カナのワイン 16 子供たちのための人生

16 子供たちのための人生

イエズス・キリストとその花嫁には、天主の栄光と、霊魂の救いと聖化という一つの目標があります。両者に共通する働きについてこれまで述べてきたことはすべて、この二重の目標に向けられています。

「私は羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。私は善き牧者で、善き牧者は羊のために自分の命を捨てる」【ヨハネ10:10】。

天主の子らに、聖なるカトリック教会のご自分の兄弟姉妹にご自分の命を与えることが、主のご意思なのです。主は、この天主の命が発展し、成長し、ついにはすべての人を御父の家に連れて行くことを望んでおられます。

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思いうかばず、天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと【永遠の至福】」【コリント前書2:9】。

これまで見てきたように、教会は、このみわざにおいて、忠実な同伴者として、世の贖い主と肩を並べているのです。

天主の子らはいつか、この栄光の永遠の町、教会そのものに住むことになります。

「さて、最後の七つの災難で満たされた七つの杯を持つ七位の天使の一位が来て、『近寄れ。私は小羊の妻である花嫁を見せよう』と私に言った。彼は私の霊を高い大きな山に連れて行き、天から天主のみもとから下る聖なる町エルザレムを見せた。その町は、天主の栄光を持ち、その輝きは非常に尊い字宝石に似て、水晶のように透き通った碧玉のようであった。その町には大きな高い城壁と、十二の門があった。それぞれの門には、十二の天使の一位がいて、名が記されていた。それはイスラエルの子らの十二族の名である。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があり、町の城壁には十二の礎(いしずえ)があって、そこに小羊の十二使徒の十二の名が書かれていた。私に話していた天使は、町と門と城壁とを計るために、黄金の計り竿を持っていた。町は正方形で、長さは幅と同じである。彼が竿で町を計ると、一万二千スタディオンあって、長さと幅と高さは同じである。彼が城壁を計ると、百四十四キュビトあったが、天使が用いたのは人間の用いる物差しである。その城壁は碧玉で造られ、町は透き通った水晶のような純金でできている。町の城壁の礎はさまざまな宝石で飾られ、第一の礎は碧玉、第二はサファイア、第三は玉髄、第四はエメラルド、第五はサルドニクス、第六は赤じまめのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。十二の門は十二の真珠で、おのおのの門は一つの真珠でできており、町の広場は透き通った水晶のような純金であった。私は町の中で神殿を見なかった。その町の神殿は全能の天主なる主と小羊だからである。町は太陽や月に照らされる必要はない。天主の栄光がそれを照らし、小羊がその灯だからである。異邦人はその光のうちを歩み、地上の王たちは自分の宝を持ち寄る。そこには夜がなく、町の門は一日中開かれている。異邦人の富と栄華はここにもたらされる」【黙示録21:9-26】。

キリスト信者の家庭で、父親と母親が昼も夜も子どもたちのためにいわば、この偉大で圧倒的な目標のために祈って働きます。親であることは、時には言いようのないほど難しいものです。そんな時にこそ、天主から委ねられた愛する子どもたちを育てるという、この永遠の目標への視点が必要なのです。わが子の不滅の霊魂と永遠の運命を思うことは、親にとって大きな力のもととなるのです!

キリストと教会は、特に司祭の聖化において協力し合っています。これには理由がいくつかあります。

信者の幸福は、司祭の聖性に依存しています。「牧者のように、群れのように」という原則があります。悪しき司祭は大きな害をもたらし、多くの霊魂を地獄に導く恐れがあります。一方、善き司祭は、多くの多くの天主の子らを、キリストと教会の子らを天国に導くことができます。アルスの司祭、聖ヨハネ・バプテスト・ヴィアンネーは、生涯に10万人以上の告白を聞き、非常に効果がありました。多くの人にとって、この素朴な司祭との出会いが、天国での無限の言葉にできない幸福をもたらした、人生の転機となったのです。

したがって、キリストと教会が司祭に特別な配慮をするとき、これは天主の子らにとって深い意味を持っています。

もう一つの理由は、司祭職の本質にあります。聖化と司祭の霊印を通して、司祭は教会の代理人であり、キリストの代理人なのです。子どもの顔に、両親の顔を、父親と母親の両方の顔を見ることは、時にとても魅力的です。司祭にも、司祭を通して働こうとするキリストと教会の姿を見ることができます。結婚における子どもが相互の愛の誓いであるように、神聖なカップル【キリストと教会】は、司祭において相互の愛の絆を見いだします。司祭において両者は共に行動し、司祭において両者は互いに相互の愛を与え合っています。ミサでの司祭の特別な役割について考えてみてください。

しかし、司祭は両者の相互の愛を表すものであるだけではありません。司祭はまた、両者の名によって行動するのです。司祭は、キリストと教会の祈りと行いに完全に没頭する以外に何をすべきでしょうか。この理由でも、両者は司祭職を喜ぶのです。

この意味で、キリスト信者の家族は、司祭職に対して大きな愛を示すべきです。なぜなら、家族と司祭の間には、深いつながりがあるからです。家族の祈りのときに司祭について考えることは、なんと美しいことでしょうか! この点は、家族の祈りの生活において、もっと大きな役割を果たすべきかもしれません。

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