童貞聖マリアの七つの御悲しみのミサ

ソース: FSSPX Japan

2025年4月11日(金)  童貞聖マリアの七つの御悲しみのミサ

トマス小野田圭志神父 説教  日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン

愛する兄弟姉妹の皆さま、

今日、聖母の七つの苦しみのミサを行なっています

悲しみの聖母は、「共同受難の聖母」という称号のもとで、特に、聖ピオ十世シスター会の守護の聖人です

ですから、私たち聖ピオ十世会も一級祝日としてお祝いしています

共同受難の聖母、この「共同受難」——これはラテン語で Compassio と言います。「共に苦しむ」という意味です

Compassio 共同受難、一体どういう意味でしょうか?

今日は、一緒にこのことを黙想しましょう

Compassio というのは、隣人の苦しみを、あたかも自分の苦しみであるかのように感じ取って、共に苦しむことです

同じ苦しみの感情を持つこと、同じ情けを持つということです

それと同時に、愛によって隣人を愛するために、何とかして隣人の苦しみを和らげようとする心です

天主を愛するために、また隣人を愛するために、隣人の苦しみを和らげようとします

マリア様の霊魂には、この偉大な Compassio がありました

マリア様は、全てを超えて純粋に、ただただひたすら天主を愛しておられたからです

また同時に、全ての人々の霊魂の救いをひたすらに熱望しておられたからです

マリア様は、愛による Compassio をイエズス様の御生涯にわたって、特に御受難の時にお表しになりました

イエズス・キリストは、私たちを地獄の火から救うために、私たちを天国に導くために、私たちの罪を全て償うために、不当な死罪の宣告を受け、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架を担い、そして十字架の上で苦しみの死を受けられました

マリア様は、イエズスのありとあらゆる御受難を全て、あたかも御自分の苦しみであるかのように苦しみ、御自分の苦しみとされました

ですから、聖母は、イエズス・キリストに対して、単なる「同情」を感じただけではありません

あたかも自分がその苦しみを受けたかのように、イエズス・キリストと共に苦しまれました

そこでこのCompassioというのを、ただ同情と訳すのではなく「共同受難」と言っています

聖母は、イエズス様に対する愛だけではなく、イエズスを死に追いやった原因を作った私たち、つまり罪を犯した私たちに対する深い愛をもお持ちでした

私たちを愛するために、私たちの霊魂の救いのために、マリア様はイエズス様の御受難をお捧げになりました

それと合わせて、御自分の苦しみをもお捧げになりました

「自分の苦しみを捧げる」というのはどういうことかというと、「苦しみから逃げようとせずに、何の不平も漏らさずに、甘受して、受け入れて、苦しむということを選ぶ」ということです

これが、苦しみを捧げるということです

今日、カトリック教会は私たちに、マリア様の苦しみを黙想することを提案しています

マリア様は、どれほど恐ろしい苦しみを忍ばれたのでしょうか?

聖母がこれほど苦しまれたのは、いったい何故なのでしょうか?

その理由は、マリア様の御苦しみの原因はただ、私たちの罪だけでした

マリア様が、これほど苦しみを喜んで受け取られたということは、これはマリア様が、どれほど大きな愛を私たちに対して持っておられたか、ということを示しています。ですから私たちも、聖母に対する愛に、またイエズス・キリストに対する愛に、どれほど大きく燃え立たなければならないか、ということを深く思いめぐらさなければなりません

『キリストに倣いて』という本によると、こういう一節があります

Tota vita Christi crux fuit, et martyrium,

et tu tibi quæris reqiuem, et gaudium?

「キリストの御生涯は十字架と殉教の連続だった」と

イエズス様の受けた御苦しみを見ると、罪がどれほど恐ろしい結果を招くか、どれほどいとわしいものであるかということが、しみじみと分かります

また同時に、イエズス様の受けた御苦しみを見ると、主がどれほど私たちを愛されているか、ということも分かります

罪の限りないいとわしさと同時に、イエズス様の限りない憐れみ、憐れみ深い無限の愛が分かります

もしも、罪のないイエズス様が、私たちへの愛のために恐ろしい十字架と苦しみを喜んで受け取られたのならば、罪を犯した私たちが、イエズス様を愛するために、自分の当然受けるべき十字架と苦しみを受け入れるのは、なんの不思議があることでしょうか

もし、イエズス様の御生涯が十字架と殉教の連続だったら、母親としてキリストとピタリと一致しておられたマリア様の御生涯も、やはり十字架と殉教の連続でした

マリア様は第二のエワとして、つまり、第二の全ての聖寵に生ける者の母として、第二のアダム、つまり【イエズス・キリスト】と共に、共同受難によって、罪の贖いを、罪の償いを果たされました

マリア様はイエズス・キリストと共に、私たちを超自然の命に生み出す母となられました

イエズス様は、アダムの罪から始まって、最後の人間の罪に至るまでの全てのありとあらゆる罪、全人類の全ての罪に対応する恐ろしい苦しみを受けました

イエズス様と共に、原罪の汚れのないマリア様は、イエズス様の御苦しみを御自分の苦しみとして捧げ、二人は一緒になって、全人類のために無限の御功徳を獲得されます

イエズス様は、天主として、正義によって、贖いを成し遂げられます

マリア様は聖寵に満ちみてる御方でしたので、全ての聖人たちを合わせても遥かにまさる功徳をたてつつも、マリア様にふさわしい共同の贖いを成し遂げられました

イエズス・キリストの御苦しみは、その成し遂げるべき偉大な贖いの業に対応する大きな、巨大なものでした

マリア様の御苦しみも、成し遂げるべき巨大な贖いに対応するべく、巨大な苦しみでした 大きな御苦しみでした

十字架の上に釘付けにせられて、頭も顔も体も少しも動かすことができずに、声も息も絶え絶え、そして血まみれの私たちの主イエズス・キリストは、最後の力を振り絞って、ずっと私たちのことを考え続けておられました

私たち愛する兄弟姉妹の皆様と、私のことを、ずっと考え続けて下さっておられました

その晩の前、十字架の前の晩、聖木曜日には、御自分の御体を私たちに与え尽くしました

今、十字架の上で御血を全て流し尽くして、最後の最後まで御自分を与え尽くそうとされておられます

私たちのことを考えに考えたあまり、最後には最愛のマリア様をも、私たちの母として与えようとされます

十字架の上から、喘ぐ声で私たちの方に声をかけるイエズス様の御声を聴いてください

「汝の母ここにあり。お前の母を見よ。これこそお前たちの母だ。永遠の命にお前たちを産んでくれる母親だ。母親として愛せ。私の形見としてマリア様を与える。お前たちは、この母親の子供らだ。」

そして、聖母は常に優しい母の心で、私たちを見守って、私たちの為に天から祈り、私たちの為に取り次いで、イエズス様にお願いをしてくださっておられます。ですから今日、御悲しみの聖母の祝日において、マリア様を私たちの母としてもう一度、感謝と愛を以って受け入れ、そして良き聖母の子となる恵みを乞い求めましょう

マリア様に倣って、私たちの日々の十字架と殉教を、主の御旨のままに、主が送ってくださるままに、マリア様を通してお捧げ致しましょう

また、拙い私たちのこの捧げものが、マリア様とイエズス様に倣って、私たちの罪と世の罪の償いとなることができるようにお祈り致しましょう

私たちの心に、マリア様の御悲しみとイエズス様の御苦しみが、いつも深く刻み付けられますように、お祈り致しましょう

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン