カナのワイン 18 婚姻の秘跡を生きる
18 婚姻の秘跡を生きる
婚姻のお手本について黙想した後、今度は、その秘跡を生きることをどのように成し遂げていくかについて考えてみましょう。
「三日目に、ガリラヤのカナに婚礼があったので、イエズスの母もそこに来られた。イエズスも弟子たちと一緒に招かれた」【ヨハネ2:1-2】。
イエズス、マリア、使徒たちは婚礼に出席しました。同じように、私たちの主イエズス・キリストも、ご自分の言葉に従って、キリスト信者の結婚にも出席されるのです。
「私の名のために二、三人の集まるところには、私もまたそこにいる」【マテオ18:20】。
秘跡における結婚生活を決定づけるのは何でしょうか。それは、カトリック信者の結婚がキリストと教会のしるしであり、原型と親密で超自然的で現実的なつながりのある生きた象徴だという事実です。
それゆえ、カトリック信者の夫婦は象徴として生きるのです。象徴は明確で他と区別できなければなりません。道路に点滅する光があれば、緊急車両が来ていることはすぐに分かります。標識があれば、そこに書かれていることが明確な方向を示していることが分かります。聖パウロでさえ、象徴が明確である必要性を指摘しています。
「笛や竪琴のような命のない楽器でも、その音色に差別がなければ、笛や竪琴が何を演奏しているかは分からぬ。ラッパがあいまいな音を出すなら、誰が戦いの準備をするだろうか」【コリント前書14:7】。
同僚としてだけ一緒に暮らしている夫婦、自然のみの結びつきから一致しているだけの夫婦、相互の愛を放棄した夫婦は、このような不明確なメッセージを発しているのです。家庭の主導権を妻の手に委ねているため、夫が妻や家族に対する責任を放棄している場合も、メッセージはあいまいです。また、夫婦がいつも喧嘩をしていて、おそらく子どもたちの前でもしているような場合も、矛盾したしるしとなります。例を挙げればきりがありません。次の問いで決定されるのです。私たちは永遠の花婿花嫁【キリストと教会】のように生きようと日々努力し、彼らをまねているのでしょうか、それともこの私たちの愛の成長のための戦いを放棄しているのでしょうか。
キリスト信者の夫婦がキリストと教会を思い起こさせることは、実に重要です。それは、愛が類似していること、お互いへの尊敬、お互いに対する共感、共通の目標によって起こります。カナのぶどう酒の起源がこの世に由来しないのと同じように(給仕係はその起源を特定できませんでした)、夫婦の間にある愛もまたそうであるべきなのです。それは、キリストと教会の間に息づく愛とまったく同じものであるはずです。それは単なる自然の共感や愛着以上のものなのです。
はっきり言えば、キリストが教会に対して抱いておられる愛が、どれほど多様で豊かなものであるかを、夫はしばしば黙想しなければなりません。夫はその愛をよく知って、その愛に従って自分の人生を形作るよう努めなければなりません。祈りと秘跡において、特に、カナのぶどう酒が絶えず心に新たに注がれる婚姻の秘跡そのものにおいて、夫はそれを行う力を見いだすでしょう。
妻は教会の代表としての自分の義務を果たします。教会がキリストに示すように、妻は結婚生活における献身の生きた柱だからです。妻が夫にする善は、花婿であるキリストにすることでもあります。妻にとっても、同じことが当てはまります。妻は、教会の模範をよく知らなければなりません。私たちは、知らないことを真似ることはできません。妻の力の源は、夫のものと同じで、婚姻の秘跡そのものと、良き祈りの生活、特に聖母マリアへの深い信心です。
一方、永遠の花婿花嫁【キリストと教会】とは明らかに異なる点もあります。何よりも、父親である夫は妻子の救い主ではありません。父親は司祭ではありません。だからこそ、贖いの問題は私たちの主イエズス・キリストだけに留保されているのです。しかし、父親が妻子のために祈るべきこと、妻子のために妻子とともに十字架を担うべきであることは間違いありません。
婚姻の秘跡を全うすることは、超自然的な生活を送ることです。だからこそ、特別な力の源泉と特別な注意が必要なのです。共に祈り、定期的に告解をして聖体拝領するという習慣がなければ、良い実を結ぶことはできません。特に、できれば一緒にミサに出席することは、秘跡の生活を続けるために不可欠な条件です。
上の段落ですでに多くのことが語られています。とはいえ、まだ具体的に述べなければならない点もあります。読者の皆さんは、まえがきで述べた警告を心に留めておくべきです。つまり、芝居のような役柄ではなく、事実に即した生活を送らなければなりません。
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