天主の御摂理により教皇である レオ十三世の使徒的書簡 Testem benevolentiae

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会

1899年1月23日

愛する子

司祭枢機卿兼バルチモアの大司教

ジェームズ・ギボンズ枢機卿に

レオ十三世より

愛情の証しとして[Testem benevolentiae]、すなわち、私の長い教皇職在位の期間中、あなたとあなたの同僚の司教たちそしてアメリカ合衆国の国民すべてに表明してやまなかった献身的愛情の証しとして、挨拶と使徒的祝福とともに、私はこの手紙を愛する我が子であるあなたに送ります。実際、それがあなたたちの(地方)教会の喜ばしい増大であれ、あるいはカトリック世界の利益の保護および増進のためにあなたたちがかくも賢明にかくも良く成した働きであれ、私はあなたたちへの愛情を示すためにあらゆる機会を捉えて用いてきました。また、あなたの国の人々の偉大なるものを求める熱心さ、および社会の発展と国家の栄華をもたらすものへの追求に労をいとわないという他にぬきんでた資質は、度々、私の賛嘆のまなざしの的となってきました。しかるに、この手紙の目的は、これまで度々与えられてきた称賛を繰り返すことではなく、むしろ避けるべき、また正すべきいくつかの点を指摘することにあります。しかし、この手紙はこれまであなたたちに語りかける際に常に示してきたあの同じ愛徳をもって書かれているという事実のために、あなたたちがこれをもまた私の愛の証しとして受け止めてくれると信じています。というのも、この手紙は、最近あなたたちの間で起こり、すべてとは言わずとも多くの人々の心を騒がせ、著しくその平安を損なっている特定の議論に終止符を打つべく着想され、意図されたものだからです。

論争の起源

愛する我が子よ、あなたは『アイザーク・トーマス・ヘッカー』と題した著作が、主にそれを外国語に翻訳し、出版することを企てた者たちの働きが、キリスト教的生活様式に関して提示した特定の見解のゆえに少なからぬ論議をまき起こしている事実に気づいていることでしょう。ですから、私は使徒的職務のゆえに、信仰の健全さを保つため、また、信徒の安全を守るために、この事態全体についてこれまでよりも長い手紙を書くことにしたのです。

当の論説の原理が非難を免れ得ないものであること

先に述べた新しい諸見解が拠ってたつところの原理は次の一事にまとめられます。すなわち、カトリックの教えに賛同しない人々をより容易に説得し、引き入れるために、教会は現代の進んだ文明に自らを少々適合させるべきであり、また、旧来の厳格さを緩めて、現代世界に広まっている理論や物の見方・やり方(rationes)に寛容な態度を示すべきであるという主張です。多くの人々は、この原理が生活の規定に関してだけでなく、信仰の遺産がその中に含まれるところの諸教義に関しても適用されるものとして見なされねばならないと考えています。つまり、彼らは、私たちに一致しない人々の心をもっと引きつけるように働きかけるために、教義の特定の箇条をあたかもそれらがより低い重要性しか有していないかのように不問に付すこと、あるいはそれらの箇条を、教会が常に変わらず保ち、与えてきた意味をもはや持たなくなるほど和らげることが適切であると主張するのです。

さて、愛する子よ、教会が私たちに伝える教理(doctrina)の性格と起源を考えてみさえすれば、このように考え出された企てがいかに非難されるべきものであるかを示すために多くの言葉はいらないでしょう。この点に関して[第一]バチカン公会議は以下のように述べています。「天主が啓示した信仰の教義は人間の理解によって練り上げられてゆくべき哲学の理論のようにではなく、忠実に保持され、不可謬的に宣言されるべきものとしてキリストの花嫁に伝えられた天主からの遺産として提示されるものである。(中略)聖にして母なる教会が一度宣言した聖なる諸教義の意味は忠実に保たれねばならず、より深い理解というもっともらしい口実の下に逸脱されるべきではない」と。

キリスト教のあらゆる教義は全ての時代、全ての民のためのものであること

カトリック教理の特定の原理を故意に省略し、言わば忘却に付すという形で抹消してしまうことも非難を免れ得るものでは決してありません。なぜなら、キリスト教の教えが包含する、あらゆる真理を創った唯一にして同一の創始者、かつ教師がおられるからです。それは、「御父のふところにおいでになる御ひとり子」(ヨハネ1章18節)です。それらの真理が全ての時代、そして全ての民に適合していることはキリストが使徒たちに仰せになった言葉から明白に推し量られます。「だから、あなたたちは諸国に行って弟子をつくり、聖父と聖子と聖霊との御名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちと共にいる」(マテオ28章19節以下)。それゆえ、同じ第一バチカン公会議はこう述べています。「天主的、かつカトリック的信仰によって次のことが信じられねばならない。即ち書かれた、または伝えられてきた天主の御言葉に含まれており、教会によって荘厳な決定において、もしくは通常の普遍的教導権によって天主から啓示された、信じるべきものとして提示されたことがらである」。 

したがって、天主から伝えられたこの教理のいかなる点をも、誰かがそれを減じたり、またはいかなる理由によっても等閑に付したりすることのないようにして下さい。誰であれそのようにする人は、教会に一致しない者たちを教会へと引き入れるよりも、むしろカトリック信者を教会から離してしまうことを望んでいると思われてもしかたないでしょう。そうです、キリストの羊の群れから遠ざかり、さまよっている全ての人を教会に帰るようにさせましょう。実際、これほど私が強く望んでいることはありません。しかし、このことがキリストが示された以外のいかなる道によってもなされてはならないのです。

時代に適合するしかたを判断するのは個人ではなく、教会であること

カトリック信者のために定められた生活上の規定は、時と場所の多様性に応じて修正を加えることを許さないような性質のものではありません。実際、教会はその創始者たるキリストから授かったもの、すなわち柔和であわれみ深い性質を有しているのです。それゆえ、その初めから教会はパウロが自分自身について言ったこの「私は全ての人を救わんがために全ての人に対して全てとなった」という言葉どおりのものであることをすすんで示したのでした。現代にいたる全ての時代の歴史は、教権のみならず全教会の最高の統治権がゆだねられた使徒座が、常に変わらず「同じ教え(doctrina)を、同じ意味かつ同じ精神で」堅持してきたことを証明していますが、教会は同時に天主の権を少しも損なうことなく守りながらも、その庇護の下にある民々の習慣と生活様式に絶えず配慮し、生活上の規定を調整することを常としてきたのです。もし人々の霊魂の救いのために必要とされるならば、教会が今この時においても進んでそうする用意があることを誰が疑うでしょう。しかし、このことは大方、正しく見えるものにだまされるのが常である個々人の意志によって決められるのではなく、教会の判断に委ねられるべきなのです。先任者ピオ六世の譴責を免れることを望むものは皆、この点について恭順の意を示さねばなりません。すなわち、同教皇はピストイア公会議の第18命題を「あたかも教会が無用な、あるいは、キリスト教徒の自由に対して耐えがたい重荷となるような規律を制定し得たかのように、教会によって制定され、承認された規律に詮索を加えている限りにおいて、それは教会と教会を支配する聖霊に対して不当なものである」と宣言したのでした。

教会の権威がこの放縦の時代にあって、

より少なくではなく、よりいっそう必要とされること

しかし、愛する子よ、私が今言及している事柄において当の企ては、より大きな危険をはらみ、かつカトリックの教理および規律とに著しく悖(もと)るものです。それと言うのは、これらの新規な言説の支持者たちは教会の権威の行使と警戒とをある意味で制限して、一人ひとりの信徒が自らの性向と能力との発現のために、より自由に行動できるよう相当の自由が教会内に導入されてしかるべきだとの判断を示しているからです。それらの人々は、最近導入されたにもかかわらず、いまやほとんど全ての国家共同体の法ならびに基盤となっているかの自由を模倣するために、前述のことがなされる必要があると主張しているのです。しかし、この点については国家の憲法に関して全ての司教に書き送った手紙の中で詳細に述べ、その際、天主権によって存する教会と人々の自由な意志に基づいて存在する他の全ての社会・集団との違いをも同時に示しておきました。それゆえ、カトリック信徒へのかかる自由の譲渡を促すための論拠として持ち出されたある考え方について特に言及することが大切です。と言うのも、ローマ教皇の不可謬の教導権について語るに当たって彼らは「これについて第一バチカン公会議において下された荘厳な決定の後は、その点に関してはもはや気遣う必要はないのであり、また、それがもはや議論の対象外となったために、思索と行動のより広い場が個々人の前に開かれているのだ」と述べているからです。全く理屈に合わない考え方です。なぜなら、いかなることにせよ教会の不可謬の教えによって示されたならば、誰もそれから離反することを望まないことは当然であり、いやむしろ皆はその精神によって満たされかつ導かれるよう努め、そうしてあらゆる個人的な誤謬からますます容易に守られるようにしなければならないからです。この点について私は、先に挙げたような議論を展開する人々は全く天主の知恵と摂理とをないがしろにするものだと言わねばなりません。天主は、かの極めて荘厳な決定において使徒座の権威と教導権とを言明することを望まれたとき、とりわけ現代の種々の危険からカトリック信徒の心をより効果的に守るために、それをお望みになったからです。

一般に自由と混同されている放縦、どんなことでも言いかつ罵ろうとする情熱、それにあらゆることを考え、出版物をとおして表現する習慣が人々の精神にかくも深い影を落としている今日、人々が良心と義務とから離れてしまうことのないように、この教導職が以前にも増して有用性および必要性を帯びてきているのです。実に、私はこの時代の卓越した才知が生み出すもの全てを拒絶することを意図しているのではなく、いやむしろ何であれ、真理への探求が獲得するもの、また善への努力が成し遂げるものは、それらが教えの財産を増し加えまた社会の繁栄の限界点を押し広げるがために、大いに歓迎するところです。しかし、これら全てのことは、それが真に有益なものたり得るためには、教会の権威と知恵をないがしろにすることなしに営まれるのでなければなりません。

 

前述の言説から導き出される危険な結論に対する反論

I.霊的指導の必要

さて、先ほど述べた言説の結果として導き出されることがらについては、たとえ、私もそう信じているようにその意向が悪いものでなかったにしても、そのことがら自体は確かにどう見ても疑いを免れるものではありません。なぜなら、第一にかかる言説においては、外的なあらゆる指導がキリスト教的完徳のために余分な、いやそれどころか不利益なこととして斥けられているからです。と言うのも、彼らの言うところによると「聖霊は今日これまでのどの時代よりも大きく豊かな賜を信者たちの心に注ぎ、またある種の内密な直感によって信者たちを教え導いているから」です。しかしながら、天主が人々との交わりを持たれる度合いを断定することは、きわめて軽率なことと言わねばなりません。なぜなら、それは天主の意志のみによることだからであり、また天主ご自身が自らの賜の完全に自由な与え主だからです。「霊はその望むところに吹く」、また「私たちはキリストの賜のはかりにしたがって、おのおのの聖寵を受けた」とある通りです。ところで、使徒たちの時代、初代教会の信仰、勇敢な殉教者たちの苦闘と虐殺、そして聖なる人々にかくも満ちていた過去のほとんどの時代を念頭に置きつつ、誰がいったい過去を現代と比べ、昔の人々が聖霊の流出を私たちより少なくしか受けていなかったと敢えて言うことができるでしょう。それはさておいても、聖霊が義人の霊魂にひそかに入り、彼らを諭しと心中の衝動によってかり立て給うことは、誰も疑念をはさむ余地がありません。もしこのことがなければ、いかなる外的な助力や導きも役に立たないでしょう。

「もし誰かが、真理に同意し、かつ受け入れるよう全ての者に甘美な快さを施される聖霊の照らしなしに、救いへと導く福音の説教(praedicatio)に同意することができるとはっきり主張するものは、異端的精神に陥っている」からです。しかし、私たちが経験上知っていることは、こうした聖霊による促しや衝動はたいていの場合、外的な導き手による助けないし一種の準備なしには識別され得ないものです。このことについてアウグスチヌスはこう述べています。「良い木が実を結ぶにさいして、誰であれ召使いによって外側から水をやり、栽培し、かつ御自身自ら内側からその成長を促されるのはほかならぬ天主(ipse)である」。言葉を換えて言えば、このことは全て、天主が限りのない摂理の中に制定されたかの普遍的法、即ち、人々の救いはそれのほとんどが人々を介して実現されるという理に従ってのことなのです。したがって、天主は御自分が聖性のより高い段階にお召しになるところの人々が、その聖性に他の人々によって導かれるようお定めになったのです。それは、聖クリゾストモが言っているように「私たちが(他の)人々を通じて天主に教えられるため」です。

上に述べたことに関して、私たちは教会のまさに始まりの時期にあった、きわめて示唆に富む事例を思い起こすことができます。すなわち、「威嚇と殺害の気に満ちていた」サウロはキリスト御自身の声を聞き、そして主にこう尋ねたのでした。「主よ、御身は私が何をなすことをお望みですか」。この問いに対してサウロは主から、ダマスコにいたアナニアのもとに行くよう命じられたのでした。「立って町に入れ。そうすれば、そこであなたのなすべきことが知らされる」と。

また、次のことも留意しておかなければなりません。すなわち、より完全なことがらを志す者は、そのようにすること自体によって、大多数の人にとっては未経験であり、誤りに陥るより、大きな危険をはらんだ道に足を踏み入れているのであり、したがって彼らは他の人々にまさって教師および指導者を必要とするのです。そして、このような仕方は教会において変わることなく実践されてきました。あらゆる時代において、学問と聖性に抜きん出たすべての者が例外なくこの教義を教えてきました。この教えを拒絶する者は確かに、思慮分別に欠いており、自らに対して大きな危険を招くことになります。

II.自然的徳は超自然的以上に称賛されるべきではないこと

この問題をよく研究するものにとって、こういった間違った革新を推し進める人々が主張するようにあらゆる外的な指導を取りのぞいてしまうならば、彼らがかくも大切にする聖霊のより豊かな流入というものが一体何のためになるのか疑問となります。実際、聖霊の助け(praesidium)が欠くべからざるものとなるのは、とりわけ徳の修養においてなのですが、これら目新しいことを好む人々は自然的諸徳を現代の流儀と必要により合致したものとして、度を越えた称賛を与え、それらの徳が人を行動に対してよりよく態勢付け、かつ精力的なものとするがゆえに、それらの徳を豊かにそなえ持つことを大きな利益と見なしています。しかしながら、キリスト教的英知に照らされているはずの人々がどうして自然的な徳を超自然的な徳よりも優先させ、かつ後者を前者に比してより大きな力と豊かさを持つものとすることができるのか、理解に苦しむところです。

それでは一体、聖寵を加えられた自然本性はただ自力に頼るのみの裸の自然本性よりも弱いのでしょうか。また一体、教会が尊び敬意を表する聖性において抜きん出た人々は、キリスト教的徳に優れていたために(生活の)自然的なレベルでは他の人々より弱く劣った者であったのでしょうか。たとえもし私たちが自然的諸徳の、時として輝かしい行いに感嘆することがあるとしても、これらの自然的徳の習慣を身につけている人はどれほどまれなことでしょうか。いったい、時として激烈なものとさえなる情欲によって心を取り乱されることの無い人がいるでしょうか。そしてこれに継続的に打ち克つためには、ちょうど自然法全体の遵守にとって必要なごとく、人は何らかの天主的な助力を必要とするのです。もし、先に述べた一見英雄的な行為を詳しく調べてみるならば、しばしばそれらが徳の見せ掛けだけで、その内実を有していないことに気づくことでしょう。しかし、さし当たってはそれらが新の徳の行いだと認めることにしましょう。さて、私たちが「無駄に走る」ことを望まず、またもし、私たちが天主がそのご厚意から私たちのために定めてくださった永遠の至福を見失うことを望まないとすれば、天主からの聖寵の賜と力が加えられるのでない限り、自然的徳はいったいなんの役に立つでしょうか。聖アウグスチヌスはこれについて適切にこう述べています。「偉大な力、迅速な足並み、しかし道をそれている」と。なんとなれば、人間の本性は私たちすべてにおよぶ災禍のために悪徳と不名誉に堕してしまいましたが、しかし、聖寵の助力によって上げられ、新たな誉れと力強さをもって推し進められるように、同様にもろもろの徳も、それらが自然本性の能力のみによるのではなく、同じ聖寵の助けによって行使されるならば、超自然的至福へと至らせるものとなり、かつ強固で永続的となるのです。

III.全ての徳が積極的かつあらゆる時代に適合したものであること

自然的徳についてのこのような見解に密接に関連しているもうひとつの言説があり、それによると「あらゆるキリスト教的諸徳はいわゆる『消極的徳』および『積極的徳』という二つのカテゴリーに分類されねばならない」と言います。そして、この意見を奉じる者たちは、前者が過去の時代により適したものであったのに対し、後者は現代により合致しているとつけ加えます。さて、徳をこのように分けることについてどのような判断を下すべきかは明らかです。事実、消極的な徳などありませんし、あり得えません。聖トマスは、こう言っています。「『徳』とは、ある能力の完成態を意味する。しかるに、能力の対象となるのは行為である。そして徳の行為とは、われわれの自由意志の善き使用に他ならない」と。もちろん、当の徳の行いが超自然的なものであり得るためには天主の聖寵の助力が介在していることが必要なことは言うまでもありません。さて、キリスト教的諸徳を、あるものはある時代に適応し、他のものは別のある時代に適応するとふり分ける人は、使徒パウロの次の言葉を忘れています。「天主は、あらかじめ知っている人々を御子の姿にかたどらせようと予定された」。あらゆる聖性の師および範型はキリストであり、至福を享受する者の王座に座することを望む者はみな、その基準に自らを適合させなければならないのです。さて、キリストは世の移り変わりと共に変わられることは決してありません。反対に、「昨日も、今日も、世々に同じである」(ヘブライ人への手紙13章8節)方なのです。したがって全ての時代の人々に聖書の次の章句が当てはまります。「私は心の柔和で謙そんな者であるから私にならいなさい」(マテオ11章29節)。また、キリストは全ての時代において私たちに「死に至るまで従順となられた」方として御自分をお示しになるのです。そして、あらゆる時代においてパウロの次の言葉は、その効力を失いません。すなわち「キリスト・イエズスにある者は、肉をその欲とのぞみと共に十字架につけた」と。私たちの生きる現代においてこのような徳をより多くの人が養いますように。過去の聖者たちがそうしたように彼らは、魂の謙遜さ、従順と節制によって「言葉と業において力強く」、宗教のみならず、国家と社会にとってもきわめて大きな助力となったのです。

IV.修道者の誓願が最も高貴な、即ちキリスト教的自由をもたらすこと

不当にも「消極的な徳」とされた福音的諸徳に対するこの種の軽視の自然な結果として、人々の精神がしだいに修道生活に対する蔑視へと傾いてゆくという事態が生じます。そして、このことが、これら目新しい意見の提唱者に共通しているという事実を、私は諸々の修道会において立てられる誓願に対して彼らが表明している見解から見てとることができます。すなわち彼らの言うには「そのような誓願は、それが人間の自由の限界をせばめてしまうものであるかぎり、私たちの時代の精神に全く適さず、強い者ではなく弱い者にのみ相応しいものであり、キリスト教的完徳および人間社会の善益のためにほとんど役に立たず、かえってそれを阻み妨げてしまう」と言うのです。しかし、このような主張がいかに誤ったものであるかは、修道生活に対して常に最大の承認を与えてきた教会の慣習と教えからして明らかです。そして、これは極めてふさわしいことでした。と言うのも、全ての人に与えられた掟の遵守のみに飽き足らず、自ら進んで天主からの呼びかけに応え、福音的勧告に従おうとする人は、キリストのみ前に、その勇敢ですぐに戦う準備のできた兵士として自らを捧げるからです。これをか弱い精神のしるしとして見るべきでしょうか。果たして、このような態度はより完全な生き方のために役に立たず、あるいは有害でしょうか。自らを修道誓願によって縛る者は、その自由を捨て去るどころか、より気高く、より従前な自由を享受するに至ります。すなわち、それによってキリストが私たちを解放してくださったところの自由です。[ガラツィア4章31節]

活動的、および観想的な修道生活について

これに加えて彼らの主張、すなわち「教会が全くあるいはほんの少ししか役に立たない」と言う主張は、諸々の修道会に対する悪意に満ちたものであり、教会の歴史をひもといてみる人には、決して受け入れることのできない議論です。あなたたちが司牧の任をゆだねられたアメリカ合衆国自体、その信仰と文化文明の初穂を修道会士たちの活動に負うているのではないでしょうか。最近にも、あなたたちは、ひとりの修道士の銅像を公に建立するよう――これは全く称賛すべきことでしたが――指示を出したではないですか。そして、今日でもこれら修道会は行く先々でどれほどの熱意と実りの豊かさとを私たちの目に示していることでしょうか。一体、どれほど多くの修道会員たちが、きわめて大きな心の熱心さをもって、最大の危険をも顧みず、新天地に福音的生活を伝え、文明の境界を広げようと励んでいることでしょう。キリストのみ教えを奉ずる民に天主の御言葉の説教者、良心の導き手、青少年の指導者を、また教会全体が聖なる生涯の模範を他の聖職者階級におとらず供給しているのは、彼ら修道者たちなのです。また、彼らの中にあった活動的生活を営む者と隠遁を好み、祈りと身体的苦行に専心する者たちとは等しく称賛に値します。彼らは人間社会のために、これまでどれほどの輝かしい貢献を成し、かつ成し続けていることでしょうか。「義人のたゆまぬ祈り」――殊にそれが肉体の苦行と共に捧げられる場合に――が、いかに天主の御威稜(みいつ)を宥(なだ)め、和解の恵みをかち得るかを知る者は、上に挙げたような事実をも認めざるを得ないはずです。

誓願を立てない修道会は、教会の歴史において目新しいものではないこと

ですから、もし誰かが誓願の拘束を伴わずに、ひとつの共同体で一致した生活を営むことを望むならば、その望みの通りにすればよいのです。このような制度は教会において新奇なものではありませんし、承認を拒まれるべきものでもありません。ただ、このような道を志す人は自分たちのこのような共同体を通常の修道会よりもより優れたものだとみなすことのないよう気を付けなければなりません。人々が過去のどんな時代よりもまして快楽の享受に傾いている現代にあって、「すべてのものを去り、キリストに従った」者たちに対してはるかに大きな評価が与えられるべきことは当然のことと言えましょう。

人々を信仰へと導く手段

あまり話が長くなりすぎるとよくありませんから、最後に、先にふれたリベラルな思想家たちが標榜しているもうひとつの主張を取り上げてこの手紙を閉じようと思います。その主張とは、カトリック信者が自分たちと一致しようとしない人々を呼び戻すためにこれまで取ってきたやり方は放棄され、新しい手段が採り入れられなければならないというものです。この件に関して、教会が長い歴史にわたって使徒継承の教えに導かれて承認してきたものをないがしろにするのは不賢明に過ぎるということを思い起こすだけで十分です。天主の御言葉により、私たちはめいめいの地位・立場に応じて隣人の救霊のために働くべきであることを知っています。信徒はこの義務を生活の正しさ、キリスト教的愛徳の業および天主への素早くかつ弛まぬ祈りによって最も役立つ仕方で果たします。しかるに、聖職者は福音の説教、聖なる儀式の端正さと輝かしさによって、また特に使徒[聖パウロ]がティトとティモテオに伝えた形の教えを自らの生活の中に実行することによってこの義務を全うするのです。したがって、もし天主の福音を宣べ伝える種々の方法の中で、一致から離れている人々への語りかけが教会ではなく、何か適当な私的な場所でなされるのがより相応しいと思われたなら、そのようにすることは咎められるべきことではありません。しかし、無論そのような方法を取ることが許されるのは、司教に許可を受けた学問と徳に秀でた人のみではあります。と言うのも、カトリック信者との一致を拒む人々の中の実に多くは心の持ちようと言うより、むしろ無知のために奏しているのであり、もし真理が親しく友好的なしかたで示されたならば、キリストの一つの群れに、より容易に導き入れられると思われるからです。

「アメリカ主義」とも呼ばれる見解が受け入れがたいものであること、

およびそのような考え方がうたがわしい理由

親愛なるわが子よ、あなたには今まで述べてきたことから、ある人たちが「アメリカ主義」という言葉のもとに含ませる諸々の見解を受け入れることができないことを理解されたでしょう。しかるにもし、この言葉によって意味されるのがちょうど他の国々の人々がこれとは異なった何らかのすぐれた性質によって引き立っているように、米国国民の誉れとなる特有の気質であるとしたら、あなたたちの国の状況ならびに施行されている法律や慣習であるとしたら、私がこの名称を排斥すべきとする理由は何一つありません。しかし、この「アメリカ主義」という言葉が先に述べた諸々の言説を指し示すのみならず、それらを推奨する目的で用いられるならば、尊敬すべきアメリカの司教たちがこのような観念を見、司教自身および自らが牧する民に対しきわめて不当なものとしていち早く断罪・排斥すべきであることは疑いの余地がありません。と言うのも、このような観念が提唱されることはあなたたち司教たちの中に、世界の他の地域におけるのとは異なった教会をアメリカに打ち立てることを考え望んでいる若干の者たちがいると言う疑いを生むことになるからです。教えと統治において一致していることがカトリック教会のあり方であり、また天主は、その中心および基礎をペトロの座――この司教座は正しくもローマの司教座と呼ばれますが――の上に定められたのです。なぜなら、「ペトロのいるところ、そこにまた教会もある」からです。したがってカトリック信者たることを標榜する者は誰でも、聖ヒエロニモが当時の教皇に対して述べた次の言葉を真実自らのものとしなければなりません。

「キリストのみを第一の者として従う私は、教皇聖下すなわちペトロの座に一致しております。その岩の上に教会が建てられていることを私は知っております。実際、聖下と共に集めない者は散らす者なのです」。

愛するわが子よ、私が自らの職務のためにあなたに特に書き送るこの知らせを、私は合衆国の他の司教たちにも伝えます。その際、もちろん過去において聖なる宗教のためにかくも貢献し、将来において天主の恩恵によりさらに大きな働きを成すに相違ないあなたたちの国民全体に対する愛をもう一度表すことを忘れません。あなたおよびアメリカの全ての信徒に私は天主の助力のしるしとして愛を込めて使徒的祝福を送ります。

ローマの聖ペトロ大聖堂にて

1899年すなわち私の教皇在位第21の年の1月23日

レオ十三世 教皇

 

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