、どれほど高かったことでしょうか!
三位一体が聖ヨゼフになさったことを真似ましょう。私たちもイエズス・キリストと聖母が聖ヨゼフに対してなさったようにいたしましょう。
私たちも、聖ヨゼフに全てを委ねましょう。身も心も全てです。シエナの聖カタリナは聖母と聖ヨゼフにこう祈っていました。「私はもはや自分のものではありません。私は御身たちのものです。私はただ一つのことを願います。御身たちに属するものを守ってください。御身たちの手から自分を取り返すことがないようにしてください。私は永遠に御身たちのものです。私はいつまでもイエズスとマリアとヨゼフのものです。これを取り消すようなあらゆることを全て放棄します」。