カナのワイン 10 キリストの聖職における花嫁への愛

10 キリストの聖職における花嫁への愛

しかし、イエズス・キリストは、地上での生活、祈り、犠牲と苦しみにおいてだけでなく、ご自分の生涯の業績を花嫁と分かち合うことによっても、花嫁への愛を示されました。キリストは、花嫁のために生き、苦しんだだけでなく、花嫁に多くのことを委ねられました。

第一に、宣教です。

「行け、諸国の民を弟子とせよ」【マテオ28:19】。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人である」【ルカ10:16】。教会は、自分自身の権威だけでなく、イエズス・キリストの権威をもって教えます。教会は、イエズス・キリストに代わって、天主のみ言葉を宣べ伝えているのです。

キリストは、天主の子らを教会に託されました。「私の小羊を牧せよ、私の羊を牧せよ!」【ヨハネ21:15,16】。天主の子らは、天主の目にはとても尊く貴重なものであり、天主は彼らにとても愛着しておられるため、天主の命を彼らのために快く与えられました。

「友人のために命を与える以上の大きな愛はない!」【ヨハネ15:13】。

この天主の子らを、キリストは教会に委ねられました。

この愛において、夫もまた、妻に自分の子らを委ねます。ある若者が考え込んで、こう言ったことがあります。「妻が私の子どもたちの母親になれるかどうか、私は自問しています」。

イエズスは、教会の手にご自身の職務を渡されました。すなわち、教え、聖化し、統治する権力です。これらの職務は、愛のしるしとして、意図的に教会に与えられています。教会はこれらの役務を通して、キリストの生涯のみわざに参加します。キリストは教会に、どれほどのことを決めさせ、どれほどのことを体系化させられるのでしょうか! 教える方法、典礼の順序、子どもたちの進むべき道についての決定、天主の家の建設、修道者の生活、宣教、カテキズム、祈り、その他多くのことです。ここで分かることは、権威、そして長であるということは、一人だけで物事を決めるという意味ではないということです。義務を委任することの方がずっと素晴らしいのです。なぜなら、そこには、唯一無二の形での愛、共感、参加があるからです。

このことは、キリスト信者の家庭の指針でもあります。父親であるからといって、将軍のように命令する必要はありません。母親にして妻が意思決定に関与し、父親は多くのことを彼女に委ねたり、任せたりします。家計のやりくりや休暇の計画など、妻が得意なことならば、妻がすればいいのです。しかし、教会がキリストのためにしているのと同じように、妻は夫のためにそれをしているのです。

私たちはここで、特に告解について言及したいと思います。イエズスは、私たちを罪から救うために、この世に来られました。聖金曜日に、イエズスは私たちの罪を贖い、赦すためにご自分の命を捧げられました。

「しかし、彼は、私たちの悪のために傷つき、私たちの罪のために打たれた。私たちの平安のための罰が彼の上にあり、その傷によって私たちは癒やされた」【イザヤ53:5】。

罪の赦しのみわざは、復活祭の朝の復活によって、ある意味で完了しました。復活の主日に、主は、ご自分が多くの犠牲を払われたこの途方もない罪の赦しの力を、ご自分の愛する花嫁の手に渡されます。

「聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」【ヨハネ20:33】。

それ以来、悔悛の秘跡において、イエズスとともに天主の赦しを与えることは、教会の大きな喜びです。ここにおいて、私たちには、教会がイエズスの中心となるライフワーク、つまり、赦しと天主の命を与えることに参加していることが分かります。それは、教会にとっての最高の栄誉を意味します。つまり、世の救い主であり、すべての時代の贖い主であるイエズスが、ご自分の主な務めを実践されるとき、ご自分の愛する教会がそばにいることを望んでおられるのです。

「王の娘は、黄金で織られ、豪奢をきわめた服をつけ、多彩なその服で装って、王の前に導かれ、乙女たちがそのあとに従い、乙女の連れがその供をする。歓喜と喜びのうちに、女たちは案内され、王の宮殿に入る」【詩篇45:14-16】。

ですからイエズスは、ご自分の花嫁である教会がご自分のそばにいることを望んでおられるのです。同じように、夫は、妻に可能な限りすべての重要なことを分担してもらうべきです。私たちは、妻が常に夫の1メートル後ろを歩かなければならないような宗教に生きているのではありません。このようなキリストと教会の共通の生活、イエズス・キリストの生活への教会の参加は、後で述べる聖なるミサにおいて頂点に達します。しかし、私たちはまず、花婿の愛に対する花嫁である教会の返事がどのようなものかを見るべきです。

-----