聖ピオ十世教皇による回勅『アド・ディエム・イッルム・レティッシムム』AD DIEM ILLUM
アド・ディエム・イッルム・レティッシムム(至上の喜びの日)
AD DIEM ILLUM LAETISSIMUM
教皇ピオ十世の回勅
無原罪の御宿りについて
使徒座との平和と一致のうちにある
総大司教、主座大司教、大司教、
司教、その他の教区長へ
尊敬すべき兄弟たちよ、
健康と使徒的祝福を受けられんことを。
至上の喜びの日が(Ad diem illum laetissimum)数カ月後には再び到来する。50年前のこの日に、聖なる名声の教皇、私の先任者ピオ九世は、枢機卿や司教らの高貴なる一団に囲まれ、不可謬の教導職の権威をもって、天主によって啓示された真理として、至聖なる童貞マリアは受胎の最初の瞬間に原罪のすべての汚れから自由であったと宣言し公布したのである。地上のすべての国の信者がこの宣言を受け止めた感情、および公衆がそれを歓迎した満足と喜びの表れを、全世界が知っている。なぜなら、天主の尊い御母、あるいはイエズス・キリストの代理人に対して示された感情の表現が、これ以上の普遍的なもの、あるいはこれ以上の調和のとれたものであったことは、人類の記憶にないからである。
2.そして、尊敬すべき兄弟たちよ、半世紀後の今日、われらが無原罪の童貞女の記憶を新たにするとき、あの聖なる喜びの響きがわれらの心の中に呼び覚まされ、遠い日の、天主の尊き御母への信仰と愛の、あの壮大な光景が繰り返されることを、われらはどうして望まないでいられようか。私は、童貞聖マリアに対して私が常に大切にしてきたものである、受けた恩恵に対する最高の感謝と一致した信心によって、これらすべてを熱烈に望んでいる。また、私は、偉大なる天主の御母への愛と尊敬の証言を増やす用意と意志のあるすべてのカトリック信者の熱意において、私の望みがかなうことを確信している。しかし、私が言わずにはいられないのは、私のこの望みが、ある種の秘密の本能によって特に刺激を受けていることである。無原罪の御宿りの教義の荘厳な公布が、決して軽率ではなく、私の先任者ピオや世界中のすべての司教らの心を開いたあの大いなる希望の成就がそう遠くないと、私をして考えるに至らしめているのは、その本能なのである。
3.多くの人々は、確かに、これらの希望が今まで実現しなかったことを嘆き、次のエレミアの言葉を繰り返したがる。「われらは平和を待っていたが、良いことは何もなく、救いの時を待ったが、恐怖だけだった」(エレミア 8 章 15 節)。しかし、そのような人々は皆、天主のみわざを洞察しようとも、真理の光に照らして評価しようともしない「信仰薄い者」として、必ず叱責されるであろう。なぜなら、この期間を通じて、童貞聖マリアの執り成しを通して天主が教会に授け給うた、ひそかなる恩寵の賜物を、誰が数えることができるであろうか。そして、これらの賜物を無視しても、このように時宜にかなった方法で召集された【第一】バチカン公会議について、あるいは、これから生じようとしていた誤謬に対処するためにこのように適切に宣言された教皇の不可謬性の教義について、あるいは最後に、あらゆる階級とあらゆる国の信者が長い間キリストの代理人を個人的に崇敬するために群れをなした新しく前例のない熱意について、何を言うべきであろうか。確かに、天主の摂理は、私の二人の先任者、ピオとレオにおいて、その素晴らしい働きを実証した。彼らは、最も激動の時代に、彼ら以前の誰にも許されなかったほどの長い教皇在位期間を通じて、その大いなる聖性をもって教会を統治した。すると再び、ピオ九世がカトリック信仰の教義として、マリアの原罪からの免除を宣言するやいなや、童貞聖マリア御自らがルルドであの素晴らしいご出現を始められ、続いて広大で壮大な運動が起こり、無原罪の聖母に奉献された二つの教会堂が建てられた。そこでは、聖母の執り成しによって今も起こり続けている奇跡が、現代の懐疑主義に反対する素晴らしい論拠となっているのである。
4.では、天主が童貞マリアの慈悲深い影響力を通して、今まさに完了しようとしているこの 50 年間に与えてくださった、これらのすべての大きな恩恵の証人なのであるから、われらの救いが、われらが考えていたよりも近いことを、われらはなぜ信じようとしないのであろうか。天主の摂理の施しにより、悪が限界に達すれば解放はそう遠くないことを、われらは経験から知っているのであるから、なおさらそうである。「彼女の時は近づいており、彼女の日々は長く続くことはない。なぜなら、主はヤコブをあわれみ、イスラエルの中から一人を選ぶからである」(イザヤ 14 章 1 節)。したがって、われらが抱く希望はむなしいものではなく、われらも間もなく次のように繰り返すことができるであろう。「主は悪人の杖と、支配者の笏を折られた。全地は安らかに憩い、喜びの声を上げている」(同章5、7節)。
5.しかし、尊敬すべき兄弟たちよ、無原罪の御宿りの教義の公布50周年がキリスト信者の霊魂に特別な熱狂を呼び起こす第一にして主要な理由は、私がすでに最初の回勅で述べたように、キリストにおいてすべてを復興させることにある。なぜなら、全人類をキリストと一致させ、キリストを通して子としての完全な養子縁組を得て、天主の前にわれらが聖にして罪なき者となるためには、マリアによる以上に確実で直接的な道はないということを、誰も理解できないのであろうか。なぜなら、マリアに対して、まことに「信じたあなたは幸いである。主があなたに告げられたことは、あなたのうちに実現するからである」(ルカ1章45節)と言われたのならば、言い換えれば、マリアが天主の御子を受胎してお生みになり、マリアがその胸に、「新しい秩序と新しい誕生で生まれた彼は、彼自身は目に見えないが、われらの肉体で目に見えるようになる」(大聖レオ、第 2 巻、De Nativ. Dom.)ために、本性によって真理そのものである天主の御子を受けられたのならば、である。天主の御子は人間となられ、「われらの信仰の創始者であり完成者」である。したがって、彼の至聖なる御母は天主の神秘にあずかり、ある意味ではその守護者であると認識されるべきであり、彼女の上に、キリストに次ぐ最も高貴な基礎の上に、あらゆる世紀の信仰の大伽藍が立ち上がることになるのである。
6.どうしてそう考えないのであろうか。天主は、童貞聖マリアを通する以外の方法で、人類の救い主かつ信仰の創始者をわれらに与えることはおできにならなかったのであろうか。しかし、天主の摂理は、聖霊によってキリストを受胎し、その胸に宿したマリアを通して、われらが人間にして天主なるお方を得ることを嘉せられため、われらに残されたのは、マリアの手からキリストを受けることだけなのである。したがって、われらの間に現れる予定だった恵みについて聖書が預言的に語るときはいつでも、人類の贖い主は、ほとんど例外なく、御母と一緒におられる形で、われらに提示されている。この世を支配することになる小羊が遣わされるが、彼は砂漠の岩から遣わされるであろう。花は咲くが、それはエッサイの根から咲くであろう。人類の父アダムは、蛇のかしらを踏み砕くマリアを見て、呪いによって目に入った涙を拭った。ノアは、安全な箱舟に閉じ込められたときにマリアのことを考え、また息子の殺害を阻止されたときのアブラハムのことを考えた。天使たちが上り下りする梯子を見たときのヤコブのことを考え、燃えても消えない柴の姿に驚いたときのモーゼのことを考え、踊りと賛美歌で天主の箱舟を護衛したダヴィドのことを考え、海から上がった小さな雲を眺めたエリアのことを考えた。結局、キリストの次に、私たちが律法の終焉および象徴と預言の成就を見いだすのは、マリアにおいてなのである。
7.そして、童貞女を通して、そして他のいかなる手段よりも童貞女を通して、われらがイエズス・キリストの知識に到達する道を与えられていることは、子が通常母親と結ばれるように、イエズスが30年間、親密さと家庭生活の最も密接な絆で結ばれていたことを思い出すと、疑う余地はない。キリストの誕生と幼少期の素晴らしい神秘、そしてとりわけ信仰の始まりであり基礎であるご托身の神秘について、御母以上に公然とした知識を持つことができる人がおられるであろうか。マリアはベトレヘムの出来事とエルザレムの神殿で起こった事実を保存し、黙想しただけでなく、キリストの考えと秘密の願いを共有したため、彼女は息子の人生そのものを生きたと言えるであろう。したがって、彼女ほどキリストを深く知った人は誰もいないし、キリストの知識の案内人かつ教師として彼女より有能な人は誰もいないのである。
8.したがって、すでに指摘したように、童貞女は人類をキリストと一致させる手段として他のすべてのものよりも強力であることが分かる。キリスト自身によれば、「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ること」(ヨハネ17章3節)であり、私たちがキリストの知識を得るのはマリアを通してであるから、マリアを通しても私たちはキリストが源であり起源である命を最も簡単に得ることができるのである。
9.そして、至聖なる御母が、われらにこれらの貴重な賜物を与えようとする熱意に満たされている原因が、どれほど多く、力強いものであるかを、われらが考えるようにするならば、ああ、われらの望みはどれほど広がることであろうか!
10.なぜなら、マリアはキリストの御母ではないのか。ならば、マリアはわれらの母でもある。そしてわれらは、肉体となられた御言葉であるキリストが人類の救い主でもあることも、真に認めなければならない。キリストは、他の人間と同じような肉体を持っておられた。そしてまた、人類家族の救い主としてキリストは、キリストを信じる者たちの社会という、霊的かつ神秘的な体も持っておられたのである。「私たちは数多いが、キリストにおける一つの体である」(ローマ12章5節)。さて、聖なる童貞女が永遠の天主の御子を受胎されたのは、主が単にその人間としての本性を彼女から受けて人間となられるためだけではなく、彼女から受けた本性によって人間の贖い主となられるためでもあった。この理由で、天使は羊飼いたちにこう言ったのである。「今日、あなたたちのために救い主が生まれ給うた」(ルカ2章11節)。それゆえ、キリストはそのいとも貞潔なる御母の同じ聖なる懐で、ご自分の肉体をお取りになり、キリストを信じることになっていた者たちによって形成された霊的な体をご自分に一致させられたのである。それゆえ、救い主を御自らの内に宿しておられたマリアは、救い主の生命に生命が含まれていたすべての人々をも宿しておられたと言うことができる。であるから、キリストに一致していて、使徒が言うように、キリストの体の、キリストの肉の、キリストの骨の肢体(エフェゾ5章30節)であるわれらは皆、かしらに結ばれた体のように、マリアの胎内から生まれたのである。それゆえ、霊的かつ神秘的な形ではあるものの、われらは皆、マリアの子であり、マリアはわれらすべての母なのである。霊的には実際に母であるが、われらがそれであるキリストの肢体の、真の意味での母なのである(聖アウグスティヌス、聖なる童貞性について、第6章)。
11.至聖なる童貞が同時に天主と人間の母であるならば、教会の体のかしら(コロサイ 1章18節)であるキリストが、キリストの肢体であるわれらにその賜物を、とりわけキリストを知り、キリストによって生きる(ヨハネ第一書4章9節)という賜物を授けてくださるよう、聖母が全力を尽くして働いてくださるであろうことを、誰が疑うことができようか。
12. さらに、人間の肢体をもって生まれることになっていた(尊者聖ベーダ L. IV, in Luc. XI)
天主の御独り子に肉体の材料を提供して、その材料から人間の救いのためのいけにえが準備されるべきだったという至聖なる御母の特権だけでなく、聖母はまた、そのいけにえの世話をし、栄養を与え、定められた時に犠牲のために捧げる役目も担っておられたのである。それゆえ、御子と御母の生活と労苦の絶え間ない共同体が、「私の命は悲しみのうちに、歳月は嘆きのうちに消える」(詩篇30篇11節)という詩篇作者が発した言葉のように、両者の間に生まれたのである。御子の至高の時が来たとき、イエズスの十字架の傍らには、御母マリアがたたずんでおられた。マリアは、ただ残酷な光景を眺めておられただけでなく、御子が人類の救いのために捧げられたことを喜び、御子の御受難に完全にあずかられた。もし可能であったなら、彼女は喜んで御子が負った苦しみをすべて引き受けられたであろう(聖ボナベントゥーラ 1. Sent d. 48, ad Litt. dub. 4)。そして、キリストとマリアの間のこの意志と苦難の交わり(communio)から、彼女は最もふさわしく、失われた世界の「償う者」(Reparatrix)(Eadmeri Mon. De Excellentia Virg. Mariae, c. 9)となり、救い主がその御死去と御血によってわれらのために買い取られたすべての賜物の「分配者」(Dispensatrix)となることができたのである。
13.もちろん、これらの宝の分配がイエズス・キリストの特別かつ特有の権利であることは否定できない。なぜなら、その宝は天主と人間との仲介者である彼の死による独占的な実だからである。それにもかかわらず、御母と御子の間にすでに述べたような悲しみと苦しみの交わり(communio)によって、崇高な童貞女は、その天主なる御子とともに、全世界の最も強力な仲介者にして擁護者であることが許されているのである(ピオ九世「イネファビリス」(Ineffabilis))。そして、その源は、「私たちは皆、その満ちあふれるところから受けた」(ヨハネ1章16節)イエズス・キリストであり、「キリストによって、それぞれの肢体の働きに従い、身体全体は自分を養い生かすすべての節々を通じて調和と統一を受け、こうして成長を遂げ、愛によって自分をつくり上げる」(エフェゾ4章16節)のである。しかしマリアは、聖ベルナルドが正しく述べているように、「水路 (aquaeductus)」である(Serm. de temp in Nativ. B. V. De Aquaeductu n. 4)。あるいは、身体とかしらをつなぎ、かしらの影響と意志を身体に伝える機能を持つ連結部分、つまり首のことである。そう、シエナの聖ベルナルディーノは言う。「彼女は私たちのかしらの首であり、その首によって天主は神秘体にすべての霊的な賜物を伝える」(Quadrag. de Evangel. aetern. Serm. x., a. 3, c. iii.)。
14.それゆえ、われらは、恩寵を生み出す力、すなわち、天主のみに属する力を天主の御母に帰することから大きくかけ離れていることが分かるであろう。しかし、マリアは聖性およびイエズス・キリストとの一致において、全てを掌握し、贖いのわざをイエズス・キリストと共にされるのであるから、神学者たちの言葉で言えば、マリアは、イエズス・キリストがわれらのために「等価的に・厳格な正義に対応して」(de condigno)獲得される功徳を、われらのために「裁量的に・妥当的に・ふさわしく」(de congruo)獲得されるのであり、また、マリアは恵みの分配の最高役務者なのである。イエズスは「いと高き天主の御威光の右に座しておられる」(ヘブライ1章3節)。マリアは御子の右の座に座しておられる―安全な避難所であり、あらゆる危険に対して信頼できる助けであるため、われらはマリアの導き、マリアの庇護、マリアの保護のもとで、恐れることも絶望することもない(ピオ九世、大勅書「イネファビリス」(Ineffabilis))。
15.ナザレトの家からカルワリオの高みまでイエズスの絶え間ない伴侶として、イエズスの聖心の秘密に他の誰よりも深く入り込んでいた者として、また、母性の権利によってイエズスの功徳の宝の分配者として、マリアは、これらすべての理由から、イエズス・キリストの知識と愛に到達するための最も確かで効果的な助力である、とわれらがマリアのために主張していることに、正当な理由があることに気づかない人はいないであろう。残念なことに、悪魔の策略にそそのかされたり、誤った教義に惑わされたりして、聖母の助けなしにはやっていけないと考える者たちが、その行動によって、そのことをはっきりと証明しているのである。イエズス・キリストに払うべき名誉を口実に、マリアをないがしろにする者たちは不幸である! あたかも、幼子は母のもとではなく、他の場所で見つけることができるかのように!
16.このような状況の下で、尊敬すべき兄弟たちよ、マリアの聖なる無原罪の御宿りをたたえるために至る所で準備されているすべての荘厳な祭儀が念頭に置くべきは、この目的なのである。われらがイエズス・キリストを知り、真に愛すること以上に、マリアにとって喜ばしく、甘美な敬意はない。それならば、教会を群衆で埋め尽くし、荘厳な祭儀を祝い、公の場で喜びを分かち合おう。これらはわれらの信仰を活気づけるのにうってつけのことである。しかし、心と意志が加わらなければ、それらはすべて空虚な形、単なる信心の見かけにすぎない。このような光景を目にしたとき、聖母はイエズス・キリストの言葉を借りて、われらを非難するであろう。「この民は、口先では私を敬うが、その心は遠く離れている」(マテオ15章8節)。
17.天主の御母への信心(adversus Deiparentem religio)が正しく善いものであるためには、心から湧き出るものでなければならない。もし霊魂の行いがそれらに関与しないならば、肉体の行いはここで何の役にも立たないし、価値もない。さて、後者の目的はただ一つ、マリアの天主なる御子が命じられることを完全に実行することである。真の愛だけが人の意志を一つにする力を持つのであれば、われらの主イエズスに仕えるために、われらがマリアと一つの意志を持つことが第一に必要だからである。この最も思慮深い聖母が、カナの婚宴でしもべたちに言ったことを、われらにも言っているのである。「何でもあの人の言うとおりにしなさい」(ヨハネ2章5節)。イエズス・キリストの言葉がここにある。「命に入りたいなら、掟を守れ」(マテオ19章17節)。各自がこのことを十分に納得するように。もし、聖母に対する敬虔さが、罪を犯すことを妨げず、悪しき生活を改めようとする意志を動かさないなら、それは欺瞞に満ちた、惰性的な敬虔さであり、適切な効果も自然な実りもないものなのである。
18.このことを確認したい人がいれば、それはマリアの無原罪の御宿りの教義の中に容易に見いだすことができる。聖書と同様、真理の源である聖伝はさておき、聖母の無原罪の御宿りに関するこの説得は、どのようにしてカトリックの心と感覚に適合するように現れたのであろうか。シャルトルーのディオニュシオスの答えは、「われらは、彼によって押しつぶされた蛇のかしらを踏み砕くことになっていたこの婦人と天主の御母について、彼女がこれまで悪しき者の娘であったことを言うことに尻込みする」(Sent. d. 3, q. 1)である。いや、キリスト者の知性にとって、聖なる、汚れのない、無垢なキリストの肉が、マリアの胎内で、ほんの一瞬であったとしても、いかなる汚れも負ったことのない肉から形成されたなどということは考えられないことなのである。それは、天主と罪とを無限の対立が隔てているからである。イエズス・キリストは、人間の本性をまとい、その血によって私たちを罪から清める前に、マリアに、受胎の最初の瞬間から、原罪のあらゆる汚れから守られ、免除されるという恵みと特別な特権を与えた、というキリスト信者すべてに共通する確信の起源が確かにそこにあるのである。
19.天主が、将来御子の御母となる者を、自発的に負った汚れからだけでなく、イエズス・キリストの功徳を予見し、特別な恩恵によって、私たちアダムの息子すべてに不幸な遺産のような形で伝えられている悲しいしるしである他の汚れからも解放しておこうとされるほど、罪に対する恐れを抱いておられるのであれば、マリアへの敬愛によってマリアの心を得ようとするすべての人にとって、自分の悪徳で堕落した習慣を正し、自分を悪に駆り立てる情欲を抑えることが義務であることを、誰が疑うことができようか。
20.さらに、自分の信心が彼女にふさわしく、完全なものであってほしいと願う者は、そして、そう願わない者はいない。このように忠実に従うことによって、イエズス・キリストの忍耐と聖性の姿を自らのうちに再現した者だけが、永遠の幸福を得ることができるというのは、天主の法である。「天主は、あらかじめ知っている人々を、御子の姿にかたどらせようと予定された。それは御子を多くの兄弟の長子とするためである」(ローマ8章29節)。しかし、一般的に、われらの弱さは、そのような模範の偉大さによって簡単に落胆してしまうほどである。しかし、天主の摂理によって、人間の本性が許す限りキリストに近く、われらの本性の弱さにもっとよく一致する別の模範が私たちに提案される。それは天主の御母にほかならない。聖アンブロジウスは、「マリアはそのような方であった」、「その生涯はすべての人の模範である」と的確に指摘している。それゆえ、聖アンブロジウス正しくこう結んでいる。「マリアは鏡のように、貞潔の輝きと徳の姿を輝かせている(De Virginib.)
21.さて、至聖なる御母のどの徳も模倣することを省略しないのが子どもたちのためであるとすれば、われらは、信者が、いわばキリスト教的生活の神経であり、関節である主要な徳、すなわち、天主と隣人に対する信仰、希望、愛徳に優先的に励むことを望む。これらの徳の中で、マリアの生涯はそのすべての段階において輝かしい特徴を備えているが、マリアが瀕死の御子のそばに立っておられた時に、その輝きは最高度に達した。イエズスは十字架に釘付けにされ、「自ら天主の子と名乗った」(ヨハネ19章7節)という怨嗟の声がイエズスに浴びせられた。しかし、彼女はイエズスの中にある神性を絶え間なく認め、崇めた。彼女は主の亡骸を墓に運んだが、主が再びよみがえることを一瞬たりとも疑わなかった。そして、彼女が燃やした天主への愛が、ご自分をキリストの苦しみにあずかる者、キリストのご受難にあずかる者とし、さらに、死刑執行人たちが憎しみのあまり、「その血はわれわれと、われわれの子孫の上にかかってもよい」(マテオ27章25節)と叫んだにもかかわらず、キリストとともに、ご自分の悲しみを忘れるかのように、彼らの赦しを祈られたのである。
22.しかし、私が無原罪の御宿りという主題を見失っていると思われないように、同じ徳を守り、正しく発展させるために、この主題の中にどれほど偉大で効果的な救いが見いだされるであろうか。宗教の敵が、多くの人々の信仰を揺るがすような重大な誤謬を蒔く出発点は、果たして何であろうか。彼らはまず、人間が罪によって堕落し、かつての地位から投げ落とされたことを否定することから始める。それゆえ彼らは、原罪とその結果である悪を単なる寓話とみなしている。原罪によって汚された人間性は、その結果として、人間という種族全体を汚した。こうして人間の間に悪がもたらされ、贖い主の必要性が生じた。このようなことがすべて否定されれば、キリスト、教会、恩寵、あるいは自然を超え、自然を超えるもののために残された場所がないことは容易に理解できる。しかし、人々に聖母マリアが受胎の最初の瞬間からあらゆる汚れから守られてきたことを信じ、告白させれば、すぐに原罪と、イエズス・キリスト、福音、教会、苦難の法による人類の救いの両方を認める必要がある。これによって、合理主義と唯物論は根こそぎ破壊され、キリスト教の知恵には、真理を守り抜くという栄光が残る。さらにそれは、現代の信仰の敵に共通する悪癖であるが、彼らは、教会の権威、さらには人間の権力に対するすべての尊敬と服従を否認し、その必要性を宣言する。そうすれば、信仰を終わらせることがより簡単になるという考えからである。ここにアナーキズムの起源がある。自然的なものであれ超自然的なものであれ、物事の秩序にとってこれほど有害で疫病的なものはない。社会全体とキリスト教に等しく致命的なこの疫病は、無原罪の御宿りの教義によって、その破滅を見る。キリスト教の民が天主の御母を賛美してこう歌うのは、このような理性の従順からである。「マリアよ、あなたはすべて美しく、原罪の汚れは汝のうちにない」(無原罪の御宿りの祝日のミサ) 。こうして再び、教会がこの尊い童貞女のことであるとする、「彼女はこの世のすべての異端を撲滅した」ということが正当化されるのである。
23.そして、使徒が宣言しているように、「信仰は、希望の的となる事柄である」(ヘブライ11章1節)ならば、われらの信仰が固められ、われらの希望が、童貞女の無原罪の御宿りによって引き起こされ、強められることは、誰もが容易に認めるところであろう。童貞女は、キリストの御母となるために、原罪のあらゆる汚れからいっそう守られていたのである。
24.天主への愛徳を脇においておきながら、キリストがご自身のものだと特別に仰せられた戒律、すなわち、キリストがわれらを愛されたように互いに愛し合うという戒律を実行しようと感じることなく、無原罪の童貞女を観想することを誰ができるであろうか。「壮大なしるし」と、使徒聖ヨハネは、天主から送られた幻視をこう描写し、天に「太陽に包まれた婦人」が現れ、「その足の下には月があり、その頭に十二の星の冠を戴いていた」(黙示録7章1節)としている。この婦人が、われらのかしらを生んだ汚れなきお方、童貞マリアを意味することは誰もが知っている。使徒は続ける。「婦人は身ごもって、陣痛の悩みと苦しみの叫びを上げていた」(黙示録7章2節)。それゆえ、ヨハネは、至聖なる天主の御母がすでに永福の中にありながら、神秘的な出産で苦しんでおられるのを見たのである。それはいかなる出産であったのか。それは確実に、まだ追放の身でありながら、天主の完全な愛徳と永福を得るために生み出される予定であったわれらの誕生であったのだ。そして、その生みの苦しみは、童貞女が天上からわれらを見守り、選ばれた者の数を満たすために倦むことのない祈りをもって努力しておられるという、愛と望みを示しているのである。
25.聖なる童貞女の無原罪の御宿りをたたえる特別な祝日を良き機会として、この同じ愛徳をすべての人が真剣に達成するよう努めることを、われらは望んでいる。イエズス・キリストは今、いかにつらく激しく迫害されていることか、彼が創立した至聖なる宗教もいかに迫害されていることか! そして、多くの人々が、あらゆる方面で進行中の誤謬によって引き離され、信仰を放棄してしまうよう脅かされている危険は、どれほど重大なものであろうか! 「立っていると自ら思う人は、倒れぬように注意せよ」(コリント前書10章12節)。そして、真理を捨てた者が悔い改めることができるよう、すべての人が、謙虚な祈りと懇願をもって、マリアの執り成しを通して天主に懇願しよう。われらは、愛徳から生まれ、童貞マリアに信頼を寄せるこのような祈りが決して無駄ではないことを、実に経験から知っている。確かに、将来においても、教会に対する争いは絶えることはないであろう。「あなたたちの中に異端があるのは避けがたいことであるが、それによって徳のある人が目立ってくる」(コリント前書11章19節)。しかし、童貞女もまた、われらの試練がいかに重大なものであろうとも、その試練においてわれらを助け、受胎以来彼女が戦ってきた戦いを続けるのをおやめになることはないであろう。それは、われらが毎日、「今日、昔の蛇のかしらは聖母によって砕かれた」(無原罪の御宿りの祝日の聖務日課、Con.,11.晩歌、マグニフィカト)と繰り返すことができるようにである。
26.そして、私が聖母に対してさらに多くの栄誉を捧げるこの年に、天の恩寵がいつも以上に豊かに私を助けて、童貞女に倣うようにさせてくださるように、また、それによって、キリストにおいてすべてを復興させるという私の目的をさらに容易に達成することができるように、私は、先任者らがその教皇在位の初めに行った例にならって、カトリック世界に聖年の形で特別な贖宥を与えることを決定した。
以下、27番から32番までは、聖年の贖宥を得るための条件が続く。
27.それゆえ、全能の天主のあわれみと、聖なる使徒ペトロとパウロの権威に信頼し、私は不肖ながら主が私に与えてくださったつなぎ、解く権能によって、私の愛するこの都市に住む、あるいはこの都市にやってくる、男女を問わずすべての信徒に対して、四旬節第一主日、すなわち2月21日から、キリストの至聖なる聖体の大祝日、すなわち6月2日までの間に、四つの総主教座聖堂の一つを3回訪れ、そこで、しばらくの間、以下の意向で天主に祈る者に対し、私はそのすべての罪の最も完全な免除を認め、与える。すなわち、カトリック教会とこの使徒座の解放と高揚のため、異端の根絶と誤謬に陥ったすべての者の改心のため、キリスト教諸侯の一致とすべての信徒の平和と一致のため、そしてわが意向に従って天主に祈る者;そして、その期間内に、四旬節に含まれない日を除き、わずかな食事で一度だけ断食し、罪を告白した後、至聖なる聖体の秘跡を受ける者;また、本市の外に居住する他のすべての者であって、上記の期間内、または、信者の都合に応じて教区長が確定的に任命する、継続的でなくとも12月8日までの3カ月の間に、大聖堂がある場合は大聖堂の教会を、なければ小教区の教会を、それがない場合は主要な教会を、3回訪問し、上記の他の諸作業を敬虔に遂行する者。また、私は同時に、一度だけ得られるこの贖宥を、天主との愛徳のうちに一致してこの世を去った霊魂のためのとりなしの祈りに適用することを許可する。
28.さらに、陸路または海路の旅行者が、すでに述べたような作業を行うことを条件に、自宅に戻った直後に同じ贖宥を得ることができることを認める。
29.各教区長によって承認された聴罪司祭に対し、私は、私が命じた上記の諸作業を、他の信心の諸作業のために減免する権限を与える。この譲歩は、男女の正信者のみならず、定められた諸作業を行うことができないすべての他の者にも適用されるものとし、私は、まだ聖体拝領を認められていない子どもに聖体を分配する権限も与える。
30. さらに、信徒、すべての修道会、修道団体の信徒と在俗および正規の聖職者(特別に言及すべき者であっても)に対して、私は、この目的だけのために、実際に承認された者の中から、正規または世俗の司祭を選ぶ許可と権限を与える(この権限は、修道女、修練女、および回廊に住むその他の女性も使用することができる、但し、選ばれた聴罪司祭が修道女のために認可された者であることを条件とする)、その司祭により、現在の十字架を得ることを意図し、十字架を得るために必要な他のすべての行いを果たすことを意図して、所定の期間内に告解された場合、この場合のみ、良心の呵責の場においてのみ、すべての破門を免除されることができる、また、いかなる理由であれ、法律または裁判官によって宣告され、または下された、停止、その他あらゆる教会的宣告および非難から免除される;
また、司祭たちは、たとえ教区長たち自身と私と使徒座に留保されているものであっても、すべての罪や過度な行為から赦されることができる。ただし、律法の他の規定とともに、敬虔な懺悔を行うことを条件とし、異端の場合は、律法で禁じられているように、断罪と誤謬の撤回を行うことを条件とする;同司祭は、さらに、使徒座に留保された誓願(貞潔、宗教、および第三者によって受諾された義務を除く)であっても、すべての誓願を他の敬虔かつ有益な行いに委ねることができ、同痛悔者は、たとえ正式の聖職者であっても、同懺悔者は、同階級の行使および上級階位への昇格に影響を及ぼす問責に違反することによってのみ締結されたすべての秘密の不正行為を免除することができる。
31.しかし、私は本書簡によって、いかなる不正行為も、また公然であれ私然であれ、悪名やその他の無能力や無能によって契約された犯罪や欠陥も免除するつもりはなく、また、私は、Sacramentum poenitentiaeという言葉で始まる、幸福な記憶を持つベネディクト十四世によって発表された、付随する宣言を伴う憲法を軽んじるつもりもない。また、この書簡が、私や使徒座によって、あるいは教会裁判官によって、名指しで破門、謹慎、禁固、その他の宣告や譴責を受けた者、あるいは公に糾弾された者に対し、与えられた時間内に納得させるか、あるいは必要な場合には関係者との間で取り決めを行わない限り、何らかの形で役に立つ、あるいは役に立つことができるようにすることも、私の意図するところではない。
32.これらすべてに加えて、私は、この聖年の期間中、すべての者が、私の先任者たちによって、あるいは私自身によって与えられた、全贖宥以外の他のすべての贖宥を得る特権を保持することを認め、またそれを望む。
33. 尊敬すべき兄弟たちよ、無原罪の童貞の後援のもとに私が与えたこの特別な聖年の賜物を通して、不幸にしてイエズス・キリストから離れている多くの人々が彼のもとに戻り、キリストの民の間に徳の愛と熱烈な信心が新たに花開くことを、私が切に願っているという大きな希望をあらためて明らかにして、この書簡を終える。50年前、ピオ九世がキリストの至聖なる御母の無原罪の御宿りを信仰箇条として宣言したとき、すでに述べたように、信じられないほどの恩寵の富が地上に注がれたかのように思われた。将来に向けて、さらに大きなことを望むことは禁じられているのであろうか。確かに、われらは悲惨な時代を経験している。「地には、真実も慈悲も、天主を知ることもない。冒涜、嘘、殺し、盗み、姦淫が氾濫している」(ホゼア4章1-2節)。しかし、この悪の大洪水のただ中で、寛仁なる童貞は、天主と人間との間の平和の裁定者として、虹のようにわれらの目の前に立ち現れ給う。「私は雲の中に弓を描き、私と地との契約のしるしとする」(創世記9章13節)。嵐が吹き荒れ、空が暗くなろうとも、われらは狼狽することはない。「雲に虹が現れるとき、私はそれを見て、永遠の契約を思い起こすであろう」(同章16節)。「そして、水はもう、すべての肉を滅ぼす洪水とはなるまい」(同章15節)。そうなのである、われらがマリアになすべき信頼を寄せるなら、特に今、われらがマリアの無原罪の御宿りをいつも以上に熱烈に祝おうとするなら、われらはマリアに、「童貞の足で蛇の頭を踏み砕いた」(無原罪の御宿りの祝日の聖務日課) 力ある童貞を認めるであろう。
34.尊敬すべき兄弟たちよ、これらの恩寵の誓約として、私は使徒的祝福を、皆さまに、また皆さまの民に、主において愛をこめて授ける。
1904年2月2日、私の教皇在位初年に、ローマの聖ペトロ大聖堂にて。
ピオ十世