教皇ピオ十一世による回勅 『クアス・プリマス』 Quas Primas
訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会
1925年12月11日
王たるキリストについて
教皇ピオ十一世による回勅
『Quas Primas』(クアス・プリマス)
使徒座との平和と交わりを持つ総大司教、首座大司教、大司教、司教たち、その他の場所の教区長たちに、王たる私たちの主イエズス・キリストの祝日を制定することについて
教皇ピオ十一世は、尊敬に値する兄弟たち及び愛された息子たちに挨拶と使徒的祝福を与える。
一、問題の提起
教皇になってまもなく(Quas primas post initum Pontificatum)、私は全教会の司教に最初の回勅を送り、人類が味わっている様々な困難の主な原因がどこにあるか指摘しました。
人類の大部分が、個人生活からも家庭や国家からも、イエズス・キリストとその貴い掟を閉め出してしまったために、これほど多くの不幸が世界に広がったのです。そして、個人と国家が救い主の支配に背き、これを拒み続ける限り、諸国民の間に永続的な平和が打ち立てられる見通しは全くありません。
私たちが追求しなければならないのは「キリストの国におけるキリストの平和」です。私もこの点に関して、及ぶ限り力を尽くすことを約束しました。世界にキリストの平和を回復し、確立する最上の手段は、主に支配を委ねるよう努力することであると私は思っています。
それでも人々のうちに、キリストおよび唯一の救いの道である教会に対する関心が芽生え、あるいは盛んになってきたことは、よりよい時代への明るい希望を私の心の内に起こしました。これは救い主の支配を踏みにじり、その王国から追放されていた人々が、再び服従の義務につく準備をし、急いで帰ってくる印です。
聖年を通じて行われた数々の忘れがたい出来事は、教会の創立者であり王である主に、輝かしい栄光と誉れをもたらしました。
布教展覧会が催され、人々は教会が花婿の王国を地の果てまで拡大するため、不断の努力を傾けているのを目撃し、非常な感動を覚えたのです。そして宣教師たちの不屈の努力と犠牲によって、多くの国々がカトリックになったのを眺めるとともに、まだ、主の救いと慈しみの統治に服していないところがあることも知りました。
また、聖年の間に、司教や司祭の引率でローマに来た人々は、ただ一つの目的、すなわち、聖ペトロ、聖パウロ両使徒の墓と私の前で、キリストへの忠誠を誓うために来たのです。そして、私が、六人の証聖者および童貞女を、その英雄的な徳を立証して聖人の位に上げたとき、キリストの王国の上に光が注がれたと感じました。聖ペトロ大聖堂における荘厳な列聖宣言の後、感謝の祈りを唱える信者の群が「キリストよ、御身は栄光の王なり!Tu Rex gloriae, Christe!」と叫んだとき、私の心は言いようもない喜びと慰めに満たされました。天主を離れた人々や国々が、妬みと不和にあおられ、滅びと死に向かって急ぐときも、天主の教会は、聖なる男女の家系を、絶えずキリストのために生み育てています。この地上の御国で忠誠と従順を示す人々を、天国の永遠の幸福にキリストは招きます。
それに、この祝いの年は、ニケア公会議から数えて1600年目にあたりましたので、私は記念の催しを行うように命じ、私自身バチカンの大聖堂でこれを行いました。それは特別に喜ばしいことです。というのは、ニケア公会議は、信ずべきカトリック教義の一つとして、御一人子が御父と同一本質(consubstantialis)であることを公言し決定した上、使徒信経に「その国は終わることなし cuius regni non erit finis」という言葉を付け加え、キリストの王としての権威を確認したからです。
この聖年は、キリストの王国を称える数々の機会を提供してくれました。ですから、多くの枢機卿、司教、信者がた個々の、あるいは連盟の願いをいれて、私たちの主イエズス・キリストの王たる尊厳を祝う特別の祝日を典礼に加えて、この聖年を完結するのは、教皇権に相応しいことだと思います。
尊敬する司教、司祭の皆様、このキリストの王位こそ私の大きな喜びであり、これについて少しお話ししたいと思います。私がキリストの王位について語ることを全て、信者にわかりやすい方法で説明して下さい。そうすれば、私の宣言しようとする祝祭日が毎年祝われ、現在も将来も豊かな実りをもたらすことになるに相違ありません。
二、教義の解説、王たるキリストの支配権
1 キリストの王位の二つの意味
キリストは、全てのつくられたものに優る最高の地位を占めておられますから、比喩的な意味で「王」として称えられるのは、かなり以前からの習慣です。
この意味で、キリストは「王として人々の知性を支配する」と言われます。これは、その知性の鋭さや知識の広さのためばかりではなく、キリストが真理そのものであり、全ての人間がその真理をくみ、心から受け入れなければならないからなのです。
キリストはまた「王として人々の意志をも司っておられる」のです。それは、キリストが御自分のうちに、聖なる天主の意志と、人間としての完全に正しい意志を合わせ持っておられるためばかりでなく、キリストが霊能を持って、私たちの自由意志をもっと高い行いに向かわせ動かしているからです。
キリストが私たちたちの心の王であると言われるのは「一切の知識を越える愛」(エフェゾ3:19)そのものであり、主の憐れみと温良が、全ての人を引きつけているからです。まことに、イエズス・キリストほど強く広く愛された人間は、今まで存在しなかっただけでなく、これからも存在しないでしょう。
しかし、もし一層深く考えるなら、王の称号と権能は、比喩だけではなく本来の意味で、人としてのキリストに属することを認めなければなりません。というのは、御父から「権力と栄光と御国」(ダニエル7:13-14)を与えられているということは、人たるキリストについてだけしか言い得ないからです。つまり<天主の御言葉>として見れば、御父と同一本質であり、既に万物を御父と共有し、全被造物の上に最高絶対の主権を有しておられるからです。
2 聖書からの証明
キリストが王であることは、聖書の至る所に現れています。彼こそヤコブから出た統治者であり(民数4:19)、聖なる山シオンを統べる王として御父に任命され、全ての国民を遺産として与えられ、地の果てまでもその領土とされた御者(詩編2)です。また婚宴の賛歌は、将来のイスラエルの王を最上の富と権力をもつ王と称え「おお天主よ、御身の王座はとこしえに続き、御身の王国の杖は正義の杖なり」(詩編44:7)と歌っています。これと似た句は、他にも沢山見いだせます。
もっとはっきりキリストの君臨が示されている句を見ましょう。主の王国は境が無く、正義と平和によって栄えると詠まれています。「彼の世、正義が栄え、深い平和があるだろう、彼は海から海まで、川から地の果てまで治めるだろう」(詩編71:7-8)。
預言者の証言も、これに劣らず沢山あります。まず、よく知られているイザヤの預言を挙げましょう。「一人のみどりごが我々のために生まれた。一人の男の子が我々に与えられた。その肩に王の印があり、その名は霊妙、顧問、大能の天主、とこしえの父、平和の君と唱えられる。彼の治めるところは広大、限りなき平和のうちに、ダヴィドの座を、その国を、法と正義を持って、今もいつまでも固め強められる」(イザヤ9:6-7)。
他の預言者たちも、イザヤと同様なことを言っています。エレミアは、ダヴィドの家から出る「正しい枝」が「王となって世を治め、栄え、公平と正義を世に行う」(エレミア23:5)と預言し、ダニエルもまた、天上に天主がお築きになる王国を告げています。「これはいつまでも滅びることなく、…立って永遠に至る」(ダニエル2:44)と。
また少し後の章では、次のように言っています。「私はまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が雲に乗ってきて、日の老いた者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを給い、諸民、諸族、諸言語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、無くなることが無く、その国は滅びることがない」(ダニエル7:13-14)。
ザカリアは、憐れみの王が「ロバに乗る、すなわちロバの子である子ロバに乗る」と言い、エルザレムに入るにあたって、群衆が彼に向かって「正しい者、救い主」と叫ぶだろうと預言しています(ザカリア9:9)。後に福音史家によって、これが全うされたことが認められました。
旧約聖書の中で見いだしたキリストの王位についての教えは、新約聖書のうちに一層はっきり教えられ、認められています。
例えば、お告げの史実に簡単に触れると、大天使はマリアに向かって子を産むことを告げて、その子は「主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は無窮のもの」(ルカ1:32-33)と言っています。
なお、キリストも、御自ら王としての権能について話しています。すなわち、義人と悪人の永遠の報いと罰について群衆に行った最後の説教の時、また、ローマ総督の公の質問にお答えになった時、また御復活の後、使徒たちに、全ての国民に教え、それに洗礼を授ける使命をお与えになったときなどです。このような機会に、キリストは自分が王であると言われ(マテオ25:31-40)、その称号をはっきりと示し(ヨハネ18:37)、天においても地においても、一切の権能が自分に与えられていることを荘厳に宣言されました(マテオ28:18)。特に最後の言葉は、彼の権能の偉大さと王国の無窮の広さを物語るものです。ですから、聖ヨハネが「地上の王の君」(黙示録1:5)を見て、「その上着(うわぎ)と股(もも)とに<王の王、主の主>という名が書かれていた」(黙示録19:16)と言ったのも不思議ではありません。御父が「万物の世継ぎにお定めになった」(ヘブレオ1:2)のは、このキリストなのです。キリストはこの世の終わりに「全ての敵を父なる天主の御足の下に置かれるまで支配される」(コリント前15:25)のです。
<全ての国に広がるべき、地上のキリストの国>であるカトリック教会が、毎年種々の典礼を使って、その創立者を、王、主、あるいは諸国の王として、一つの心をもって称えてきましたが、これも上述の聖書の教えから見れば当然でしょう。
昔から詩篇を詠うとき、儀式の中でキリストの王位を表す様々な称号を使ってきた教会は、今なお、公式の祈りやミサ聖祭を捧げるとき、毎日これを用いています。この王たるキリストを絶え間なく賛美する点では、東方典礼も私たちの典礼と完全に一致しています。やはりこの場合においても「祈りの法は信仰の法」を示すのです。
3 キリストの王権の根拠
主のこの尊厳と権能が何に基づくかということを、アレキサンドリアのチリロは次のようにはっきり示しています。すなわち「キリストが、全被造物の上に主権を有しておられるのは、強奪によって獲得したり、譲り受けたものではありません。御自らの本性と存在とによって、御自分のものなのです」(ルカ聖福音書注解)と。キリストの主権は、位格的結合に基礎をおいています。従って、天使や人間は、キリストをただ天主として礼拝するのみでなく、人としてのその支配にも服さなければなりません。人たるキリストは、その位格的結合によって、全被造物の上に権力を獲得されているからです。
しかし、私たちに一層大きな喜びと慰めを与える考えがあります。キリストが、生まれながらの権利だけでなく、救い主として獲得された権利によっても私たちを支配するということです。救い主にどれほどの恩を被っているかを忘れた者は、次の言葉を思い出していただきたいものです。「あなたたちが・・・贖われたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、傷もなくしみもない子羊のようなキリストの貴い御血による」(ペトロ前1:18-19)。
私たちは、もはや自分自身のものではありません。なぜなら、キリストが私たちを「高値で」(コリント前6:20)買われたからです。そして私たちの体も「キリストの肢体」(コリント前6:15)なのです。
4 キリストの王権の本性
ここで、キリストの主権の意味と本質を簡潔に説明しておきましょう。今さら言うまでもないことですが、主権には三つの権能[立法・司法・行政権]が必要です。これを持っていないと、その王権は無意味になります。贖い主の普遍的支配権については、既に引用した聖書の箇所がはっきり証明しております。
また、イエズスが人間の贖い主であるのみでなく、(1)人々が服従すべき立法者でもあるということは、信仰箇条として認めなければなりません(トリエント公会議VI-21)。福音書は、主が法を既にお立てになったということを伝えているというよりも、その法を定めたイエズスの姿を私たちに示しています。その掟を守る人々は、イエズスに対して自分たちの愛を示し、様々の形で、その愛のうちに留まると言われています(ヨハネ14:15-15:10)。
また、(2)裁判権も御父から与えられたことを、イエズスはおん自ら言明されました。例えば、安息日に奇跡で病人をいやしたと言って、ユデア人たちがイエズスを訴えたとき「父は裁判なさらず、子に審判のことを全くお任せになった」(ヨハネ5:22)と言われたのです。この権能と一体となって、全ての人々に対しても賞罰を与える権利があります。
それから、(3)行政権もキリストに属しています。それは、違反者が避けることのできない制裁を命ずるキリストに、誰もが従わなければならないからです。
しかし、この王国は何よりもまず精神的なものであり、精神的な事柄に関するのです。先に挙げた福音書の引用が、このことを十分に証明していますが、キリストは自らの行いによってそれを確証されました。当時は、ユデア人だけでなく使徒たちでさえ、メシアはイスラエルの自由を回復し、その王国を再建するだろうという誤った期待を持っていました。イエズスは、その様な空しい意見や希望を排斥されたのです。群衆が歓呼して取り囲み、イエズスを王にしようとした時も、主はその栄誉を振り切って身を隠し、群がる人々から逃げられました。
そして最後に、ローマ総督の前で、自分の王国がこの世のものでないとはっきり宣言されました。
その国に入るには生活を改めて準備し、信仰と洗礼によらなければならないと福音書は言っています。その洗礼は、外的な儀式ではあっても内的な再生をしるし、もたらすのです。つまり、キリストとその王国は、ただサタンと暗闇の力にだけ対立しています。そして、この王国の国民は、富と地上の事物からの離脱、心の柔和、正義に対する飢え渇きを持つだけでなく、自分を捨て、十字架を担って行かなければならないのです。
キリストは、御自分の御血で教会を贖い取られ、また、人類の罪のために自分自身をいけにえとして捧げられ、常に捧げ続ける司祭なのです。ですから、主の王職は、贖い主と司祭の性格を帯びるのではないでしょうか。
しかし、キリストの王職がそうであるからといって、この世の事柄について、人たるキリストが何の権威もないと考えるのは大きな誤りです。
というのは、キリストは御父から被造物に対する絶対の権利を与えられ、全ての者を意のままにすることがお出来になるからです。それにもかかわらず、この世で生活された間は、主はこの支配権を行使されませんでした。そして、この世の事物を所有したり管理したりすることをあえて望まず、それを所有者に当時も今も委ねておられるのです。「天上の王国を与えるものは、地上の王国を奪おうとされない Non eripit mortalia, qui regna dat caelestia」(御公現の賛歌より)。
こうして、贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ十三世のお言葉によれば「キリストの支配権は、カトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、あるいは、離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見て、やはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権は、キリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のもとに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。
この点では、個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら、人間は、社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。
従って、キリストは、個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私たちが救われる名は、これ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。
キリストはまた、国民一人ひとりや、国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は、別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば、国家とは、多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。
従って、国の為政者は、自分の権威を保ち国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。
教皇位について、私は、法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。
「天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは、支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果、当然、人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会は、もはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅「ウビ・アルカノ」)。
5 その王国から生じる効果
人間が、公私両生活において、一度キリストの王権を認めるならば、信じがたいほどに社会は、真実の自由、秩序と静穏、調和などの恩恵で満たされるのです。例えば、主の主権は、元首や為政者の人間的権威に宗教的な意味を与え、市民の服従の義務を高めるに違いありません。
使徒聖パウロは、妻は夫のうちにキリストを敬い、奴隷は主人のうちにキリストを崇めるように命じましたが、人間として崇めるのではなく、ただキリストの代理者であるから服従するようにと忠告しました。「あなたたちは高く買われたのである。人間の奴隷にはなるな」(コリント前7:23)。なぜなら、キリストによって贖われた人が、人間に服属するということは道理に適っていないからです。
もし、正しく選出された元首や為政者が、支配権は自分のものではなく、天主である王の命令によって、その代理者としてこれを行っているに過ぎないのだという確信に満たされるなら、これらの人たちは必ず、その権威を敬虔に賢明に行使するに違いありません。また、法律を作成しそれを実施するうえにも、共通善と国民の人間的尊厳を忘れることはないでしょう。そうすれば反逆の原因もなくなり、静穏な秩序が確立され、社会が繁栄するでしょう。その場合には、国民が、元首や為政者のうちに、天主であり人であるキリストの姿と権威とを見るようになるのですから、元首や為政者が同じ人間であり、たとえ不適任で非難すべき点があるのが分かっても、それだけの理由で服従を拒むようなことはなくなります。
さらに、一致と平和については、一般に次のことが言えるでしょう。王国が広がり、全人類に及ぶようになれば、人類も一致の絆を一層自覚するようになるに違いないでしょう。この自覚があれば、数々の闘争は予防され、全くその跡を絶ってしまうか、少なくともその過激さはなくなるでしょう。
ですから、もし、キリストの王国が権利として及ぶと同じく、実際にも全ての国民に及ぶようになれば、王たるキリストが、この世にお与えになった平和について失望する理由は全くなくなります。この平和の王は「全ての者を和睦させ」るために「仕えられるためではなく、仕えるために来られ」ました。そして、全ての者の主であられたのに、自ら謙遜の模範を示し、愛の掟に加えて、謙遜の徳を自分の国の第一の法と定められたのです。しかも「私のくびきは快く、私の荷は軽い」と言われました。もし、個人や家庭や国家が、全てその支配をキリストに委ねるなら、非常に大きな幸福を得ることが出来るでしょう。先任者教皇レオ十三世も、25年前、全教会の司教に宛てて次のように言われました。
「万民がキリストの支配権を喜んで受け入れ、それに服し、また『全ての舌が、主イエズス・キリストは父なる天主の光栄のうちにましますことを公言する』(フィリッピ2:11)時のみ、私たちはこの多くの傷を癒すことが出来ましょう。その時こそ、一切の法は昔の権威を取り戻し、平和が回復して、剣と武器は手放されるでしょう」(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。
三、王たるキリストの祝日の制定
全ての人々の上にこれらの祝福が豊かに実り、また、キリスト教的社会のうちにそれがいつまでも続くためには、救い主の王としての尊厳が、出来るだけ広く認められなければなりません。
そのためには、王であるキリストの特別な祝日を設けるのが一番良いでしょう。なぜなら、人々の心に信仰を起こさせ、内的な生活の喜びを感じさせるようにするには、教会のどんな公文書よりも、信仰の奥義を毎年くり返して祝うほうが、効果があるからです。そういう公文書が、信者の中でも比較的学識のある少数の人にしか理解されないのに対して、祝日は全ての信者を励まし教えます。書き教えるのはただ一度だけでしょうが、祝日は毎年、いいえ永久に語り続けるのです。文書は主に知性に働きかけるのみですが、祝日は知性と心、つまり人間全体によい影響を与えるのです。人は肉体と霊魂から成り立っています。従って、目に見える盛大な祝日によって感動させられ、内的刺激を与えられるのです。そして、様々の美しい儀式を通して天主の御教えを一層豊かにくみ入れ、自分のものとし、霊的生活の完成に役立てるようになるでしょう。
1 新しい祝日の制定は珍しくない
時代の流れのうちに、このような祝祭日が、キリストの民の必要に応じて次々と制定されてきたことは歴史が教えています。例えば、信者が一般的な危険にさらされ、これに対抗する力が必要となったとき、あるいは忍び寄る異端の誤りを防ぐため、あるいはまた、信仰の奥義や天主の恵みに対する尊敬を強めるために必要なときなどです。
それで、キリスト教徒がひどく迫害された初代教会の時代に、殉教者に対する信心が行われ始めたのです。聖アウグスチヌスは「殉教者を祝うことが、殉教への励ましとなるためである」と言っています。また後に、証聖者、童貞女、さらに寡婦に対して典礼による祝祭が始められました。これも、各人に必要な徳を、信者が熱心に求めていく上で非常に大きな効果をもたらしました。しかし、それより一層豊かな実りを生じたのは、聖母マリアの種々の祝日を設けたことです。その結果、人々は、天主の御母、身近な代願者に対する信心に大いに成長したばかりでなく、贖い主が十字架から与えた聖母を、自分たちの母として、さらに熱心に愛するようになったのです。聖母マリアや聖人たちに対する、公の正しい信心に由来する多くの祝福のうちでも特に著しいものは、教会が誤謬や異端からいつも完全に守られてきたことです。この点に関する天主の御摂理は、ただ感嘆するほかありません。天主は、悪からでも常に善をお引き出しになります。天主は、人々の信仰や敬虔さが弱められたり、カトリックの真理が、誤った教えによって攻撃されるようなことさえ、たびたびお許しになりました。しかし常にその結果、真理が新しい光を帯びて輝き、人々の信仰や信心は惰眠からさまされ、一段と強くなっていくのです。
比較的近代になって教会暦に入れられた祝日も、同じような理由で起こり、同じような効果をもたらしています。御聖体の秘跡に対する尊敬と信心が冷えてきたとき、御聖体の祝日が設けられました。これは、荘厳な行列やそれに続く八日間の祈りによって、キリストを再び公に礼拝するように人々を促すためでした。また、イエズスの聖心の祝日が設けられたのは、ヤンセニズムの暗さと陰鬱な厳格さに圧倒され、人々の心が冷たくなり、天主の愛と救いの希望を全く失ってしまったときでした。
2 世俗主義に反対してこれを制定する
ですから、全カトリック信者が、キリストを王として崇敬することを私が定めたのも、現代的要求に応えるものであり、同時に、社会を毒しつつある病害に対する特別な薬としたいからです。
現代の病、それは、いわゆる世俗主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間、いろいろな国のうちに隠れていたのです。
そして、いつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったのではありませんか。そのため、教会がその権利をもって人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために、人々を治めることが認められなくなったのです。
そしてついに、キリスト教は誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。
その上、教会は国家の権力の下に置かれ、元首や為政者が、多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちはさらに進んで、天主が啓示された宗教を捨てて、自然宗教、つまり、自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えています。
また、国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では、邪悪と天主とを疎んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。
このような個人および国家のキリストに対する反逆は、たびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。
つまり、このような人々と国々の反逆の結果、広範囲にわたる国家間の激しい敵意や憎しみの不和の種を生じ、あらゆる和合と平和を阻害してきました。また、共通善とか愛国心とかの美名に隠れた、飽くことを知らない欲望や、それによる個人間の争い、あるいは過度の盲目的自己愛などを生じ、人々は自分の安楽と利益のみを求め、全ての物事をそれで測るようになってしまいました。そしてまた、義務を忘れたり軽んずることから家庭の不和が生じ、家庭の一致も安定も弛みました。こうして一言でいえば人間社会は揺らぎ、正に滅びに向かっているのです。
しかし、私は、これから毎年行われる王たるキリストの祝日が、社会をして、愛する救い主に立ち戻らせるだろうという希望を抱いております。
そこで、カトリック信者は、様々の活動や自らの業によって、この復帰を早め準備するように努める義務がありますが、実際に多くの信者は、社会に真理の光を掲げるために、当然持つべき地位も権威も持っていません。こういう悪条件は、恐らく善良な人々の持つ一種の弱さと臆病によるものでしょう。これらの人たちは、反対するのを断念するか、抵抗はしても余り強くはしないのです。従って、この当然の結果として、教会の敵の厚かましさや大胆な計画はさらに力をふるうのです。
ですから、信者が一般に、王たるキリストの旗のもとに勇ましく戦い続けねばならないことを悟るなら、使徒的熱意に燃え上がり、主に背いたり、あるいは主を知らない人々を主と和解させるように努め、主の権利を守るために努力するに違いありません。
確かに、王たるキリストの祝日を毎年全教会で行うことは、世俗主義によりもたらされた社会の諸悪を責め、何らかの方法でそれを癒すのに大いに役立つことでしょう。贖い主のいとも甘美な御名が、国際会議や国会において不当に黙殺されていますから、私たちはそれに対し一層声を大にして主の御名を称え、王としてのキリストの尊厳と権能を広く確認するように努めなければならないのです。
3 その制定の準備
この祝日の制定のために、前世紀末以来、幸いにも準備がよく整えられてきました。ご存じの通り、世界各地で、この信心を裏付けるたくさんの本が種々の言語で書かれ、また、イエズスの聖心への家庭奉献によって、キリストの主権と支配が認められてきました。今や、この美しい習慣に従って、無数の家庭が聖心に奉献されています。家庭だけではありません。都市も国家も、この奉献を実行に移してきました。いいえ、全人類も至聖なる聖心に奉献されたのです。この奉献は、1900年の聖年にあたり、レオ十三世教皇によって行われました。
また、最近頻繁に行われている聖体大会も、人間社会に対するキリストの王権が、荘厳に認められることに大いに寄与しました。聖体大会の際には、各教区、地方、国家さらに全世界の人々が、秘跡のうちに隠れてましますキリストを、こぞって尊敬し礼拝するために集まります。教会で一緒に説教を聞いたり、顕示された御聖体を公に礼拝したり、荘厳な行列を行ったりして、天主から王として与えられたキリストを皆ともに称えるのです。不敬虔な人々は、主が自分のほうにおいでになったとき、受け入れるのを拒みました。しかし、キリスト教徒は今、そのイエズスを教会の沈黙の隠れ家からお連れして、歓呼のうちに町を歩み、全ての王的権能を再び主のものにしようとしています。これは、天主から来る一つの息吹によるものと言えましょう。
これらの計画を完成するために、まさに終わろうとしている聖年は、この上ない機会となりました。というのは、この聖年の間、憐れみに富まれる天主は、信者の知性と心に、あらゆる理解を超える天の祝福への招きと、成聖の聖寵を再び与え、またより高い賜物を望む新たな刺激を起こして、正しい道を歩み続けるように強めて下さったからです。私に宛てられた数々の願いを見て、あるいはこの聖年に行われた様々なことを顧みるにつけても、キリストを全人類の王として祝う、特別な祝日を定める喜ばしい時がついにやってきたと考えられます。最初に述べたように、全ての聖人のうちで感嘆されているこの王は、今年地上でも光輝溢れる御稜威(みいつ)を称えられました。それは、この王の軍隊の一部が、新たに聖人の列に加えられたからです。また、人々が、展覧会の出品物から、御国を発展させるための宣教師たちの事業や苦労を眺め、それらによってもたらされたキリストの勝利に感嘆したのも、やはり今年でした。そして今年はまた、ニケア公会議1600周年を荘厳に祝うことによって、キリストの王国の基礎である<人となられた御言葉>と御父との同一本質(consubstantialitatem)が決議されたことを新たに記念しました。
そこで、私はここに王である私たちの主イエズス・キリストの祝日を設け、毎年、十月の最後の日曜日、すなわち諸聖人の祝日のすぐ前の主日に、全世界でこの祝日が祝われるように定めます。前任者ピオ十世が、毎年更新することを命じた、至聖なるイエズスの聖心に対する全人類の奉献の更新も、毎年この日に行うように定めます。しかし、今年に限り、それは今月31日に行います。なお当日、王たるキリストの誉れのため、私は教皇ミサを挙行し、その奉献が私の前で行われるようにします。
この聖年を閉じるにあたり、永久不滅の王であるキリストに私の心からの感謝を表すのに、これ以上ふさわしい方法はないと思います。この機会に、私は全カトリック信者と共に、この聖年の間、教会、全カトリック信者に注がれた聖寵に対して、私自身感謝の念を表したいと思います。
4 その制定の動機
ところで、キリストの王としての権威を間接に示し祝う祝日が他にもあるのに、どうしてこれとは別に、王たるキリストの祝日を制定したかということは、今さら説明する必要もないと思います。これについては、ただ一つのことに注意すれば十分でしょう。すなわち、今までの主の祝日は、全部その礼拝の対象、いわば素材的対象(対象そのもの)はキリストのペルソナですが、形相的対象(観点)は、キリストの王権と王の称号ではありませんでした。
私がその祝日を日曜日にしたのは、ただ聖職者のみが、ミサ聖祭や聖務日課によって礼拝を捧げるのではなく、信者たちも参加することが出来るようにするために他なりません。日曜日ならば、信者たちは日々の仕事から解放され、聖なる喜びの精神をもって、キリストに対する服従を公に表明することが出来るからです。また他の面でも、十月の最終の日曜日は、この目的のために最も適した日ではないかと思います。なぜなら、その日が典礼暦の終わりに近いので、その一年を通じて記念された、キリストの御生涯の数々の玄義の上に、あたかも光栄の冠を戴かせるのが、この王たるキリストの祝日ということになるからです。それにまた、諸聖人の光栄を祝う前に、聖人として選ばれた全ての人々のうちに、勝利を占めるキリストの光栄を宣言し、称揚することにもなるからです。
尊敬する司教の皆様、そこで毎年この祝日の前に、各小教区で何日か特別に説教が行われるように配慮して下さい。これはあなたたちの義務です。そうすれば信者たちも、その祝日の性質、意味、また重要性を聞いてはっきり分かり、天主である王の支配に、忠実と熱誠を捧げるものにふさわしく自分の生活を律し、整えることが出来るでしょう。
5 その祝日から生じる効果
尊敬する皆様、私は今この書簡を結ぶにあたって、王であるキリストに対する公の崇敬から期待される教会と社会とに対する効果、個人に施される恵みを簡単に列挙してみたいと思います。
まずこのように、キリストの主権に誉れを帰するならば、人々はキリストによって完全な社会として創立された教会が、本来持つ権利をどうしても思い出さずにはいられないのです。放棄してはならないこの権利によって、キリストの王国に属する天主から託された人々を支配し、永遠の幸福へ教え導く使命を果たすために、教会は、国家権力から完全な自由と独立を要求します。教会はこの使命のために、いかなる他の権力にも服してはならないのです。
また、国家は、同様の自由を男女両修道会にも与えなければなりません。これら修道会は、司教たちの有力な助け手となってキリストの王国を広げ、確立するために大きな働きをしています。というのは、修道者たちは、聖なる三つの誓願をもって、この世の三つの欲望と戦い、一層完全な生活を公言することによって、天主なる創立者が教会の印とされたあの聖性が、絶えず人々の前に輝きを増し、認められるように力を尽くしているからです。
毎年くり返されるこの祝日は、個人と同様に、政府も為政者も、キリストに対して公の誉れと服従を示さねばならないことを、全ての国々に思い出させるでしょう。そして、人々は最後の審判のことを思い、公の生活から締め出され、軽蔑され無視されたキリストが、どれほど厳しくその不正を責めるかということも考えるに相違ありません。
キリストの王としての権威は、全ての国家が、天主の掟とキリスト教の原則に従い、それによって法を作成し、裁判を行い、青少年には健全な知識と道徳を教えるのを要求する以上、それは当然なのです。
その上、信者はこれらの真理を黙想することによって、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを受けるでしょう。というのは、私たちの能力は、主の支配から除外されているものは一つもないからです。そのことは、次の三つの理由によってはっきり分かるでしょう。
私たちの主キリストには、
(1)天と地の全ての権能が授けられ、そして
(2)その高価な御血によって贖われた全人類は、新たにキリストの権威のもとに置かれ、また
(3)その権能は全人類を含んでいるのですから、
私たちが、キリストの王権から逃れてならないのは明らかでしょう。
従って、キリストが人間の知性を支配するのはふさわしいことです。それで、人間の知性は、謙遜に啓示された真理と、キリストのみ教えに完全に従い、これを奉じなければなりません。
そしてまた、キリストが意志をも支配するのはふさわしいことです。意志は、天主の法と掟に従わねばなりません。
さらにまた、キリストは心の王でもなければなりません。従って、心のなすべきことは、本能的な要望を捨てて、全てに越えて天主を愛し、天主だけを追い求めることです。
また、手足と身体においても、キリストを王としなければなりません。それらは道具であり、使徒パウロの言うように「天主のために正義の武器となって」(ローマ6:13)、霊魂の内的聖化のために仕えなければならないからです。
信者が、これらの真理をよく考え、よく悟るようにすれば、人々は、もっと容易に完徳に向かって進むでしょう。それで、未信者たちが、自分の救いのために、キリストの甘美なくびきを求めてこれを受け入れるように、また、天主の憐れみによって信者となった私たちも、そのくびきを不承不承耐えるのではなく、かえって、望みと愛と信心を持って担うように、私は切に願っています。そして、私たちが、天主の王国の法と一致した生活を営み、その実りを溢れるばかりに受け、キリストによって忠実な良い僕のうちに数えられ、天上の王国において、キリストと共に永遠の幸いと栄光に与ることが出来ますように、私は切望しています。
主イエズス・キリストの御降誕の大祝日が、間近に迫っているこの時にあたり、尊敬する皆様、この書簡を父の愛の印として受け取り、天主の恵みをもたらす教皇の祝福をお受け下さい。私はこの祝福を愛の心をもって、聖職者の皆様、ならびに信者の皆様に送ります。
聖年の1925年12月11日
ローマ、バチカン宮殿において 教皇在位四年目
ピオ十一世教皇