カナのワイン 8 受難におけるキリストの花嫁への愛
8 受難におけるキリストの花嫁への愛
キリストの愛は、特にその苦しみの中に表れています。だからこそ、私たちはここでそれについて話したいと思います。
イエズスのたった一つの祈りでも、世界を救うのに十分なほど尊いものでした。イエズスの最も小さな祈りでも、イエズスの天主のペルソナの尊厳に支えられ、限りない愛に動かされていました。イエズスが祈りさえすれば、それが最も小さなものでも十分でした。
しかし、なぜイエズスはそれだけの苦しみを選ばれたのでしょうか? その答えは、救いのためにはたった一つの祈りで十分でしたが、私たちに対するイエズスの燃えるような愛を示すには十分ではなかったからです。
園での苦悩と血の汗、ユダの裏切り、ペトロの否認。イエズスが自ら背負われたこれらのことは、すでに十分ではなかったのでしょうか? しかし、イエズスはさらに多くのことをなさったのです。鞭打ち、いばらの冠、十字架上の死! 彼の全身は、彼の終わりのない愛のしるしでいっぱいです。しかし、主はそれだけにとどまりません。十字架の重荷を背負ってくださったのです! 確かにイエズスは、私たちの弱さを負い、私たちの悲しみを担ってくださったのです。十字架の上で、ご自分の花嫁である教会の苦しみと痛みを担ってくださったのです。
ゴルゴタに到着しても、まだ十分ではありません。ご自分を捨てて十字架に釘付けにされたのは、どんな必要にも、どんな痛みにも、ご自分がいつもそばにおられることを花嫁に示すためです。彼が釘付けにされるのは、実は彼の十字架ではなく、花嫁の十字架なのです。3時間の苦悩について、主のひどい見捨てられ方について、私たちは何と言うことができるでしょうか?
「わが天主、わが天主、なぜわれを見捨てられたのですか」
ある女性がある夜、天主に見捨てられた夢を見ました。それはとても冷たく、孤独で、暗闇で、彼女はベッドの中で悲鳴を上げて目を覚ました。それ以来、彼女はまた同じ夢を見ることを恐れて、何日もベッドに戻ろうとしなかったそうです。
「友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」
イエズスの死でさえ、イエズスの愛を示すには十分ではなかったのです。兵士に脇腹を貫かせ、聖心を開かせたのは、やはり主の御旨でした。それはまた、天地創造の歴史において、第一のアダムの脇腹からエワが創造されたように、主の脇腹から教会が誕生した瞬間でもありました。キリストの「時」は教会の誕生だったのです。
キリストのご受難において、素晴らしい愛が時間の中で起こります。この愛は、婚姻の秘跡で夫の心に注がれますが、それは、私たちに与えられた聖霊によって、天主の愛徳が私たちの心に注がれるからです。夫はこの秘跡において、教会に対するキリストの愛を分かち合っています。たとえ夫が妻の救い主になることはできないとしても、この栄誉はイエズス・キリストだけに帰するものだからです。それが、夫の人生の身分に応じた義務の一つなのです。
このことをよりよく理解するために、シエナの聖カタリナの生涯のある出来事を思い出してほしいと思います。彼女は、教皇たちがフランスのアヴィニョンに住んでいた時代に生きていました。ローマから教皇が不在であったことは、当時の教会にとって非常に有害であったため、聖カタリナは天主の命により、ローマに戻るよう教皇を説得しようと努めました。もちろん、問題はカタリナがフランス語を知らなかったことです。彼女はどうやって教皇と話し合えばよかったのでしょうか? ところがある瞬間からいきなり、彼女がフランス語で手紙を口述筆記できたという歴史的証拠があります。天主は彼女にフランス語の知識を授けたのです。これはエルサレムの聖霊降臨の奇跡を思い起こさせます。同様に、夫婦は、キリストと教会の愛を互いに与え合うことができるようになる賜物を授かっています。これは聖霊降臨の異言の賜物と同じくらい驚くべきことです!
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