カナのワイン 15 かしらと体

15 かしらと体

キリストは、ご自分の体である教会のかしら(頭)です。

キリストと教会は、かしらと体として、並んで共に生きています。生徒に対する教師、兵士に対する将軍、国民に対する政府、子どもに対する両親など、権威にはさまざまな種類があります。教会の「かしら」と「体」の間には特別な種類の権威があります。これは、先ほど述べた事例とは、非常に異なります。エワはアダムの体から形づくられ、いわばアダムの命の延長として、アダムの脇から取り出され、アダムの脇に置かれました。この起源が、男と女の関係に刻印を押したのです。

「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからである」【コリント前書11:9】。

同様に、教会は私たちの主イエズス・キリストのために造られました。これらの基本原則が、キリストと教会、夫と妻の相互の関係を決定づけます。キリストと教会は、互いに、互いのために生きているのです。

私たちの主イエズス・キリストは教会のかしらであり、教会を好んでおられ、教会もイエズス・キリストのために生きています。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく仕えるためであり、多くの人の贖いとして自分の命を与えるためである」【マテオ20:28】。

イエズスは王の王であり、すべてはイエズスのために造られ、またイエズスはアルファでありオメガであり、天主の御子であり、御父と同じ本性を共有しており、世の贖い主です。

このことを知っている私たちは、主が教会のかしらになるのを選ばれた方法に驚くしかありません。

トリエント公会議は、それにこう付け加えています。

「使徒はこの規則を教えて、こう言っている。『キリストが教会を愛したように、夫も妻を愛せよ』。そこには計り知れない愛があり、自分の利益のためではなく、花嫁の利益だけを常に念頭に置いている」。

最後の晩餐の席で、キリストは使徒たちに遺言を残され、彼らに仕える用意があることをあらためて示されました。イエズスは、御自分の尊厳と偉大さを十分に自覚した上で(イエズスは、御父がすべてのものをご自分の手に委ねられたこと、ご自分が天主から生まれ、天主のもとに行こうとしておられることを知っておられました)、食卓から立ち上がり、ひざまずいて使徒たちの足を洗われました。その後、使徒たちにこう言われました。

「あなたたちは、私を先生または主と言う。それは正しい。そのとおりである。私が主または先生であるのに、あなたたちの足を洗ったのであるから、あなたたちも互いに足を洗い合わねばならない。私のしたとおりにするようにと、私は模範を示した」【ヨハネ13:14-15】。

これは、イエズスが、いかにして、いかなる方法で教会のかしらであるかを示しています。イエズスは教会を好んでおられます。イエズスがかしらであるのは、ご自分のためではなく、ご自分の体のためなのです。次に、強調すべきことは、かしらであるということは教会への賜物であって、その理由は、イエズスがそのことを教会の利益になるためだけに実践されるからだということです。教会をご自分に仕えさせるのではなく、ご自分が教会のしもべとなられるのです。

夫が妻のかしらであるならば、同じように、妻の利益のために自分の義務を果たすべきです。このことを強調する必要があるのは、キリスト信者の結婚の理解を暗くする常套句があまりにも多いからです。多くの人がいつも強調しているように見える聖書の言葉があります。「女は夫に従え」【エフェゾ5:22】。それは正しいことであり、この言葉は聖パウロのものですが、それがすべてではありません! もう一つの言葉は考慮されていません。「夫よ、キリストが教会を愛し、教会のために命を与えられたように、あなたたちも妻を愛せよ」【エフェゾ5:25】。これは、今日の解放運動が、結婚と家庭での父親の権威という概念を誇張・歪曲する契機となったのではないでしょうか!

夫は妻のかしらですが、仕えられるためのかしらではありません。それどころか、夫は妻を導くために、妻に自分の愛を与えるためにいるのです。このことが正しく理解されればすぐに、「誰が誰の主人になるのか」という作為的な議論は解決されます。夫に服従したいと思わない妻がいるでしょうか。夫が自分を愛していて、そのことを自分が知っているというのに。

一方、キリストは無限の御稜威のあるかしらです。

「彼は目に見えぬ天主の姿であって、すべての被造物の長子である。万物は彼によってつくられたからである。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、玉座も、主権も、権勢も、能力も、みな彼によって彼のためにつくられた。彼は万物の先に存在し、万物は彼によって存在する。彼は体のかしら、つまり教会のかしらである。彼は始まりであり、死者の中から最初に生まれたお方である。それはすべてにおいて第一の者となるためである。父はすべての満ち満ちるものを彼に宿らせ、彼によって彼においてすべてのものを和睦させ、彼の十字架の御血によって、彼によって、地にあるものも天にあるものも平和にさせようと望まれた」【コロサイ1:15】。

「イエズスの力と権威は、イエズスの教える方法にも現れていました。「イエズスがこう話し終えたとき、人々はその教えに驚いた。イエズスが律法学士やファリザイ人のようにではなく、みずから権威を持つ人のように教えられたからである」【マテオ7:28-29】。

この教会のかしらの力と素晴らしさは、黙示録の聖ヨハネの幻にも示されています。

「私は主日に脱魂状態になり、その後でラッパのような大声を聞いた。『おまえの幻を書き記し、エフェゾ、スミルナ、ペルガモ、ティアティラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオディキアにあるアジアの七つの教会に送れ』と言った。そう話した声の方を見ようとして後を振り返ると、七つの金の燭台があった。燭台の間に、人の子のような者が見えた。彼は長い服を着て、金の帯を胸にしめ、頭と髪の毛は純白の羊毛のように雪のように白く、目は燃える炎のようであった。足は炉で精錬された尊い青銅のようであり、声は大水の音のようであった。右の手に七つの星を持ち、口から両刃の剣が出、顔は照りわたる太陽のようであった。それを見たとき、私は死んだようにその足もとに倒れた。すると彼は右の手を私の上に置いて言われた。『恐れるな。私は初めであり終わりであり、生きている者である。私はかつて死んだが、代々限りなく生きる。私は死と黄泉の鍵を持っている』」【黙示録1:10-18】。

仕えるために来られたキリストのこの御稜威は、夫に宿っています。これが何を意味するかは、守護の天使の祝日の朗読との比較から分かります。

「私は、おまえたちの前に天使を送り、道で守らせ、そして私の備えた所に導こう。彼を尊び、その言いつけを聞き、彼に反抗するな。私の名は彼とともにあるから、彼は、その反抗を許さないであろう。もし、おまえたちが、彼の声に従い、私が語ることをすべて行うなら、私はおまえたちの敵の敵となり、仇の仇となるであろう」【出エジプト23:20-23】。

この箇所は、キリストの崇高な御稜威の現存に関するものです。

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