友人と恩人の皆様への手紙 第82号
友人と恩人の皆様への手紙 第82号
二〇一四年四月二十二日
親愛なる友人と恩人の皆様へ
四月二十七日に、ヨハネ二十三世とヨハネ・パウロ二世が列聖されるなら、この行為はカトリック信者の良心に二重の問題を提示することになるでしょう。
第一に、列聖それ自体の問題です。すなわち、第二バチカン公会議の提唱者、そしてアシジの集会と人権の教皇を、聖性の模範として全教会に提示することが、どうして可能なのだろうか? という問題です。
しかし、それ以上に深刻なのは [この列聖が第二バチカン公会議やアシジの集会に] カトリック性を認めるという前例のないことのように見えるという問題も存在します。第二バチカン公会議の教えの上に、教会の承認と聖性の刻印を押すということが、どうして可能なのだろうか? つまり、カロル・ウォイティワのすべての行為の原因となり、その腐敗した実りは教会の自己破壊の疑う余地のない兆候である、そのような第二バチカン公会議に承認と聖性の刻印を押すことが出来るのか、ということです。この二つめの問題は解決策を提供しています。第二バチカン公会議の諸文書の中と、それに続くいくつもの改革、特に典礼改革の中とに含まれた誤謬は、真理の霊であり聖性の霊でもある聖霊のおん働きではあり得ない、ということです。だからこそ、「第二バチカン公会議を "列聖" する」ための、この二つの列聖を支持できないのと同じくらいに、私たちが公会議の新奇なことと、それに由来する改革を支持できない、主要な誤りと根本的な理由とを思い起こすことが必要不可欠であると思われます。
この理由のために、私たちはこの両者の列聖にきっぱりと抗議すると同時に、第二バチカン公会議以来、教会を変質させた企てを告発したいと思います。ここに、その主要な原因を挙げていきます。
1. 公会議
「公会議はみずからを現代世界を照らす光たるべく準備された(公会議準備段階の諸文書──現代の諸問題に関して間違いのない教義についての荘厳な宣誓が書かれている──が受け入れられた場合そうであった)が、私たちは遺憾ながら以下のことを言明でき、また言明しなければならない。すなわち、多かれ少なかれ一般的に、この公会議が革新的なことを導入したので、疑うべくもなく聖伝の宝に属している教会の正真正銘の教導職によって教えられてきた真理の確実性を動揺させた、ということを、である。[…] 聖伝の教義は、これらすべての原理となる論点について、カトリック大学において明白かつ一致して教えられてきた。今となっては、これらの真理に関する公会議の多くの文書は、これ以降、その真理に対して疑いを投げかけることを許すだろう。[…] かくして、いくつもの事実によってこのような結果に至り、公会議は、想像を超えたやり方で進歩主義の誤謬を広めることを奨励したと結論を出さざるを得ない」[1]
II. 教会についてのエキュメニカルな概念
"Subsistit in"(教会憲章 8)という表現は、キリストの教会が分かれたキリスト者の諸共同体において存在し行為するが、キリストの教会がカトリック教会において存在していることと区別される存在と行為である、ということを言わんとしています。この意味するところは、この表現がカトリック教会とキリストの教会とが同一だとする厳格な必要性を否定していることです。この同一性は常に教えられ続けてきたことであり、特にピオ十二世のミスティチ・コルポリス [2] とフマニ・ジェネシス [3] の二つの回勅において教えられてきました。キリストの教会は、キリストの代理者がいるところにのみ、キリストの教会として、つまり、救霊のただ一つの箱船として、現存し、活動しています。キリストの代理者が、このキリストの神秘体の眼に見えるかしらであり、この神秘体は、ローマ・カトリック教会と厳格に同一なものです。
上記の宣言(教会憲章 8)は、非カトリックのキリスト教共同体において「救いの要素」が存在すると認めてもいます。エキュメニズムに関するこの布告は、さらに踏み込んで、「キリストの霊は、これらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会に委ねられた恩恵と真理の充満に由来する」(エキュメニズムに関する教令 3) と付け加えています。
このような宣言は「教会の外に救いなし」というドグマと共存できません。このドグマは一九四九年八月八日の倹邪聖省の書簡によって再確認されました。分かれた共同体は天主の行為に協力できません。なぜならその分離は聖霊への反抗だからです。分かれた共同体が維持するかも知れない真理と秘跡が救いの効果を持ち得るには、これら分かれた共同体が設立された誤った原則、キリストの神秘体(つまり、その目に見えるかしらがキリストの代理者であるカトリック教会)から彼らを分離した誤った原則に反しなければなりません。
『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』は、このように述べています。キリスト教以外の宗教が「すべての人を照らす真理の光線を示すこともまれではない」、キリストにおいて人々は「宗教生活の充満」を見いださなければならないが、それはまた「これらの行動と生活様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念を持って考察する」(『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』 2) このような主張は、前述の宣言とまったく同様に批判されるべきです。異端や離教との結びついたとき、七つの秘跡と信仰の部分的な真理と聖書とは、キリストの神秘体から分離した状態にあるのです。たとえこういった手段を用いるとしても、セクトはそれ自体として、恩寵の仲介者にはなりえず、救霊のために役にも立ち得ません。超自然の恩寵を奪われているからです。キリスト教以外の宗教に見いだされる考え方、生き方、そして行いに対しても同じことを言わねばなりません。
公会議のこのような諸文書は、ピオ十一世がモルタリウム・アニモスで排斥した、教会についての宗教拡張主義的概念(latitudinarian conception)を、また、ピオ九世からピオ十二世に至るすべての教皇たちが排斥した、宗教無差別主義をも、すでに支持してしまっています。[4] エキュニメカルかつ諸宗教間での対話によって引き起こされたあらゆる構想は、そのもっとも目に見える形で現れた例が一九八六年のアシジの集会ですが、それはこれら第二バチカン公会議の教えの単なる実際的応用であり、「目に見える形での説明、具体的な教え、皆によって理解され得る要理教育」(ヨハネ・パウロ二世)なのです。
しかし、公会議のこのような教えは、ピオ十一世が排斥した宗教無差別主義を表明してもいます。何故なら、ピオ十一世は「人々が、各々の宗教の違いにも関わらず、なんの支障もなく、霊的生活の共通基盤だとみなされる何らかの教義を宣言することに兄弟的な同意を結ぶように、いつの日か導かれ得るだろう[…]」と希望することを咎め、「このような教義の熱烈な擁護と宣伝部隊に加わることは、天主の啓示による宗教からの完全な背信を意味する」[5]と言っているからです。
III. 教会の団体主義的および民主主義的概念
1- 公会議の諸文書は、教会の信仰の唯一性を揺るがしてのち、教会の統治の唯一性と聖職位階制度の構造をも動揺させました。「主体でもある (subjectum quoque)」(教会憲章, 22) という表現が意味しているのは、司教たちのかしらとしての教皇に一致した司教たちの団体(collegium)もまた、教皇ただひとりがそうであるということとは別に、教会内における最高かつ普遍的裁治権の、常習的かつ恒久的(habitual and permanent)主体者でもある、ということです。これは、教会の唯一性を犠牲にして、教皇権の弱体化、あるいはこれに対する挑戦へとドアを開け放ったことになります。
「首位権を持つ恒久的な二重の主体者」という思想は、事実上、教会の教えと実践に反しており、特に第一バチカン公会議の憲章 Pastor aeternus (DS 3055) と、レオ十三世の回勅 Satis cognitum に反しています。教皇のみが常習的(habitual)かつ恒久的なやり方で最高権力を掌握し、この最高権力は、教皇にとってそうすることが時宜に叶っていると思われるときに、教皇が特別な状況下においてのみ公会議に、伝えるのです。
【訳者注:教会憲章 22 にはこうある。「ローマ教皇はその任務、すなわち、キリストの代理者ならびに全教会の牧者としての任務の力によって、教会の上に完全・最高・普遍の権能を持ち、それを常に自由に行使することができる。他方、教導職と司牧統治職において、使徒団体を相続し、むしろ、使徒団がその中に存続している司教団は、そのかしらであるローマ教皇とともに、そしてけっしてこの頭なしにではなく、全教会のうえに最高、完全な権能を持つ主体でもある。subiectum quoque supremae et plenae potestatis in universam Ecclesiam exsistere」】
2- 「職位的司祭職」(教会憲章 10) と区別される、すべての洗礼を受けた霊魂たちに固有の「共同司祭職」という表現は、"前者のみが、真実かつ正当な本来の言葉の意味であると解釈され得ますが、後者は神秘的かつ霊的な意味でしか解釈され得ない" ということを説明していません。
この区別は、一九五四年十一月二日、教皇ピオ十二世の訓話で明確に宣言されました。この区別は、公会議の諸文書には無く、ピオ六世が勅書アウクトーレム・フィデイ (DS 2106)で排斥した、教会の民主主義的方針へとドアを開け放っています。信者たちを権力の行使へと参加させるこのような傾向は、あらゆる種類の組織の増加の中にも見られ、新教会法 (canon 129 § 2) とも一致しています。これは聖職者と平信者との間にある区別、天主の権より生じる区別をを見失っています。
【訳者注:教会憲章 10 には、固有の意味、神秘的な意味という違いが述べられずに、次のようにある。「信者の共通司祭職と職位的または位階的司祭職とは、段階においてだけでなく、本質において異なるものであるが、相互に秩序づけられていて、それぞれ独自の方法で、キリストの唯一の司祭職に参与している。職位的司祭は、自分が受けた聖なる権能をもって司祭的な民を育成し、治め、キリストの代理者として聖体の犠牲を執り行ない、それを民全体の名において神にささげる。信者は、自分が持つ王的司祭職の力によって、聖体の奉献に参加し、また諸秘跡を受けること、祈り、感謝、聖なる生活による証明、自己放棄、行動的な愛をもって、この王的司祭職を行使する。」】
IV. 偽りの自然的人権
「信教の自由に関する宣言」は、人間は宗教的事柄について或る自然権を有している、という誤った主張をしています。現在に至るまで、教会の聖伝は、一致して次のことを認めてきました。すなわち、確かに、非カトリック者たちは、唯一のまことの宗教を信じるように、(外部から判断できない良心の内部の意向と、外部から判断できる実践によって)社会的権力によって強制されてはならないという自然権を有していることを認めてきました。また同様に、教会は、少なくとも何らかの状況下においては、公の外的行動において、偽りの宗教の実践を寛容に取り扱うことを許可しました。しかし、第二バチカン公会議は、公の外的行動において、偽りの宗教の実践が、社会的権力によって妨げられてはならないことはすべての方の自然権であると承認しました。公会議は、市民社会当局から妨げられない自由というこの自然権が市民権でもあり、この権利を制限する唯一の法は、世俗社会の社会的秩序 [を維持すること] にのみ付随している、と主張しました。従って、公会議はもはや宗教的動機による差別しないことを、そして、まことの宗教と偽りの宗教との間に法律上の平等を打ち立てることを市民政府に義務づけました。
この新しい社会的教義は、「ミラリ・ヴォス」におけるグレゴリオ十六世の教えと、「クワンタ・クラ」におけるピオ九世の教えに反しています。これは、人間の尊厳に関して、これを道徳的【訳者注:人間の尊厳は善を行うに限ってこれが保たれる】ではなく、純粋に存在論的【訳者注:善を行おうが悪を行おうが人間の尊厳はつねに存在する】なものとして考える偽った概念を基礎にしています。結果として、「現代世界憲章」(ガウディウム・エト・スペス)は、世俗的な領域における自律の原則(現代世界憲章 36)、すなわち、ピオ十一世が「クワス・プリマス」で教えたキリストの社会的王権の否定することを教えており、これは、この世の市民社会が天主の十戒から独立することへとドアを開け放っています。
【訳者注】
日本語のページへ グレゴリオ十六世の「ミラリ・ヴォス」
日本語のページへ ピオ九世の「クワンタ・クラ」
日本語のページへ ピオ十一世の回勅「クワス・プリマス」
V. ミサのプロテスタント化
ミサの新しい典礼は「その全体といいまたその詳細といい、その両方において、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から、著しく逸脱しています」[6] 。多数の省略と曖昧な表現によって、パウロ六世の新典礼様式は、ミサが十字架の犠牲と同一のものであるということを弱め、ミサが犠牲であると言うよりはむしろ単なる記念であるかのようにまでにしてしまいました。この改革された典礼は、司祭の役割を覆い隠し、平信者たちの共同体の行為であると強調しています。これはミサの犠牲が持つなだめの目的、つまり罪に対する償いであるということを深刻なまでに損なっています。
このような欠陥の数々によって、私たちはこの新しい典礼を正統(legitimate)なものであるとみなすことができません。一九七九年一月十一日と十二日に、教理聖省はルフェーブル大司教様に次のような質問を投げかけました。「カトリック信者は、秘跡的典礼様式、特に教皇によって承認され公布されたミサ聖祭の如き典礼が、カトリック信仰と矛盾し得る、あるいは異端を促進する(favens haeresim)と考え、主張することが可能であると、あなたは断言するのか?」大司教様はこう答えました。
「この典礼は、それ自体が、ミサの古い司式と同じくらい明確にカトリック信仰を告白していません。ですから異端を促進するといえます。ですが、その原因が誰にあるのか、教皇にその責任があるのかどうか私にはわかりません。信じ難いことは、このプロテスタント寄りの、従って異端を促進するミサの司式は、ローマ聖座によって発布され得たということです」[7] このような重大な欠陥の数々によって、私たちはこの新しい典礼が正統なもの(legitimate)であるとみなすことも、これを捧げることも、これに与る、あるいは、積極的に参与するように助言することもできないのです。
VI. 新しい教会法──公会議の新奇さを表現したもの
ヨハネ・パウロ二世の確かな言葉によれば、一九八三年の新教会法は、第二バチカン公会議の教えを、──特に──すでに私たちが言及した重大な欠陥のある問題点を含めて、「教会法的言い回しへと言い換えた偉大な努力」です。ヨハネ・パウロ二世は「教会のまことの、そして正真正銘の姿を描く要素のうちに、私たちは次のことを特に強調すべきです」と説明しました。「すなわち、教会を天主の民としてみなす教義、奉仕としての位階制度の権威、教会を "交わり" とみなし、それ故に、個々の諸教会と普遍的教会の間に存在すべき関係、そして、司教団体性と教皇首位権の間に存在すべき関係を規定する教義、天主の民のすべての成員たちは、各々にふさわしいやり方で、司祭職、預言職、そして王職というキリストの三重の職務に参与すると教える教義、そしてこの教えには、信者たちの、特に平信徒の義務と権利に関するこの教えが付随します。そして最後に、教会のエキュメニズムへの決意です。」
この新しい教会法は、教会の偽りのエキュメニズムを強調しています。それは、[カトリック信徒が] 非カトリックの聖職者から、告解、聖体、終油の秘跡を受けるのを許し(教会法 844)、また、カトリック聖職者が非カトリック者たちに聖体の秘蹟を与えるのを許すというエキュメニカルなもてなしを奨励するからです。
教会法 336条は、首位権の二重の恒久的主体【教皇と司教団との両方】という思想を繰り返し、際立たせています。教会法 204条 § 1と 208条と 212条 § 3と 216条と 225条とは、共通司祭職という曖昧な概念と、天主の民ということに相関的思想を強調しています。最後に、新教会法における婚姻についての偽りの定義もまた存在します。その中では、婚姻の契約の明確な対象とその目的の優先度についてが述べられていません。このような新奇さは、カトリックの家庭を奨励することからかけ離れており、婚姻の倫理に裂け目を生じさせています。
VII. 教導職についての新しい概念
1- 「神の啓示に関する教義憲章」は「教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進むのである。」 (神の啓示に関する教義憲章 8) と不正確に述べています。この正確さの欠如は、絶えず動いて"生きて進化する聖伝"という誤謬へと門戸を開け放っており、この誤謬は聖ピオ十世によって回勅「パッシェンディ」と反近代主義の宣誓において排斥されました。何故なら、教会が「神的真理の充満を目ざして進む」ことが出来るのは、教会が真理のより正確な表現を与えることにおいてのみであり、教会によって提議されたドグマがさまざまな意味──教会がかつて意味し、そして今もなお意味しているよりも別の意味(カトリック信仰に関する教義憲章「Dei Filius」DS 3043)──を持つことができるという意味ではありません。
【訳者注:第一バチカン公会議のカトリック信仰に関する教義憲章「Dei Filius」にはこうある。
日本語のページへ 第1バチカン公会議(第20回公会議)
DS 3043(Dz 1818)教会によって定められた教義は,科学の進歩にしたがって,ある時には教会が過去に理解し,現在において理解している以外の意味で理解すべきである,と言う者は排斥される(*3020参照)。 】
2- 二〇〇五年十二月二十二日、ベネディクト十六世は訓話において、この絶えず動いている生ける聖伝(a living Tradition)という進化論的概念を正当化しようと試み、その結果、教会の聖伝からの断絶の責任は、公会議には全くないとしました。第二バチカン公会議は「教会の信仰と近代思想のある種の本質的な要素の関係を新たに定義する」ことを望みました。それをするために「ある種の歴史的な決定を見直し、場合によってそれを修正しました。しかしこのような明白な不連続においても、教会は実際には、その内的な本性と真の同一性を保持し、深めたのです。」それは「主がわたしたちに与えた、一つの主体(subject)としての教会」の本性であり、「主体(subject)は時の中で成長し、発展します。けれども、常に同一のもの、旅する神の民という一つの主体であり続けます。」
この説明によれば、教会の信仰の一性は、対象【信仰の内容】に基づくのではなく(少なくとも第二バチカン公会議と聖伝との間にあると私たちが強調した点においては断絶があるから)、主体に基づくと想定しています。これは、信仰の行為が、信じられた真理よりも、信じる者たちによってより強く定義されるという意味においてです。この信仰という行為は、基本的に集団的(collective)良心の表明となり、もはや天主によって啓示された真理に知性が堅く同意するのではなくなっています。
しかしながら、ピオ十二世はフマニ・ジェネリスで、教導職とは「信仰と道徳に関する事柄における真理の直接的で普遍的な基準」であり、信仰の遺産 ---その源泉は聖書と聖伝--- の客観的真理である、と教えています。そして第一バチカン公会議の憲章「デイ・フィリウス Dei Filius」も、この遺産とは「人間の創意工夫によって完成可能な哲学の発見ではなく」、「キリストの花嫁なる教会が聖なるものとして守り誤りなく宣言するようにと、教会に任された」 (DS 3020) ものだと教えています。
【訳者注:ベネディクト十六世は、降誕祭のあいさつで次のように語った。
日本語のページへ 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ
「改革による解釈法」があります。改革とは、主がわたしたちに与えた、一つの主体としての教会の連続性の中で行われる刷新のことです。教会は時の中で成長し、発展します。けれども教会は、常に同一のものであり続けます。それは、旅する神の民という一つの主体だからです。(...) 第二バチカン公会議は、教会の信仰と近代思想のある種の本質的な要素の関係を新たに定義することによって、ある種の歴史的な決定を見直し、場合によってそれを修正しました。しかしこのような明白な不連続においても、教会は実際には、その内的な本性と真の同一性を保持し、深めたのです。教会は、公会議の前も、公会議の後も、同じ教会でしたし、今も同じ教会です。それは一、聖、公、使徒継承の教会として、世々を通じて旅しています。】
3- 教皇ヨハネ二十三世の開会演説(一九六二年十月十一日)と、一九六二年十二月二十三日の枢機卿団への訓戒は、疑うべくもなく、第二バチカン公会議に、非常に特別の、いわゆる「司牧的な」意向を帰属させています。
この「司牧的」性格によって教導職は「探求のさまざまな様式と、現代思想の文学的定型に従って、教会の信仰を表現する」ことになりました。パウロ六世の回勅「エクレジアム・スアム」(一九六四年八月六日)は、第二バチカン公会議の教導職は「キリスト者のメッセージを現代思想の流れへと投入し、人間がこの現代世界の霊的混乱の中で生きているように、人間の言語、文化、習慣、そして認識を投入することを目指している」(パラグラフ 68) と言って、この考えを繰り返しています。特に、真理を告知することにおいて「外部からの強制の考え」がないだろうこと、「その代わり、私たちは人間的友好、内的説得、日常の会話という正当な手段を用いる。各々の個人的な市民権を尊敬しつつ、救霊という贈り物を提供するのである。」(パラグラフ 75)
「現代世界憲章」(ガウディウム・エト・スペス)は「公会議はまず第一に、今日特に高く評価されているような諸価値を、信仰の光のもとに判断し、その源泉である神に関係づけようと考える。これらの価値は神が人間に与えた才能から産み出されたものである限り、非常によいものであるが、人間の心の腐敗によって、それらが正しい秩序からはずされることも稀ではない。そこで浄化が必要となる。」 (現代世界憲章 11) このような世俗的価値観から来たものは、第二バチカン公会議によって導入された三つの新奇なことでした。すなわち、信教の自由、司教団体制、そしてエキュメニズムです。
4- 絶えざる教導職であるこのような啓示された真理の直接的で普遍的な基準の権威について、私たちは、これに反する新しい教義について異議を唱えています。これはレランの聖ヴィンセシオによって与えられた厳密な基準です。「真理の基準、加えて、教皇と教会の不可謬性の基準は、聖伝と信仰の遺産との一致である。すなわち、Quod ubique, quod semper──時間と空間において、あらゆる場所で、常に、教えられてきたこととの一致である」[9] と。
しかし、エキュメニズム、司教団体制、そして信教の自由についての第二バチカン公会議の教義は新しい教義であり、聖伝と教会の公の法に反しています。聖伝と教会の公法とは、天主より啓示された原則を基礎に置き、不可変です。
それ故にここから私たちは次の結論を引き出します。すなわち、第二バチカン公会議は、この数々の新奇なことを提示するのを望んだので、それらを提示する範囲において、教導職から来る強制の権威を剥奪されています。前段落で言及されたいわゆる「司牧的」という新しい意向のために、その権威はすでに疑わしいものです。さらに、この権威は、聖伝と矛盾するさまざまな点(上述の I to VII-1 を参照)に関して、間違いなくまったく無効であると思われます。
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教会の常なる教えに忠実であった私どもの尊敬すべき創立者、マルセル・ルフェーブル大司教様とともに、そしてその模範に従いつつ、私たちは、教会を上から下に至るまで揺るがし、聖ピオ十世の力強い言葉を使うなら教会の「まさしく内部」と「血管」にまで浸透している危機の根本的原因の一つである、第二バチカン公会議とその主要な諸文書の非難を決して止めません。この事を研究すればするほど、一九六五年九月九日に公会議会場において、ルフェーブル大司教様が並外れた明晰さで提示なさった分析が、まさしくどれほど正確であったか認識するばかりです。
「現代世界における教会」に関する公会議憲章(「現代世界憲章」)についての、大司教様ご自身のお言葉を引用させて下さい。「この司牧的憲章は司牧的ではなく、カトリック教会から出たものでもありません。これは福音の使徒継承の真理でキリスト信者たちを養っておらず、その上、教会は今までこのようなやり方で語ってきたことはありません。私たちはこのような声に耳を傾けることはできません。なぜなら、これはキリストの花嫁の声ではないからです。この声はキリストの精神からのものではありません。私たちの牧者であるキリストのみ声を私たちは知っています。このような声を私たちは知りません。外見は羊飼いの衣をまとっています。声は羊飼いではないどころか、おそらく狼のそれです」[10] 大司教様のこのお言葉から五十年という月日が流れ去りましたが、その分析をただ追認するばかりです。
一九六八年十二月七日、公会議の閉幕からわずか三年後に、パウロ六世はこのようなことを認めざるを得ませんでした。「教会は不安の時代、自己批判の時代にいます。自己破壊の時代であるとさえ言う人もいるかも知れません」と。一九七二年六月二十九日、「あちこちの亀裂から、サタンの煙が天主の聖堂に入り込んでいる。それは疑い、不安、問題、懸念、対立である」とパウロ六世は認めました。彼はそれを認めましたが、何もしませんでした。公会議の改革を促進する人々が、公会議を一七八九年のフランス革命、あるいは一九一七年のロシア革命になぞらえるのを躊躇しなかった公会議の改革を、パウロ六世は続行しました。
私たちは受け身なままではいられません。このような自己破壊の加担者にもなれません。親愛なる友人と恩人の皆さん、これこそ、私たちが皆さんを信仰のうちに堅く留まり、聖会がくぐり抜けなければならない最悪の危機の一つである、このような新奇なことの数々に、みずからを巻き込むことのないようにと招く理由です。
聖主のご受難とご復活が、忠実さの内にある私たちを慰めてくださいますように。天主に対する、まことの天主にしてまことの人なる聖主に対する、天国と地上の聖主の教会に対する揺らぐことのない愛のうちに、尽きることのない希望のうちにある私たちを……。in Te speravi non confundar in aeternum. (私は御身に信頼した、永遠に恥じることなからん。)マリアの悲しみに満ちたけがれなき御心が、私たちすべての者をお守りくださり、その凱旋がすみやかに来たりますように!
二〇一四年四月十三日、枝の祝日、ウィノナにて
+ベルナール・フェレー
[1] ルフェーブル大司教、「私は公会議を告発する」の « 一九九六年十二月二十日、オッタヴィアーニ枢機卿への返事 » より 八十二ページ~八十三ページ 一九八二年、カンザス・シティ、アンジェルス・プレス
[2] ピオ十二世、回勅ミスティチ・コルポリスより、一九四三年六月二十九日、Enseignements pontificaux, L’Eglise, Solesmes-Desclée, 1960, vol. 2, #1014. [編集者による翻訳] 参照
[3] ピオ十二世、回勅フマニ・ジェネリス、一九五〇年八月十二日、Enseignements pontificaux, L’Eglise, Solesmes-Desclée, 1960, vol. 2, #1282. [編集者による翻訳]
日本語のページへ 『フマニ・ジェネリス』進化論および、その他の現代的誤謬について 参照
[4] 宗教無差別主義と宗教自由主義については、シラブスの三章で排斥された以下の命題 (nos. 15 - 18) を参照のこと。
15 自分が理性の光によって真理であると認めた宗教を受け入れ、信仰告白することは、各人の自由である。
16 人間は、どの宗教を信奉しても永遠の救いの道を見出し、また永遠の救いを獲得することができる。
17 キリストの真の教会に全く属していないすべての人々が、永遠に救われることを少なくとも期待しなければならない。
18 プロテスタント主義は同一の真のキリスト教の異なった形であって、カトリック教会と同じように天主の心にかなうものである。
日本語のページへ シラブス (近代主義者の謬説表:ピオ9世の数多くの訓話、回勅、書簡による大勅書)
[5] ピオ十一世、回勅モルタリウム・アニモス、一九二八年一月六日、Enseignements pontificaux, L’Eglise, vol. 1, #855. [編集者による翻訳]
日本語のページへ Mortalium animos 真実の宗教の一致について 参照
[6] オッタヴィアーニ及びバッチ枢機卿、« 教皇パウロ六世への手紙 » ノブス・オルド・ミサの批評的研究の要約より、一九六九年九月二十五日。
日本語のページへ オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳)1 参照
[7] « ルフェーブル大司教と倹邪聖省 » Itinéraires 誌 233号、一九七九年五月、p. 146-147.
[8] ヨハネ・パウロ二世、使徒憲章「サクレ・ディシプリネ・レジェス Sacrae disciplinae leges」、一九八三年一月二十五日、La Documentation Catholique, #1847, p. 245-246.[編集者による翻訳]
[9] ルフェーブル大司教、« 結論 » 「私は公会議を告発する」より、アンジェルス・プレス、カンザス・シティ、一九八二年、p. 85.
[10] ルフェーブル大司教、「私は公会議を告発する」より、アンジェルス・プレス、カンザス・シティ、一九八二年、p. 68