カナのワイン 12 花嫁の心
12 花嫁の心
マリアは、すべての恵みの仲介者ですから、その執り成しによって、すべての超自然の命と愛を、心のように教会員に授けます。この意味は、先に記したすべての愛は、このマリアの御心の祈りから来るものだということです。
ここで、イエズスの重要な言葉が成就します。「私の与える水を飲む者は、いつまでも渇きを知らないだろう。私の与える水は、その人の中で、永遠に湧き出る水の泉となる」【ヨハネ4:14】。マリアの汚れなき御心の執り成しから来るこの生ける水は、教会全体にとっての生ける川です。「川の流れは天主の町を喜ばせ、いと高き御者は御自身の住まいを聖別される」【詩篇45:5】。マリアの祈りによって生まれたこの愛の川は、教会全体に生命を与え、イエズスへの唯一無二の愛へと至ります。これは、花婿であるイエズス・キリストを喜ばせる花嫁の愛情なのです。
教会に命を与えるマリアの祈りには、二つの側面があります。その祈りは執り成しですが、感謝と償いでもあるのです。
マリアの祈りが執り成しであるのは、マリアは一人一人の天主の子への愛のうちに、その子が必要とするすべてのものを願うからです。グアダルーペでのフアン・ディエゴへのマリアの驚くべき言葉を思い起こしてください。「私の小さな息子よ、私の言うことをよく聞き、理解しなさい。心を騒がしてはなりません。その病も、他のどんな病も、苦悩も恐れてはなりません。私はここにいます、あなたの母ですよ。あなたは、私の庇護の下にあるのではありませんか。私はあなたの健康ではないですか。あなたは、私の膝の上で幸せではないですか。他に何を望むのですか。思い悩まないで、あなたを心配させるものは何もありませんよ…」。
しかし、マリアの祈りは感謝と償いでもあります。「すべてのことは、あなたたちのために起こるのです。それは、恵みが多くの人の上にあふれ、天主の栄光のために感謝の念が増すためなのです」。感謝はすべての恵みの意味であるとともに目的でもあります。天主から授けられたすべての恵みは、天主の御母の感謝のうちに、その価値ある響きを 持っています。
しかし、マリアが祈られたにもかかわらず、人間によって拒絶された恵みについてはどうでしょうか。これらの恵みは無意味なのでしょうか。いいえ、なぜなら、マリアの御心は、たとえこれらの恵みを受ける人が拒んだとしても、これらの恵みにも感謝を捧げられるのです。これは、パンが増えた後に残ったパンのかけらでいっぱいだった12のかごに例えられます。失われたものは何もなく、むしろ、人々が無駄にしたものが保たれたのです。このようにして、マリアは無駄になったすべての恵みを集め、天主に感謝されます。それゆえ、これらの恵みもその目的地である感謝に導かれます。すべての罪は無駄な恵みです。なぜなら、悪とは常に善の欠陥、あるいは欠如だからです。マリアの御心は、この欠陥を補い、元に戻すのです。それゆえ教会は、善の太陽で輝く汚れなき心を持っています。すべての聖人は愛においてマリアと一致しており、マリアはその汚れなき御心において、教会全体の愛をまとめて、イエズスに捧げられるのです。
今、私たちの目の前には、ついに、教会の愛全体、すなわち、力強い愛の炎があります! この愛の炎は、何を語り、何を望んでいるのでしょうか。イエズス・キリストがたたえられ、愛され、栄光を受け、賛美されるように、です。多くの心と霊魂が、「一つの心と一つの霊魂」であることは明らかです。なぜなら、彼らの命は、一つの愛、イエズスへの愛だからです。花嫁である教会のイエズスへのこの愛は、想像を絶するほど豊かで美しいものです。教会の花婿にとって、これは何という喜びでしょうか! ソロモンの雅歌で花婿は言います。「姉妹よ、いいなずけよ、あなたは、ただ一目で、…私の心を奪った、私の心を奪った」【雅歌4:9】。
今述べたような花嫁の愛は、婚姻の秘跡においてキリスト信者である妻の心に注がれますが、それは妻がこの愛を夫に与えることができるようにするためです。妻には、教会の美しい愛で夫を愛するという特権があります。これは、妻の使命でさえあるのです! 妻もまた、自分の心に注がれる天主の愛に対して責任を負っているのです。
なぜ教会が聖ステファノの祝日を特別に祝うのか不思議に思う人がいます。偶然に12月26日に設定された聖人の祝日と思われるかもしれません。しかし、それは教会が意図的にそこに置いたものなのです。ご降誕祭に、天主の御子が不滅の愛を持って来られました。教会は、天主の愛への応答として生まれたばかりの救い主のために命を捧げた最初のキリスト信者を、花婿に捧げます。聖ステファノは最初の殉教者であり、教会は彼を、飼い葉桶の中の幼子イエズスに、バラの花のように捧げるのです。
翌日の12月27日、教会は聖ヨハネの祝日を祝います。聖ヨハネは、他の誰よりも救い主の愛を理解していました。聖ヨハネは、イエズスに愛された弟子であり、最後の晩餐で主の胸に憩った人です。教会は、この祝日においてもイエズス・キリストへの愛を表現しています。キリストは、ご自身の愛を認めて、それに応えること以外に、いった何を求めておられるのでしょうか。
「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように、私はどんなに望みをかけていることか」【ルカ12:49】。
妻の愛はそういうものです。夫の愛に対する応答です。妻はいつも夫の中に、教会の花婿であるキリストと、その花嫁に対するキリストの変わらぬ愛を見ているのです。婚姻の秘跡において、妻はイエズス・キリストの花嫁としての教会の生活に参加し、それによってキリストの幻影にあずかるのです。天主の愛は私たちの心に注がれます。聖パウロのこの言葉は、この愛のうちに夫を愛して、夫のうちにキリストを愛する女性にも当てはまります。彼女もまたカナのぶどう酒を飲み、その中で新しい愛に生きるのです。夫のためにすることは、キリストのためにすることなのです。
教会はご降誕祭に、自分の愛の贈り物でイエズスを即座に迎えます。この数年間、教会がキリストに捧げてきたすべての愛を、私たちはどのように述べればいいのでしょうか! イエズス・キリストのために人生を捧げ、イエズス・キリストへの奉仕にすべてを生き、沈黙と孤独のうちにイエズスを探し求め、イエズスの召命に応えに行き、謙遜、貞潔、清貧、簡素、忠誠、従順、完全な愛徳のうちにイエズスに奉仕してきた人々。彼らは、天主の愛の光を反射する波の先端なのです。
この目的のために、教会はイエズス・キリストとその生涯のみわざに奉仕してきました。教会は完全にキリストのために生き、キリスト の命令を果たし、十字架の犠牲を捧げ、キリストの御国を拡大し、キリストの名誉を擁護し、キリストの権利を擁護し、キリストとともに十字架を担うのです。すでに最初の3世紀には、教会は、死と殉教をもたらした迫害の波にさらされました。皇帝コンスタンティヌスの時代になってやっと、ある程度の平和が広がりました。それまでは、命がけでイエズスに忠誠と愛を示さなければなりませんでした。教会は、イエズス以外のものを知らないのです。
「私は、あなたたちの中にあって、イエズス・キリスト、十字架につけられたイエズス・キリストのほかには何も知るまいと決心したからである」【コリント前書2:2】。
「実に、わが主イエズス・キリストを知るという優れたことに比べれば、その他のことは何でも丸損だと思う。私はキリストのためにすべてを失う。だがキリストを得るためにはそのすべてを芥だと思う」【フィリッピ3:8】。
教会には、イエズス・キリスト以外には、自分のキャリアも、プロジェクトも、野心もありません。もし教会のしもべの中に、尊大で利己的だったり、あるいは権力を貪ったりするような振る舞いをする者がいるとすれば、それは明らかに教会の心構えや意向に反しています。そのようなことは、教会の姿勢や使命に反するものであり、したがって、教会は自分のしもべの不品行に対して責任を負いません。
したがって、妻は完全に夫のために生きるのであって、夫の傍らにいるだけなのではありません。妻は、自分を夫と無関係にするような自分のキャリアを持っていません。なぜなら、夫もまた完全に妻のために生き、妻のことを第一に考えるからです。夫の仕事は、その次に来るのです! キリストは教会を支えるかしらであり、そのことが教会に、完全にキリストのために生きる力を与えるのです。
教会はすべての信者、つまり、自分の子らをイエズスに捧げます。教会は自分の子らを自分のためだけに持ちたいという意向はありません。教会の子らは、教会ではなく、イエズスに属するものだからです。信者の世話をすることで、教会は天主の子らをイエズスのもとに導きたいのです。教会が罪人を追いかけ、罪人が永遠の家に到達するまで休まないとすれば、それは彼らが恵みの子であり、イエズス・キリストに属しているからです。
したがって、母親は、自分のためではなく、夫のために子どもを守るのです。「私は子どもたちに専念するために、夫のことはあきらめます。私には、それで十分です!」。家庭の母親のこの言葉は、結婚の本来の考え方からすれば、破綻宣言を意味します。彼女はその代わりに、キリストに信者を捧げるという教会の立場を受け入れたのです。別の章では、結婚における夫あるいは妻の限界や不完全さ、失敗と、どう対応すればいいかについてお話しします。
教会がどのようにキリストのために完全に生きるかを知るには、教会の雰囲気や精神を見ればよい。
私たちが教会に入ると、静寂と沈黙があるのが分かります。イエズスの現存を妨げるものは何もありません。教会の構造全体が、祭壇と聖櫃に集中しています。それゆえ、私たちの注意は再びイエズス・キリストに向けられます。教会の装飾は、キリストのためにあり、祈る人々を祈りと敬意、信仰と信心に向かわせるためにあります。挙行されることになる典礼には、何千という礼拝、敬意、愛のしるしが示されます。つまり、祈り、ひざまずき、お辞儀、香、賛歌、姿勢です。すべてに息づいているのは、注意深さ、回想、信心の精神です。
これらはまさに、花婿に対する教会の信心の表現です。教会はイエズスのために、常にイエズスと歩調を合わせて生きるのです。
妻は、「自分のやり方で」(Mutatis mutandi)、この教会の姿勢に倣います。夫がキリストに倣って、妻のためにするように、妻は、そこで夫のために常に最善を尽くします。最後に、夫婦は、婚姻の秘跡において、キリストと教会の象徴です。この象徴は、この夫婦の生活を霊的に生きることによって、私たちにキリストと教会を思い起こさせるものでなければなりません。
教会のこのような姿勢は、マリアにおいて、さらにはっきりと見られます。マリアの生き方は、まさに教会の確信と原則に合致しています。マリアは、教会において中心的な役割を果たし、教会から切り離すことはできません。マリアの信仰(すなわち、マリアが精神と霊でキリストとともに考えること)、マリアの謙遜と愛徳は、花嫁としてのキリストへの信心の典型です。
信仰とマリア信心が童貞聖マリアについて言おうとしていることはすべて、その結果として教会の中にこだましています。黙示録の第12章にある、教会が太陽をまとったという壮大なしるしは、教会と童貞聖マリアの両方だと解釈されています。
妻にとって、深いマリアへの信心は、結婚での正しい確信と態度を見いだすための簡単で単純な方法です。
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