「聖となる」ために悔悛する

ソース: FSSPX Japan

2025年3月16日四旬節第二主日

トマス小野田圭志神父説教  日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖パウロは、今日の美しい書簡で「私たちが聖徳において歩むように」と懇願しています。どうぞこの書簡をお読みください。

 

「兄弟たちよ、私たちは主イエズスにおいて、あなたたちに願い、そして懇願する。あなたたちがどのように歩かなければならないのか、そして、天主によみされるべきかを、私たちからあなたたちが学んだ通り、その通りあなたたちも歩くように、あなたたちがさらに溢れるように。実に、天主のみ旨はこれである、あなたたちが聖となること。天主が私たちを招かれたのは、不潔のためではなく、私たちの主イエズス・キリストにおいて聖となるためである。」

 

教会は四旬節に入って、天主の聖なる御旨とは、そして私たちが招き召されたのは「私たちの主イエズス・キリストにおいて聖となる」ためだ、ということを思い出させています。

ところで、「聖となる」とは、これはどういうことなのでしょうか?

今日は、そのことを一緒に黙想しましょう。

 

【「聖となる」】

「聖となる」ためには、「聖となる」ことを妨害するものを捨てなければなりません。「聖」なるものの反対は「罪」です。罪の道を歩み続けることです。

ですから「聖となる」ためには、罪を忌み憎み、罪から遠ざかり、罪を捨てなければなりません。これを別の言葉で言うと「悔い改め」と言います。

天主を愛するがために罪を嫌悪する、悔い改める、カトリックの用語では「悔悛」と言います。

それだけではありません。聖となるために、天主に近付かなければなりません。

そのために、最も良い手段が「祈り」です。

ですから、聖となるために、私たちは「悔悛と祈り」の二つが必要です。

 

【悔悛】

「悔悛」——いったいなんでしょうか?

イエズス様は、こう宣言されます。イエズス様の言葉を引用します。

 

「私は言う、そうではない、あなたたちも悔い改めないなら、みな同じように滅びるであろう Non, dico vobis : sed nisi poenitentiam habueritis, omnes similiter peribitis.」(ルカ133

 

ラテン語では「悔い改めないなら」が「悔悛(paenitentia)を持たないなら」となっています。そこで、「悔い改め」のことを、カトリック教会の用語では「悔悛paenitentia」と言います。もしもあなたたちが「悔悛paenitentia」を持たないならば、滅びるだろうとおっしゃっています。

 

私たちが悔悛をするためには、何ができるでしょうか?

イエズス様は、私たちが「聖となる」ために、悔悛の秘跡を制定してくださいました。まさに、秘跡によって悔悛を持つことができ、悔い改めることができるのです。

そこで、カトリック教会は、教会の掟をもって全ての信者(理性を持った信者)に、一年に少なくとも一度は悔悛の秘跡、つまり告解の秘跡を受けることを命令しています。特に、別の掟でも、一年に少なくとも一度、復活祭の頃に御聖体拝領をするという教会の掟があります。

それは「復活祭の務め」と呼ばれていますが、まさに復活祭の務めをよく果たすことができるために、四旬節こそ、悔悛の秘跡を受けるに最上の、一番ふさわしい時期と言われています。

 

「悔悛」には、三つのことが含まれています。

つまり、「罪を痛悔すること・罪を告白すること・罪を償うこと」です。

よく私たちは、身体が全部健康な人のことを五体満足と言いますが、悔悛にも、この三つがあって五体満足です。

「痛悔・告白・償い」の三つがそろって、互いに結び合わされて、はじめて完全となります。

痛悔ということには、「罪を告白して、罪の償いを果たしたいという意志、決意」が同時になければなりません。

告白の時には、「痛悔の念と償いをするという意志」が含まれていなければなりません。また償いの時には、「痛悔と告白の結果」としてなされなければなりません。

 

【痛悔】

では、まず痛悔を見てみましょう。三つの中の最初、「痛悔」です。

三つの部分のある悔悛ということにとって、最も大切なのが「痛悔」です。

今日はぜひ、この痛悔ということをよく理解して帰ってください。

 

トリエント公会議によると、「痛悔とは、霊魂の悲しみ・苦しみ・痛み(dolor)で、将来もはや罪を犯さないという堅い決心をもって、犯した罪をいみ嫌うということ」です。

また、トリエント公会議の公教要理によると、これを言い換えて、「痛悔とは、特に過去の悪い罪の生活を忌み憎み、償いを果たすことにある」とあります。

最も大切な、「罪を忌み憎む」ということです。

そして償いを果たす、特に、罪に対する憎しみと、以前の生活に対する嫌悪がなければなりません。

聖書には、罪に対するこの憎しみと嫌悪を表わすために「痛み dolor」という言葉が使われています。

ですから、この痛悔という言葉を最初に訳した方は、非常に聖書のことをよく知っていて、日本語でも韓国語でも中国語でも「痛みいるほどに悔いる」という「痛悔」という表現を使っています。

ですから、痛悔というのは「赦してください」というのではないのです。

「罪を痛んで悔いている、憎む」というのが痛悔です。

 

痛悔というのは、ラテン語では「 contritio 」と言います。

この語源は、石とか固い物体で何かをこなごなに砕いて打ち砕く、それがcontritioです。「傲慢によって、かたくなになっている心が、痛悔によって打ち砕かれている、こなごなになっている」という状態です。

ですから、この痛悔contritioという言葉は、「天主の聖寵を失ってしまったということを非常に悲しみ、苦しんでいる、痛がっている」ということを表現するために、そのためだけに使われています。

 

この痛悔の念を起こすことにこそ、良い秘跡を受けるための秘密があります。

ですから、良い告解をお捧げすることができるように、通常、聴罪司祭は、告解した方に、「全ての罪を心から痛悔してください」と、改めてアドバイスします、促します。

何故かというと、もしも痛悔の念がないならば、どれほど綺麗に罪のリストを完璧に告白したとしても、どれほど目から涙があふれていたとしても、痛悔の念がなければ、罪の赦しを得ることができないからです。

 

痛悔の念がなければ、司祭であろうと、司教様であろうと、教皇様であろうと、罪の赦しを与えたとしても、赦しの効果がなくなってしまうのです。

ですから、私たちは痛悔を持たなければなりません。

この痛悔というのは、後悔でもなければ反省でもありません。

よく私たちが聞くのは、

 

「ああ、若い時にね、もっと勉強しておけばよかったよ。勉強しとけば、今頃こんなに苦労しなくて済んだのにね、ちょっと後悔するよ。」とかあるいは、

「この前のピクニックの行事について、反省会を開こうか。今度どういうところを改善、改良したらいいかなあ、反省。」

 

違うんです。

自然な後悔、あるいは反省では、罪の赦しを得るためには足りないのです。

これは、カトリック神学が教えていることです。

告解の秘跡で罪の赦しを受けるためには、「信仰を動機とした超自然の痛悔」が必要なのです。どういうことかというと、できれば「愛による完全な痛悔、少なくとも地獄を恐れるという不完全な痛悔」を持つ必要があります。

 

つまり、「私が愛すべき、そして愛するに値する、こんなにも私を愛してくださっている大切な方を悲しませてしまった、逆らってしまった、そのために愛する方がこれほど辛い思いをされている、それを見て私は悲しい、辛い、痛い、もうたまらない!」

これが完全な痛悔です。

不完全な痛悔は、「罪を犯したので私は罰を受けることになった、処罰が恐ろしい、だから痛悔する」

これは不完全ですけれども、しかし、超自然の動機を信仰を動機としているので、罪の赦しを受けるに十分です。

これは後悔とか反省ではありません、痛悔と呼ばれています。

ですから、告解の時「後悔します」とか「反省しました」とは告白なさらないようになさってください。

 

【痛悔の祈り】

では、痛悔の後で告白を見てみます。

告白は、もちろん私たちが罪を告白することですけれども、告白が終わった後に、カトリックの神学に基づいて、カトリック教会では、司祭は「では、痛悔の祈りを唱えてください」と言います。

罪の赦しを受けるために告白をして、それから痛悔の念を持っていなければならないからです。

ですから、教会では、世界中でこの「痛悔の祈り」を唱えるように命じます。

この祈りを唱えることによって、正しい痛悔の念が起こることができるようにとデザインされています。

普通の伝統的な昔ながらのやり方の祈りには、そのような文句で作られています。

 

痛悔の祈りには普通、重要な二つの要素があります。

痛悔の定義に合っている、それを満たすための祈りです。

まず、「罪を犯すことで自分に罰(害)が与えられるけれども、それよりもさらに、愛すべき天主に逆らったので、その愛の理由で心が痛む、痛悔する、罪を忌み憎む」という、まず第一の要素です。

第二は、定義に従って「今後罪を一切犯さないと決心する(遷善の決心)」という二つです。

これが、告白の時に要求される最も大切な要素です。

ですから、公教会祈祷文の痛悔の祈りをご覧になると、こう書かれています。

 

ああ天主、われ、主の限りなくきらい給う罪をもつて、限りなく愛すべき御父(おんちち)に背きしを深く悔み奉る。

御子(おんこ)イエズス・キリストの流し給える御血(おんち)の功徳(くどく)によりて、わが罪を赦し給え。

聖寵(せいちょう)の助けをもつて今より心を改め、再び罪を犯して、御心(みこころ)に背くことあるまじと決心し奉る。

 

英語では良くこう祈ります。

Act of Contrition : O my God, I am heartily sorry for having offended Thee, and I detest all my sins because of thy just punishments, but most of all because they offend Thee, my God, who art all good and deserving of all my love. I firmly resolve with the help of Thy grace to sin no more and to avoid the near occasion of sin. Amen.

 

Acte de contrition

Mon Dieu, j’ai un très grand regret de vous avoir offensé parce que vous êtes infiniment bon et que le péché vous déplaît. Je prends la ferme résolution, avec le secours de votre sainte grâce, de ne plus vous offenser et de faire pénitence.

 

英語でもフランス語でも、同じくこの二つの要素があります。

ところで、新しく導入された、いわゆる「悔い改めの祈り」というのがあります。新しいミサに与っていた方が、どうしてもやっぱり聖伝のミサだとこちらに来られて、そしてこのお祈りをされる時もあるかもしれません。ご存知かもしれません。それは、詩編51(ラテン語ウルガタ訳聖書では詩篇50)で、四旬節では、司祭はその詩篇の50を全部必ず毎日唱えるのですけれども、その詩篇50のうちの二節から、インスピレーションを受けたこういう言葉です。

 

「神よ、いつくしみ深く私を顧み、豊かなあわれみによって私の咎をゆるしてください。悪に染まった私を洗い、罪深い私を清めてください。」

 

確かに、ダヴィド王はベトサベという女性と罪を犯して、そしてナタンという預言者によって「おまえは罪を犯した」と言われた時に、心から痛悔して、そして主に祈って詩篇50を作りました。こう始まります。

 

「天主よ、御身の大いなる憐れみによって、私を憐れみ給え、また、御身の偉大な憐れみによって、私の邪悪を消し給え。私の邪悪から私をさらにもっと洗い、私の罪から私を清め給え。」と。

Miserere mei, Deus, secundum magnam misericordiam tuam; et secundum multitudinem miserationum tuarum, dele iniquitatem meam. Amplius lava me ab iniquitate mea, et a peccato meo munda me.

 

聖なるダヴィド王は、痛悔の念をもって、確かにそのような、そうして始まる素晴らしい詩篇50を全て書かれましたが、しかしそのようなバックグラウンドを知らないまま、あるいは痛悔とは何かを知らないまま、この新しい祈りを唱えた時に、それに忠実であろうとすればあろうとするほど、「愛すべき天主に逆らったという理由で罪を痛悔する」という、最も重大な部分が欠如していることに気が付きます。

 

そして、イエズス様の十字架の御功徳、もちろん、私たちは罪を犯して、あまりにも苦しいんだけれども、しかし「イエズス様の御受難の功徳、それに信頼する」ということを思い出すこともないまま、ただ「あわれみによって私をゆるしてください。私を洗い、私を清めてください。」とだけしか、口にしなくなってしまっています。

もちろん、もちろんこれだけだったとしても、ダヴィド王のように、正しい痛悔の念を持って、これを唱える方もいらっしゃいます。

ただ、カトリック神学を上手く表現している、昔ながらの痛悔の祈りを唱えながらでも、ややもすると機械的に唱えてしまって、本当に相応しい痛悔の念を起こしていない危険もあるのではないでしょうか?

それならば、新しいお祈りでは、どれほど痛悔の念を正しく起こすことができるか、あるいは、そのために罪の赦しを有効に受けることができるか、ますます危うくなってしまうのではないでしょうか?

ですから、皆さんにとっては、特に四旬節、この告解を受ける時には、昔ながらの「痛悔の祈り」を唱えることを強くお勧めいたします。

 

【償い】

では、悔悛には痛悔と告白、そして償いがありましたが、償いについて見てみます。イエズス様は「聖にして聖にして聖なる」三重に聖なる天主です。

そうであったにもかかわらず、天主にさからう人間の罪(特に傲慢)を償うために、自分が罪人であったかのように謙遜になられました。

もちろん、イエズス様は悔悛をすることができませんでした、痛悔することができませんでした、告白することができませんでした。

何故ならば、聖なる方だったからです。

しかし、それにもかかわらず、私たちのために償いをしてくださいました。

あたかもご自分が罪人であったかのように、洗者聖ヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けられたばかりか、主は罪がなかったにもかかわらず、四十日四十夜、私たちが聖となるために、砂漠で祈りと償いの業を行われました。

回心はできなかったけれども、償いと祈りを四十日なさったのです。

そうして、私たちのために最初の「四旬節」を行なってくださいました。

主は、いわば私たちのために「四旬節」を制定してくださいました。

そして2025年、今年の四旬節、イエズス様は、私たちのために特別の御恵みと祝福を与えようと御計画されています。永遠のプランがあります。

その祝福を、イエズス様は与えたいと思っているのですが、それを拒む(邪魔する)ものがあります。それが、罪と罪に愛着する心、自己愛とか、傲慢心とか、「古い人間」と言われるものです。

ですから、四旬節中に、私たちは償いをもって、この邪魔者を心から取り除くようにいたしましょう。

 

【祈り】

邪魔者を取り除く悔悛ですが、近付くためには「祈り」が必要です。

今日の福音を見ると、タボル山で、主の栄光を見た特別の三人の使徒たちは、選ばれた三人たちは、オリベト山のふもとゲッセマネの園でも特別に選ばれて、主の近くで祈るように招待されました。「警戒して祈れ」と招待されました。

しかし残念ながら、この選ばれた三人は、眠りこけてしまい、御受難の時には主を裏切ってしまいます。

私たちも、この四旬節の間、主と共に祈るようにと招かれています。

「警戒して祈れ。」

罪を忌み憎み悲しむこと、私たちの犯した罪を痛悔すること、罪に泣く恵みを祈り求めましょう。主の苦しみを共に、私たちも苦しむ恵みを請い求めましょう。

 

【遷善の決心】

最後に遷善の決心を立てましょう。

今年の四旬節、特別の御恵みが待っています。

ですから、イエズス・キリストと共に、マリア様と一緒に、この四旬節を過ごしてください。

主は、世界で最初の四旬節を、たった一人で、まったくの沈黙のうちに、絶え間ない祈りのうちに、厳しい断食のうちに、肉体の苦行のうちに過ごされました。

ですから、私たちは、私たちのする悔悛と祈りのわざを、イエズス様の模範的な償いと祈りに合わせて、慕い、まねて、そして私たちのやるものはあまりにも足りないので、教会の償いと祈りに合わせて、諸聖人の償いと祈りに合わせて、マリア様の償いと祈りに合わせて、私たちの罪の償いのためにお捧げいたしましょう。

また、復活祭の務めをよく果たすことができるように、告解の秘跡を受けるようになさってください。

マリア様にお祈りして、私たちにまことの深い「痛悔」の念を起こす御恵み(聖寵)を祈り求めましょう。

 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。