聖ピオ十世教皇による回勅 『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』 Pascendi Dominici gregis

訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会

1907年(教皇在位第5年)9月8日

近代主義の誤謬について

 

尊敬する兄弟のみなさんに健康と使徒的祝福をおくります

 

 

 

使徒座の責務

1.主の群を養う[Pascendi Dominici gregis]という、天主から私に託された職務にキリストによって定め与えられた主要な責務の一つは、涜聖的な新しい言葉づかいと、誤って知識と呼ばれる異議異論とをしりぞけ、最大の注意を払って聖徒らに託された信仰の遺産を守ることです。最高の牧者である教皇におけるこのような警戒心が教会全体にとって必要でなかった時は、かって一度もありませんでした。なぜなら、人類の敵の働きのゆえに、「よこしまなことを語る人々」、「自ら誤り、人を誤りへと引き込む」「むなしいことを語り、惑わす者たち」のいないことは、たえてなかったからです。しかしながら、昨今、キリストの十字架の敵が目に見えて増している事実を認めざるを得ません。彼らは全く新しい、狡猾な手管(てくだ)によって教会の生命力を破壊し、そして力の及ぶ限りキリストの御国自体を覆そうとしているのです。それゆえ、私はこれ以上沈黙を保つことはできません。もしそうするなら、私は自らの最も神聖な責務を怠るものと見なされ、また、彼らが考え直すことを期待してこれまで示してきた好意が、私の職務の執行における熱心さの不足に堕してしまうこととなってしまうでしょう。

迅速な対応の必要性

2.この問題に関して、即座に行動に出ることが、必要不可欠なこととなっています。それはなによりも、誤謬に与する者が教会の公然の敵の中だけでなく、きわめて恐れかつ嘆くべきことに、教会のただ中においても見出され、そして表立っていないだけに、なおさら一層質(たち)が悪いという事実によります。尊敬する兄弟たちよ、私がここで問題にしているのは、多くのカトリック一般信徒、そしてさらに一層憂うべきことに司祭階級自体に属する者たちのことです。誤った教会に対する熱意に駆られている彼らは、哲学と神学の確固とした知的防御に欠け、さらに、教会の敵たちによって教えられているきわめて有害な教理に骨の髄まで染まっています。彼らは一切の慎みをかなぐり捨て、教会の改革者として名乗り出、しかる後、より大胆に攻勢に移り、キリストの御業の中で最も神聖なるもの、天主なる贖い主の位格さえも攻撃するのです。と言うのも、彼らは涜聖的な大胆さをもって、主キリストをただの何の変哲もない人の境地に落としめるのです。

近代主義者の特徴

3.私が彼らを教会の敵たちの中に数えることに対して彼らは驚きの色を示すのですが、ただ天主のみが審判者となる魂の内的な意向を考慮に入れず、彼らの教条、彼らの語り口、彼らの行動とに眼を注ぐならば、分別のある者の中、誰一人として私がこのようにすることに驚きはしないでしょう。また、彼らを教会のあらゆる敵の中で最も有害な敵であると考えることも誤りではありません。なぜなら、すでに述べたとおり、彼らは教会の瓦解をはかる自分たちの計画を教会の外側ではなく、内側から実行に移すからです。したがって、危険はおよそ教会の血管ならびに心臓に存し、彼らが教会をより近しく知っているという事実自体により、一層確実に危害を及ぼすものとなっています。さらに、彼らは斧を枝や芽にではなく、根、すなわち信仰とその最も内奥の繊維に振るうのです。そして、一旦この不滅の根に斬り付けた彼らは、木全体に毒を広げるのです。それは、カトリックの真理のいかなるものも、彼らが手を付けず、腐敗しようと試みずにおくものがないようにです。その上、ありとあらゆる有害な術策を操るに当たって彼らほど巧妙で抜け目のない者はいません。なぜなら、彼らは唯理主義者とカトリック者との二重の役を演じ、しかも、不用心な者を容易に誤りへと導くほど巧みに演じるからです。そして持ち前の大胆不敵さのゆえに、彼らは自らが標榜する主義から帰結するところのいかなる結論からもしり込みするということがなく、却ってそのことごとくを頑迷に、しかも確信をもって提唱するのです。さらに付け加えておくべきことは、彼らがきわめて活動的な生活を営み、あらゆる分野の学問に勤勉かつ熱心に取り組み、その上、概して、非の打ちどころのない品行の評判を得ているのが常であるという点です。最後に、自らが唱える教説自体の性格によって影響された彼らの心はあらゆる権威を軽視し、いかなる抑制も受けつけようとせず、このため、彼らの治癒回復の見込みは、ほとんどありません。こうして誤った良心に依拠する彼らは、傲慢と頑迷さの結果に他ならないものを、真理への愛によるものだと称するのです。

失敗に帰した説得の試み

一度は私も、彼らに考えを改めさせることができるとの望みを抱いていたのであり、このために始めは私の子供たちとして優しく、その後は厳しく、最後には、きわめて遺憾ながら公の譴責をもって彼らに対したのです。しかし、その努力が徒労に帰したことを、尊敬する兄弟のみなさんはよくご存じです。ほんのつかの間、彼らは頭を下げたのですが、すぐに以前よりもっと尊大に頭をもたげました。もし問題となっている事柄が彼らにのみ関することだったなら、私もおそらく見過していたかもしれません。しかし、カトリックの名声の保全がかかっているのです。それゆえ私はこれ以上引きのばすならば過失となるであろう沈黙を破り、全教会に、まずく変装した者たち──彼らは実際そのようなものです──を指し示さなければなりません。

本回勅の構成

4.近代主義者たち(これは一般に、正しくも彼らに付されている名称です)の最も巧妙な手管の一つは、自らの教説を、順序や系統だった配列なしに、バラバラで相互につながらない仕方で提示し、あたかも彼らの心が疑いや、ためらいの状態にあるかのように見せかけることです。しかしながら、実際には、彼らの見解は固く定まっており、揺らぐことがありません。このため、尊敬する兄弟たちよ、彼らのさまざまな教えを一つのカテゴリーにまとめ、それらの相互連関を指摘し、こうして種々の誤謬の起源の検証に移り、そこから帰結する悪い結果を回避するための対処策を提示することが有益であると思われるのです。

近代主義者の人格

5.このいささか難解な主題を順序立った仕方で取り扱うために、近代主義者は自らの内に多重の人格を抱き、含んでいることを念頭に置かなければなりません。彼は哲学者であり、信仰者、神学者、歴史家、批評家、護教家、改革者であるからです。彼らの体系を理解し、彼らの教説の諸原理ならびに[論理的]結論を余すところなく把握しようとする人は誰でも、[近代主義者の演じる]これらの役割をはっきりと区別する必要があります。

不可知論

6.それでは、哲学者としての近代主義者から始めましょう。近代主義者たちは宗教哲学の基礎を一般的に不可知論と呼ばれている教説に置いています。この教えによれば「人間の理性はことごとく現象の領域、即ち現れ見えるもの、およびそれらのものが現れ見える様態に限定されているのであり、理性にはこの限界を越える権利も力もない」とされています。したがって、「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ことになります。この結果、「天主は決して学問の直接の対象たり得ず、そして、歴史学に関しては、天主は歴史的主題と見なされてはならない」ということが導き出されます。これらの前提を前にすれば、誰もが直ちに自然神学、[カトリック信仰の]信憑性の根拠、外的啓示といった事柄がどのようになってしまうかを見て取るでしょう。近代主義者たちは、これらを完全に取り除けてしまい、彼らがばかばかしく、また久しくすたれた体系と見なす主知主義の中に含めるのです。また、教会がこれらの忌まわしい誤謬を正式に排斥してきたという事実も、彼らにいささかの歯止めを利かせることにもなりません。しかし、バチカン[第一]公会議は、次のように定義したのです。『もし誰であれ、私たちの創り主にして主である真の天主が、創られたものを通して人間の理性の自然的な光によって確実に知られ得ない、と述べるならば、彼は[教会から]排斥されるように』。さらに、『もし誰かが、人間が天主および天主に対して払うべき礼拝について、天主的啓示を通して教えられることが不可能、あるいは適当ではない、と述べるならば、彼は排斥されるように』。 そして最後に、『もし誰かが、天主的啓示は外的なしるしによって信憑性を得ることができず、また、したがって人は自らの個人的、内的な体験あるいは詩的霊感によってのみ信仰に引き寄せられるべきである、と述べるならば、彼は排斥されるように』。と定めています。近代主義者たちがどのようにして「全き無知の状態に他ならない不可知論」から「断定的な否定の教説である科学的および歴史的な無神論」に至ろうとするのか、またこの結果として、いかなる推論をもって、天主がじっさい人類の歴史に介入したのか否かについて無知である[はずの]彼らが、この歴史を天主を全く度外視して、あたかも天主が事実それに介入しなかったかのように説明するのか疑問に付すことができます。いったい誰がこのような疑問に答えることができるでしょうか。しかるに、「科学と歴史とは共に無神論的でなければならない」というのが、彼らの間では定まった、すでに確立した原理なのです。すなわち、この両者の範囲内には、ただ現象のみしか含まれる余地がないのであり、天主およびすべて天主的なるものは完全に除外されるのです。私たちは少し後で、この非常に荒唐無稽な教説の論理的結果として、キリストのこの上なく神聖なペルソナ、その生涯と死去、復活と天国への昇天の奥義に関してどのように考えねばならないかを、はっきりと見ることになります。

   生命的内在

7.しかしながら、かかる不可知論は近代主義者たちの体系の否定的側面にすぎません。彼らの体系の積極的側面とは、彼らが生命的内在と称するところのものです。このようにして、彼らは一つの教条から他の教条へと進んで行くのです。自然的なものであれ、超自然的なものであれ、宗教は他のあらゆる事象と同じく、何らかの説明の余地を有しています。しかるに、自然的神学が排除され、また信憑性を裏打ちする議論の拒否によって啓示に対する道が閉ざされ、そしていかなる外的啓示も完全に否定されれば、この種の説明は人間自身の外には求められ得なくなってしまいます。したがって、これは人間の内に探し求められねばならないことになります。そして、宗教とは一種の生命なのであるから、かかる説明は当然のごとく人間の生命の内に見出されなければなりません。このようにして、宗教的内在の原理が定式化されるのです。さらに、あらゆる生命的現象──上で述べられたように、宗教もこのカテゴリーに含まれます──のいわば最初の活動は、ある種の必要ないし衝動によるとされます。しかるに生命について特に述べるとすれば、それは心の動きに源を発するのであり、この動きは感覚と呼ばれます。したがって、天主こそが宗教の対象なのですから、宗教全体の土台にして基盤である信仰は、天主的なるものの必要に起因する、ある種の内的感覚に存するのであると結論せざるを得ません。天主的なるものに対するこの必要は、それ自体としては意識の領域に属し得ず、かえって意識の下に、あるいは近代哲学の術語を借りるなら、潜在意識の中に潜んでいるのだとされています。そこで、かかる必要の根源は見つけられずに隠れているのです。

   天主的なるものの必要

人間が自らの内に経験する、この天主的なるものに対する必要がどのようにして宗教に転ずるのかとの疑問が出るかもしれません。この問いに対する近代主義者の返答は次のようなものでしょう。「科学と歴史は二つの境界の中に含まれるのである。すなわち、一つは外的な境界、すなわち可視的な世界であり、もうひとつは内的な境界、すなわち意識である。これら二つの境界の一つあるいは両方がふみ越えられた場合、それ以上前に進むことはできない、なぜならその先にあるのは不可知なるものだからだ。人間の外側にあり目に見える自然界の彼方にあるそれであれ、あるいは無意識の内に隠れているそれであれ、この不可知なるものを前にして、宗教に対する傾きを有した霊魂に存する、天主的なるものの必要は、ある種の特別な感覚を喚起する。それは唯信主義の原理に即して、精神によるいかなる先行的気付きなしに起こる。そして、この感覚は自らの対象として、および自ら自体の内属的原因として、自らの内に天主的現実そのものを有し、さらにある意味において人間を天主に一致させる」と。この感覚にこそ、近代主義者たちは信仰の名を与えるのであり、これこそ彼らが宗教の始原と見なすものなのです。

近代主義者にとっての啓示

8.しかし、私たちはまだ彼らの哲学的思索、あるいはもっと正確に言えば彼らの愚考の終局に至っていません。近代主義者は「この感覚の中にただ信仰のみならず、信仰の中に、また信仰と共に──このように彼らは理解しているのですが──啓示もまた見出されるべきである」と主張するのです。なぜなら、「啓示を構成するために他にこれ以上なにが必要だろうか。良心の中に感じられる宗教的感覚こそが啓示、もしくは少なくとも啓示の始まりではないか。否、むしろ天主ご自身が自らを不明瞭な仕方であるにせよ、この同じ宗教的感覚において霊魂にお現しになるのではないか」[と言うのです]。さらに彼らは、次のように言い加えます。「天主が信仰の対象かつ原因なのであるから、この啓示は同時に天主および天主からのものである、つまり、天主こそが啓示者であり、かつ啓示の内容である」と言うのです。

宗教的意識と信仰

尊敬する兄弟たちよ、ここから近代主義たちの最も愚かしい教条が生じてくるのです。すなわち、「宗教というものはことごとく、それがどのような観点の下に見られるかに応じて自然的、また超自然的なものとなる」のです。このように、彼らは意識と啓示とを同義的なものとします。今述べたことから、彼らは普遍的基準として彼ら自身が定めるところの法を引き出します。その法とはすなわち、「宗教的意識が啓示と同列に置かれ、この意識に全ての者、はては教師として、あるいは聖なる典礼または規律の領域における立法者としての教会の最高の権威までもが服従しなければならない」ということです。

宗教の歴史の歪曲

9.信仰と啓示とがそこから源を発すると近代主義者たちが目するこの過程において、1つの点が殊に留意されるべきです。と言うのも、この事は彼ら近代主義者がそこから引き出す歴史的結論のゆえにきわめて重要であるからです。彼らの言う不可知なるものは、信仰に対してなにか単一で、他の者と区別されたものとして現前するのではありません。反対に、[彼らによれば]「それは科学または歴史の範疇に属しながらも、それをある程度越え出るようなある種の現象と密接につながったかたちで現れる。そのような現象とは、それ自体何か神秘的なことを含んだ自然の事実の場合もあれば、あるいは、人格、行動、言葉が一見、通常の歴史の法則と合致させることができないように思われる人物の場合もある。現象と結びついた不可知なるものによって惹きつけられた信仰は、当の現象全体を捉え、そして、いわばそれに自らの生命をしみ通らせる。ここから、二つのことが結果として生じる。第一のことは当の現象の変容である。これは、そのもの自体の真の境位より以上に引き上げることを意味し、かかる昇化によって当の現象は、信仰がそれに付与する天主的な性格を帯びるのにより適したものとなる。第二の結果は、当の現象の一種の歪曲化とでも呼ぶことができるものである。これは、信仰が時間と場所の状況が取捨されたとき、信仰がその現象に、それが本当は有していない種々の特性を帰するという事実に起因する。そして、このような事態は特に過去の現象の場合に生じ、その現象の起こった年代が古ければ古いほど、より一層十全なかたちで発現する」。これら二つの原理から近代主義者たちは二つの法則を引き出します。そして、この二つの法則が彼らがすでに不可知論から導き出したところの第三の法則と結び合わされるとき、歴史的批判の基盤を構成することとなります。一例として、キリストのペルソナ[に関して彼らが立てている説]を挙げることができます。キリストのペルソナにおいて科学と歴史とは人間的でないものを何一つ見出さない、と彼らは言います。したがって、不可知論から導き出された第一の規範に基づき、キリストについて伝える歴史の中で何であれ彼の天主性を示唆する要素をことごとく排除しなければいけません。さらに第二の規範に従えば、キリストのペルソナは信仰によって変容させられたのですから、これを歴史的諸条件を越え出るほどに高めているものをすべて取り除かねばなりません。最後に、キリストのペルソナは信仰によって歪曲されたとする第三の規範は、キリストの人格、境遇、教育ならびに彼が生活した時代と場所に厳密に調和一致しない行い、言葉およびその他全てはことごとく除外されることを要求します。甚だ奇妙な推論の立て方ですが、ここにこそ近代主義的批判が存するのです。

宗教的感覚

10.[彼らによれば]「このようにして、宗教的感覚生命的内在を媒介として潜在意識の密やかな場から一切の宗教の芽生え、かついかなる宗教においてかつてあり、あるいは将来あるであろう全ての要素の説明となる。始めは未発達で、およそ形の定まらないものでしかなかったこの感覚は、それの起源である、かの神秘的な原理の影響を受けて、人間的生命──先に述べたように、この感覚は人間の生命のある種の形相であるが──の進歩と共に徐々に成熟し[てき]た。そしてこれこそが、超自然的なものも含めてあらゆる宗教の起源である。なぜなら、諸々の宗教は、この宗教感覚の発展したものに過ぎないからである。カトリック宗教も、この例に漏れず、他の諸々の宗教と同列に置かれる。と言うのも、カトリック教も生命的内在の過程によって、ただこの過程を通してキリスト──最も優れた性質に恵まれ、これに並ぶ者はかつてなく、これからもいないであろうこの人物──の意識の中で生成されたものだからである」。こういったことを耳にするとき、私たちはかくも恐れ知らずの主張と涜聖とに身震いを禁じ得ません。しかるに尊敬する兄弟たちよ、これらは単に不信仰者の愚かしいたわごとではないのです。これらのことを公然と述べるカトリック信徒、および、あろうことか司祭らがいるのです。そして彼らはこれらのうわごとによって教会を改革しようとしているのだと豪語するのです。[ここで]問題となっているのはもはや、人間の自然本性が超自然的事物に対する一種の権利を有しているとする旧来の誤謬の一つではありません。近代主義の誤謬はこれをはるかに越え、私たちのいとも聖なる宗教が、キリストという人物においても、また私たちにおいても、自然本性から自発的に自ずから発生したと断定するとき、その頂点に達しました。確かに超自然的次元全体をこれほど徹底的に打ち壊してしまうものはないでしょう。このため[第一]バチカン公会議が次のように定めたのは、きわめて正当なことでした。「もし誰かが、人間は天主によって自然本性を超える認識と完全性とにまで高められることができず、かえって自ら自身の努力ならびに着実な発達によって最後にはあらゆる真理と善とを所有するに至ると言うならば、彼は排斥されるように」。

知性と宗教的感覚

11.尊敬する兄弟たちよ、これまで知性については一切ふれませんでした。近代主義者たちの教えに従えば、知性もまた信仰の行為において一定の役割を担っているのです。そして、それがどのような役割であるかを見ることは、[たいへん]重要です。これまで再三述べてきた当の感覚の中に──と言うのも、感覚は知識ではないので──天主はご自分をお現しになるのだと彼らは言います。しかし彼らによれば、この意味では、天主は信仰者によってほとんど認識され得ないほど、混迷かつ不明瞭な仕方でしかご自分をお現しになりません。したがって、天主がくっきりと明るみに出され、感覚自体からは区別されるために、この感覚の上にある種の光が投げかけられる必要があります。そして、これこそ反省し、分析することを本分とする知性に課せられた務めなのです。そしてこれによって初めて人間は自らの内に生成する生命的現象を知的な図象に転じ、それをさらに言葉で表現するのです。ここから、近代主義者たちが共通に用いる言い回しが生まれます。すなわち、「宗教的な人は自分の信仰を考えなければならない」と。[彼らによれば]「この感覚に直面した知性は自らをその上に投じ、その中で年月と共にかすんでしまった描線をよりくっきりと修復する画家の要領で働きます(この比喩は近代主義の指導者の一人によるものです)。この働きにおいて知性は二重の活動を果たします。第一に、自然的かつ自発的な行為によって知性は自らの概念を単純で通俗的な命題で表します」。それから反省とより深い考察の上で、あるいは彼らの言い方を借りれば、自らの思惟を推敲することによって、その思念を、第一のものから由来しながらも、より正確かつ判然とした二次的な命題で表現するのです。これらの二次的な命題は、もしそれらが最終的に教会の最高教導権の承認を得るならば教義(ドグマ)となるのです。

教義の起源

12.こうして私たちは近代主義者による体系の中でも主要な点の一つにたどりきました。すなわち、教義の起源および本性です。なぜなら、彼らは教義の起源を一定の側面の下では信仰に必要である種々の単純素朴な定式文に置くからです。と言うのも、啓示が真にその名に値するものであるためには、意識における天主についてのはっきりとした知識を必要とするからです。しかるに教義自体は二次的な定式文の中に存すると彼らは信じているように見受けられます。

教義の本性

教義の本性を定めるために、私たちはまず宗教的定式文と宗教的感覚との間にある関係を見出さねばなりません。この関係は、これらの定式文が信仰者に自らの信仰についての説明を与える役割しかもたないとする者たちには、即座に把握されるでしょう。信仰との関係において、これらの定式文は、その対象となるものの不十分な表現であり、ふつう象徴(シンボル)と呼ばれます。[彼らによれば]「信仰者との関係において、それら定式文は単なる道具に過ぎません」。

象徴としての教義

[彼らによれば]「したがって、それらの定式文が絶対的なかたちで真理を含んでいるという立場を保つことがおよそ不可能となります。なぜなら、それら定式文が象徴である限り、それらは真理の似像に過ぎず、それゆえ人間との関係における宗教的感覚に適合されねばなりません。また道具として、これら定式文は真理の伝達媒介であり、したがって、この意味では宗教的感覚との関係における人間に適合されねばなりません。しかるに、宗教的感覚の対象は絶対的なるものに含まれた何かとして、無限に多様な側面を有しており、あるときにはその中のあるものが、また別のときには別のものが姿を現すのです。同様に、信じる者もさまざまな状況を利用することができます。したがって、私たちが教義と呼ぶ種々の定式文は、こういった[状況的]変転に服さねばならず、それゆえ変化を被るものです。こうして、教義の内因的進化への道が開けるのです」。そして、ここに私たちは宗教全体を滅ぼし、荒廃させる巨大な詭弁の構造を見るのです。

教義の進化

13.「教義は進化し得るだけでなく、進化しなければならず、また、変えられなければならない」。これは近代主義者たちによって強く主張されている点であり、彼らの奉じる原理に明白に由来するものです。と言うのも、彼らの教えの主要な点の中には、彼らが生命的内在の原理から導き出す次の教条があるからです。すなわち、「宗教的定式文が単に知的な思弁に止どまらず、真に宗教的であるためには、生きたものでなければならず、宗教的感覚の生命を生きる必要がある」という主張です。かかる信条は、これら定式文が、特にそれらが単に想像の産物である場合、宗教的感覚のために案出されるべきである、という意味に解されてはなりません。これらの定式文の起源は、それらの数や質と同様、まったく重要ではありません。必要なのは、宗教的感覚が──もし必要であれば何らかの調整・変更を加えて──それらを生命的に同化吸収することです。言い換えれば、原初的な定式文が[信仰者の]心情によって受け入れられ、裁可されることが必要なのです。同様に、それに引き続いてなされ、二次的な定式文がそこから引き出されることになる知的労作もまた、心情の導きの下に進められねばならないのです。ここから、これらの定式文が生きたものとなるためには、信仰および信じる者に適合したものでなければならず、またそうあり続けねばならない、という結論が出てくるのです。したがって、もしいかなる理由によってであれ、この適合が存在しなくならば、それら定式文は始めに持っていた意義を失い、それゆえ変えられねばならなくなります。教義的定式文の性格ならびに命運がこのように不安定なものであるということを見れば、近代主義者たちがそれらをかくも軽視し、かくも公然と不敬の態度を示し、宗教的感覚および宗教的生活に対して以外は、いかなる考慮も賞賛も持ち合わせていないという事実はまったく驚くに値しません。そういうわけで、彼らはこの上ない大胆不敵さで教会を批判するのです。[彼らによれば]教会は種々の定式文の宗教的および道徳的意味とそれらの表面上の意味との区別をつけないことによって、また宗教[心]自体が失墜するのをみすみす見逃しながら、無意味な定式文にむやみやたらと頑迷に執着することによって、正道からはずれてしまったのです。[このような主張を成す]彼ら近代主義者は「盲人」、また学問という誇らしげな名におごり高ぶった「盲人の導き手」であり、永遠にすたれることのない真理の概念、および宗教の意味をねじ曲げるまでの愚昧の深淵に至ったのです。そこにおいて「彼らが新奇なものへの盲目で歯止めを欠いた情熱にかき立てられている様が見受けられます。彼らは何らかの、真理の強固な基盤を見出すことなどおよそ眼中になく、聖なる使徒伝承の伝統を蔑視して、他のむなしく不毛で不確かな、教会によって認められていない教理を奉じ、その上に真理そのものを打ち立て、保持し得ると、高慢のきわみをもって考えるのです」。

信仰者としての近代主義者

14.尊敬する兄弟たちよ、これまで私たちは哲学者としての近代主義者を考察してきました。ここで、もし信仰者としての近代主義者を考察し、そして近代主義に従えば、どのように信仰者が哲学者から区別されるかを知ろうと思うならば、次のことに留意しなければなりません。すなわち、[近代主義によれば]「哲学者は天主的なるものの現実を信仰の対象として認めるとしても、この現実は哲学者によって見出されるものではなく、信仰者の心中に感情ならびに肯定の対象として、したがって現象の領域に限定されたかたちで見出される」のです。しかし[彼らによれば]「かかる現実がそれ自体として当の感情と肯定の外に存在するのかどうかという問いは、哲学者が看過し、なおざりにする問題です。反対に、信仰者としての近代主義者にとっては、天主的なるものがそれ自体として存在し、それを信仰する者におよそ依存しないということは、すでに確立した確実な事実です」。そしてもし、信仰者によるこの確固とした肯定はどのような根拠に基づいているのかと尋ねるならば、彼は「各人の個人的体験」こそそれであると答えるでしょう。この点において近代主義者は合理主義者と異なっており、むしろプロテスタントおよびエセ神秘家の見解に与する者となります。近代主義者は次のように問題を提示します。宗教的感覚において、人間を天主の現実と直接に接触させる一種の心の直感があることを認めなければなりません。この直感は天主の存在および人間の内と外における働きかけについて、いかなる科学上の確信をもはるかに超える確信を注ぎ込むのです。それゆえ、彼らは「現実的経験が存在し、それはあらゆる理知的経験をも凌駕するものである」と主張するのです。もし、かかる経験[の存在]が誰か、たとえば合理主義者によって否定されるなら、彼らは「それはこのような人々は、かかる経験を生み出すのに必要な道徳的状態に自らを置こうとしないからだ」と言います。「かかる経験こそが、それを得る人をして本来の意味で真の信仰者とする」と言うのです。

唯一の真の宗教の抹殺

このような立場は、いったいどれほどカトリックの教えから離れていることでしょうか。すでに私たちは、このような見解に基づく種々の誤謬が[第一]バチカン公会議によって排斥されたことを見ました。これから後、私たちはどのようにこれらの誤謬が、上で言及した種々の謬説と合わさって、無神論への広い道を開くかを見ていくことにしましょう。ここで、この体験についての教説が象徴主義の教説と結びつけられるとき、あらゆる宗教、異邦の宗教までもが真なるものとして見なされねばならなくなる、ということを指摘しておかなければなりません。いったい、このような体験がいかなる宗教においても見出されることを妨げるものがあるでしょうか。実際、この種の体験がいかなる宗教においても見出されると主張する者が少なからずいます。一体、いかなる根拠をもって近代主義者たちはイスラム教の信奉者によって断定される体験の真実性を否定することができるでしょうか。近代主義者たちはカトリック信者だけが真の経験を独占していると主張するでしょうか。果たして、近代主義者たちは否定するどころか、ある者はあいまいに、またある者はあからさまに、あらゆる宗教は真なるものであると主張しています。彼らが別様に感じることができないのは明らかなことです。なぜなら、彼らの理論に従う限り、いかなる根拠をもって、何某(なにがし)かの宗教の虚偽性を語ることができるでしょうか。無論、それは宗教的感覚の虚偽性のためか、あるいは精神によって述定された定式文の虚偽性のためか、そのいずれかでしょう。さて、宗教的感覚は、たとえその完全性に上下の差があるにしても、常に同一のものです。そして知的な定式文が真なるものであるためには、宗教的感覚ならびに信仰者──たとえ彼の知的能力がいかほどであろうと──に呼応するだけで足りるのです。異なる宗教が対峙するにあたって近代主義者たちが主張できることは、せいぜいカトリック教はより多くの真理を持っている、なぜなら他の宗教にまして生気に満ち、またキリスト教の起源により充全に対応しているため、キリスト教の名により値するものであるからだ、ということくらいです。このような結論が[彼らの立てる]前提から出てくるということは、誰の目にも当然のことでしょう。しかるに、何よりも驚くべきことは、カトリック信徒や司祭の中に、このように甚だしく劣悪な理論を嫌悪しつつも──そうであると私は信じます──あたかもそういった考え方を完全に認めているかのように行動する者たちがいる、という事実です。と言うのも、彼らはこれらの誤謬を教える者たちに賞賛を惜しみなく与え、また公の栄誉を授けており、こうすることを通して、彼らの賞嘆が単に人物──称賛の対象となっている当の者たちが何らかの優れた点をもっているということは十分あり得ますから──に対してだけでなく、むしろ、これらの者たちが公言してはばからず、力の限りを尽くして広めようとする誤謬のためである、という確信に至らせるからです。

宗教的体験と聖伝

15.しかるに、カトリックの真理に完全に反した彼らの教説中のこの部分には、もうひとつ別の要素があります。すなわち、体験に関して述定されることはカトリック教会によって絶えず保持されてきた聖伝にも当てはめられ、破滅的な結果を引き起こします。近代主義者たちによって理解される限りの伝承ないし伝統とは、「原初的体験を理知的な定式文を通して他の者たちと分かち合うこと」です。かかる定式文に彼らは、再現的価値の他に一種の暗示的効果があるとします。「この暗示的効果とは、まず第一に信仰者の内に宗教的感覚を惹起し、もしこの感覚が弛緩してしまうならば一旦獲得された体験を新たにするというかたちで働き、そして第二に、まだ信じていない者の内で初めて宗教的感覚を呼び覚まし、体験を生み出すというかたちで働きます。このようにして、宗教的体験は諸民族の間に広がるのです。そしてこれはなにも同時代の人たちの間に宣教を通してなされるだけでなく、未来の世代にも書物や口頭の伝承によってある者から他の者へと伝えられていくのです。ある時にはこのような宗教体験の伝達は根を下ろし、活気に満ちていますが、また別の時には、またたく間に枯れ衰え、死に絶えてしまいます」。近代主義者たちにとっては[あるものが]生きていること即ちそれが真であることの証明であり、それは彼らにとって生命と真理とはまったく同一のことだからです。このようなわけで、「現存している全ての宗教は等しく真なるものである」という結論に至るよう促されます。[彼らによれば]「もしそれらが真なるものでなければ生き残らないはず」だからです。

信仰と科学

16.尊敬する兄弟たちよ、ここまで私たちは近代主義者たちが信仰と科学──この中に彼らは歴史学をも含めます──との間に打ち立てる関係を把握するために、十分あるいは十分すぎるほどの材料を得るところまで考察を進めてきました。[彼らによれば]「まず第一に、このうちの一方にとっての対象物は、もう一方にとっての対象物とは異質で別々のものであるということが受け入れられなければなりません。なぜなら、信仰は、科学が自らにとって不可知なるものであると宣言するところのもののみに関わるからです。したがって、それぞれは自らに定められた別個の視野を有していることになります。科学は全く現象[のみ]に関わり、信仰はそれ(現象)にいっさい立ち入りません。反対に、信仰は天主的なるものに携わり、科学にとってそれは全く不可知な事柄です」。こういうわけで、「信仰と科学との間には決して反目が生じ得ない」という主張がなされるにいたります。なぜなら、もしそれぞれが自らに固有な場に留まるならば、両者は決して出会うことができず、そのため決して互いに矛盾対立し得ないからです。また、もし目に見える世界においては、キリストの人間としての生活のように、信仰に属する事柄がある、という反論がなされるならば、近代主義者たちはこれを否定するかたちで答えます。すなわち、「そういった事柄は確かに現象のカテゴリーに入りますが、しかるにそれらが信仰によって生きられ、また先に述べた仕方で信仰により変容および歪曲される限りにおいて、そういった事柄は感覚の世界から取り去られ、天主的なるもの[を形成するため]の素地となる」のです。それゆえ、キリストが本当の奇跡を行い、また、本当の予言を語ったのか、そして真に死者の中から復活して天に昇ったのかと、さらに問わねばならなくなりますが、不可知論の立場をとる科学の答えは否定的であり、信仰の側の答えは肯定的なものとなります。しかるに、このために両者の間に対立が生まれることは一切ありません。なぜなら[彼らによれば]「この種の事柄は哲学者に対して語り、キリストをその歴史的現実においてのみ考察する、哲学者たる限りでの哲学者によっては否定されますが、信仰者に語りかけ、キリストの生涯を信仰によって、また信仰の内に再び生きられるものとして捉える信仰者たる限りでの信仰者によっては肯定されるから」です。

科学に従属する信仰

17.しかしながら、これらの理論に従う限り、信仰と科学とは互いに対して完全に独立していると考えて差し支えないと推量するなら、大きな誤りを犯すことになるでしょう。科学の側に関する限り、実際それはきわめて真実かつ正しいのですが、しかし信仰に関しては、まるでそうではありません。[彼らによれば]「信仰は科学にただ一つのみならず、三つの理由によって従属するからです。なぜなら第一に、あらゆる宗教的事実において、天主的現実ならびにそれについて信仰者が有する体験を取り去るなら、他の一切のもの、特に宗教的定式文は現象の領域に属すこととなり、したがって科学の支配下にくだることになります。もし望むならば信仰者に世界の外に行かせましょう。しかし、それは彼が世界の中に留まる限りの話です。好もうと好ままいと、彼は科学と歴史の法則、観測、判断とから逃れることはできないのです。さらに、天主は信仰のみの対象であると唱えられているにしても、これはただ天主的現実のみについて言われていることであり、天主の観念については当てはまりません。後者はまた科学の考察主題でもあるからです。すなわち、科学が論理的次元と呼ばれるものにおいて哲学的思索をめぐらすとき、絶対的なもの観念的なものにいたるまで舞い上がるからです。それゆえ、天主の観念についての認識を形成し、それをその進化[の過程]において導き、かつその中に混じり込んでしまっているかもしれない外から加えられた異質な要素の一切から浄めるということは、哲学ならびに歴史の権利に属することです」。ここから、「宗教的進化は道徳的・理知的事柄と一致するようにはかられねばならない」、もしくは彼らが指導者と目するある者が言い表したように、「宗教的進化は道徳的・理知的事柄に従属されねばならない」という近代主義者の定理が出てくるのです。結局、人間は自らの内に二重の原理が存在するということに耐えられず、また、それゆえ信仰者は自らの内に信仰を科学と調和させ、そうすることによって科学が宇宙について定める一般的概念に信仰が決して対立しないようにする、駆り立てるような必要を感じるのです。

このようなわけで、科学が信仰に全く依存しないとされ、他方、その両者は互いに縁遠いはずなのにもかかわらず、信仰は科学に従属するものとされるのです。尊敬する兄弟たちよ、こういったこと全ては、私の前任者ピオ九世の教説に明らかに反しています。同教皇は、次のことをしかと定めたのでした。「宗教的事柄における哲学の務めは命令することではなく仕えることであり、信じられるべきことを定めるのではなく、理性的な恭順をもって信じられるべき事柄を拝受することであり、天主の神秘の深みを詮索するのではなく敬虔に、そして謙虚にそれを崇敬することです」。

近代主義者は、この順序を完全に逆転させてしまいます。したがって彼らには、私のもう一人の前任者グレゴリオ九世が、当時のある神学者たちに対して述べた言葉が当てはまるでしょう。「あなた方のなかのある者たちは高慢の精神で浮き袋のようにふくれ上がり、涜聖的な種々の新思想によって、教父たちにより定められた境界を乗り越えようとするのです。この際、彼らは理性主義者の哲学的教条に合わせて聖なる原典の意味をねじ曲げるのですが、それは聴衆の利益のためではなく、学識のあるところを見せびらかすためなのです。これらの者たちは種々の珍奇な教説にたぶらかされて上のものを下にし、女王を下女に仕えるよう無理強いするのです」。

近代主義者の用いる方法

18.誰であれ、近代主義者たちの行動を研究する者には、その教えるところに完全に合致する彼らの方法論は、より明らかに知られるでしょう。著作および講演において、近代主義者は互いに対立する教理を提唱しているように見受けられることが少なからずあり、このため、ともすれば彼らの態度を裏表があり、疑わしいと見なしてしまうことになります。しかし、これはわざと熟慮の上でなされるのであり、その理由は信仰と科学の相互の分離に関する彼らの思想の内に求められなければなりません。このようなわけで、近代主義者の著作をひもとけばカトリック信者によって承認され得ることがいくらか見出されるのですが、ページを繰るうちに、いかにも理性主義者によって述べられそうなことを記した他の箇所に出くわします。近代主義者が歴史を書く際、彼らはキリストの天主性についていかなる言及もしませんが、説教台に立てばはっきりとこれを言明するのです。また、歴史[の研究]に携わる際、彼らは教父や諸公会議のことを気にも留めませんが、人々に要理を教えるにあたっては、それらを恭(うやうや)しく引用します。同様に、彼ら近代主義者は、神学的および司牧的な聖書釈義と科学的で歴史的な聖書釈義とを区別します。したがって、彼らが科学は信仰に全く依存しないという原則に基づいて哲学や歴史、批判学に携わる際、ルターの足跡にしたがって歩むことに彼らは別段何の恐れも抱かず、かえってカトリックの教理、諸々の教父と公会議、教会の教導権に対する軽蔑を表すのが常です。そしてこのために非難される場合、彼らは「自分たちの自由が奪われている」と不服を申し立てます。「信仰は科学に従属しなければならない」という理論を支持する彼らは、「教会が自らの教義を哲学の憶説に従属かつ適合させることを頑なに拒んでいる」として非難します。しかるに、他方、上述の目的のために旧来の神学をぬぐい去った彼らは、哲学者の逸脱した諸説を支持する新しい神学を導入すべく努めるのです。

神学者としての近代主義者

19.尊敬する兄弟たちよ、ここにいたって神学の領域における近代主義者について考察する道が開けました。これは困難な課題ですが、簡潔に処理し得ることでもあります。[ここで]問題となるのは信仰と科学の和合を成し遂げることですが、これは常に一方を他方に従属させるというかたちでなされます。この問題において近代主義者の神学者は、近代主義者の哲学者によって用いられるのと全く同一の原理、すなわち内在ならびに象徴主義を採用し、それらを信仰者に適応します。このプロセスはきわめて単純なものです。[近代主義の]哲学者が「信仰の原理は内在する」と宣言すれば、信仰者はそれに「この原理は天主である」と言い加え、神学者は「天主は人間の内に内在している」という結論を導き出すのです。こうして神学的内在という理念が生まれます。同様に哲学者はまた、「信仰の対象を表現したものは単に象徴的なものに過ぎない」ということを確実なこととして見なします。信仰者もまた同様に「信仰の対象は天主それ自体である」と言明し、神学者は「天主的現実を表現したものは象徴的なものである」と断定します。このようにして神学的象徴主義が生まれます。これらの誤謬はまことに誤謬の中でも最も重大な部類に属するものであり、両者の有害な性格は、それらの生む結果を検証することを通じて明らかに知られます。と言うのも、まず象徴主義から始めるなら、「象徴はその対象となっているものに対しては[あくまで]象徴であり、また信仰者に対しては単なる道具にしか過ぎない」ため、近代主義者の教えるところに従えば「信仰者は定式文たる限りにおいての定式文に過大な強調を置かないことが第一に必要となる」のです。したがって「信仰者はかかる定式文を、それが同時に明かし、かつおおい隠す、すなわち表現しようとしながら決してそれを完遂しないところの絶対的真理へと自らを一致させる目的でのみ用いるようにしなければならない」のです。近代主義者はまた、信仰者が種々の定式文を、それらが彼にとって助けとなる限りにおいてのみ用いさせようとします。と言うのも、かかる定式文は妨げとしてではなく、助けになるものとして与えられているものだからです。しかしながら、この際に公の教導権が一般共通の意識を表すのに適当だと判断した定式文に対して、その同じ教導権が別様に規定する時まで払われるべき社会的敬意へのふさわしい配慮を怠らないようにしなければなりません。内在に関しては、近代主義者たちがそれをもって厳密に何を意味するのかを見定めることは容易ではありません。なぜなら、これについて彼らの見解はまちまちだからです。ある者たちはこの言葉を、「人間の内に働く天主は、人間が自分自身の内にあるよりも、より親密に現存している」という意味に解しますが、かかる概念はもし適当に理解されるならば非の打ちどころのないものです。他の者たちは、「天主の働きは自然本性の働きと同一である、なぜなら第一原因の働きは二次的原因の働きと同一であるから」と主張します。このような考え方は超自然の次元を抹消してしまうことでしょう。最後に、また別の者たちは内在という概念を汎神論がかった流儀で説明するのですが、実際これが近代主義者が標榜する他の諸々の教条に最もよく適合する意味なのです。

天主的永在の原理

20.この内在という原理には、天主的永在と呼ぶことのできる、もうひとつの原理が関連しています。後者と前者との違いは、「個人的な体験」と「伝承によって伝えられる体験」との間にある違いと、ほぼ同じです。この天主的永在というものが何を意味するかを明らかにする例が、教会と秘跡との中に見出されるでしょう。近代主義者によれば、「教会および秘跡はキリストによって制定されたものと見なされるべきではない」のです。「このように見なすことは、キリストの中に、全ての人と同様その宗教的感覚が徐々に段階を追って形成されていった一人の人物しか認めない不可知論によって禁じられている」からです。それはまた、近代主義者が外的適用と呼ぶところのものを否定する「内在の法則」によっても禁じられます。それはさらに、種子の発達のためには時間、および特定の一連の状況が必要だとする「進化論」によって禁じられています。最後にそれは、事実、このように物事は進んできたのだと示す「歴史」によって禁じられるのです。しかるに近代主義者は、「教会および秘跡のどちらも、キリストによって間接的に制定されたと信じるべきだ」としています。しかし、どのようにと言うのでしょうか。それは次のようにしてです。近代主義者によれば、「全てのキリスト者の良心ないし意識は、ちょうど植物が種の中に含まれているように、キリストの意識の中にある意味で、実質的に含まれていたのです。しかし、枝々が種の生命を生きるように、全てのキリスト者もまた、キリストの生命を生きると言われねばなりません。しかるに、キリストの生命とは、信仰に従えば天主的なるものであり、したがってキリスト者の生命も天主的なるものとなります。そして、もしこの生命が長い年月を経て教会ならびに秘跡を生み出したのであるとすれば、それらはキリストに起源を発し、天主的なものであると言って全くさしつかえないことになります」。同様の論法で、彼らは聖書ならびに教義が天主的であることを論じ立てます。そして、ここにおいて近代主義の神学はその完成を見ると言うことができるでしょう。まことに脆弱な思想体系ですが、科学の結論はそれがどのようなものであろうと常に受け入れられねばならない、と公言する神学者にとっては、これで十分すぎるほどなのです。誰でも、これらの理論を私が取り扱おうと試みる[近代主義の教条の]他の諸点に容易に当てはめてみることができるでしょう。

教義と秘跡

21.これまで私たちは[近代主義の教条に即して]信仰の起源と本性についてふれてきました。しかるに、信仰には多くの区別された部分があり、そしてその中でも主要なものに教会、教義、礼拝、信心、ならびに私たちが「神聖な」ものと呼ぶ諸書があるので、近代主義者がこれらについて何を教えているかを知ることが、私たちの[当面の]課題となります。まず教義について言うと、私はすでにその起源と本性とを指摘しました。教義は一種の衝動あるいは必要から生まれます。これ(教義)によって信仰者は自分の思念を練り上げて、自らの意識と他者のそれとにとって、より明白なものとするのです。かかる練り上げはことごとく、原初的で素朴な精神内の定式文を検証し、洗練する過程の中に存しています。しかるにそれは、それ自体において、何らかの論理的説明に即してなされるのではなく、状況に即して、あるいは近代主義者たちが用いるこれよりいささか解りにくい表現に従えば、生命的になされるのです。そのようなわけで、始原的な定式文を取り囲むようにして二次的な種々の定式文が──すでに私が指摘したように──徐々に形成され続け、そしてこれらは引きつづいて一つのかたまり、ないしは一つの教理的構築物にまとめられ、さらに公の教導権によって一般共通の意識に呼応するものとして承認され、教義と呼ばれるにいたるのです。教義は神学者たちの思索から慎重に区別されるべきですが、後者もそれなりの有用性をもっています。と言うのも、かかる思索は教義のもつ生命にみなぎっていないとしても、宗教と科学を調和させ、両者の対立を取りのぞくと共に、宗教を外側から照らし、擁護するために有益であり、さらには将来定められる教義のための材料を準備することにもなるからです。礼拝については、この題目の下に、それに関して近代主義の誤謬がこの上なく深刻な様相を呈するところの秘跡が含まれている、ということの他にはあまり言うことはないでしょう。近代主義者にとって「秘跡とは二重の衝動ないし必要から結果するもの」です。なぜなら、すでに見たように、彼らの体系においては「万事が内的な衝動ないし必要によって説明される」からです。「最初の必要とは宗教に何か感覚で捉え得る表明[の手段]を与えることであり、第二の必要とは、それを表現することです。しかるに、これは何らかの感覚で捉え得る形および聖化の行為なしには成され得ず、それらを称して秘跡と呼ぶ」のです。しかし、近代主義者にとって「秘跡はある一定の効能に欠けるものではないにしても、ただの象徴あるいは印でしかない」のです。彼らの言うところによると、「かかる効能とは、一般民衆の耳を捉えるべく通俗的な表現を用いたある種の言い回しが持つのと同様のもの、すなわち、何かの枢要な理念を巷に広め、そして精神に著しい印象を与える力を有しているという意味での効能」なのです。「言い回し」が「理念」に対するのと同様の関係を「秘跡」は「宗教的感覚」に対して持つに過ぎません。もし近代主義者が、秘跡はただ信仰を育むために制定されたと言明したなら、それは彼らの考えるところをより明白に表すことになるでしょう。しかるに、これはトリエントの公会議によって排斥されています。「もし誰かが、これらの秘跡は信仰を育むためだけに制定されたと言うならば、彼は排斥されるように」。

聖書

22.聖書の本性と起源については、すでにふれました。近代主義者の原理に従えば、聖書は体験の集大成と呼んでさしつかえのないものです。しかるに、ここで言う体験とは、誰にでも時として起こり得る種類のそれではなく、「あらゆる宗教が有している並外れた顕著な体験」のことです。そして、これこそ近代主義者が旧・新約聖書に含まれる諸書典について教えるところなのです。しかし、自分たちの理論に適合させるために、彼らはたぐいまれな巧知をもって、こう指摘するのです。「たしかに体験は現在に属する事柄であるが、信仰者が記憶によって現在と同様の仕方で過去を再び生き、未来をすでに期待によって生きる限りにおいて、その素材を過去および未来からも同様に汲み取ることができる」のだと。こう考えることによって、歴史的ならびに黙示的な書が正典の中に含まれているという事実の説明がつきます。天主は事実、これらの著作において信仰者を通して語られるのですが、しかるにそれは近代主義神学に基づき、ただ内在生命的永在によってのみ、そうされるのです。それでは一体、天主的霊感はどうなるのでしょうか。彼らは答えて、「天主的霊感とは信仰者が自らの内にある信仰を著述を通して啓示するようにつき動かすところの衝動と、おそらくその激しさの他は全く変わるところがないものである」と言います。「これは詩的な霊感において起こることと同様のものです。さて、この詩的な霊感については、次のように言われてきました。『私たちの中には天主がいて、天主が動くとき、私たちは炎で燃え立たされる』と。この意味においてのみ、天主が聖書の霊感の起源であると言われる」のです。近代主義者はさらに、この天主的霊感ということについて、聖書の中にはそれに欠くものは一切ない、と断言しています。この点に関して、ある人たちは、彼らが天主的霊感[の及ぶ範囲]をいささか限定する──例えば、いわゆる暗黙の引用と称されるものに限ってそれを認める──近年のある著作家たちに比して、より正統であると考えてしまうかもしれません。しかし、こういったことすべては単なる言葉上の作り事に過ぎません。なぜなら、もし聖書を不可知論の基準にしたがって、つまり人々によって人々のためにつくられた人間の所作として──もっとも[近代主義の]神学者はそれが内在によって天主的なるものであると述べることが許されますが──見なすならば、一体、天主的霊感の余地はどこにあるでしょうか。近代主義者たちは聖書に一般的なかたちで及ぶ霊感が存在するとは言うのですが、カトリック的な意味での天主的霊感は一切認めないのです。

教会

23.近代主義学派が教会の本質と見なすところのものについては、非常に多くのことを述べることができます。彼らはまず、「教会は二重の必要に基づいて生まれた」という憶測から論議を始めます。「第一に、個人としての信仰者が、殊に彼が何か他に類を見ない特別な体験をした場合に、自分の信仰を他者に伝達する必要が生じ、第二に、信仰が多くの人に共通のものとなったとき、一つの社会へと発展し、共通善を守り、促進し、伝播するための集団としての必要です。それでは、教会とは一体なんでしょうか。それは集団的意識、すなわち個々人の良心ないし意識の集合から生じるものであり、内在の原理によって一人の最初の信仰者たる者──それはカトリック者にとってはキリストです──にことごとく依存するものです。ところで、あらゆる社会はその成員を共通の目的へと導き、一致団結を生む要素──宗教的社会においては教理および礼拝です──を育む指導的権威を必要とします。ここからカトリック教会における規律、教義、典礼を司る三重の権威が生じます。この権威の本質はその起源から、またそれが有する諸々の権利ならびに義務は、その本質から推し量られるべきものです。過去には、権威が教会の外から、すなわち天主から来るというのが一般の誤謬でした。そして当時、かかる権威は正しくも専制的なものと見なされました。しかし、今ではこのような概念はすたれてしまいました。と言うのも、教会が集団的良心ないし意識の生命的発出であるのと同様、権威もまた、教会自体から生命的に発出するからです。したがって、権威は教会と同様、宗教的感覚の内にその起源を有しており、そのため、これに従属するのです。もし権威がこの依存関係を否定するならば、専制になってしまいます。実際、私たちは自由の感覚が最高の発展を遂げた時代に生きているからです。世俗的領域においては、民衆の意識が人民的政府の導入にいたらせました。ところで、人間の中には、ちょうど一つの生命しかないように、一つの意識しかありません。したがって、民主的形態を採択するのは教会の権威──もっとも、当の権威が人類の意識の中に内部的対立を引き起こし、助長することを望むなら話は別ですが──ということになります。これを拒否することは破滅的な結果をもたらします。なぜなら、今日当たり前となっている自由の感覚が後退し得るということは、あろうはずもないからです。もしそれが力ずくで抑圧され、束縛されたならば、その爆発はより恐ろしいものとなり、教会と宗教をひとまとめに一掃してしまうことでしょう」。近代主義者の心中に思い描かれた状況はかくのようなものであり、したがって彼らが大いに心にかけている一事は、教会の権威と信仰者たちの自由との間に折り合いをつける手段を見出すことです。

教会と国家の関係

24.しかるに、教会が折り合いをつけなければならないのは、その内輪だけではありません。内側にいる者たちとの関係の他に、外側にいる者たちとの関係があるからです。教会は世界全体を埋め尽くしているわけではありません。世界には他の諸々の社会があり、教会は必然的にそれらと交渉ならびに接触を持たなければならないのです。したがって、教会が世俗的社会に対して有する諸々の権利と義務は無論、教会自身の本性によって、すなわち近代主義者がすでに描き出してみせたところの本性によって決定される必要があります。この問題において適用されるべき原則は明らかに科学と信仰のために定められたものと同一ですが、後者の場合、問題は対象であったのに対し、今取り扱っている事柄においては目的が問題となります。したがって同様に、「信仰と科学はそれぞれが対象とするものの相違のゆえに互いに無関係であるように、教会と国家とは両者の目的の相違のために互いに無関係なものとなる」のです。すなわち「教会の目的が霊的なものであるのに対し、国家の目的は地上的なものだから」です。[彼らによれば]「一昔前は地上的な事柄を霊的な事柄に従属させ、ある種の問題を混合的な問題として扱い、教会にそういった事柄全てにおいて女王ならびに女主人の地位を与えることが可能でした。と言うのも、教会はその当時、超自然的次元の造り主たる天主によって直接打ち立てられたものだと見なされていたからです。しかし、このような教理は今日、哲学者によっても歴史家によっても認められていません。したがって国家は教会から分離されなければならないのであり、またカトリック信徒[としての個人]は市民[としての個人]から分離されなければならないのです。各々のカトリック信徒は、彼がまた同時に市民でもあるという事実により、自分が一番適当だと思うやり方で共通善のために働く権利と義務とを有しているのです。この際、彼は教会の権威にいちいち配慮する必要はないのであり、教会の望みや勧め、命令に少しも留意せず、否、教会の譴責に反してまでも行動する権利を持っています。教会が市民のために行動の指針を策定し、指示することは権威の乱用を犯すこととなり、これに対して人は全力を尽くして戦う義務があります」。尊敬する兄弟たちよ、これらの教条の元となっている諸々の原理は、先任者ピオ6世により、使徒教令『アウクトレム・フィデイ』を通して荘厳に排斥されたものです。

教会の教導権

25.しかるに近代主義派にとって、国家が教会から分離されるということだけでは十分ではありません。と言うのも、[彼らによれば]「現象的な事柄に関する限り信仰が科学に従属させられるべきであるのと同様、地上的事柄において教会は国家に従属せねばならないから」です。このことを近代主義者たちはまだ公然と口にすることはないかもしれませんが、しかし彼らは自分たちの指示する命題の論理的帰結として、これを認めないわけにはいきません。なぜなら、[彼らによれば]「地上的事柄において国家のみが権利を有しているとするならば、信仰者が宗教の単に内的な行為だけで飽き足らず、例えば秘跡の授受などのような外的行為に及ぶとき、これらは国家の規制の下におかれます。そうすれば外的行為のみによって行使され得る教会の権威は一体どうなってしまうでしょうか。当然それは完全に国家の支配下におかれることになる」からです。まさに、この避けることのできない結論のために、多くのリベラルなプロテスタントは一切の外的礼拝、否、一切の宗教的共同性を拒絶し、そして彼らが言うところの個人的宗教を標榜しているのです。もし近代主義者たちが、あからさまにはまだそこまで行っていないとしても、彼らは「自分たちの示す方向付けに教会が自発的に従い、かつ国家の形態に自らを適合させる」ことを求めるのです。以上が規律的権威についての彼らの考え方です。しかるに、教理的また教義的な権威に関する彼らの見解は、はるかに悪辣かつ有害なものです。教会の教導権について彼らが抱く概念は以下のようなものです。彼らが述べるところによれば、「その成員の宗教的意識が一致し、かつ彼らが採択する定式文もまた一致しているのでなければ、いかなる宗教的社会も本当の意味で一つにまとまった集団となり得ないのです。しかるにこの二重の一致のためには、この共通意識に最もよく適合する定式文を見出し定める一種の共通精神が必要となります。さらに、決定された宗教的定式文を共同体に課する権威がなければなりません。」近代主義者に言わせると、「これら二つの要素の結合および一種の融合から、教会の教導権の観念が生まれる」のです。そして「この教導権は、つまるところ個々人の意識から発生するのであり、公共の利便をはかるべく附与される委任権をそれらの人々の益のためにこそ有するのですから、当然、教会の教導権はその成員に依存するのであり、それゆえ一般民衆の理想となっているところのものに追従しなければならないのです。個人の良心が自ら感ずるところの衝動を自由に公然と表明するのを妨げること、教義がそのたどるべき必然的進化の道のりをたどるよう強く促す批判の働きを阻むことは公共の福利のために与えられた権利の正当な行使ではなく濫用に他なりません。同様に、権威の行使においても、しかるべき方法と度合いとが守られなければなりません。著者の与り知らぬうちに、本人の説明を聞くことも話し合うこともなしに著作を排斥し、発禁処分にすることは、およそ圧制と変わりないことです。ここでもまた、問題となるのは、権威の側の十全な権利と自由の側の十全な権利との間で折り合いをつける方法をなにか見つけ出すことです。カトリック者にとっての取るべき道は、権威に対する深い尊敬を抱いていると公言しつつも、決して自分自身の判断に従うことをやめないことです」。教会に対して近代主義者たちは次のような方向付けを示します。すなわち、「教会の権威は、自らの目的が完全に霊的なものであることに鑑みて、公衆の眼前にその姿を飾るところの外的な壮麗さを脱ぎすてなければなりません」。かかる主張を成すに当たって、彼らは宗教は霊魂のためのものであるとは言え、ただ霊魂のためのみのものではなく、また権威に対して払われる敬意は、それを制定したキリストご自身に帰されることになる、という事実を忘れているのです。

教義の進化

26.尊敬する兄弟たちよ、信仰とその多様な部分についてのこの問題を総括するに当たって、私たちはまだ近代主義者たちが信仰とそれを構成する各部分の発展について述べていることに考察を加えてみなければなりません。まず第一に、彼らは「生きた宗教においては一切が変化に服しており、また事実、変えられなければならないという一般的原理」を定めます。このようにして彼らは、事実上彼らの中心的教条となっているもの、すなわち「進化」へと議論を進めるのです。[彼らによれば]「進化の法則には一切のものが服しており、これに背くことは死を意味します。教義、教会、礼拝、神聖なものとして私たちが崇敬する書典、そして信仰そのものさえ、この例にもれません」。この原則をあからさまに述べたところで、近代主義者がこういった事柄のそれぞれについて唱えていることを念頭に置く人の中、誰も驚きはしないでしょう。この進化の法則を打ち立てて後、近代主義者たちは自ら、どのようにそれが働くかを説明します。まず第一に、信仰について彼らは説明します。彼らの述べるところによれば、「信仰の原初的形態は未発達で万人に共通なものでした。それは、かかる形態が人間の自然本性および人間の生命に起源を有するものだったからです。生命的進化は進歩をもたらしましたが、それは新しい、純粋に付帯的な形態を外部から増し加えられることによってではなく、宗教的感覚が良心内に一層深く浸透することによって生じました。さて、この進歩には二つの種類があります。消極的進化とは、例えば家系や国籍に由来するもののような、本質的でない要素をことごとく排除することによって生じる進化です。積極的進化とは、人間の知的および道徳的洗練によってもたらされる進化であり、これによって天主的なるものについての観念はより十全かつ明晰なものとなり、また宗教的感覚は一層鋭敏になります。信仰の進歩に対しては、先に信仰の起源を説明するために挙げられたのと同じ諸原因が当てはめられます。しかるに、これらの原因に加えて、私たちが預言者と呼ぶところの並外れた人たち──この中でキリストは最も偉大な者でした──を挙げなければなりません。それは、一つには彼らの生活ならびに言葉の中に、信仰が天主的な存在に由来するものとした、神秘的な何かがあったからであり、もうひとつには、これらの人々は、彼らの時代の宗教的必要に完全に合致した新しい独自の体験をする命運を有するにいたったからです。教義の進歩は主に、信仰に対する障害は乗りこえられねばならず、その敵はうち負かされ、異論は反駁されねばならない、という事実によるものです。また、これに加えて信仰の奥義に含まれている事柄に、より一層深く分け入ろうとするたゆまぬ努力を挙げねばなりません。このようなわけで、他の例はさておき、キリストにおいてはこのような事態が生じたことがわかるのであり、彼において、信仰が彼の中に認めるところの、かの天主的な何かがゆっくりと徐々に拡大されてゆき、ついには天主であると見なされるまでになったのです。礼拝の進化を生じさせる主要な刺激は、さまざまな民族の風俗習慣に適合する必要、ならびに特定の行為が慣習として得ることになった価値を利用する必要のうちに存します。最後に、教会自体における進化は、歴史的状況に適合し、既存の社会の形態に自らを調和させる必要によって力を得[て進行し]ます」。以上が、これらのものそれぞれの進化についての彼らの見解です。さてここで、これ以上先に進む前に私は必然性ないし必要に関するこの理論全体にあなた方の注意を喚起したいと思います。なぜなら、私たちがこれまで見てきたことの何物にも勝って、この教条は彼ら近代主義者が歴史と呼ぶ、かのよく知られた手法の基礎かつ土台であるからです。

伝統と進歩

27.進化は諸々の必要ないし必然性によって促されるとはいえ、もし、ただこれらのみによって統御されるならば伝統の境界線をたやすく越え出てしまい、こうして、その原初的な生命原理から切り離された進化は、進歩よりもむしろ衰退をもたらすこととなるでしょう。このため、近代主義者の近代主義をつぶさに研究する者たちによって、「進化とは、一方は進歩に、もう一方は保守へと向かう二つの力の拮抗から生じるもの」として説明されています。[彼らによれば]「保守をはかる力は教会の中に存し、また伝統の中に見出されます。伝統は宗教的権威によって代表されますが、これは正当な権利に基づいて、また事実としてそうなっているのです。正当な権利に基づいて、というのは、伝統を保護することが権威の本性自体に属することだからです。また、事実として、というのは、生活上の具体的な事柄のはるか上に上げられた権威は、進歩のつき動かす力をほとんど、あるいはまったく感じないからです。それと反対に、内部の必要に呼応する進歩的な力は個々人の良心の中にあり、そこで働きますが、これは生活と密接かつ親密な接触を持っている人々の良心において特にそうです」。尊敬する兄弟たちよ、すでに私たちは一般信徒をして教会における進歩の要因たらしめる、この上なく有害な教説が導入されるのを目にしています。さて、保守と進歩というこの二つの勢力間、すなわち権威と個々人の良心との間でなされる一種の協定および妥協によって変化ならびに進歩が生まれるのです。個々人の良心または、ある特定の人々の良心が集合的良心に働きかけ、この集合的良心は権威の保持者に、それらの人々の良心と折り合いをつけ、またそれに従うよう圧力をかけるのです。

近代主義者たちの屈折した性質

こういったことをみな考慮に入れれば、近代主義者たちが譴責や処罰を受ける際に表す驚きの訳が分かります。誤ちとして彼らに帰せられることを、彼ら自身は神聖な義務と見なしているからです。彼らは人々の良心の必要を他の誰よりもよく理解しています。なぜなら、彼らは教会の権威よりも、より緊密に人々の良心と接して[と考えて]いるからです。否、彼らはいわば自らのうちに人々の良心を体現している[と考えている]のです。このため、彼らにとって公然と語り、著述をおこなうことは決して怠ってはならない義務なのです。もし望むならば権威は彼らをとがめればいいでしょう。彼ら近代主義者は自らの良心、ならびに自分たちは非難ではなく、称賛にこそ値するという確信を抱かせる直接の体験を自らの側にもっています。それから彼らは、結局のところ逃走なしに進歩なく、また犠牲者のでない逃走もないと考え、そして預言者やキリストご自身のように自分たちが犠牲者となることをあえて辞しません。彼らは自分たちを荒々しく取り扱う権威に対して、いささかの恨みも心に抱いていません。なぜかと言うに、彼らは結局のところ権威は権威としての義務を果たしているに過ぎないと認めるのにやぶさかではないからです。彼らにとっての唯一の悲しみは、権威が彼らの発する警告に耳を閉ざし、こうして人々の霊魂の進歩を妨げていることです。しかるに、これ以上[進歩を]引きのばすことがもはや不可能となる時が来ることは、およそ確実です。なぜなら、たとえ進化の法則はしばらくの間押し止められ得るとしても、最終的には、それから免れることはできないからです。このように考えて、彼らは譴責や排斥にもかかわらず、信じがたい大胆さを見せかけの謙遜で覆いかくし、自らの道を行くのです。頭を下げるふりをしつつも、彼らの心と手は自分たち退きとを成し遂げるべく、以前にもまして大胆となるのです。そして彼らはこのようなやり方に、望んで知りつつ従うのです。それは、権威は転覆されるのではなく、刺激されるべきものである、ということが彼らの思想体系の一部を成しているからであり、また集合的良心を徐々に改変するために、彼らが教会の階層中に留まることが必要だからでもあります。そして、このように述べるに当たって彼らは、集合的良心は彼らの許にないこと、また、彼らはかかる良心の解釈者を名乗るいかなる権利もないことを告白していることになります。

これまでにも排斥されてきた近代主義

28.尊敬する兄弟たちよ、出版物の著者としてであれ、思想の宣布者としてであれ、近代主義者たちにとって、教会には安定したもの、変わり得ないものは何一つありません。実際、彼らは自らの教説を唱えるに際し、[思想的]先駆者を有していないわけではありません。と言うのも、先任者ピオ九世が次のように述べたのは、こういった者たちについてだったからです。「天主的啓示の敵であるこれらの者たちは、人間の進歩を天上にまで祭り上げ、かつ向こう見ずで涜聖的な大胆さでこれをカトリック教の中に取り入れようとするのです。あたかもこの宗教が天主のではなく人間の業、または人間の努力によってより完全なものと成され得る、ある種の哲学的発見であるかのように」。とりわけ啓示と教義については、近代主義者らの教義は何も新しいものを提供していません。この教義は、ピオ九世の誤謬表ですでに非難されており、次のように[誤謬の命題が]述べられています。「天主の啓示は不完全であり、したがって、人間の理性の進歩に対応して、継続的かつ限定されない進歩を遂げるものである」。また、これは[第一]バチカン公会議ではさらに荘厳に排斥されました。「天主が啓示し給うた信仰の教義は、あたかも哲学的な体系のように、人間の知性に提案されて彼らによって完成されるのではなく、忠実に守られ、不可謬に解釈されるために、キリストの花嫁[であるカトリック教会]に託された天主の遺産として提示されたのです。それゆえ、聖なる教義の意味もまた、私たちの聖なる母である教会がかつて宣言したものであり、真理をより深く理解するためという弁明や口実で、この意味を放棄することは決してない」。かかる宣言によって私たちの認識が、信仰に関する認識も含めて、妨げられるわけではなく、反対に、支持かつ保持されます。なぜなら、その同じ[第一バチカン]公会議は続けて、次のように述べているからです。「それゆえ知性、学知、知恵が個人において、また大衆において、信仰者において、また教会全体において豊かに、そして力強く世々代々にわたって増大し、前進せんことを。しかるに、それはその種類においてのみ、すなわち、同じ教義、同じ意味、同じ解釈に基づいてである」。

近代主義のさらなる検証

29.私たちは哲学者、信仰者、それに神学者としての近代主義者を研究してきました。私たちはこれから歴史学者、批判学者、護教論者、ならびに改革者としての近代主義者を考察してみなければなりません。

歴史学者としての近代主義者

30.ある近代主義者たちは、歴史の研究に専念し、哲学者として見られることを極度にきらうようなそぶりを見せます。「哲学については全く何も知らない」と彼らは公言しますが、ここにおいて彼らは非凡な抜け目なさを示します。と言うのも、彼らは自分たちが客観的と称するところから外れているとの非難を自らの身に招くことのないよう、種々の哲学的理論に対して、どのようなものであれ好意的先入見をもっているとの嫌疑を免れることを何よりも望んでいるからです。しかるに、彼らの歴史学および批判学には、彼らの哲学が浸透しており、また彼らの導き出す諸々の歴史批判的結論は、彼らの哲学的原理の当然の帰結なのです。このことは、誰であれじっくりと考えてみる人には、いたって明らかでしょう。彼ら近代主義者の三つの主な法則は、すでに扱った彼らの三つの哲学的原理の中に含まれています。すなわちそれは、不可知論の原理、信仰による事物の変容の定理、および歪曲化と称し得るもうひとつ別の原理です。これらの原理のそれぞれから、どのような結果が生じてくるのかを見てみることにしましょう。「不可知論によれば、歴史は科学と同様、まったく現象のみを扱い、その結果、天主、また人間的事柄に対する天主の一切の介入は、信仰のみに属するものとして、信仰に委ねられねばなりません。それゆえ、天主的ならびに人間的という二重の要素が結び合わさっている事物、たとえばキリスト、または教会、あるいは秘跡、ないしはそれに類したその他多くの事物においては、区別と分離が成されねばならず、人間的要素は歴史に委ねられ、他方、天主的な要素は信仰に割り当てられなければなりません。ここから、近代主義者たちの間で非常に広まっている、歴史上のキリストと信仰上のキリストとの区別、歴史上の秘跡と信仰上の秘跡との区別、およびこれに類した事柄における同様の区別という、よく知られた区別が出てくるのです。次いで私たちは、歴史学者が取り扱うべき、文書中に現れている限りでの人間的要素は、信仰によって変容されたもの、つまり、本来の歴史的状況よりも高く上げられたものとして見なされるべきである、ということを了解します。このため、キリストを扱うに当たって、心理学が人間について述べること、あるいは彼が生きた場所と時代から私たちが推測するところにしたがって、歴史学者は、自然的条件における人間[の域]を越え出る一切のことを除外しなければなりません」。最後に彼らは、第三の原理に基づいて、歴史の領域に属する事柄さえもふるいにかけられ、彼らの判断に即して事実の論理[的関係]に合わないことや、取り扱われている人物に似つかわしくないことは全て除外され、信仰に委ねられることを求めます。こう言うわけで、彼ら近代主義者は、キリストが彼の話を聞く群衆の[知解]能力の範囲外のことを、たとえ一度であれ口にしたということを認めようとしないのです。このため、彼らはキリストの現実の歴史から、その説教中に見出される全ての寓話をのぞき去り、それらをことごとく信仰の手に委ねるのです。私たちは、いかなる原理に基づいて彼らがこういった区別を成すのか問うてみることができるでしょうか。彼らの返事は、自分たちは当の人物の人格、彼の生活状態、教育、諸々の事実が生じた状況の複雑な絡み合いに即して議論しているのだというものです。つまり要するに──もし私が彼らを正しく理解しているのであれば──主観的なものにすぎない原理に基づいて議論しているのです。このようにして、徹頭徹尾ア・プリオリに、また、それについて無知であると公言しながら、[実際は]支持している種々の哲学的原理に立脚し、彼らは自分たちがキリストについての現実の歴史と称するものに即してこう宣言します。すなわち、キリストは天主ではなく、したがって天主的なことは一度として行わず、また人間として、その生活した時代から判断して彼が言い、また為したであろうと、彼らが見なすところのことのみを言い、行ったのだと。

批判学者としての近代主義者

31.歴史がその種々の結論を哲学からとるように、同様に批判学も歴史から自らの諸結論をくみとります。批判学者は、歴史学者から供給されたデータに基づいて、自分の取り扱うあらゆる文書を二つの部分に分類します。先に述べた三重の除外をくぐり抜けて残ったものは現実の歴史を構成し、その他の部分は信仰の歴史ないしは内的と称される歴史を構成します。近代主義者たちは、これら二種類の歴史をきわめて入念に区別するのですが、ここで注意すべきなのは、彼らが信仰の歴史を現実の歴史と対置させる際、後者をまさに、事実に即したものとして見なしている、という点です。こういうわけで、先述したように、「現実のキリスト」および「実際には存在しなかった信仰上のキリスト」からなる二つのキリストという概念が生まれるのです。一方は「特定の時間と特定の場所で生きたキリスト」であり、他方は「信仰者の敬虔な観想の外では決して存在したことのないキリスト」です。後者の例として、たとえば近代主義者によれば始めから終わりまで単なる観想でしかない聖ヨハネ福音書中に見出されるキリストがこれに当たります。

近代主義者の批判学の原理

32.しかるに、歴史に対する哲学の支配はこれに止どまりません。今述べた、種々の文書を二つの部分に分ける区別が成された後、哲学は再び生命的内在という自らの教義を従えて介入し、「いかに教会の歴史における一切の事物は、生命的発出によって説明されねばならないか」を示します。[彼らによれば]「あらゆる生命的発出の原因ないし条件は、何らかの必要ないし欠乏の中に見出されるべきものですから、したがっていかなる事実も、それをつくり出した必要に先行するものとは見なされ得ません。歴史的には、事実が必要より後になるのです」。それでは、歴史学者はこの原理を念頭に置いて、何をするのでしょうか。彼は研究の対象となっている文書を──それが聖書に含まれているものであろうと、あるいはその他の書物から取られたものであろうと──再度見直し、それらの文書から教会が殊更抱いている必要のリストを独自に作り上げます。ここで言う「必要」とは教義に関するもの、あるいは典礼、あるいはそれらの文書中で叙述されている当の教会において見出される他の事柄に関するもののことを指しますが、歴史学者は自分の作成したこのリストを批判学者に託します。批判学者は信仰上の歴史を取り扱っている文書を手にとり、それらを時代ごとに分類し、そうして必要のリストと完全に対応するようにします。これは批判学者が「諸々の事実は必要にしたがって生じるのと同様、叙述もまた事実に引きつづいてなされるものである」という信条を常に自らの指導原理としているからです。[彼らによれば]「時として聖書中のある部分──例えば[使徒]書簡──それ自体が、必要によって創り出された事実を構成している、ということが起こり得ます。しかし、たとえそうではあっても、いかなる文書の年代も、個々の必要が教会の中で表面化した年代によってのみ確定され得るという原則は依然として有効です。さらに、ある事実の発端および発展とを区別しなければなりません。ある日生まれたものが成長するには時間を要するからです」。それゆえ「批判学者は、自らの取り扱う時代ごとに分類された文書をもう一度見直し、種々の事実の起源に関するものを、当の事実の発展を扱ったものから分離するという仕方でそれらを再び二つの部分に分け、そしてこれらを各々の時代ごとにもう一度分類しなければならない」のです。

近代主義の歴史書に見られる混乱

33.そこで、再び哲学者が介入し、歴史学者に、彼のなす全ての研究において進化の掟と法則に従う義務を課します。これを受けて歴史学者は、もう一度自分の扱っている文書を吟味し、異なった時代において教会に影響を及ぼした状況および諸々の条件、教会が前面に出してきた保守の力、教会を刺激して進歩を遂げるよう駆り立ててきた教会内外の必要、教会が直面しなければならなかった障害、つまり、進化の法則が教会においてどのようなかたちで実現されてきたかを見定めるのに役立つ一切のことを入念に検証します。この作業をすませた後、歴史学者は自分の仕事の仕上げとして、[教会の]発展の歴史を概略的に描き出します。引き続いて、批判学者が当の文書の残りの部分を埋め合わせることになります。批判学者は歴史学者が記述していない箇所を埋めるべく筆を執り、こうして歴史が完成します。ここで私は尋ねます。誰がこの歴史の著者なのでしょうか。歴史学者でしょうか。それとも批判学者でしょうか。無論、このどちらでもなく、哲学者です。この歴史中に記されてあることは、始めから終わりまで一切がア・プリオリであり、また異端の気味のある、体験に基づかない空理空論です。これらの人々は確かにあわれむべき者たちであり、使徒パウロの次の言葉は、まさに彼らによく当てはまるものと言えましょう。「彼らは自分の考えに傲り高ぶり...(中略)...自ら知者と称えて愚かな者となった」。その一方で、彼らは教会が独自の流儀で自らに都合のいいように種々の文書を編纂し、かつ混交している、と非難して教会に対する反感をあおっています。このようにする際、彼らは自らの良心が直截に自分たちを咎める、他でもないそのことについて教会を断罪しているのです。

近代主義者による聖書の扱い方

34.[文書のかたちで残された]記録をこのように分断し、世紀ごとに分ける結果、[彼らによれば]「当然のごとく聖書の諸書典はもはやその名をもって呼ばれている著者の作とされることはできなくなってしまう」のです。近代主義者たちは、「一般的に言ってこれらの書──とりわけモーセ五書ならびに三つの共観福音書──が度重なる付け足しと神学的ないしは寓意的解釈、あるいは種々の異なる文章をつなぎ合わせるためにだけ書き加えられた箇所の挿入によって、原初の簡潔な叙述から徐々に形成されていった」と何のためらいもなしに断定します。「これははっきり簡潔に言うならば、聖書に含まれる諸書典の中に、私たちは信仰の進化から由来し、これに対応する生命的進化の存在を認めねばならない」ということです。彼らの述べるところによれば、「かかる進化の痕跡はあまりにも明瞭であり、およそこの進化の歴史を綴ることができる」くらいです。実際、彼らはそのような歴史をしたためるのであり、しかも、あまりに安易な確信をもってそれを著すため、ほとんど、いく時代にもわたって聖書の諸書の記述を水増ししていった著作者たちの仕事を、その目で見てきたかのように思われるほどです。このような見解を保持するに当たって、彼らはテキスト批判と彼ら自身が称する批判学の一分野を援用し、何某かの事実あるいは文章の一節が正しい本来の箇所にないということを、その他これに類した議論をもち出して実証するよう腐心します。実際、彼らは自らのために、あるものがその本来の場所にあるか否かについて彼らが確信をもって下す判定の基準となる、特殊な形態の叙述ないし論述を編み出したように見受けられます。しかるに、彼らは一体このような識別をする資格がどれほどあるでしょうか。聖書について行っている作業について彼らがとうとうと説くのを聞く人は、彼らがかくも多くの欠陥を見つけ出すことのできた聖書というものを、彼ら以前の誰一人としてひもといてみたことがなかったかのように感じられることでしょう。しかし、実際のところは、才知、学識、聖性において彼らをはるかに凌ぐ数多の教会博士たちのことごとくが聖書の各書をありとあらゆる仕方でふるいにかけた結果、その中に何か一つでも難ずべきことを見つけるどころか、それらを深く調べれば調べるほど、このようなかたちで人々に語りかけてくださった天主の慈愛に一層、心からの感謝を捧げたのです。残念ながら、これらの偉大な博士たちは、近代主義者たちが有している「研究の助力」なるものを持っていませんでした。天主の否定に根ざす哲学ならびにそれ自体で存立する[近代主義者たちの]基準を、自らの規範ないし導きとして抱いていなかったからです。

カトリックの教えと矛盾する近代主義

以上、近代主義者の歴史学的手法を十分明晰に示してきたことと信じます。哲学者が先頭を切り、歴史学者がそれに続き、そして、しかるべき順序にしたがって内的批判およびテキスト批判がその後を締めくくります。そして、第一原因は諸々の二次的原因に自らの力をわかち与えることをその特徴とするため、ここで私が問題としている批判がただ無差別にどのような批判でもというわけではなく、正しくも不可知論的内在論的、そして進化史観的と呼ばれている批判である、ということは明らかです。そのため、誰であれこれを採用し、適用する人はその中に含まれている誤謬をも奉じていることを公言することになり、自らをカトリックの教えに対立する立場に置くはめになります。このようなわけで、一部のカトリック者の間で、この近代主義がかくも広く受け容れられるに至ったということは、実に驚くべき事態です。この原因として二つのことが挙げられるでしょう。第一に、近代主義学派の歴史学者ならびに批判学者があらゆる国籍ないし宗教の壁を越えて互いの間で結ぶ緊密な同盟、第二には、彼らの限りを知らぬ厚顔無恥です。すなわち、彼らの中誰か一人が何か口に出して言えば、他の者は科学がさらに一歩前進したとこぞって賞賛の声を上げるのですが、他方、外部の者が当の新しい発見を自分で調べてみようと思うと、彼らはその人に対して共同戦線を張るのです。その新説を否定する人は無知な者としてこきおろされる一方、それを支持し擁護する人は彼らからの惜しみない賞賛をほしいままにします。このようにして彼らは少なからぬ者たちを陥れていますが、その同じ人たちがもし自分が何をしているかに気づいたならば、恐れをなして後込みするに違いありません。謬説を教える者たちの横柄で威圧的な態度は、彼らに賛同する、より浅はかな者たちの無思慮な追従を得て、いたるところに蔓延し、病毒の感染をもたらす腐敗しきった空気を生み出しています。しかし、[批判学者としての近代主義者についての考察はひとまず終えて] 今度は護教論者としての近代主義者に論究を進めねばなりません。

護教論者としての近代主義者

35.近代主義の護教論者は二つの意味で[近代主義の]哲学者に依存しています。第一に、間接的に依存しており、それは彼が主題とするものが歴史──先に見たように哲学者によって述定された歴史──であるからです。第二に近代主義の護教論者は哲学者に直接的に依存しており、それは彼が自らの教条ならびに結論を哲学者からゆずり受けるからです。ここから、「新しい護教論において宗教的事柄に関する論争は心理学的および歴史学的研究によってその正否が判定されなければならない」という近代主義学派に共通の定理が出てくるのです。さて、近代主義の護教論者は表舞台に躍り出、唯理主義者たちに向かって、「自分たちはたしかに宗教を擁護しているが、しかし聖書からのデータもしくは今日教会で一般的に用いられている、古い線に沿って書かれた歴史を使う意志はいささかもなく、ただ現代的原理に立脚し、現代的手法にしたがって作成された現実の歴史のみを用いるだけだ」と公言します。このように語る際、彼らは聞き手に応じた論法を用いているわけではありません。なぜなら「ただこの種の歴史にのみ真理が見出され得る」と彼らは心から信じているからです。彼ら近代主義の護教論者には、著作中で自分たちに裏表がないことをわざわざ披瀝する必要はないと感じられるのです。彼らはすでに唯理主義者たちから、同じ旗印の下に闘う仲間として知られ、賞賛されています。そして彼らはこういった礼賛を得て得意になるばかりでなく──それならば、真のカトリック者に嫌悪感をもよおさせるだけのことでしょうが──それを教会からの譴責に対する埋め合わせとして利用するのです。

近代主義護教論の方法論

ここで、近代主義者がどのように彼独自の護教論を展開するかを見てみることにしましょう。彼が自らに課す目的は、いまだ信仰をもたない人に、近代主義の体系において信仰の唯一の基礎とされるところの、カトリック宗教の体験を得させることです。彼は客観的手法、ならびに主観的手法という二つの方法から自由に選ぶことができます。このうち前者は、不可知論を出発点とし、「宗教、とりわけカトリック教は、『誠意のある全ての心理学者および歴史学者をして、その歴史には何か不可知なるものの要素が隠されている』と認めざるを得なくするほどの生命力を宿したものである」ということを示そうとします。この目的を果たすためには、今日あるカトリックの宗教がイエズス・キリストによって創立されたところのものであること、すなわち、それが、イエズス・キリストがこの世にもたらした芽生えが漸進的に発達したものに他ならないことを証明する必要があります。このため、まず第一に、そもそもこの芽生えがどのようなものであったかを特定することが絶対必要となりますが、近代主義者は次の定式文によってその問題を解決することができるとしています。すなわち、「キリストは天主の御国の到来を告げましたが、これは短期間のうちに実現すべきことであり、またキリストはそのメシア、天主から与えられた創立者かつ統治者となるべき者でした。次に、カトリック教の中に常に内在し、永在するこの芽生えが、どのように歴史の流れをつうじて徐々に発達してきたかが示されなければなりません。実際、この芽生えは様々な状況に次々と自らを適合させ、そういった状況から自らの目的のために役立つあらゆる教義的、文化的、教会的な形態を生命的同化吸収によって借り受けて発達してきたのです。その一方で、この芽生えはあらゆる障害を克服し、全ての敵を打ち負かし、あらゆる攻勢、戦闘に耐え抜いてきました。この山のような数多の障害、敵対勢力、攻撃、闘争、ならびに教会がこれら全てを通して示してきた生命力と豊饒性をじっくりと、しかるべく考えてみる人は誰でも、たとえ進化の法則が教会の生活において目に見えるかたちで現れているにしても、かかる法則をもってしてはその歴史の全てを説明することができない、と認めざるを得ません。不可知なるものがそこから立ち現れ、私たちの前に姿を現します」。このように彼らは議論を立てるのですが、その際彼らは、原初的萌芽に関して自分たちの成す確定が、不可知論および進化論に根ざす哲学によるア・プリオリな仮定にすぎないこと、またこの芽生え自体も、自分たちの主張にうまく合うよう、何の根拠もなく定義されたものであることに気づいていません。

内的混乱をはらんだ近代主義

36.このような論法によってカトリック教[の卓越性]を証明し、弁護しようとする彼ら新しい護教論者たちはしかし、この宗教の中に多くの好ましからざることがあると認め承知するのにやぶさかではありません。それどころか、彼らは「その教義さえもが誤謬と矛盾とから免れていない」ということを発見したと、あからさまに、満足を下手に隠そうとしながら、告白するのです。彼らはつけ加えて、これは酌量の余地のあることであるばかりでなく──奇妙なことに──それは正しく、適当なことであると言うのです。彼らによれば「聖書の各書の中には、科学や歴史に関して明らかな誤りのある箇所が多く見出される」のです。しかるに、彼らの言うには、「これらの書の主題は科学や歴史ではなく、ただ宗教と道徳なのであり、これらの書において、歴史と科学は一種の覆いとして働き、その中に包み込まれている宗教的および道徳的体験が、より容易に衆人の間に浸透するのを助けるだけのものである。民衆は科学と歴史とを、これらの書において表現されているままのかたちで理解するのであり、そしてもし科学と歴史がより完全な仕方で表現されたならば、[理解の]助けとなるどころか、妨げとなってしまうのは明らかなこと」なのです。さらに彼らは「本質的に宗教的なものである聖書は、必然的に生命に満ちあふれたものであるはずだ」と補足します。ところで、[彼らによれば]「生命はそれ自身の真理と論理とを有していますが、それは理性によって把握される真理および理性によって構築される論理とはまったく異なり、別の次元に属するものです。すなわち、この真理とは適合、ならびにそれ(真理)がその中で生きるいわゆる媒体と、それが生きる目的との比例関係の真理なのです。」最後に、抑制の感覚を一切失った近代主義者たちは、「生命によって説明されることは、たとえ何であれ真実であり、正当である」と宣言するまでに至ります。

真理の単純さ

尊敬する兄弟たちよ、一つの、ただ一つの真理のみ存在すると信じ、また聖書が「聖霊の霊感を受けて書かれ、天主をその著者とする」と信じる私たちは、このような教説は天主ご自身が便宜上の嘘をつかれた、と言うことに等しいと断言します。そして、聖アウグスチヌスと共に、こう述べるのです。「かくも崇高な権威において、ただ一つでも便宜上の嘘[の存在]を認めるならば、一見実践あるいは信じることが困難に見える命題の中で、その同じこの上なく有害な原則に基づいて、その書の著者が故意に、ある目的のためについた嘘であると説明しおおせない、ただ一つの文もなくなるでしょう」。そして、このようにして、この聖なる博士が続けて述べているような事態が生じるのです。つまり、「誰もが自分の好む、好まないに応じて、これらの文章──すなわち聖典──に記されていることを信じ、あるいは信じるのを拒むようになる」のです。しかし、近代主義者たちは自分たちの定めた方向に邁進してゆきます。彼らはまた「ある特定の教理の証明として持ち出されるある種の議論、例えば預言に基づいた議論は、何らの理知的根拠も有していない」と認めます。しかるに、彼らはこれらさえ宣教のための術策であり、生命[の必要]によって正当化され得るものだとして擁護するのです。それのみならず、彼らは「キリストご自身さえもが天主の御国の到来の時期について明らかな間違いをおかされた」ということを認める、否、声を大にして主張するのです。そして彼らの言うには、これについて驚くにはあたりません。なぜなら、[彼らによれば]「キリストご自身も生命の法則に服されていた」のですから!こうなれば、教会の諸々の教義は一体どうなってしまうでしょうか。近代主義者たちに言わせれば、「これらの教義は甚だしい矛盾に満ちています。しかし、それに何の問題があるでしょうか。なぜなら、生命の論理がそれらを認め、受け入れているという事実はさておき、それらの教義は象徴的真理にそぐわぬものではないからです。問題となっているのは無限なるものであり、しかるに無限なるものは無限に多様な側面をもっているのではないでしょうか」。つまるところ、こうした諸説を主張し、弁護するために、彼らは、「無限なるものに対して捧げることのできる最も気高い礼賛は、互いに相矛盾する命題をこの存在に帰することである」と憚(はばか)ることなく宣言するのです。しかし、もし彼らが矛盾さえも正当化するのなら、彼らが正当化するのを拒むようなものが、一体何かあるでしょうか。

主観的議論

37.しかるに、[近代主義に従えば]不信仰者をして信仰を受け入れるよう導くのは、客観的議論によってだけではありません。主観的な議論もまた存在するのであり、このために近代主義の護教論者は内在という教説にその根拠を求めます。彼らは事実、自分たちが関わる当の不信仰者が、自らの本性ならびに生命の奥深いところに、何かある宗教、それもただどんな宗教でもよいのではなく、カトリック教の名で知られている特定の宗教に対する必要および欲求が隠れていることを納得させようと努めます。「この宗教こそが生命の完全な発達のために絶対必要なものとして要請される宗教だから」です。ここでもまた私は、内在を教説としては否定しながら、それを護教論の手法として用いるカトリック者がいることに不服の念を表わす十分な理由をもっています。実際、こうした人々はあまりに賢明さを欠いた仕方でそうするので、カトリックの護教家たちによって常に、しかるべき限度をまもって強調されてきたように、人間には超自然的事柄に対する受容能力ならびに適合性がある、と認めるに止どまらず、「人間本性には超自然的次元に対する真の、厳密な意味での必要がある」と認めさえするように見受けられるほどです。実のところ、カトリック宗教に対するこのような[人間本性の根元からの]切迫した必要という論拠を用いるのは、まだ穏健な方の近代主義者たちです。その他の徹頭徹尾のとでもいうべき近代主義者は、不信仰者に、彼の存在の内に、キリストご自身がその意識の中に持っておられ、人類に伝達されたのとまさに同一の芽生えが潜んでいる、ということを示そうとします。尊敬する兄弟たちよ、以上が近代主義たちの用いる、彼らの教説と完全に調和した護教論の手法の概略的な説明です。こういった誤謬にあふれた手法ならびに教説は、建設のためではなく破壊のためのもの、また、カトリック信者をつくるためではなく、すでにカトリック信者である人を異端へと誘い入れるためのものであり、宗教全体の完全な転覆へと導く種類のものです。

改革者としての近代主義者

38.さて、私はここで、改革者としての近代主義者について少し述べておかなければなりません。これまで述べてきたことから、このような人々が抱く刷新への熱情がどれほど強く、どれほど激しいものであるかは十分すぎるほど明らかです。カトリシズムの中で、かかる熱情の対象とならぬものは、実に一つとしてありません。彼らは哲学が、特に神学校において刷新されることを望んでいます。彼らはスコラ哲学が哲学史の単なる一章として種々の絶対的体系の中に位置づけられること、また「唯それのみが真でありかつ私たちの生きる時代に適合したものである現代哲学」が青少年に教えられることを望んでいます。さらに、彼らは神学の刷新を希求しています。合理的神学は現代哲学をその基礎とし、また実証神学は教義[発達]の歴史に基づいてなされるべきである、としています。歴史に関していえば、歴史は彼らの方法論ならびに現代的原理にしたがって書かれ、教えられなければなりません。教義とその進化は科学と歴史とに調和されねばならない、と彼らは力説します。「公教要理においては、刷新されたものおよび一般の人々の理解能力の及ぶものをのぞいて、いかなる教義も記されるべきではありません」。礼拝について彼らが言うには、「外的な信心の数は減らされ、これ以上それが増えることのないように手段が講じられなければなりません」。もっとも、彼らの中で象徴主義を信奉する一部の者は、このことに関しては、より寛容な姿勢を見せるのですが。

彼ら近代主義の改革者は、教会の統治機構がその全ての部門において改革されること、特に規律および教義に携わる部局の改革を声を大にして唱えます。彼らは外部に向かっても、また内部においても、「教会の統治機構が、今やことごとく民主主義を志向する現代人の意識に合致されねばならず、したがって聖職者の中でも低い階級に属する者たち、さらには一般信徒にさえも同機構において何がしかの役割が与えられるべきであること、また、過剰に一点集中している権威もまた、分権化されねばならないこと」を強く主張しています。ローマ聖省、中でも特に図書検閲聖省ならびに検邪聖省も同様に改変されなければなりません。教会の権威は社会的および政治的な世界において、その行動方針を変えなければなりません。すなわち、政治的機構の外にありながら、自らをそれに適合させて、これに自らの精神を浸透させることを図るべきなのです。道徳に関しては、彼らは活動的な徳が消極的な徳よりも重要であり、その実践が、より奨励されるべきであるとするアメリカ主義者の原理を採り入れています。彼らは「聖職者が原初の謙遜と清貧とに立ち帰り、また思想と活動において近代主義の原理を認め受け入れること」を求めます。さらに一部の者は、プロテスタントの教師の教えに喜んで聞き入り、「聖職者の独身制の廃止」を望んでいます。こうなると、教会の中で彼らによって、彼らの原理にしたがって改革されるべきでないものが一つでもあるでしょうか。

あらゆる異端の総合である近代主義

39.尊敬する兄弟たちよ、ある人たちには、私がこのように近代主義の教条をあまりに長々と詳細に敷衍してきたと思われるかもしれません。しかし、自分たちの思想を理解していない、という彼ら近代主義者のおきまりの非難に答え、またさらに、彼らの体系がばらばらで互いに関連のない理論ではなく、かえっていわば密接に結びついた一つの全体であり、その中の一つを認めたならば、全てのを認めざるを得なくなるということを示すために、こうすることが必要だったのです。それゆえ、私はこの解説をいくぶん教育的な形式で行い、また近代主義者たちが導入した、ある種の耳慣れない用語をはばからずに用いざるを得ませんでした。さて、こうしてその体系全体に眼を注いだならば、私がこれをあらゆる異端を総合したものである、と断じたところで、誰一人驚く者はないでしょう。もし誰かが[カトリック]信仰に対して打ち出されてきた全ての誤謬を一つに集め、それらみなの樹液と実質とを一つにまとめようとしたとしても、近代主義者たちがしたよりも、首尾よくそれを成し遂げることはできないでしょう。否、彼ら近代主義者は、それよりももっとひどい結果を招こうとしているのです。なぜなら、先にほのめかしたように、彼らの体系は単にカトリック教の抹殺ではなく、宗教全体の抹殺を意味するものだからです。それゆえ唯理主義者たちは近代主義者に惜しみない賞賛を浴びせ、その上、彼らの中でもとりわけ率直でうそ偽りのない者たちは、近代主義者たちを、あらゆる盟友の中でももっとも価値のある盟友として得た、と言って喜んでいるほどです。

尊敬する兄弟たちよ、ここでしばしの間、破滅的な教説である不可知論にもう一度、注意を向けてみることにしましょう。この教説によって、天主に対する知性の側からのいかなる道も人間には閉ざされてしまうのですが、他方、霊魂のある種の感覚、ならびに活動の側から、よりよい道が開けるのだとされています。しかし、このような主張がいかに誤ったものであるか気づかぬ者があるでしょうか。と言うのも霊魂の感覚とは、知性もしくは外的感覚が[霊魂に対して]現前させる事物の活動に対する反応に他ならないからです。知性を取り去ってしまうならば、元来感覚に追従しがちな人間は、これの奴隷となってしまいます。また、もう一つ別の観点からも、このような主張は二重の誤りをおかしていると言えます。なぜなら、宗教的感覚にまつわるこれらの夢想とも言ってよい理論は決して常識を破壊してしまうことはできず、そしてその常識は感情ならびにその他、心を虜にしてしまう一切のものは、真理を発見する助けとなるどころか妨げとなることを私たちに教えているからです。私がここで言う真理とは、それ自体における真理のことです。と言うのも、内的な感覚ならびに活動の結実に他ならない、もう一つ別の純粋に主観的な真理は、たとえ言葉の遊びのために有用であるとしても、自分の外の世界に、その手の内にいつの日か身を横たえねばならない天主が存在するのか否かを、他の何事にも先んじて知ることを望む人には、まるで何の役にも立ちません。無論、近代主義者たちは体験というものを持ち出して、自分たちの体系の欠陥を補おうとするのですが、当の霊魂の感覚に、かかる体験は一体何をつけ加えるでしょうか。対象の現実性についての確信をある程度強め、これを[当の体験自体の]程度に比例して深めること以上には、全く何も付け足しはしません。しかるに、これら二つのことは霊魂の感覚を、感覚の他の何ものかに変えることは決してなく、また、知性によって導かれるのでなければ誤りに陥りがちなその性質を改変させることもありません。反対に、これら[の作用]は、ただ感覚の持つこの性質を固め、一層強いものとするだけです。と言うのも、感覚とは、激烈であればあるほど、それだけ一層本当の意味での感覚であるからです。そして、私たちがここで取り扱っているのは宗教的感覚およびそれに含まれている体験であるため、この種の事柄において、いかに賢慮およびその賢慮の規範となる学識が必要であるかは、尊敬する兄弟のみなさんには周知のことでしょう。あなた方はそれを自ら自身、人々の霊魂、殊に感情がその中において支配的立場にある霊魂に接することを通じて熟知しています。あなた方はまた、修徳神学のさまざまな著作を読むことを通じてこのことを承知しています。[ちなみに]この種の著作の価値を近代主義者たちは、まったく軽視していますが、これらは学知ならびに堅実さにおいて、彼らの著作をはるかに凌ぎ、さらに近代主義者たちが自ら具備すると思いなしているものよりもはるかに緻密で洗練された観察に基づいています。近代主義者がかくも誇りとする、これらの不完全な体験を検証もせずに真実のものとして受け入れることは、ほとんど狂気の沙汰か、あるいは少なくともこの上なく向こう見ずな行為であるように思われます。私たちはここで、次のように問いかけてみましょう。もし体験が彼らの目には、それほどの力と価値とを有しているのであるとしたら、どうして彼らは、近代主義者たちが誤った道を歩んでいるという、かくもおびただしい数のカトリック信徒が抱く体験にも同等の価値を置かないのでしょうか。それはつまり、カトリック者の体験だけが誤り、欺瞞を含む体験である、と言うことでしょうか。人類の圧倒的に大多数は、感覚と体験だけでは──もしそれらが理性によって照らされ、導かれるのでないなら──天主の認識には達し得ないという見解を抱き、また常に抱き続けるでしょう。もし近代主義者たちの見解が正しいとすれば、無神論と一切の宗教の欠如以外の何が残るでしょうか。もちろん、私たちをこの窮地から救い出すのは象徴主義の教条ではありません。なぜなら、もし宗教の含むあらゆる知性的な──と彼らの称する──要素が単に天主の象徴でしかないのであれば、天主の御名自体、もしくはその天主的な位格さえも同様に象徴に過ぎぬものとなり、そしてもしこれを認めるならば天主の位格もまた疑念をゆるす事柄となり、汎神論への門が開かれるでしょう。そして純然たる汎神論へと、天主的内在という別の教条が真っ直ぐ導くのです。と言うのも、私が問うているのは、次の問いだからです。かかる内在[の教説]は、依然として天主を人間から区別されたものとして認める余地を残すのでしょうか。もし、そうであれば、それはカトリックの教理とどこが違うのでしょうか。また、どうしてそれは外的な啓示という教理を拒絶しなければならないのでしょうか。もし、天主と人間とを区別する余地を残さないのであれば、それは汎神論になります。さて近代主義者の理解する限りでの内在の教条は、あらゆる意識[内]の現象は人間たる限りでの人間から出来するという見解を保持し、表明するものです。ここから厳密な論理にしたがって導き出される結論は、人間と天主との同一性であり、これは汎神論に他なりません。近代主義者たちが科学と信仰との間に成す区別も同じ結論へと至らせます。彼らの言うには科学の対象は可知的なものの現実であり、信仰の対象はその反対に、不可知なるものの現実だからです。ところで、不可知なるものをして不可知なるものたらしめるのは、対象となるものと知性との間に一切の均衡関係が存しない──これは近代主義者の教説においてさえ、いかなるものによってもうめることのできない、とされる均衡の欠如です──という事実に他なりません。そのため、不可知なるものはそのまま残り、信仰者にとっても、哲学者にとっても永遠に不可知なるものとしてとどまることになります。したがって、もし何らかの宗教が存在する余地があるとすれば、それはただ不可知なるものの宗教でしかあり得ません。そして、この不可知なるものが、一部の唯理主義者たちが語るところの、宇宙の霊魂とは異なると主張されるとすれば、それは私には了解しかねることです。これらの論拠によって、近代主義がいかに多くの道筋を通して無神論ならびに一切の宗教の抹殺へと導くかが、十分すぎるほど明らかに示されたでしょう。プロテスタント主義は、この道の第一歩を踏み出し、近代主義が二歩目を印し、無神論がさらにもう一歩、歩を進めるのです。

好奇心の危険

40.尊敬する兄弟たちよ、近代主義のもつ意味に一層深く分け入り、これほど深い傷に対する適当な治療策を見出すために、私たちはそれを生み出し、その成長を育む諸々の原因を究明しなければなりません。その近接的、直接的原因が知性における誤りであることには疑いの余地がありません。近代主義の遠因となるものについては、二つの項目にまとめることができます。好奇心と傲慢です。好奇心は、もし賢明に律されるのでなければ、ただそれだけで全ての誤謬の十分な理由となります。先任者グレゴリオ十六世は、このような見解に基づいて次のように記しています。「理性が新奇なものを求める精神に屈するとき、使徒[パウロ]の警告に反して、それが本来知るべきものよりさらに知ろうとするとき、また、自ら[の力]を過信し、真理が誤謬のわずかの陰さえも被らずに見出されるカトリック教会の外に真理を見出すことができると考えるとき、人間の理性の逸脱は見るに堪えない光景を呈します」。

近代主義の中に居を構える傲慢

しかるに、霊魂の上に[好奇心よりも]比較にならないほど大きな影響力を及ぼしてそれを盲目にし、誤謬へと導くのは傲慢です。そして傲慢は近代主義の中に、それが自分の住居であるかのようにあぐらをかきます。傲慢は、近代主義の教えのいたるところに自らを養うものを見出し、そのあらゆる側面に潜みます。実際、近代主義者をして、自分たちが万事の基準[を定める者]であると見なし、かつそのように振る舞うほどに自信で満たすのは、この傲慢です。彼らを虚しい傲りで満たし、知識の唯一の保持者を自認させるのも、また、得心し、僭越心にふくれ上がって「我々は他の者たちとは違う」と言わせるのも、さらに、自分たちが他の人々と同じように見えることのないよう、最も愚昧な新説さえをも採り入れ、また自ら考案するよう導くのも傲慢です。さらに、彼らの心中に不従順の精神をかき立て、権威と自由との間に歩み寄りを要求させるのもまた傲慢です。傲慢のゆえにこそ、彼らは自らを改めることを忘れて他の者たちを矯め直す者となることを欲し、また、権威に対する敬意に──最高の権威に対してさえも──甚だしく欠くようになるのです。まことに傲慢ほど近代主義へと直接に、また速やかに導くものはありません。もしカトリックの一般信徒もしくは司祭が、キリストに従うために己れを捨てるよう強いるキリスト教生活の戒律を忘れてしまい、傲慢を自らの心から引きはがすのを怠るならば、彼は他の誰にもまして近代主義の誤謬の格好の標的となります。それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、このように傲慢の餌食となった者たちに対抗し、彼らを最も低い、目立たない役職にのみ用いることがあなた方の第一の義務となります。彼らが高い所に上ろうとすればするほど、それだけいっそう彼らを低い位置に置かなければなりません。それは彼らの地位の低さのゆえに、彼らの及ぼす害悪が制限されるためです。あなた方のもとにある若い聖職者らをあなた方自身で、また神学校の校長を通し、きわめて入念に審査しなさい。もし傲慢の精神を彼らの中に見出したならば、呵責なく彼らに司祭職の道を閉ざしなさい。倦むことのない用心深い警戒によって、今日に至るまでずっとこのことが為されていたならば、どれほどよかったでしょう。

近代主義者たちの無知

41.近代主義の道徳的原因から知的原因へと視点を移すならば、第一の主要な原因として、無知が見出されます。そうです、教会の教師として目されることを望む近代主義者たち、現代哲学をかくも称揚し、スコラ哲学に対してあれほどの軽蔑を表す当の彼らが前者をその全ての偽りの魅力と共に受け入れたのは、まさに後者についての無知のために、彼らは思考の混乱を識別し、詭弁的論法を論駁する能力を持ち合わせていなかったからです。実に、かくも多くの、かくも甚だしい誤謬を含んだ彼らの体系全体は、信仰と誤った哲学との結合から生まれたものです。

宣布のための手段

42.彼らがこれほどの熱意と精力を注いでその宣布に努めなかったとしたら、どれほどよかったでしょう。しかるに、自分たちの主義のためになす彼らの活動とたゆまぬ骨折りとはかくも大きいので、彼らがそれほどの精力を、教会の衰亡を招くために無駄に費やすのを見て、心を痛めずにはいられないくらいです。もし彼らの努力が、より良い方向に向けられていたならば、教会に対してきわめて大きな貢献を成すことができたでしょうから。彼ら近代主義者は二つの術策を用いて人々の知性を欺きます。第一のものは、自分たちの進路の妨げとなるものを取り除くために、第二のものは、自らの目的の達成の助けとなる、あらゆる手だてを積極的に、かつ根気よく開発および適用するために用いられます。自分たち[の計画実現]を阻む三つの主要な難点がスコラ的方法論に基づく哲学、教父の権威ならびに伝統、教会の教導権にあることを認識している彼らは、これらに対して容赦のない戦いを挑むのです。スコラ的哲学と神学とに対し、彼らは嘲笑と軽蔑という武器を用います。彼らにこのような行動をとらせるのが恐れであれ、あるいは無知、もしくはその両方であれ、確実なのは、彼らの心中で新奇なものへの情熱がスコラ学に対する憎悪といつも結びついていること、そして、ある人が近代主義に傾く場合、スコラ的手法に対する嫌悪感を示し始めるのが、その最も確かな印になる、ということです。近代主義者たち、ならびに彼らの信奉者たちが、ピオ九世によって排斥されている次の命題を心に呼び起こしますように。すなわち、「古えのスコラ学の博士たちが神学に取り組む際に用いた手法と原理は、現代のさまざまな必要あるいは科学の進歩にもはや対応することができない」という命題です。彼らは持てる限りの巧知を駆使して伝統の力を弱め、その性格を歪めるよう腐心します。しかるに、カトリック者に対して、何ものも[以下の決定を下した]ニケア第二公会議あるいはコンスタンティノープル第四公会議の権威を取り去ることはできません。すなわち、ニケア第二公会議は「異端者らの不敬な態度にならって教会の伝統を嘲笑し、何か新奇なことがらを案出し(中略)、あるいは悪意または術策によってカトリック教会の正当な伝統の何か一つでも覆そうと大胆にも試みる者たち」を排斥し、そしてコンスタンティノープル第四公会議は次のように宣言したのでした。「それゆえ、私たちは聖にしていとも栄えある使徒たちによって、また全ての正統な普遍的および地方的公会議によって、さらには神聖なことがらを解釈する者たち、すなわち教会の教父ならびに博士のことごとくによって、聖なる普遍の使徒的教会に伝えられている諸々の原則を保存し、守る[べき]ことを公言する」と。それゆえ、ピオ四世ならびにピオ九世教皇は、信仰宣言において下記の宣誓文を挿入するよう命じたのです。「私は使徒伝来のものである教会の伝統、およびその他教会が定めた儀典ならびに教令をいともかたく認め、受け入れます」。

教父を軽視する近代主義者たち

近代主義者たちは、伝統に対してそうするのと同様、教会の聖なる教父たちに対しても審判を下します。途方もない大胆さをもって、彼らは「教父たちが、人格の面ではあらゆる崇敬にこの上なく値するとはいえ、歴史と批判学については全く無知だったのであるが、これは教父たちが生きた時代を考慮に入れれば、しかたのないことである」と衆人に説き聞かせるのです。最後に、近代主義者たちは、あらゆる手だてを尽くして教会の教導権自体の権威を減じ、弱めようとします。そのため彼らはその起源、性格、ならびにその諸々の権利を涜聖的に歪曲し、また、教会の敵対者らの中傷をそのまま繰り返して攻撃するのです。近代主義者の徒党のことごとくに、私の前任者が悲痛な心持ちで記した言葉が当てはまります。「真の光であられるキリストの神秘的な花よめに軽蔑と憎悪とをふり向けるために、闇の子らは世人の目前で彼女の顔に愚にもつかない中傷を投げかけ、そして種々の事物や言葉の意味ないしは真意をねじ曲げて、彼女を暗闇と無知との友、光明と科学、進歩の敵という烙印を押すのを常としてきました」。このようなわけですから、尊敬する兄弟たちよ、近代主義者たちが持てる限りの辛辣さと憎悪を、教会のための戦いを熱心に戦うカトリック者にぶつけてくるのも、何ら不思議なことではありません。近代主義者たちは、ありとあらゆる侮辱をカトリック者に加えますが、ふつう、無知または頑迷さというレッテルを貼るのが彼らの用いる常套手段です。学識と力によって脅威となるような反対者が立ち上がると、彼らはその人の周りに沈黙の策略を張りめぐらして、彼の攻撃の効力をなくしてしまおうとします。カトリック教徒に対してとられるこのような方策の理不尽なところは、自分たちの側につく著述家たちには、感嘆を込めた、とどまるところを知らぬ賞賛を浴びせ、ほとんど毎頁に新奇な思想をにじませる彼らの著作を、声を合わせて歓呼する、という点です。彼ら近代主義者にとって、ある著述家の学識は、彼が古代(から)の事物に対してどれだけ軽率・短絡に非難を浴びせ、また教会の教導権と伝統を覆す努力を為しているかに直接比例して決まるのです。もし彼らの中の誰かが教会による排斥を被るならば、残りの者は善良なカトリック信徒をよそおって当の人の周りに群れ集い、公衆の面前で声を大にして彼を賞賛し、まるで真理のための殉教者でもあるかのように祭り上げます。年若い者たちは、かかる賞賛と讒言(ざんげん)の叫び声に刺激されたり、困惑させられたりして、ある者は無学の烙印を押されることを恐れて、またある者は学のある人の仲間入りをする熱望に駆られて──そしてこの両者は共に好奇心と傲慢にせきたてられて──往々にして近代主義に屈し、身を委ねてしまうのです。

近代主義者たちの大胆不敵さ

43.近代主義者が自分たちの思想を売り込むために用いる数々の術策のいくつかが、こうして出そろいました。新たな賛同者を勝ち取るために、彼らはどれほどの努力を払うことでしょうか!彼らは神学校と大学の教授職に矛先を向け、徐々にそれを有害な思想の座と変えてゆきます。説教台から与える説教の中で、彼らは自分たちの教理を、たとえ、時としてそれとない言い回しを通してであれ、広めます。会議や会合において、彼らは自らの教説をより公然と表明します。彼らはそれを社交的な集いにおいても、他の人々に紹介し、薦めます。彼らは実名あるいは偽名でおびただしい数の書籍、新聞、雑誌を発行し、また時には同一の著者がいろいろな偽名を用いて、注意力を欠いた読者にあたかも多数の著述家が存在するかのような印象を与えようとすることさえあります。要するに、熱烈な精力でもって行動、言論、および著述を通し、ありとあらゆる手段を尽くして自らの目的を果たそうとするのです。しかし、ここからどのような結果が生じたでしょうか。かつては有望で教会のために大きな働きを為し得た数多くの若者が、今や道を誤ってしまっている光景を目の当たりにして、私は嘆かずにはいられません。その上、他の多くの者たちが、先の者たちほどではないのは確かだとしても、やはり毒を帯びた周りの空気を吸ってこれに冒され、カトリック者に相応しからぬ、奔放な考え方、話し方、書き方をしていることも、私の悲しみの種となっています。この種の人々は一般信徒の中に、また聖職者階級の中にも見出され、最も思いがけない場所、すなわち修道会の中にすら存在しています。もし彼らが聖書を扱うとすれば、それは近代主義の諸原理に基づいてであり、歴史を著すなら、注意深く、そして下手に満足を隠そうとしながら、真理全体を述べるためと称して、一見、教会の顔に泥を塗るように思われることを全て明るみに出します。ある種のア・プリオリな観念に基づいて、彼らは能うる限り人々の敬虔な伝統を破壊し、その古さのゆえに、非常な崇敬を払うべき特定の聖遺物への敬意を損なわせています。彼らは自分たちの名が衆人の口にのぼることへの虚しい望みに駆られており、そして万人によって常に言われてきたことを述べたなら、この望みは決して実現しないことを彼らは承知しています。その一方、彼らはこういったこと全てを通じて天主と教会とに事実、奉仕しているのだと信じ込んでいるのかもしれません。しかし実際には、彼らはその両者にただ侮辱と危害のみを加えています。そして、それは彼らの著作そのものによってよりも、むしろ彼らがそれらを著す際の精神によって、また彼らがこのようにして近代主義者たちのもくろみに与えてしまう力づけによってです。

警戒への呼びかけ

44.これら一連の重大な誤謬、およびそれらの密かなあるいは公然の進展に対して、思い出深い前任者レオ十三世は言葉と行いとをもって果敢に対抗しましたが、それは聖書の研究に関して特にそうでした。しかし、先に見たように、近代主義者たちはこのような武器によっては、易々と[その活動を]阻まれません。強い服従と敬意をよそおい、彼らは同教皇の言葉を自分たちの意味にねじ曲げてしまい、その一方で教皇の行為を、別の者たちに対して向けられたものだと述べ立てます。このようにして、害悪が日に日に増大してゆきます。それゆえ、尊敬する兄弟たちよ、私はこれ以上の遅れを許さず、より有効な手段を適用することを決断するに至ったのです。私は、このいたって重大な事柄において、誰もあなた方がたとえほんのわずかでも警戒心、熱意、あるいは強固さに欠けていた、と言う余地のないように注意するよう、あなた方を励まし、かつ命じます。そしてあなた方に要請し、かつ期待することを、同様に他の全ての霊魂の牧者、全ての教育者、ならびに聖職者の教育を担当する教授、そして特別に修道会の長上に要請し、期待します。

スコラ哲学

45.第一に、学問研究について述べるならば、私はスコラ哲学が聖なる諸学問の基礎とされることを望み、かつ厳格に定めます。無論、「もし何であれスコラ学の博士たち[の思想]の中で、過度の細緻さをもって考究された、ないしは十分な考察を欠いて教えられたと考え得るもの、また後世の研究によって得られた確実な研究成果にそぐわないもの、要するに、もっともらしさに甚だ欠ける一切のものを、現代の人々に、倣うべきものとして提示する意志を私はいささかも有していません」。また、何よりもまず、私がスコラ哲学を用いるべきものとして指定する際、私が主に意図するのは天使的博士(聖トマス・アクィナス)が私たちに残したところのものである、ということをよく了解して下さい。そしてこのため、この問題に関して前任者[レオ十三世]が定めた全ての教令は、完全にその効力を保持しているのであり、また、必要である限り私自身も、それらが全ての人によって厳格に遵守されるべきことを新たに布告かつ確認し、命令します。これらの教令が守られていなかった神学校については、今後それらの遵守をより厳しく課し、要求することが司教たちの務めとなりますが、同様の務めは諸修道会の長上にもあります。さらに、私は教授たちに「特に形而上学的な問題を扱うに当たって、聖トマスをないがしろにするなら、重大な不都合を生む」ということをよく念頭に置くよう勧告します。

健全な神学の促進

46.この哲学的基盤の上に神学の構築物が注意深く築き上げられねばなりません。尊敬する兄弟たちよ、持てる限りの力を尽くして神学の学習を奨励しなさい。そうすれば、あなた方の聖職者たちが神学校から出てくる時には、それに対する深い嘆賞と愛好心とを抱いており、そしてその中にいつも喜びの源を見出すことができるでしょう。と言うのも、「真理を求める精神の前に開かれた広大かつ多様な学問研究の中にあって、神学が支配的な地位を占めることは、皆に知られていることです。古の賢者の格言に従えば、神学に奉仕し、下女のようにかし仕えることが他の諸学芸の義務なのです」。私はこれにつけ加えて、伝統ならびに教父、および教会の教導権に対するこの上なく深い尊敬を心に抱き、よく均衡のとれた判断に基づき、そしてカトリックの諸原理によって導かれて(誰もがこのような態度を有しているわけではありません)実証神学に真正な歴史の光を投じようと努力する者たちは、称賛に値するということを述べておきます。実証神学が過去におけるよりも、より高く評価されることは確かに必要なことです。しかるに、このことはスコラ哲学に損失を与えることなしに為されねばなりません。そして、スコラ的神学を軽視するように見受けられるほど実証神学を礼賛する者は、近代主義者として拒絶されねばなりません。

神学以外の学問の役割

47.神学以外の学問に関しては、私の前任者が見事に言い表したことを思い起こすにとどめておきます。「自然科学の研究に熱心に励みなさい。この学問分野において、かくも輝かしく発見され、かくも有益な仕方で応用されて、現代の人々の感嘆をさそっている諸々の事物は、私たちの後に続く者たちにとって称賛の的、また倣うべき模範となるでしょう」。しかるに、これは聖なる諸学問に干渉することなしに為されねばなりません。同じ前任者[レオ十三世]が、次のいたって重みのある言葉で定めているようにです。「もしあなた方がこれらの誤謬の原因を注意深く探るならば、あなた方はそれが、自然科学がかくも多くの研究の対象となっている近年、より峻厳で高尚な諸学問がその分だけ疎(うと)んじられている事実に存することを見い出すでしょう。その中のいくつかは、ほとんど忘却に付され、また他のいくつかはぞんざいな、あるいは表面的な仕方でしか考究されず、そして残念なことに、旧来の地位の栄華がかげりを見せるにつれ、これらの学問は有害な教条と甚だしい誤謬とによって醜く歪曲されてしまうに至りました」。それゆえ、私は神学校における自然科学の学習がこの法規に則ってなされるよう命じます。

実際上の適応

48.私自身および私の先任者たちによるこれら一切の規定は、神学校およびカトリック大学の校長と教授の選出に当たって常に遵守されるべきものです。どのような点であれ、近代主義に染まっていることが分かった者は誰でも、管理ないしは教授に携わるこれらの役職からためらうことなく除外され、またすでにそういった役職に就いている者たちは、その座を追われねばなりません。同様の方針が、密かにあるいは公然と近代主義を支持する者たちに対して適用されなければなりません。このような者たちとは、つまり、近代主義者たちを誉めそやしたり、彼らの咎むべき所行を弁護したり、あるいはスコラ主義、教父、および教会の教導権に言い掛かりをつけて非難したり、さもなくば教会の権威に対する従順を、どのような種類の権威に対してであれ、拒む者たちです。この方針はまた、歴史や考古学、聖書釈義学において新奇な説を立てたがる者たち、さらには神聖な諸学問を軽視し、世俗的な学問を優先するように見受けられる者たちにも適用されます。尊敬する兄弟たちよ、学問研究に関するこの問題において、あなた方は警戒しすぎたり、堅実すぎることはあり得ませんが、とりわけ教授の選択において特にそうです。と言うのも、概して生徒[の心]は自分の教師の模範にしたがって形成されるからです。この問題に当たっては、自らの義務を強く自覚しつつ、常に賢慮と力強さをもって行動するようにして下さい。

教育の分野で求められる慎重さ

49.司祭叙階の候補者を審査し、選択する際にも、同様の慎重さと厳格さをもって当たらなければなりません。聖職者には新奇なことがらに対する愛好心が微塵もありませんように!天主は傲慢で頑なな心を嫌われます。今後は、神学および教会法の博士号は、まず第一にスコラ哲学の正規の課程を修了した者以外には、決して授与されないようにしなければなりません。もし、この規定に反して授与された場合には、全く無効のものとして見なされます。1896年にイタリアの「在俗ならびに修道司祭のための司教・律修者聖省」により定められた大学の頻繁な視察に関する規定が万国に範囲を広げて適用されることを私は命じます。カトリックの研究所もしくは大学に在籍する修道者ならびに司祭は今後、自らが所属する研究機関で開講されている科目を、カトリック以外の大学で履修してはいけません。もし、旧来このようにすることが許されていた所があれば、今後はもはやそれが許されないようにすることを私は定めます。カトリックの研究所ないしは大学の理事会に名を連ねる司教たちは、私が定めるこれらの命令が不断に守られるよう、細心の注意をもって見張らねばなりません。

出版物の入念なチェック

50.近代主義者たちの著作、あるいは何であれ近代主義の気味があるか、それともこれを支持する著作が、もしすでに出版されているなら、これが読まれることを、そしてもしまだ出版されていないならば、その刊行を妨げることもまた、司教らの義務です。この種の書籍、新聞、定期刊行物は何であれ、神学校あるいは大学の学生の手に渡らないようにしなければなりません。このような著作によって彼らにもたらされる害は、不道徳な書物の読書による害に劣りはしません。いいえ、それどころか前者による害は後者によるそれよりも大きなものであるでしょう。なぜなら、この種の著作はキリスト教的生活を、そのまさに源において毒してしまうからです。同様の処置が、悪意があるわけはないにしても、神学の正しい素養に欠け、現代哲学にそまり、これを信仰と調和させ、そして彼らの言うところによれば、これを信仰の益となるものへと転ずるよう努める一部のカトリック者に対しても取られるべきです。こういった著者の名声と評判は、その著作を疑いの念をもたずに読ませることとなり、それゆえ彼らは近代主義への道を徐々に準備するという意味で、いっそう危険なのです。

印刷出版許可と無害証明

51.尊敬する兄弟たちよ、さらにいくつかの一般的な指示を加えるならば、このように重大な事柄において、あなた方が持てる力を尽くして、自らに託された司教区から必要ならば荘厳な発行禁止処分をもって、当地に出回っている有害な書物を排除することを命じます。聖座はこの種の著作を除去するに当たって、可能な限りの手段を講じますが、こういった出版物の数があまりにも増えたために、その全てを検閲することはほとんど不可能です。そのため、治療薬が届くときには、もう遅すぎるということが往々にしてあります。と言うのも、病気はこの遅延の間に根を張ってしまうからです。それゆえ私は、司教らがあらゆる恐れと肉の賢慮とを打ちやり、悪意の人々の上げる叫び声を横目に、無論優しく、しかし断固として、教皇教令『オフィチオルム』におけるレオ十三世の次の指示を念頭に置いて、この事業における自らの分担を果たすことを望みます。「この事柄においても聖座の代理者である司教たちは、自らの司教区内で出版され、あるいは出回っている有害な書籍ないしはその他の出版物を禁止し、信徒の手に届かないようにするよう勉励しなければなりません」。この一節において、司教たちが一定の行動をとる権限を付与されているのは事実ですが、しかし彼らは自らに課せられた義務をも有しています。いかなる司教も、一つないし二つの書籍を私のもとに、排斥されるべきものとして報告することで自分の義務を果たしたと思い、それに類したおびただしい数の書籍が出版され、流通するままにしておくなどということがありませんように。また、あなた方は、ある書物が他の所で一般に印刷出版許可と呼ばれる許可を得たからといって、それで自分の務めの執行が妨げられるようなことがあってはいけません。なぜなら、これは単に[そのような許可を得たと]見せかけることも可能であり、またこれは不注意もしくは行き過ぎた寛容さ、あるいは著者に対する過度の信頼のために与えられたかもしれないからです。特に最後のケースは、ともすれば修道会において往々にしてあったことではないでしょうか。また、ちょうど同じ食べ物が誰の体質にも合うのではないのと同様に、ある書物が、ある場所では無害なのに、状況の相違のために他の場所では有害である、ということがあり得ます。ですから、ある司教が賢明な者たちの助言を得て、自らの司教区でこの種の著作のあるものを排斥するのが適当である、と判断したとすれば、私は彼がそのように行う十分な権能を与え、かつそのように行う義務を課します。これら一切のことは[状況に応じた]ふさわしい仕方で為されねばなりませんが、ある場合には、聖職者のみに対象を限定した禁止を出すことで事足りるでしょう。しかし、いずれにせよカトリックの書籍販売者には、司教によって排斥された書物を店頭に置かないようにする義務があります。そしてこの問題を扱うに当たって、私は司教らに、書籍商が利得への熱望に駆られて悪辣な商売に身を染めることのないよう注意することを望みます。一部の書籍商のカタログにおいて、近代主義の著作が往々にして、決して少なからぬ賞賛と共に広告されているということは、確かな事実です。彼らが従順を拒むならば、司教らはしかるべき勧告の後に、彼らからカトリック書籍商の称号を一切の会釈なく奪わなければなりません。このことは、より一層重大な理由のために、司教付き書籍商の称号を持つ者たちに当てはまります。もしも[近代主義をはらんだ書物を販売するところの]彼らが教皇庁付き書籍商の称号を有しているならば、彼らは使徒座へ告発されねばなりません。最後に、私は皆に前述の教皇令『オフィチオルム』の第26条を思い起こさせて、この章を閉じることにします。「禁止された書物を読み、かつ保管する教皇よりの権能を得ている者は誰であれ、このことにより、当該地区の管轄司教によって禁じられた書籍ならびに定期刊行物を読みかつ保管する権限を与えられているわけではありません。このようにすることが許されるのは、教皇より与えられた権能が、誰によって排斥された書物であれ、これを読み、保管する許可を明示的に与えている場合に限られます」。

検閲

52.悪書の読書と販売を妨げるだけでは十分ではありません。こうした書物が出版されるのを防がなければならないのです。それゆえ、司教らは出版許可を与える際には、最大の厳格さをもってなさなければなりません。教令『オフィチオルム』において定められた規則にしたがって、多くの出版物は管轄司教の認可を必要とし、また一部の司教区では、著作物の審査のための公式の検閲者を適当数置く──これは、司教がそれら全てを自ら逐一目を通すことができないからですが──ことがならわしとなっています。私はこのような検閲者の制度をきわめて高く評価しており、それゆえ私はこの制度が全ての司教区に広げられることを勧めるのみならず、命じます。したがって、全ての司教教区庁において、出版を意図した著作の検定のための検閲者を任命し、また、検閲者は在俗および修道者という聖職者の二つの身分から選ばれた、その年齢、知識、ならびに賢慮のゆえに、判定を下すに当たっては安全かつ至当な手段を採択するような者たちでなければなりません。出版の許可を必要とする一切の著作物を、先述の教令中の第41条ならびに第42条にしたがって検閲することが彼らの職務となります。検閲者は判定を文書のかたちで出します。もしその判定が肯定的なものであれば、司教は「印刷出版許可」という言葉で出版の許可を与えますが、これは必ず「無害証明」および検閲者の氏名の後に記されねばなりません。ローマ聖庁においては、他の司教区と同様に公式の検閲者が任命され、その選出はローマ司教総代理によって推挙され、教皇により承認され、受け入れられた上で、教皇宮廷付き神学顧問によって任命されなければなりません。また、個々の著作に対して検閲者を割り当てることも教皇宮廷付き神学顧問の職務となります。出版の許可は、この教皇宮廷付き神学顧問もしくはローマ司教総代理ないし教皇総代理枢機卿によって与えられることになりますが、これは先に述べたとおり、「無害証明」と検閲者の氏名との後に記されねばなりません。司教の賢明な決断に基づいて、きわめて稀で特別な場合にのみ、検閲者の氏名を省略することができます。検閲者の氏名は、彼が肯定的な判定を下すまでは、決して明かされてはなりませんが、それは、彼が著作物の検閲に当たっている間、また万一承認を出すのを手控えた場合に不都合を被らないためです。検閲者たちは、管区長、あるいはローマの場合、総長の[当の者たちに関する]私的な見解が得られた上でなければ修道会からは決して選出されてはならず、またこの際、管区長ないし総長は、当の候補者の人格、知識、ならびに[信仰・思想上の]正統性について誠実に述べなければなりません。私は諸修道会の総長に、彼らの管轄下にある修道会員が、彼ら自身および教区司教の許可なしにいかなる著作も刊行することを決して許さない、というきわめて厳粛な義務を忘れぬよう勧告します。最後に、検閲者の称号は、[それ自体として]何の価値もなく、また、それを与えられる者の私的な見解に信頼性をもたせるために利用されることは一切できないことを私は断言し、かつ宣言します。

編集者として働く司祭についての注意

53.以上のことを一般的に述べた上で、私は特に、先述の教令『オフィチオルム』の第42条がより注意深く遵守されることを命じ、定めます。すなわち、この条項では「在俗司祭が教区司教の事前の許可なしに新聞もしくは定期刊行物の編集に当たることは禁じられる」と、されています。この許可は、誰であれ、勧告を受けながらもあえてそれを濫用する司祭からは剥奪されなければなりません。定期刊行物の通信員ないし寄稿者である司祭については、彼らが近代主義に染まった記事を自分たちの新聞や定期刊行物に寄稿するということが往々にしてあるので、司教らは、彼らがこの点について過誤を犯さないように目を配る必要があります。そして、もしかかる事態が生じたならば、当の者に警告を発し、執筆を禁じなければなりません。私は同様に、諸々の修道会の総長にもこの同じ義務を果たすよう荘厳に命じ、そしてもし彼らがこの職務をよく果たさないならば、司教たちが教皇からの権威をもって適当な措置を講じなければなりません。また、それが可能である限り、カトリック者によって書かれた新聞ならびに定期刊行物を担当する特別の検閲者が任命されるようにして下さい。その職務は、刊行された新聞および定期刊行物の毎号に適宜目を通し、もし何か危険な要素を見つけたなら、これがすぐさま訂正されるよう命じることです。司教も同じ権限を有しますが、司教はこれを、検閲者がある出版物中に何ら問題を見出さなかった場合でも行使することができます。

司祭会議

54.私は先に、会議や公の会合を、近代主義者たちが自分たちの見解を喧伝かつ擁護するために用いる手段の一つとして挙げました。今後、司教らは司祭たちによる会議を非常に稀な場合を除いて許可してはなりません。もし司教たちがこれを許可する場合、司教たちもしくは使徒座に属する事柄がそこで取り扱われず、また神聖な権威の横領を暗に意味するような決議もしくは請願を出すことが許されず、さらに、近代主義や長老主義、あるいは俗化主義の気味のあることが全く何一つ発言されない、という条件でのみ、これを許すことができます。文書での許可が適宜、個々の場合に与えられた上でのみ開くことのできるこの種の会議においては、他の司教区の司祭が自分の属する教区の管轄司教の文書での許可なしに臨席することは法規上許されません。さらに、いかなる司祭もレオ十三世の荘重な推奨の言葉を忘れてはなりません。「司祭たちは自らの牧者[である司教]の権威を、神聖なものとして捉えるようにしなければなりません。また司祭たちは、司祭としての役務がもし司教らの指導のもとに行われるのでなければ聖くも、甚だ実り豊かであることも、あるいは尊敬に値するものでもないことを確実なこととして見なさなければなりません」。

司教区ごとの「警戒協議会」の設置

55.しかし、尊敬する兄弟たちよ、こうした私の命令と規定のすべては、もしそれらが忠実かつ断固として実行に移されるのでなければ、一体何の役に立つでしょうか。そのためには、何年も前に、ウンブリアの司教たちが優れた知慮をもって彼らの教区民のために定めた規定を、全ての司教区に拡大して適用することが適当であると思われます。その規定とはすなわち、「すでに広められた誤謬を根絶し、また、それがさらに伝播してしまうのを防ぐため、さらにはこのような誤謬の伝播によるきわめて悪い影響を恒常化させている、不敬虔の教師らを取り除くため、この聖なる会議は聖カルロ・ボロメオの範に倣い、各司教区に協議会を設置することを決定しました。この協議会は、承認を受けた、聖職者の二つの区分からのメンバーによって構成され、その職務は、種々の誤謬ならびに新たな誤謬が紹介され、伝播される手段の存在を察知し、司教にそれら一切を報告することです。これを受けて司教は、彼らと協議をはかり、害悪をその端緒でくい止め、それが広まって人々の霊魂の堕落へとつながること、あるいはさらに悪いことに勢力を得て増大することを防ぐために最良の手段を模索するのです」。ですから、私は全ての司教区において「警戒協議会」とでも言うべきこの種の協議会が直ちに設立されることを命じます。この成員となる司祭らは、先に検閲者の選出について述べたのと同じような仕方で選ばれ、司教の立ち会いのもと、2か月ごと決められた日に会合することになります。同協議会のメンバーは、討議ならびに決定の内容に関して秘密を守る義務を課されますが、その職務には次のことが含まれます。すなわち、出版物および教育において見出される近代主義のあらゆる痕跡と印をきわめて入念に見張り、そして聖職者および若者をこれから守るために、あらゆる賢明かつ迅速で効果的な手段を用いることです。彼らがレオ十三世の次の訓戒を思い起こして新奇な言葉遣いと闘いますように。「カトリックの出版物中に、信徒の敬虔な信心を嘲笑い、キリスト者の生活の新しいあり方の導入や教会の新たな方針、現代人の霊魂の新たな渇望、聖職者の新しい社会的召命、ならびに新しいキリスト教的文明、その他これに類した多くの事について述べ立てるように見受けられる、不健全な新思想に息吹かれた文体を認めることは到底できません」。ここで指摘されているような言葉遣いは、書籍においても講義においても許されてはなりません。当協議会はさまざまな所で保持されている敬虔な伝統、あるいは聖なる遺物を取り上げている書物を省みずにおくことはできません。当協議会はまた、信心を育むべき新聞または定期刊行物において、こうした事柄が嘲笑や軽蔑の念をにじませた表現で、あるいはあたかも教義であるかのように断定的な筆致で取り扱われることを許さないようにしなければなりません。後の点に関しては、確実な事実として述べられていることが──しばしば見受けられるように──蓋然性の域を出ないか、あるいは先入観の混じった見解に基づいている場合、特に注意しなければなりません。聖遺物については、以下の規則に従わねばなりません。もしこの種の事柄における唯一の判定者である司教たちが、ある遺物が真正なものでないことを確実に了解したならば、即刻それを信徒の崇敬から遠ざけるように。また、もしある遺物の証明が国内情勢の混乱や、その他の事情により紛失してしまっている場合、司教がその真正さを確認するまでは、それを公の崇敬のために公開しないように。時効あるいは「十分な根拠のある想定」という議論は、ある聖遺物が、1896年に免償・聖遺物聖省から発布された以下の法令における意味での「古さ」のゆえに[それに対する信心が]推奨に値する場合にのみ、有効なものとなります。「古えの遺物は、個々のケースにおいて、それが偽造あるいは偽物である、ということを実証する明白な議論が存在するのでない限り、それが常に受けてきた崇敬を保持するべきである」からです。

敬虔な伝統について判断を下す際には、この事柄について教会は最大の賢慮を払っていること、さらに教会は、この種の伝統がきわめて慎重な注意をもって、またウルバノ八世教皇により義務として課された宣言文が挿入されるのでない限り、書物にて言及されないことを常に念頭に置かなければなりません。そして、この場合にも教会はそこで述べられている事実の真正さを保証するのではなく、ただ単に、人間的な意味での証拠に欠けていない事物を信じるのを禁じはしない、ということにとどまります。この問題について30年前、礼部聖省は次のように規定しました。「これらの出現や啓示は聖座によって承認されたのでも排斥されたのでもなく、ただそれらが純粋に人間的な信仰によって、またそれら[自体]が語るところの伝統に基づき、信憑性のある証言ならびに文書記録によって裏打ちされた限りで、[人々によって]信じられることを許す、ということに過ぎません」。誰であれ、この規則に従う人は何も心配する必要がありません。何らかの出現に基づく信心については、それが事実自体に関する限り、すなわちその信心が相対的なものである限り、当の事実が真実のものである、という条件を常に含みます。他方、それが絶対的なものである限りにおいては、その対象となるものが崇敬されている聖人たちの人格であるという意味で、それは常に真実に基づいています。同じことが聖遺物に関しても言えます。最後に、私は諸々の警戒協議会に、たゆまず熱心に社会的組織ならびに社会的問題に関する著作を監査し、それらが近代主義の痕跡をいささかもとどめず、かえって歴代ローマ教皇の定めた規定に従うように取り計らう義務を託します。

3年ごとの申告制

56.私がこれまでに述べたことが忘却に付されてしまうことのないように、私は全ての司教区の司教たちが、当書簡発布の1年後およびそれ以降は3年ごとに、私のこの書簡中で定められた事柄、ならびに聖職者の間で、殊に神学校やその他のカトリック学校──教区司教の管轄下にないものも含めて──において流布している種々の教理について精勤で宣誓を伴った報告書を聖座に提出することを望み、かつ制定します。そして私は、同様の義務を諸修道会の総長に、彼らの下にある者たちに関して、附与します。

結び

57.尊敬する兄弟たちよ、以上が全ての人の救霊のために、あなた方に書き送る義務があると私が考えたことです。無論、教会の敵対者は私がここで述べたことを取り上げて、教皇が科学と人類の進歩の敵だと誹謗する旧来の中傷をむしかえすことでしょう。キリスト教の歴史がまごうことのない証拠をもって反駁する、このような非難に対する新たな回答として、学識にすぐれて秀でたカトリック者の協力のもとに科学および知識のその他あらゆる部門の進歩が、カトリックの真理の導きと教導とにしたがって促進される特別な研究機関を、私の力の及ぶ限り、あらゆる手段を尽くして設立することを望みます。願わくば、キリストの教会に対する真摯な愛を抱く全ての者の助力に支えられて、私が首尾良くこの自らの企図を実現することを天主が嘉みし給いますように。しかるに、この企画については別の機会に述べることとしましょう。

使徒的祝福

尊敬する兄弟たちよ、あなた方の熱意と精力とにまったき信頼を置きつつ、私は真心より、あふれるほど豊かな天からの光をあなた方のために祈ります。こうして、あらゆる方向から狡猾に忍び寄る誤謬が及ぼす人々の霊魂への大きな危険のただ中で、あなた方が、何が為されるべきであるかを判然と見定め、また自らの持てる力と勇気を尽くしてそれを実行に移すべく努めますように。私たちの信仰の創始者かつ完成者であるイエズス・キリストが、その御力においてあなた方と共にいて下さいますように。また、あらゆる誤謬を打ち砕く方である無原罪の童貞[マリア]が、その祈りと助力とをもってあなた方のそばにいて下さいますように。そして、私の愛情および逆境における天主からの慰めの印として、私はあなた方およびあなた方の聖職者と信徒とに使徒的祝福を愛に満ちた心から与えます。

1907年(教皇在位第5年)9月8日

ローマ、聖ペトロ大聖堂にて

教皇ピオ十世

 

 

 

参考文献

フランス語訳

Lettre encyclique Pascendi Dominici gregis du 8 septembre 1907

英語訳

On the Doctrine of the Modernists (Pascendi Dominici Gregis) (8 Sep 1907) The pope points out the connection between various Modernist groups, examines the sources of the errors, and prescribes remedies for averting the evil.

Pascendi Dominici Gregis on The Doctrine of The Modernists September 8, 1907

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