友人と恩人の皆様への手紙 第63号

友人と恩人の皆様への手紙 第63号

親愛なる友人と恩人の皆様、

私たちのローマとの関係

友人と恩人の皆様への私たちの手紙は、またもや少し遅れて届いています。私たちはローマとの関係に関する重要な発展についていいそびれるのではないかという恐れのために、この手紙をもっと早く書くことをためらっていました。特にローマとカンポスとの合意の後に、です。

ローマの目にとっては明らかにカンポス起こったことは聖ピオ10世会の私たち自身が「正常化」へむかう単なる前奏曲でしかありませんでした。しかし私たちの目においては、聖ピオ十世会の昔の友に起っていることは、むしろ私たちの教訓として役だつでしょう。

一般的に言って、ローマには(ミサ聖祭も新しいミサも)すべてが同じことであり、聖ピオ10世会と同意に達することを望んでいます。いろいろなところから私たちは教皇さまがこのことを、ご自分がお亡くなりになる前に解決したいと思っていることを聞きます。

しかしながらカンポスの同意によって起こったことは、私たちの恐れに十分根拠があったことを証明しています。そしてカンポスの使徒司牧地区がどのように発展しているかを見ると、ローマの期待とは反対に私たちはまだ信じることができずにいます。

もちろん私たちは、突然の驚くような変化が起こりうる気まぐれな状況とかかわっています。それはちょうど政治的に不安定な時代と似ています。そのような状況において将来どのようになるかは誰も確かではありません。

またバチカン当局においても、過去数10年にわたってなされてきたことを疑問視し、教会が坂道をすべり落ちるのを終わらせたいと願っている幾人かの官僚たちがいることを見ています。

しかしながら、ローマの今日の統治原理は、まだ今でも「第二バチカン公会議を実行に移すこと」というのは明らかです。これは過去40年間なされてきたことです。公的文章も一般的政策もこの原理を考え直すということを示してはいません。

それどころかその反対に、私たちは第二バチカン公会議がしたことは後戻りできないということをいつも聞かされています。

そのために私たちはいったいなぜ聖ピオ十世会に対して態度に変化があったのかということを疑問に思わずはいられません。いろいろな説明が可能です。しかしこの変化の理由は、主に現在カトリック世界において非常によくみられる多元主義およびエキュメニズムという見方のためです。

この見方によれば、カスパール枢機卿(写真)がギリシア正教会とユダヤ人たちに対してさえ言ったように、誰もかももはや回心する必要なく、友に交じり合わなければならないことになっています。そのような観点からは、カトリックの聖伝についてさえも受け入れる小さな余地があることでしょう。

しかし、私たちにとってはちょうど数学の先生がいろいろな違った九九の表を受け入れることができないように、この色々な真理があるという見方を受け入れることができません。

私たちはこのことを確信していますが、ローマはその聖なる伝統に立ち返り聖伝をその正しい場所に復興させる日が必ず来ることでしょう。私たちは心からその祝福された日を待ち望んでいます。しばらくの間は、状況はまだそこには至っていません。ですから、カンポスにおいてことがどのように進んだがということを私たちが見るとき、幻想を抱くことは聖ピオ十世会にとって致命的となるでしょう。

このために、カンポスの状況の発展において二つの点を強調しましょう。第1に、同意の後に彼らがローマへの態度をどのように変えたかということ、第二は、カンポスが私たちからますます遠ざかっているということ。そしてそれはそのために引き起こされたすべての混乱を伴ってです。

カンポスにおける変化

カンポスはその指導者であるリファン司教を通して皆がカンポスは何も変わらなかったということを聞くように叫んでいます。そして「使徒司牧地区」の司祭たち(写真)は依然と同じように聖伝を守るものであり、それこそが彼らに与えられたことの本質であること、そしてそれがローマの提案を彼らが受け入れた理由であること、つまりローマが聖伝の立場を認可したからであると言っています。

私たちは、意見の違うときによくあり得ることであると思いますが、自分の対抗者を貶めようとする傾向がありますが、私たちはそれをしないことにしましょう。たとえばカンポスの昔の私たちの友人たちの場合、そのような貶めのために誤ったうわさが流れています。

「リファン司教は新しいミサを共同司式した」とか「カンポスは聖伝を完全に放棄してしまった」などです。しかしながら次のことは私たちが目撃していることです。

カンポスのWebサイトは、エキュメニズムの問題に関するカンポスの立場を説明しています。彼らは教会の教導職に従っていると主張しています。教皇ピオ11世の回勅「モルタリウム・アニモス」からの引用文をヨハネパウロ二世の「レデンプトーリス・ミッシオ」の隣につけています。引用文を注意深く選んでいる過程があるということにどうしても気がつからざるを得ません。カンポスはヨハネパウロ二世の伝統的な文章を、その他の部分がこのことについて極めて新しい教えを導入しているのを無視して引用するのです。私たちは次の文章を読みます。「カトリックとして私たちはこのことに対して私たち自身の特別な教えはありません。私たちの教えは教会の教導職の教えに他なりません。私たちがここに公開するのは新旧の文章からの引用文であり、今日非常に危険にさらされているカトリックの教義の重要な点に関するものです。

ここにある暗黙的な曖昧さは、彼らのおかれている新しい状況においては多かれ少なかれ普通のことです。彼らは現在の教皇様の統治において聖伝に好意的であると思われるというような点を強調し、そうでないところは敬意に満ちた沈黙を守るのです。思い通りのことを言うことが出来るでしょう。2002年1月18日カンポスで、ローマがカンポスを一方的に承認しただけではなく、その反対方向の承認もあったのです。その結果が共犯的な沈黙です。

他方で、それ以外にありようがあったでしょうか?今となっては、カンポスは失うことが出来るものを持ち、カンポスはその何かを失うことをおそれているのです。そしてそれを失わないように、カンポスは妥協の道を選んだのです。「私たちブラジル人は、平和の人である。あなたたちフランス人は、いつも戦いをしている。」ローマと平和を持つため、戦いを止めなければなりません。ですから、そのためには教会の全世界における現状をもはや見ることを止め、25名の司祭のほんとに小さなグループのためにローマがしたことに嬉しがって満足し、教会においては、緊急事態はもはや存在していない、何故なら聖伝の司教が与えられ、新しい状況が生まれたからだと言おうとするのです。一つの木を見て森全体を忘れるとはこのことです。

3

リファン司教はヨーロッパにおける短期滞在の間、ドン・ジェラール神父を訪問し彼に謝りました。その修道院の修道士たちに講話をし、その中でデ・カストロ・マイヤー司教(写真)の生涯には2つの側面がある、と指摘しました。前期のデ・カストロ・マイヤー司教は教会位階制度に従順でそれを尊敬する司教であり、1981年以降の後期のデ・カストロ・マイヤー司教はもっと厳しくなった司教であると述べ、「私たちは前期のデ・カストロ・マイヤー司教を選んだ」と修道士たちに言いました。このような言葉を聞いても何も驚かなかった修道士もいましたが、それどもそのうちの一人は、(このような異常な発言を聞き)その修道院を退院して聖ピオ十世会の方に来ました。

4

このような文脈において、新しいミサそれ自体が見直されています。彼らはかつて新しいミサを拒否するために出した62の理由を放棄し、新しいミサもしっかり捧げたら有効であると言っています。(これは聖ピオ十世会でも誰も否定しないことです。問題はそこにあるのではないのです。)

カンポスはもはや、新しいミサが悪いものであるから、危険であるから、新しいミサに与ってはいけない、とは言いません。リファン司教は新しいミサに対する自分の立場を正当化しようとしてこう言うでしょう。

「私たちは、聖伝のミサをして、正当に秩序付けられた教会の位階制度の権威に反対する、或いは侮辱するための旗として使おうとする人々を拒否します。私たちは聖伝のミサにこだわるのは、反対するためではなく、私たちのカトリック信仰を明確に正当に表明するものとして、です。」

この言葉は、ある枢機卿の言葉を思い起こさせます。「あなたたち(=聖ピオ十世会)は聖伝のミサに賛成であり、聖ペトロ会は新しいミサに反対です。それは同じことではありません。」この議論は、(聖ペトロ会の)ビジーク神父に反対してローマが処分し、それとほとんど同時にローマは聖ピオ十世会に対して友好的な態度を取ってきたことを正当化したのです。このおかしな区別の仕方が、現実となり、そしてカンポスはこの道を選んだのです。つまり「聖伝のミサに賛成であり、新しいミサには反対しない」ということです。つまり「聖伝に賛成するけれども、近代主義のローマには反対しない」ということです。リファン司教は「ファミーユ・クレチャン(キリスト教家庭)」誌というフランスの雑誌に「私たちは第2バチカン公会議が聖伝と矛盾し得ないと言うことを期待します。」と宣言したばかりです。

しかしながら、この第2バチカン公会議については、或る有名な枢機卿がこれは教会におけるフランス革命であったと言いました。デ・カストロ・マイヤー司教もそういっていました。こうして、少しずつ、戦いを止め、ついには妥協してしまうのです。カンポスでは、全て積極的に聖伝的なものは守られています。信者さんたちは、その変化を見ることが出来ないでしょう。現在のローマの発表や出来事をカンポスの司祭たちがもっと良くうやうやしく話しその逸脱に気を付けるようにと言う話を省略するという傾向があるということに気がつく最も賢い人ではない限り。その時、最も大きな危険は、現状に妥協してしまい、それを改善するために努力をしなくなってしまうことです。私たちは、ローマが聖伝を支持、援助するという確実性、回心の印を望みます。

聖ピオ十世会からの離反

不幸なことにはっきり予見することの出来た上記のような心理的な展開は、カンポスの司祭たちが口では何を言おうとも、彼らをして信仰を守る戦いから脱落させてしまったのです。これを別にしても、その他の現象があることを指摘しなければなりません。それはカンポスと聖ピオ十世会との間には敵意がますます大きくなっていることです。リファン司教はまだ聖ピオ十世会の友であり続けたいと言っていますが、それと同時にカンポスの司祭たちは既に、私たちがカンポスとローマとの合意を疑問視するので私たちのことを離教的であると非難しているのです。それは丁度、川の中腹へ流れた小舟が川の本流に乗り、土手から離れていっているかのようです。このような具合に、少しずつ私たちの間がますます大きく離れて行っている多くの印を見ています。

私たちは、カンポスにこの大きな危険について話しました。しかし彼らは少しも聞こうとしませんでした。彼らが川の流れに逆らって櫂を漕ぐことを望まず、それと同時に、内部的には以前してきたことと同じような態度をとり続けているので、何も変わらなかったというような印象だけは与えますが、しかし彼らは私たちからますます離れ、彼らが今までとり続けてきた態度とはうって変わったような新しい教えに付き従っていると言うことをますます明らかにしています。そして私たちはそれとは反対に、過去の教導職の指導の下に、現在の教導職にたいして健全な批判の目を保とうとしています。

まとめると、カンポスの主張していることとは裏腹に、少しずつカンポスの新しい司教の指導の下で、彼らは第2バチカン公会議の精神の鋳型に合わせて自分を作り上げていると言うことを言わなければなりません。今のところ、ローマはそれ以上何も彼らに求めていません。

もしかしたら、私たちの議論は弱く、私たちの状況を正常化させるようにとのローマからの提案の前に重みをなさないと批判する方もいるかも知れません。

私たちは、理論的には、in abstracto、使徒司牧地区というのは、建築家の提案する非常に美しい豪邸の設計図と同じように素晴らしいものだと思います。

本当の問題点、本当の疑問点はそこではなく、具体的な現実にあるのです。一体この豪邸をどのような土地に建てるというのでしょうか?第2バチカン公会議という動き回る砂の上にでしょうか?それとも使徒たちにまで遡る聖伝というしっかりとした岩の上にでしょうか?

未来を確かなものとするために、私たちはローマに、今日のローマがかつてのローマをしっかりと求めていると言うことをその明確さを求めなければなりません。ローマ当局が、実際の行動においてそのことをはっきり確認したとき、 "Nihil novi nisi quod traditum est"(「伝えられたこと以外いかなることも新しいことは無い」という有名な格言)に本当の意味で立ち戻ったときに、その時、「私たち」はもはや問題とはならないことでしょう。

そして私たちは、教会が自分の過去持っていた力の秘密を再発見し、パウロ6世がそれについてこう言っていた異端思想、つまり「この思想はカトリックではない。この思想は優位に立つかも知れない。しかしこれは決して教会ではない。たとえそれが弱々しいとしても、[これらの思想に染まらずに、カトリック信仰を守る]少数の群れが残らなければならない」という異端思想から解放され、もう一度教会が大きく花咲くその日が一日も早く来るように、天主に懇願しましょう。

聖ピオ十世会の内部での現状

私たちは、内部での現状を皆様にお知らせし、私たちの喜びと使徒職のはたらきを少し分かち合いたいたいと思います。このお手紙を利用して、ミッションの国々での私たちの活動をすこし描写したいと思います。今日ではほとんど全ての国々は、特に私たちの古いヨーロッパが、ミッションの国々にもう一度なりつつあります。

私たちの司祭は、使徒職として、65カ国以上の国々を訪問し、そのうちにはまだ今日でも直接の迫害を受けている国もあります。

しかし、私たちは非常に大きく広がっていますので、ここでは2つの新しい使徒職の畑のことだけに話を限ります。私たちは数年以来、多かれ少なかれ、時折、不定期に訪問していただけでした。しかし、最近私たちはそこに驚くべき展開を見ていると思います。それはリチュアニアとケニアです。

ロシアとビエロロシアにおける私たちの使徒職をもっと良く組織するために、私たちはリチュアニアに橋頭を卓立しました。この国は共産ロシアの迫害を厳しく受けて苦しみ、カトリックの教えは英雄的に維持されました。鉄のカーテンが落ちると、東欧諸国は誠実な心でバチカン的な革新を受け入れました。それは西欧から来るものは良いものに違いないと思いこんでいたからです。こうしてこれらの国々は、しばらくの間に改革によって引き起こされた悲惨な状況に落ち込んでしまいました。それに対する反応は目に見えず、受動的で、行動が伴っていませんでした。しかし私たちの司祭たちは、難しい東欧の言葉を通して、聖伝にたいする豊穣な土地を見つけ出したのです。しかもこれは最初の実りのない経験が期待させるものを遙かに超えるものでした。私たちへの歓迎の挨拶として、司教は私たちにたいする厳しい警告を信者たちに発しました。私たちの司祭らは私たちと友に働きたいと願う複数の司祭と会いました。彼らは司教立ちから受けた訓戒を私たちに説明してくれました。

司教たちは、信者たちが群れをなして聖ピオ十世会の方に行くのをおそれている、と。すると、見て下さい。不思議なことに小さな女子修道会が私たちのほうに近づいてきました。2000年5月28日に亡くなったヴィンセンタス・スラドケヴィシウス枢機卿は、首都カウナスの引退大司教で、この女子修道会の創立者でしたが、この修道会への遺言としてこのような命令を残したのでした。「聖ピオ十世会が来たら、あなたたちは彼らの方に行きなさい。リチュアニアにおいて教会の復興が来るのは、聖ピオ十世会からである」と。

願わくは、私たちがその高さに値するものとなりますように!願わくは私たちが聖寵によって私たちを助け給わんことを!リチュアニアの複数の大きな都市には、今ではそれぞれミサの巡回センターがあり、まだ隠れている人たちも日々多く私たちの方に近づいています。

聖ピオ十世会がケニアを時折、訪問するようになって25年になります。そして私たちは、ケニアで御聖体拝領を手で立ったままですることを拒否して戦っている1500名の組織された信者さんたちがいることを突然知るようになりました。

最初に彼らを知るようになったときから、御聖体拝領をどうするかと言うやり方に留まらず、聖伝の態度それ自体のことだ、と言うことが問題になっていることは明らかでした。

私たちは多くの修道者たちも、第2バチカン公会議後の改革を拒否したがために、自分の元いた修道会を去って、あるいはそこから追い出されていたと言うことも分かりましました。このような元修道者たちは、世俗に留まりながら、自分の誓願を守っていたのでした。そのうち16名の修道女たちは私たちに、もう一度、修道生活を共同体として送ることが出来るように助けてほしいと願っています。

或る若い司祭は私たちにこう言いました。「もし、聖ピオ十世会がここに在駐するようになったら、カテドラルは空になってしまうでしょう。私が信者たちを訪問すると、彼らは私にこう言います。何故あなたたちは私たちの教会を変えてしまったのか? 昔のようにミサ聖祭を捧げてもらいたい! と。でも私はこの昔のミサを知りません。私は昔の教会がどのようであったかも知りません。私が年寄りの司祭たちにそれを聞くと、司祭たちは私を邪険にあしらいます。あなたたちが、私が昔のミサ聖祭を捧げるのを教えてくれませんか。私があなたたちのところを訪問して、それを習っても良いでしょうか?」
また或る別の司祭は、彼も若い司祭ですが、全てを物語っているような口調でこう宣言しました。「私は今晩私の日記にこう書きます。私の初めてのミサ聖祭、と。」

このような霊魂たちの恵みとカトリック生活に飢え乾いた呼び求めに対して、一体どうして教会当局は何も感じずにいられるのでしょうか? 第2バチカン公会議後の廃墟と灰の下に、まだカトリック聖伝の火の種火が残っているのです。この種火はもう一度新しく燃え上がるのだけを求めているのです。

教会は死にません。天主は教会を見守っています。願わくは私たちが、イエズスの聖心が全世界に広めたいと燃えていたその火を広めるための従順な道具となることが出来ますように。しかし、皆様もよくご存じの通り、私たちは自分たちの望むとおり奉仕をすることが出来ないでいます。どれほど多くの司祭たちを私たちが必要としていることでしょうか! 祈って下さい。刈り入れの主がその使徒職の畑に多くの働く人々を遣わして下さるように祈って下さい。

この新年の初めに当たって、私たちは感謝を込めて、そして皆様の決して欠けることのない寛大さに対して熱い「ありがとう」の言葉を言いながら、司祭たちのために、カトリック司祭のために祈るというこの意向を委ねたいと思います。

願わくは天主がその御恵みを持って豊かに皆様の全ての家族を祝福し給わんことを。

2003年 御公現において

+ベルナール・フレー