ピオ十一世回勅 アド・カトリチ・サチェルドチイ・ファスチジウム
ピオ十一世回勅
アド・カトリチ・サチェルドチイ・ファスチジウム Ad Catholici Sacerdotii Fastigium
1935年12月20日
ローマ聖座と平和と一致とを保つ尊敬すべき兄弟なる総主教、首席司教、大司教、司教、その他の教区長へ
――「カトリック司祭職について」
教皇ピオ十一世
尊敬すべき兄弟たちよ 挨拶と教皇掩祝とをおくります
序
司祭職に対する教皇聖下の特別の愛
1 カトリック司祭職の最高の頂に (Ad catholici sacerdoti fastigium) 天主のみ摂理のくすしきご計画によってあげられてよりこのかた、 私は、きわめて愛のこもった懇切な注意を司祭らの上にそそぎ続けてきました。彼らは、私にゆだねられた数知れぬ子らの中にあって、司祭の印をおび「地の塩、世の光」(マテオ5・13-14)たるべき使命を負っている人々であります。また、私は特に、至聖所のかげで、この偉大な使命にそなえて教育されつつある神学生に対して、きわめて慈愛にみちた配慮を絶えず注いできました。
今までに、司祭に対して示された種種のご配慮の証拠
2 教皇の位につくや、全カトリック界に向けて、公のメッセージを送るにも先立って、(回勅Ubi arcano Dei consilio 1922年12月23日付)すでに私は、1922年8月1日付、研学聖省長官枢機卿あての書簡オフイチオルム・オムニウム(Officiorum omnium, A.A.S. vol. XIV (d. 1 aug. 1922), pp. 449 sqq.) をもって、神学生の司祭職への養成を立脚させるべき指針を規定するよう心を砕いたのであります。
また、司教上の配慮が、聖会の利益及び必要を格別に考慮することを迫るたびに、私の注意は、他のすべてに先立って、司祭と神学生の方にと向かうのであります。ご承知のとおり、彼らは、私の絶え間ない心遣いの対象であります。
3 私が、これを欠いていた地方に新たに創設した神学校、あるいは狭隘(きょうあい)な神学校に多大な費用を惜しまず、増築を施したり、その目的によりふさわしく叶いうるよう、適当な人員、資材を施して設備を整えた多数の神学校こそ、私が聖職者に対して抱く関心の雄弁な証拠であります。
4 その上、私の司祭叙階金祝に際して、この幸ある記念を盛大に祝うことに同意したのも、また世界各地からもたらされた孝愛の情の表示を、慈父の愛をもって、嘉納したのも、この祝典を、私自身に対する敬意としてとるよりも、これを司祭職ならびにその尊厳に対する正当な称揚とみなしたからに外なりません。
また同じく、1931年5月24日付の教皇教令、デウス・シエンチアルム・ドミヌス(Deus scientiarum Dominus, A.A.S. vol. XXIII (1931), pp. 241 sqq.)をもって、教会の大学の学制の改革を発布したのも、司祭の教養と学識をますます増加させることを、第一の目的として行なったのであります。
本回勅の発布が、時宜にかなっていること
5 かし、この主題は、きわめて大切なものでありますから、この回勅の中でことさら取り立ててこれを論ずるのも、時宜にかなったことと思われます。それは、すでに信仰というはかりしれない賜物を所有している人ばかりでなく、真直な、誠実な心をもって、真理を求めているすべての人々にとっても、カトリック司祭職の崇高さと、摂理的に世界を益するその使命とを知らせる機会を、供しようとしてのことであります。特に、私が望んでやまないことは、天よりの招きによって、ここに召された者らが、ここに述べる教えを深く黙想することであります。
6さらにこの主題は、ローマの町から全カトリック界にわたって繰りひろげられた、救世の大業の記念祝典(ユビレウム)であると共に、私が教皇教令、クオド・ヌペル (Quod nuper)の中で述べたように、司祭職制定1900周年を記念する臨時聖年にもあたるこの1935年の終わりに、特にふさわしい主題であります。(A. A. S. vol. XXV (1933), pp. 5-10) しかも、この記念祝典の終幕を飾って、ルルドにおいては、無原罪の聖母のいと清き光に照らされて、あらゆる国語、あらゆる典礼様式(リトゥス)を用いるカトリック司祭が相会し熱烈な連続三日間にわたるエウカリスチカ・スプリカチオ(Eucharistica supplicatio)が行なわれましたし、この救世のみ業の役者である私の敬愛する司祭たちは、かつてなく活発に、また効果的に活躍したのであります。
これに先立つ教皇聖下の諸教訓と関連して
7 その上、本回勅は、近代生活に付随するもっとも深刻な諸問題の上に、カトリック教説の光を投じようとして、先に公にした諸回勅とも調和よく関連しているのであります。そして、この回勅は、先に発表したこれらの公式の教えを完成し、大成するものであると思います。
8 実際、司祭は、召出しと天主のご命令とによって、青少年のキリスト教的教育の、主要な使徒であり疲れを知らない主唱者であります。(回勅ディビニ・イリウス・マジストリ 1926年12月31日付)司祭は、天主のみ名によって、キリスト教的婚姻を祝し、貪欲及び肉欲によって示唆される侵犯及び逸脱に対して、婚姻の聖性と不解消性とを擁護するのであります。(回勅カスティ・コンヌビィ 1930年12月31日付)司祭は、キリスト教的兄弟愛を説きつつ、万人に福音的正義と愛徳の相互の義務を思い出させることにより、また貧しい者にも富んでいる者にも、万人が全力をつくしてあこがれるべき、真の宝をきし示して、道德的、経済的不如意によって、いらだっている人心を和らげるように努力することにより、社会闘争の解決または少なくともその緩和に、もっとも好ましい貢献をもたらすのであります。(回勅クァドゥラジェジモ・アンノ 1931年5月15日付)最後に司祭は、歴史が前例にまれなほど、天主の御憐みと御赦しとを必要としているこの時、現在人類の名誉を毀損しつつある無数の冒瀆、醜行、罪悪を償うため、すべての善意の人々を招いてやまない、あの贖罪と償いの十字架のもっとも有力な先ぶれであり、激励者であります。(回勅カリタテ・クリスチ 1932年5月3日付)
9 そして聖会の敵らも、司祭職のもつ根本的重要性をよく知っているのであります。――すでに、愛するメキシコのために慨嘆したとおり(回勅アチェルバ・アニミ Acerba animi 1932年9月29日付)――聖会の敵が、最大の攻撃を向けるのは、司祭職に対してであります。それは、社会から司祭職を削除することにより、カトリック的生活の完全な破壊への道を開くためであります。しかし、この目的は、いくら彼らが執拗に望んだとしても、決して得られないに違いないのであります。
第一部
カトリック司祭職の性質と偉大さ
司祭職の観念
――異教宗教において
10人類は絶えず、司祭をもつことの必要を体験してきました。司祭とは、すなわち公に天主と人との間の仲介者(conciliatores)として立てられた人々であり、永遠の天主(aeternum Numen)に関することを一生の仕事として、社会の名において、公の祈りと犠牲とを天主に捧げるために選ばれた人々であります。実際、社会は、天主に対して公の社会的礼拝をなすべき義務、また天主の中に、最高の主、第一原因を認め、その究極の目的として これに向かうべき義務、さらに、絶えず天主に感謝し、そのみ助けを求むべき義務をもっているのであります。事実、私たちが、その慣習を知っているあらゆる国民の中には、人間性のもっとも神聖な法則に反して、行動するよう強制されていないかぎり、もちろん大ていは、偽神に仕えるものであるとしても、祭司が見出されるのであります。さらに、何らかの宗教が奉じられ、祭壇が築かれているところには、必ず特別の栄誉と尊敬の印に囲まれた司祭職が存するのであります。
――天啓教において
11しかし、天啓の光の下では、司祭は、より崇高な位をおびているのであります。それは、聖パウロがイエズス・キリストご自身とその司祭職の象徴とした祭司であり、王であったメルキセデク(創14・ 18参照)によって、すでに神秘的に前表されているのであります。(ヘブレオ5・10、6・19、7・1、2、10、15参照)
12聖パウロのうるわしい定義にしたがえば、司祭は「人間の中から悪ばれex hominibus assumptus、天主に関することについで、人間のために任命されたもの pro hominibus constituitur in his quae sunt ad Deum」(ヘブレオ5・1)であります。その務は、それが一見、どれほど尊重すべきものと思われるものであっても、人間的、一時的のものを対象とせず、天主的、永遠のものを対象としているのであります。人は無知から、これらのものをあざけり、侮ることができます。また悪意と悪魔的憤怒によって――悲しい経験がこれを証し、また今日も証しつつあるとおり――これを妨げることもあります。しかし、天主の中にしか想いを見出し得ぬことを告白せざるを得ないほど、自分が天主のために造られていると、不可抗的に感じている人類の個人的また社会的憧憬の中で、この永遠、天主的な事物は、常に第一位を占めているのであります。
キリスト教司祭職の前表である旧約の司祭職
13 旧約聖書の中では、天主の霊感のもとに、モイゼが発布した実定法によって制定された司祭職に、種々の義務、役割、定まった儀式などが割り当てられています。天主は、今なお原始的なヘブレオ民族の心に、選民のあらゆる歴史上の出来事、法規、位、制度などの上に、あまねくその光を放つ、偉大な一つの中心思想を刻み込むことをみ心にかけられたかのように思われます。すなわち、それは犠牲とそしてこれと共に、司祭職が何よりもまず――万人に共通するメシヤの期待において――希望と光栄と力と解放の原因とも源ともなるために(ヘブレオ11章参照)存するのであるという思想であります。 豪華な飾りによって、否さらに、その規則と儀式とによって、感嘆すべきサロモンの神殿は 地上における天主の幕屋として建立されたばかりでなく、この犠牲と司祭職の偉大さを公に証明するものとして建てられたのであります。この犠牲も、司祭職も末だ影にすぎず、象徴にすぎませんでしたがそれでもやはり、征服者大アレキサンドルをして、大司祭の宗教的容姿の前に身をかがませたほどの (ヨゼフ・フラビウス、古代史第11巻8章の5)また天主ご自身、饗宴に際し、神殿の聖器を乱用して瀆したかどで、不敵者バルタザル王に怒りを発せられたほどの(ダニエル5・1~30参照)かなり偉大な神秘をやどしていたのであります。
14 とはいえ、この旧約の司祭職は、それが、イエズス・キリストによって与えられ、真の人、真の天主にて在す御者の聖血によって固められた、新しき永遠の契約の司祭職の前表であったという事実からのみ、その尊厳と栄光とを得ていたのであります。
キリスト教司祭職
15 異邦人の使徒は、キリスト教司祭職の偉大さ、及びこれがもつ尊厳と義務についていいうるすべてのことを、この簡潔な一句の中に要約して、「我々を、キリストの僕、また天主の奥義の管理者だと皆は考えよSic nos existimet homo Ut ministros Christi et dispensatores mysteriorum Dei 」(コリント前4・1)と書き記しています。
一、司祭は、キリストの権能の保有者であること
16 司祭は、イエズス・キリストの役者であります。したがって、司祭は、天主的効力をもって、人類をあまねく新たにし、これをより崇高な生命へと高める感すべきみ業を、代々を通じて継続するため に、天主なる救主のみ手の中におかれた道具であります。その上、いみじくもいい慣らされているとおり、司祭は真に、「いまひとりのキリスト」であります。なぜなら司祭は、イエズス・キリストご自身の代理者であるからであります。「父が私をおおくりになったように、私もあなたたちをおくる」(ヨハネ20・21)彼らの師が、天使らの声をかりて歌われたように、司祭もまた、「いと高きところには天主に栄光、地には善意の人々に平和」(ルカ2・14)をあらしめるのであります。
司祭職の制定
17 トレント会会議が教えているとおり(第22総会の1)イエズス・キリストは、最後の晩餐の間に、新約の犠牲と司祭職を制定されました。「イエズスは、永遠の救世のみ業を行なうため、十字架の祭壇の上のご死去によって、まさに御父なる天主に、ご自身を献げようとしておられながら、しかし、その司祭職は、ご死去と共に断絶すべきものではありませんでしたので(ヘプレオ7・24参照) 裏切られ給うた夜(コリント前11・23参照)、私たちの天主なる主は、最後の晩餐の席上、至愛の浄配なる聖会に、 今まさに十字架上で成就されようとしている有血の犠牲の再現となるべき――人間の本性にかなった――可見の犠牲を残そうと思召されたのであります。聖主はこの思い出がこの世の終わりまで残り(コリント前11・24以下参照)、その効果が、日々私たちの犯す多くの罪の敵しに適用されることを欲し給い、ご自分をメルキセデクの系列をひく、永遠の司祭である(詩編109・4参照)と宣言されつつ、バンとぶどう酒の形色の下に、御体と御血とを、御父なる天主に捧げ給うたのであります。聖主はそのとき新約の司祭に立て給うた使徒らに向かい、これを取るようにと差し出され、彼らと司祭職における彼らの後継者に向かい、「私の記念として、これを行いなさい」(ルカ22・19、コリント前11・24)というみ言葉によって、これを捧げることをお命じになったのであります。
イエズス・キリストの御体そのものに対してもつ司祭の権能、聖体の秘跡
18 その時から、使徒と司祭職におけるその後継者とは、このマラキアによって予め告げられた「けがれない捧げもの」(マラキア1・11)を、天に向かって奉挙し始めました。この捧げものによって、天主のみ名は、国の間に大なるものとなり、それ以来、この犠牲は、世の終わりまで恒久的に、地上のあらゆる場所において、昼夜を分かたず継続して捧げられることとなったのであります。
19 これは、天主なる生贄(いけにえ)の真の犠牲であって、単なる象徴ではありません。ここには、罪によって御稜威を傷つけられ給うた天主と人類を和睦させる、ある現実の効力がひそんでいるのであります。「なぜなら、この捧げものによって、なだめられ給うた聖主は、痛悔の恩恵と賜物とを賜わり、それが、いかにかぎりないものであろうと、すべての罪と罪過とをゆるされる」(トレント公会議第22総会2)からに外なりません。
20 同じ公会議は、その理由を次のように述べています。「生贄は同一であります。今司祭の聖役をとおして捧げ給うものは、かの時、十字架の上でご自分を捧げ給うた御者であります。違うのは捧げ方だけであります」(同右)ここにおいて、筆舌につくせないカトリック司祭職の偉大さが、判然としてくるのであります。カトリック司祭は、イエズス・キリストの御体そのものに対して権能をもち、これを祭壇の上に奇跡的に現存させ、救主キリストのみ名によって、天主の永遠の御稜威に、限りなく御心にかなうオスチアを捧げるのであります。「ああ、何と驚くべきことよ!感嘆し、全く唖然たらざるを得ないことよ!」(金口聖ヨハネ司祭職について P.G. XLVIII. 642) と金口聖ヨハネ司祭がいっているのも当然のことであります。
神秘体の上にもつ権能、信者の生活と秘跡による司祭の関係
21 司祭は、キリストの真の御体に対して行使するこの権能に加えて、キリストの神秘体である聖会に対して、崇高な、また広範な権威を授かっています。敬愛する兄弟たちよ、ここで、聖パウロがあれほど愛していた、この美しいイエズス・キリストの神秘体の教義を詳しく述べる必要はないと思いま す。この教義は、人となり給うた聖言の天主的位格(ペルソナ)と彼が兄弟として、ご自分に結合され、ご自分の超自然的生命に与らせ給うすべての人々が、共にキリストを頭として、一つの体を形成していると私たちに教えています。ところで、司祭は、イエズス・キリストの神秘体の肢のために「天主の奥義の管理者」(コリント前4・1)として立てられているのであります。なぜなら司祭は、ほとんどすべての秘跡の役者であるからであります。この秘跡という運河をとおして、救主キリストの恩恵は、全人類に注がれるのであります。
キリスト者は、この地上の生涯をとおして、そのもっとも重大な時に、必ずおのが傍らに、天主的生命の超自然的源泉である、この同じ恩恵を、天主から受けた能権をもって伝え、あるいは増させようとして、立っている司祭を見出すのであります。
22 彼が、この世の生命に生まれ出るやいなや、司祭は、これを洗礼の水で清め、超自然的生命というさらに貴重な、また崇高な生命に生まれ変わらせ、これを天主と聖会の子とするのであります。霊的戦場で勇敢に戦うよう、彼を準備させ、強めるために、特別の位階をおびた司祭は、これを堅振の秘跡によって、キリストの兵士とするのであります。幼児が、天よりくだった天使のパンをわきまえ、これを味わいうるようになるや、司祭は、彼に生きたまた生かす糧として、これを与えるのです。 彼が倒れるや、司祭は、告解の秘跡によって、これを立ち上がらせ、天主のみ名とその権威によって、これを強健にします。もしも家庭を築き、地上の信者と天国の選民の数を増すために、世界における人間生命の伝達にご自分に協力し奉るよう、天主が彼を招き給うのなら、司祭は、聖会の正当な証人とし て、そこにあって、その婚姻と貞淑な愛を祝すのであります。最後に、この世の生活の終わりにたどりついた信者が、天主の御裁きの庭に出る前に、力と勇気を必要としているときには、司祭は、臨終者の痛む肢体の上に、身をかがめて、終油によって、新たにこれを清め、また強めるのであります。こうして、永遠の門辺まで、地上の遍歴をとおして、信者に伴った上、司祭は、永遠の生命の希望にあふれる規定の祈りを唱えつつ、墓場にまで、その屍に伴っていくのであります。そればかりか、司祭は、永遠に入った信者をも見捨てず、もしや、いまなお清められ、和らげられる必要がありはせぬかと、彼らのために代願の祈りを唱えるのであります。かく、揺籃(ようらん)から墓場まで、いなむしろ天国の幸にまで、司祭は絶えず信者の傍らにあって、誤りない旅の道案内、慰めと救いの役者、天主の恩恵の分配者なのであります。
……特に告解の秘跡の聖役をとおして
23 しかし、キリストの神秘体を益するため、司祭に与えられた、これらのすべての機能の中で、この「簡単な育及をもってしては満足できない、一つの機能があります。それは、金口聖ヨハネがいっているように、「天主が、天使にも、大天使にも与え給わなかった機能」(金口聖ヨハネ、司祭職について第3巻の5」すなわち罪をゆるす機能であります。「あなたたちが罪をゆるす人には、その罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人は、その罪がゆるされないであろう。」(ヨハネ20・23) 天主にのみふさわしい、何と恐るべき機能でありましょうか。人間の傲慢さえが、これが人間に与えられるとは承認し得ないのであります。「天主御一人以外に、罪をゆるし得るものはない!」(マルコ2・7)
24 そして、これが司祭の位を帯びた人間によって行使されるのを見て、ファリザイ人のようではなく尊敬にみちた驚がくによって、「罪さえもゆるすこの人は何者か?」(ルカ7・49)と繰り返さざるを得ないのであります。
しかし、「地上で罪をゆるす権威を有し給う」(ルカ5・24) 天主であり同時に人であるイエズス(homo Deusque Christus)は、天主的憐みと寛大さをもって、全人類の良心を苦しめる、浄化の要求をみたすために、この機能をその司祭らに伝えようと思し召されたのであります。
25 良心の呵責と痛悔の情にせめさいなまれる罪ある人間にとって、天主のみ名によって、「我、汝の罪をゆるす!」という司祭の信仰の言葉を聞くのは、何という慰めでありましょうか。そして、この信仰の言葉を、自分自身他の司祭から同じ言葉を聞くことを必要としているひとりの人間から聞くということは、この御憐みの賜物の価値を下げぬばかりか、かえってこれを人々の目により偉大なものと映すのであります。なぜなら、これによって、人間の手の彼方にこの不思議を行ない給う天主のみ手そのものを、よりよくかいま見ることができるからであります。それゆえ、聖なる事柄をも、平信者にはまれにみる鋭才をもって論ずる、ある有名な著者の言葉をかりれば「ひとりの司祭が、自分の不肖さとその職責の崇高さとを思いめぐらしつつ、心の中でふるえおののきながら、私たちの頭上に、その聖別された手を置くとき、あるいは、自分が契約の聖血の分配者であることに恥じ入り、また生命を与える言葉を口にする度に驚きつつ、罪人である彼が、私たち罪人をゆるしたとき、私たちは、彼の 足許から立ち上がりつつ、卑劣な行為をしたとは思いません。私たちがひざまずいたのは、イエズス・キリストの代理をつとめるひとりの人間の足許であります。そこで自由な天主の子の資格を得るために、その足許にひざまずいていたのであります。」(マンツォーニ 「カトリック道徳についての考察Osservazioni sulla morale catolica」第18章)
司祭の印章と叙階の恩恵
26 特別の秘跡によって、司祭に授けられたこれらの権能は、司祭の中にほんの束の間、一時的に止まるのではなく、恒久的不変に存するのであります。なぜなら、これらの権能は、その根源を、彼の霊魂に刻まれた消すことのできない印章の中にもっているからであります。これにより、彼は、その司祭職に参与する御者に似て、「永遠の司祭」(詩編109・4)となったのであります。司祭はこの印章を、人間の弱さによって、彼が陥りうるもっとも嘆かわしい迷いの中にあってさえ、決してその霊魂から 消し去ることはできないのであります。
しかし、この印章と前述した崇高な諸機能と共に、司祭は、叙階の秘跡によって、新しい特別な恩恵と特殊の助力とを受けるのであります。このような助けに支えられ――しかし彼の自由な個人的協力が、忠実に恩恵そのものの天主的に力強い御働きを助けるということを条件として――司祭は、その聖役の困難な義務を落胆することなく、ふさわしく果たすことができるでありましょう。司祭はこうして、金口ヨハネ、アンブロジオ、大グレゴリオ、カロロ・ボロメオその他多くのキリスト教司祭職の最強の斗士らをさえ、あれほどおののかせた、このもっとも重い責任を負うことが可能となるでありましょう。
二、聖会の名によって、司祭は、天主のみ言葉の役者であること
27 しかし、カトリック司祭はまた「だから、あなたたちは諸国に弟子をつくりに行き……私があなたたちに命じたこととすべで守るように教えなさい」(マテオ28・19、20)と救主キリストご自身が課せられた、ゆるがせにすることのできない義務であると同時に、他人に譲渡できない権利でもある」この「み言葉の宣教」(使徒6・4)によってもまた、キリストの役者であり、天主の奥義の分配者(コリント前4・1参照)であるのであります。天主の啓示の受託者であり、無謬の守護者であるイエズス・キリストの聖会は、その司祭らの聖役をとおして、「この世に来るすべての人を照らす真の光。」(ヨハネ 1・9)なる御者を説きつつ、あらゆるところに、天的真理の宝をあまねく施すのであります。聖会は世俗の目には小さく、蔑ろにされるものでありながら、からし種(マテオ・13・31、32参照)を、天主的な惜気なさをもって、まき続けていくのです。この種は、誠実で真理にかわいている霊魂たちの中に、深く根をはり、これを丈夫な大木のように、どんなに激しい嵐にも耐えうるものとする力を、おのがうちに宿しています。
説教の必要なこと
28 あらゆる法規、あらゆる制約から、これを脱せしめる誤った自由に酔った人間思想が生んだ大混乱の中にあって、また人間の悪意の恐るべき退廃のただ中にあって、天主の聖会は、暗夜に航路を指し示す明るい燈台のようにそびえ立っています。聖会は、真理よりの一切の左折、右折をとがめ、万人にそしてひとりひとりに、たどるべき正しい道を指し示します。この燈台が消えそうになったとはいわないまでも――このようなことは、その上に聖会が立っている不謬の御約束によって、不可能なことでありますから――その慈光を広く放つことをさえぎられるようになったとすれば、何と不幸なことでありましょう! 私たちは、すでに傲慢にも、天主の啓示を捨てて、たといそれが科学という特別の名目のもとであったとしても、誤った哲学と倫理学の学説にしたがった人類が、どこにたどりついたかを、この目で見ているのであります。そして誤謬と悪の急坂にあって、人々がこれ以上堕落していないとすれば、それはひとえに世界に広く流布しているキリスト教的真理の教えに負っているのであります。
ところで聖会は、その「み言葉の聖役」を教階制のあらゆる階級に分かたれた司祭らをとおして、 行うのであります。聖会は、世界中いたるところに、この疲れを知らぬ真理の伝達者を派遣するのです。この福音の伝達者を外にして、真の文化を伝え、またこれをいつまでも生きた文化として保ちうるものはありません。
29 司祭の言葉は、すべての心に注がれ、そこに光と慰めとをもたらします。情欲の渦巻く中にあってさえ、司祭の言葉は、穏やかに語られ、善徳をすすめ、恐れなしに真理を告げるのであります。すなわちそれは、人間生活のもっとも重大な諸問題を照らし、これを解決する真理であり、いかなる不幸、死さえもが、これをとり去ることのできない、むしろ死が、これを確実な不滅なものとする善徳であります。
教えるべき真理
30 司祭が聖役の義務を忠実に果たすため、よりひんぱんに教えこむべき一つ一つの真理を思いめぐらしそれに内在する力を考えてみるならば、道徳の高揚、人心の和解と平和のために、司祭の影響が、どれほど偉大であると同時に有益であるかが、理解されるのであります。司祭は、特に富者にも貧者にも、現世のはかなさ、地上の宝の空しさ、不滅の霊魂にとっての霊的財宝の価値、不朽不謬の御目をもって、すべての人の心をさぐり、「各自の行ないによって報いを与えるだろう」(マテオ16・27)永遠の審判者の判決のきびしさなどを思い起こさせます。この享楽への熱病的渴望をしずめ、今日かくも多くの霊魂を堕落させ、社会の相異なる階級を相互の協力によって助け合わせる代わりに、敵対へとおしやるこの地上の財宝への放縦な渇望をしずめるには、以上の教えや、これに似た外の教えほど、ふさわしいものはないのであります。互に傷つけ合っているこれほど多くの利巳主義と互いに燃やし合っているこれほど多くの憎しみの最中にあり、かくも多くの暗澹たる復讐の企ての中にあって、
イエズス・キリストの「新しい掟」(ヨハネ13・34)、すなわち国境も人種の差別も知らず、敵をさえ除外しない普遍的愛徳の掟を説く以上に、時宣に適した、効果的なものは外にないのであります。
司祭の言葉がもつ教済的効力について
31 すでに二十世紀の星霜を経た、ある光栄にみちた経験が、司祭の教えがもつ救済的効力をあますところなく明示しています。すなわち司祭の教えは、あの「生きているもの、行うものであり両刃の劔よりも鋭い天主のみ言葉」(ヘプレオ4・12)の忠実なこだまとして「霊魂と精神の境を切り分けてとおり」 (同右)あらゆるところに、英雄的行為を出現させ、物惜しみしない寛大な人々を、活動へとそそるのであります。
32 キリスト教文明が世界にもたらしたすべての恩恵は、少なくともその発端を、カトリック司祭の言葉と活動に負っているのであります。かかる過去は、たとえこれに加えて、キリストの不謬の御約束の中に、「なお堅くされた言葉」(ベトロ後1・19参照)をもっていないとしても、それ自体、将来に対する信頼を与えるに足るものでありましょう。
33 天主的力によって、聖会に与えられた発展力を、これほど明らかにあらわす布教事業もまた、主として無数の犠牲の値をはらって、地上に天主の国を広げる信仰と愛徳の開拓者なる司祭によって、指導され、運営されるのであります。
三、司祭は、祈りの人であること
34 最後に、「終夜、天主に祈られ」(ルカ6・12)、「人のために取り次ごうとして、常に生き給う」(ヘブレオ7・25) キリストの使命を、今なお継続する司祭は、天主のみ前で、公の人類の仲介者たる務を帯びているのであります。司祭は、聖会の名によって、天主に祭壇上の真の犠牲を捧げるばかりでなく、公の公式の祈りによって、「賛美の犠牲」(詩篇49・14)をも捧げる務を委任されているのです。詩編や、その大半を聖書から借りた祈りと賛歌を使って、司祭は、日に何回か、聖主に対して果たすべき礼拝の貢を払い、今日未曾有の試練にあって、天主のみ助けを必要としている人類のために不可欠の、代願の義務を果たすのであります。司祭の祈りが、どれほどの罰を、瀆聖者人類から遠ざけ、彼らのために、どれほどの恵をかちえているか、これを語りうるものがありましょうか?(マテオ7・7~11、マルコ11・24、ルカ21・9~13参照)
35 個人的祈りさえ、イエズス・キリストが、これに対してなされた、すばらしくも荘重な天主的約束をもっているとすれば、救世主の至愛の浄配なる聖会の名によって唱える義務のある祈りは、一体どれほどの力をもっていることでしょう? 順境にあっては、あまりにもしばしば天主を忘れる者であっても、信者は、霊魂の奥底に、祈りのもつ全能力に対する信頼を本能的に保っているものです。信者は、生涯のあらゆる出来事に際して、また公私の危険に際して、司祭の祈りに助けを求めます。あらゆる種類の不幸に悩む人が、司祭の祈りに慰めを求め、この逐謫の有為転変のさ中にあって、人は司祭の祈りに、天主のみ助けをこい求めるのであります。真に「司祭は、天主と人間との間に置かれて、 私たちに天主よりの賜物を伝え、私たちの祈りを天主のもとにたずさえ、聖主の御怒りをなだめるのであります。」(金口聖ヨハネ イザヤ書注解5)
36 その上、冒頭から指摘してきたとおり、聖会の敵までが、聖会とその司祭らを結ぶきずなが、いかに密接なものであるかを、完全に知り尽くして、そのもっとも恐るべき第一撃を司祭らに向けることによって、彼らなりに、カトリック司祭職の尊厳と重要性を、ことごとく感知していることを示しているのであります。今日カトリック司祭職の最強の敵は、同時に天主そのものの敵対者であります。またこのことこそ、司祭を最大の栄誉と尊敬に値するものとするのであります。
第二部 司祭的諸徳
一、司祭的聖徳の必要
37 ゆえに、敬愛する兄弟たちよ、司祭の位は、きわめて崇高なものであります。いく人かの不肖の司祭がもつ、人間的弱点は、それがどれほど痛ましい、なげかわしいものであったとしても、これほど気高い位が放つ、さん然たる輝きをくもらすことはできません。また、この少数者の弱点が、徳や学識にすぐれ、あるいはその事業、殉教などによって注目に値する、かくも多くの司祭らの功績を忘れさせることはできません。役者(えきしゃ)が不肖であることによって、その聖役の行為も、無効となるのではありません。役者の無資格が、どれほど明らかな事実であったとしても、それは秘跡の効力を損なうことはできません。秘跡はその効力を、これを行なう司祭の聖徳からではなく、キリストの聖血から汲みとっているのですから。神学用語でいわれているように、この救いの手段は、エクス・オペレ・オペラート(秘跡それ自体によって)効力を生じるのであります。
司祭に聖徳が要求される理由
38 しかし、このような位は、もちろんそれ自体、これを帯びている者に、司祭の職務の聖性と崇高性にふさわしい、思考の高揚、心の純潔、生活の完璧さを要求しているのであります。すでに述べたとおり、司祭職は、司祭を「天主と人間との間の唯一の仲介、人間であるイエズス・キリスト」(チモテオ前2・5)のみ名において、またその代理として、天主と人との間の仲介者とするのであります。
39 それゆえ司祭は、自分がその代理となった御者の完徳に、できうるかぎりあやかって、聖なる生活と聖なる業とによって、日々ますます聖旨にかなう者とならねばなりません。なぜなら、天主は、香のかおりや聖殿の美しさにもまして、善徳を愛され、これに喜悦を見出し給うからであります。「受品者は、天主と人との間の仲介者とされるのでありますから、天主のみ前には、清い良心をもって、人々の前にはよい評判をもって、光彩を放つべきである。」(神学大全 補遺 36問1項ad 2)と聖トマスはいっています。
40 また一方、聖物にふれ、聖祭を行なう者が、罪ある生活を送っているとすれば、彼は、聖なるものを汚し、瀆聖者となるのであります。「聖でないものは、聖なるものに触れてはならない。」(教令 dist. 88, can.6)
41 ですから天主は、すでに旧約の掟の中で、ご自分の司祭とレビ人に「聖なるものでなければならない彼らを聖とする主、すなわち私は聖なるものだからである。」(レビ記21・8)と命ぜられたのであります。また賢王サロモンも、聖殿奉献の歌の中で、アアロンの子らのために、まさにこのことを天主に求めて、「あなたの祭司たちは、義をまとい、信じるものは、喜びうたうように。」(詩篇131・9)と歌っています。ところで、敬愛する兄弟たちよ、私は、聖ロベルト・ベラルミノと共にいいましょう。「これほどの義、これほどの聖徳、そしてこれほどの歓喜が、牡牛と牡羊の犠牲を捧げ、はかないこの世の恩恵のために、天主を賛美していた旧約の祭司らに要求されていたとするならば 天主の羔を犠牲として捧げ、永遠の恩恵のために、感謝を捧げる司祭らには、一体何が要求されるのでしょうか?」 (詩編注解131・9) また聖ラウレンチオ・ユスチニヤヌスもいっています。「高位聖職者の位は、たしかに偉大であります。しかしその任務は、さらに偉大であります。人々の目にかくも尊く映つる位におかれた彼らは、すべてを照覧される天主の御目にも、徳の絶頂に登らねばなりません。さもなければ、彼らが他の者の上にいるということは、彼らにとって功徳の因とはならず、かえって処罰の因となるでありましょう。」(高位聖職者の制定と管理について、第2章 De instit. prael., c. II)
司祭の職責の一つ一つは、司祭にとって、切なる完徳への招きであること
42 カトリック司祭職の尊厳を示すために、以上述べてきた一つ一つの理由はみな、私の脳裡を離れず私を促して司祭らに向かい、各自に課せられた完全な聖徳の生活の義務を果たすよう勧告させるのであります。実際、天使的博士も教えているとおり、「司祭の職責をふさわしく果たすためには、尋常平凡な徳では足りません。特にすぐれた徳が要求されるのであります。なぜなら、叙階を受けて、身分上信者の上に置かれていると同様に、聖徳の功力によっても、彼らにまさっているべきだからであります。」(神学大全補遺35題1項ad 3m)
事実、世の罪をのぞき給う罪なき生贄が屠られ給う聖体の犠牲は、わけても司祭らに、次のことを要求しているのであります。すなわち、司祭たるものは、聖なる正しい生活によって、この崇むべきオスチア、私たちの愛のゆえに人となり給うた天主のみ言葉を、日毎に捧げまつる天主なる主に、よりふさわしいものとなること、これであります。「あなたたちが行なうことを認めなさい。あなたたちが果たすことを模倣なさい。」(ローマ司教用定式書 司祭叙階式)と聖会は、司教の口をとおして、司祭に叙階されようとする助祭に向かって語ります。
43 そればかりではなく、司祭は、また、諸秘跡を運河として天主の恩恵を分かち与えます。しかし、この分配者自身が、かくも貴重な恩恵をもっていなかったり、あるいはこれをあまり尊重せず、怠慢な恩恵の番人としてふるまうなら、それはあまりにも矛盾したことであります。
……特に説教という聖役
司祭は、信仰の真理を教えねばなりません。ところで、宗教上の真理というものは聖徳がかかる教えを支配し、これにみちあふれていないかぎり、決してふさわしく、また効果的に教えられ得ないのであります。「言葉は人の心を動かし、模範はこれをとらえる」とことわざにもいわれています。司祭は、福音の掟を告げねばなりません。しかし、この真理の告知者が、聖なる生活によって、信者に説くところを、自ら注意深く守っていることを見せる以上に、人々を福音の掟の遵守により効果的、より決定的にさそうものはありません。もちろん、この場合にも、天主の恩恵の助けがあることはいうまでもありませんが、大聖グレゴリオは、この理由を次のように述べています。「聞き手の心にもっともたやすく浸み込む言葉は、説教者の生活によって、立証されている言葉であります。なぜなら、彼の手本は、彼の言葉が命ずるところを実行するのを助けるからであります。」(書簡第1巻25) 聖書もまた、救主について、「はじめから行ない、教えられた」(使徒1・1)といい、また群集が歓呼して彼を迎えたのは「いまだかつて、あの人のように話す人がなかった」(ヨハネ7・46)ためよりも、 むしろ「何事もよくなされた」(マルコ7・37)からだといっています。反対に、「言うだけで行なわない」ものは、自分を律法学士やファリザイ人と似た者とするのです。聖主は、彼らが正当に説く天主のみ言葉の権威を危うくはされなかったが、しかし彼に聞く群集に「律法学士とファリサイ人とは、モイゼの講座を占めている。からに彼らのいうことをみな守りなさい。しかしかれらの行ないにならってはいけない。」(マテオ23・3)と教えられて、彼らをとがめられました。自分の生活の模範によって、 自ら告げる真理をかためるよう努力しない説教者は、右手で打ち建てたものを、左手で打ちこわすことになるのです。これに反して、まず第一に自己の成聖に専念する福音の告げ手の疲労を天主は豊かに祝し給うのであります。このような司祭は、おのが使徒職の花がみごとに咲きそろい、豊かに実るのを見るでありましょう。そして、刈り入れの日には、「束を手にし、喜び勇んで、帰ってくる」(詩編125・6) に違いありません。
自己の成聖の義務と積極的行動主義の危険
44 誤った奮発心にかられて、司祭職の外的事業に――たといそれが如何によいものであったとしても――没頭するために、自己の成聖を顧みない司祭は、きわめて重大な危険に身をさらすことを、 深く悟らねばなりません。かかる行動をとることによって、異邦人の使徒が、「私は、自分の体を苦しめて、これを奴隷にする。それは他人に宣べ伝えながら、自分は除名されるというようなことがないためである。」(コリント前9・27)といって、自分自身のために恐れていたように、このような司祭は、 自分の永遠の救いを危険にさらすことになるのであります。いいえ、そればかりか、恩恵そのものを失う危険はなくとも、使徒的活動にみごとな効果と力を与えるあの聖霊の霊感とを確かに失うのであります。
45 その上、すべての信者に向かって「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになりなさい。」(マテオ5・48)といわれているのであれば、まして特別な召出しによって、より近く聖主のみあとをたどるべく召されている司祭らは、聖主のこのみ言葉を、特に自分に向かっていわれたものと見なすべきではないでしょうか。そこで聖会は、このきわめて重大な義務を、すべての聖職者にきびしく教え、聖職者たるものは、内的にも外的にも、平信者以上に聖なる生活を送り、己が善徳と善行によって、平信者の模範とならねばならない。」(聖会法カノン 124)と聖会法法典の中に記載しているのであります。司祭は「キリストから来た使者であります」(コリント後5・20)から、「私がキリストにならっているように、あなたたちは私にならえ。」(コリント前11・1)との大使徒の言葉を自分のものとすることのできるような生活を送らねばなりません。したがって、司祭は、自分もいまひとりのキリストのような生き方をしなければなりません。キリストは、今も昔もおのが聖徳の輝きによって、世を照らし続けておられるのであります。
二、司祭の徳
信仰心
46 司祭の魂の中には、あらゆるキリスト教的善徳の花が咲き競うべきであるとはいえ、それでもやはり特に司祭にふさわしい、独得の徳があるものです。「敬虔を得るために‥‥‥‥鍛錬せよ。」 (チモテオ前4・8)という愛弟子チモテオにあてた異邦人の使徒の勧告によれば、すべての徳の中で第一に掲げるべきものは信仰心であります。実際、司祭と天主との関係が、これほど親密で、ひんぱんで、 微妙なものであるとするならば、それは敬虔の香りを伴い、それにくゆらされていなければならないはずであります。敬虔は、「すべてに益がある」(チモテオ前4・8)のであればそれはまず第一に、司祭の聖役をよく果たすために有益であるはずであります。信仰心がなければ、どれほど聖なる信心業も、どれほど荘厳な祭式も、機械的、習慣的なものとならざるを得ないでありましょう。確かに、そこには精神もなければ、霊感も生命もありません。敬愛する兄弟たちよ、ここで私がいう信仰心とは、心を喜ばせるが養わず、自愛心を満足させるが聖化しない、あの移り気な、うわべだけの敬虔ではありません。それは、絶え間ない感情の動きに支配されることのない敬虔であり、もっとも確実な教義の諸原理に逃づき、その所有者をどのような誘惑の襲撃にも耐えさせる固い信念から生まれた、あの堅実な信仰心をいうのであります。
47 この信仰心は、その対象をまず第一に、天の御父におくべきでありますが、天主の御母の上にも等しく及ぼさるべきものであります。まことに司祭たるものは、平信者以上の細やかな愛と熱をこめて、 聖母を愛さねばなりません。なぜなら、司祭をイエズス・キリストに結ぶきずなが、より密接であると同様に、マリアと救主キリストとの間の関係もまた、より深いものであります。
貞潔
48 信仰心に密接に結ばれて、カトリック司祭職を飾るいま一つのまばゆい真珠は、貞潔であります。上級叙階をうけたラテン教会の現職者は、これに背けば汚聖者となるほどの重い義務のもとに、これを完全に守ることを要求されています。(聖会法カノン132・1)
同じ掟が、東方教会の聖職者を、同様のきびしさをもって拘束してはいませんが、しかし、ここでもまた、カトリック的独身主義は尊重されています。しばしば、特に上位聖職者にとって、貞潔は必要不可欠の義務的条件であります。
貞潔の論拠
――キリスト以前
49 貞潔と司祭の聖役との間に存する明らかなきずなは、単なる理性の光によっても感知することができます。「天主は霊であります」「(ヨハネ4・24)から、天主の奉仕に献身するものは、ある意味で、「肉体を脱ぎ捨てていること」がふさわしいからであります。すでに古代ローマ人も、この整合性を漠然ながら悟っています。古代ローマの最古の法規は、「神々に近づくには、貞潔でなければならない」と規定していますが、当時の最大の弁論家は、これを引用して、次のような解釈をくだしています。「法は神々に近づくには、貞潔でなければならないと命じています。つまり、貞潔な魂をもって近づけというのであります。なぜなら、ここにこそすべてが宿るからであり、これは、肉体の純潔を除外するものではありません。霊魂は肉体にまさるものでありますから、肉体の清さを守るには、霊魂の純潔こそ、よりよく守られるべきであるという意味に解すべきであります。」(チチェロ法規について第2巻第8章)
旧約の律法のもとに、モイゼは天主のみ名によって、アアロンとその子らに、任職祭が行なわれる七日の間、集会の幕屋を出てはならない、すなわち、貞潔を守らねばならないと命じました。(レビ記8・33~35参照)
――新約聖書と初代教会の中で‥‥‥‥
50 しかし、旧約の司祭職に、はるかにまさる新約の司祭職には、これよりも完全な貞潔がふさわしいのであります。事実、聖職者の独身の掟は、その最古の記録を――それは明らかに、それ以前よりの習慣を前提としていますが――いまなお迫害の嵐が荒れ狂っていた四世紀の初頭のエルビル公会議のカノンの中に見出します。(Concilium Eliberritanum, can. 33, Mansi, t. II col. II) そしてこの掟は、聖福音と使徒の教えから生じたある種の要求を義務的なものとしたに外ならないのであります。
典礼が歌うように、「童貞母の花」(ローマ聖務日禱書、イエズスの御名の祝日の賛歌)にて在す聖主イエズスが、尋常の人の力を越えるものとして賞揚されつつ、(マテオ19・11参照)貞潔の賜物に対して示された高いご評価、ご幼年時代より、何れも童貞であったマリアとヨゼフの家庭で養育されることを望まれたそのみ旨、洗者ヨハネ及び福音史家ヨハネのような清い霊魂に対して傾けられた聖主のご寵愛、また福音の掟とキリストのみ教えの忠実な注解者が、特により熱心な天主への奉仕を目的として、「独身の人は、どうして主によみせられるかと主のことを思う」(コリント前7・32)と童貞性のはかり知れない価値を説く言葉など。これらすべては、新約の司祭に、この特選の徳の天的魅力を感じさせずには、いないでありましょう。そして「この言葉を理解できる恵みをうけた者」 (マテオ19・11)のひとりとなることを望ませ、その後ラテン教会全体において、きわめて重大な掟によって確認された貞潔の遵守を、自発的に受け入れさせたに違いありません。すでに、四世紀の末葉から、第三回カルタゴ公会議は「使徒らが教え、われらの先輩らが遵守してきたところに、われらもまた忠実ならん。」(Conc. Carthag. II, can. 2; tom. III, col. 191) と勧告しています。
――東方教会の教父らの意見
51 著名な東方教会の教父らも、聖職者の独身のすぐれていることを賛えており、当時一層きびしい規律が守られていたところでは、この点に関して、ラテン教会と東方教会との間に、一致があったことを証しています。著名な例をひけば、四世紀の終わりに、聖エピファニウスは、独身の掟がすでに副助祭にまで及んでいたことを証明しています。「(聖会は)いまだ婚姻のきずなにつながれ、子女を養育すべきものを、たとえひとりの妻の夫であっても、助祭職、司祭職、司教職及び副助祭職に受け入れません。ただ結婚生活を放棄した者、あるいは妻と死別した者のみを受け入れるのです。ただし これは主として聖会法を注意深く遵守しているところにおいてのことであります。」(聖エピファニウス)
パナリウムの異端に対して、59・4 P. G., XLI. col. 1024) しかし、この問題に関して、もっとも雄弁なのは、「いみじくも聖霊の立琴と呼ばれている」(ローマ聖務日禱書六月十八日、第六夜課」エデッサの助祭、聖会博士シリアの聖エフレムであります。彼は、次の韻文をもって友人アブラハム司教に語りかけています。「アブラハムよ、あなたはその名にふさわしい。あなたは、多くの子らの父となったからである。アブラハムがサラを妻としていたように、あなたには妻はないが、あなたは教会を妻としている。その子らを真理の中に育め。彼らが天国の世継ぎとならんがために、あなたにとって、霊の子、約束の子とならんことを。ああ、美しき貞潔の実よ!司祭職は、ここにぞ喜びを見出す……聖なる油は流れ、あなたに注油し、按手し、そしてあなたを選んだ。聖会は、あなたを選びとり、あなたを愛する。」(ニシベナの歌、第19歌) さらに「司祭とその位にとって、キリストの活ける御体を捧げるときに、魂を清め、舌を清め、手と体全体を清めるだけでは足りません。司祭は、常に清くなければならないのです。彼は、天主と人との間の仲介者として立てられているのですから、おのが役者を清くし給う御者に誉れあれ。」(同右、第18歌) 金口聖ヨハネも「それゆえ司祭職にたずさわる者は、あたかも天国の権天使らの間にいるかの如く、純潔でなければならない。」(司祭職について、第3巻4章P.G., XLVIII, 642) と断言しています。
貞潔は、司祭の聖役に全くふさわしいこと
52 その上、先に簡単に述べたキリスト教司祭職の崇高さそのもの、あるいは聖エピファニウスの表現をかりれば「その信じがたいほどの名誉と尊厳」(パナリウムの異端に対して、59・4 P. G., XLVIII, 642) も、聖職者の独身制と祭壇の役者にこれを課す法規の、この上ない整合性を明示しています。ある意味で「主の尊前に立つ」(トビア12・15) 純霊のそれをも凌駕する役割を果たす者が、できる限り、純霊のように生きるべき義務を負っているのは当然のことではないでしょうか? 全く「主のこと」(ルカ 2・49、コリント前7・32)にのみ専念すべき者が、地上の事物から離脱し、「天の市民」(フィリッピ3 ・20)にふさわしい生活を送ることは当然のことではないでしょうか? 絶え間なく人々の永遠の救霊に没頭し、救世の大業を継続すべき者がその活動の大部分を吸収してしまう個人的家庭の煩いから解放されていることは、当然のことではないでしょうか?
53 実際、カトリック教会の中では、たといそれがいかにひんぱんに見られる光景であるとしても、若い神学生らが、副助祭の聖品を受ける前、すなわち天主の奉仕と拝礼に全く身を献げる前に、他の身分では正当に許される喜びや満足を自由に放棄する光景は、何と崇高な、感動すべき光景でありましょうか! 私は「自由に」と言います。なぜならひとたび聖品を受けるや、もう婚姻を結ぶに自由ではありません。しかも叙階の式にはいかなる法律にも、いかなる人にも強制されず、自由意志によって、自発的におもむくからであります。(聖会法カノン 971)
54 聖職者の独身制を尊重するため、以上述べたところを、東方教会において正当に認められているこれとは異なる規律に対する非難や諫言ととらないでください。これは、私の意志にもとることであります。私の意向とするところはただ一つ、すなわち私が カトリック司祭職のもっとも純粋な栄光とも司祭の霊魂に対してイエズスのみ心が抱き給う御望みとご計画に対する最良の答とも思われるこの真理を、称揚することに外なりません。
富に対しての廉潔
55 貞潔によると同様、廉潔によっても、カトリック司祭は異彩を放っていなければなりません。すべてが売られすべてが買われる腐敗し切った世間のただ中を、司祭は、一切の利己主義を捨てて通り過ぎていかねばなりません。あらゆる低級な欲を軽蔑しつつ、金銭ではなく霊魂の、自己の光栄ではなく天主のみ栄の追求に没頭しなければなりません。賃金のために働く雇人や、自分の務を良心的に果たすが自己の利益を思い、出世を夢見る役人のようであってはなりません。いなむしろ「生活のことに煩わされず、自分たちを募集したかしらをよろこばせようとするキリストのよき兵卒」(チモテオ 後2・3~4)であり、また天主の役者、霊魂たちの父でなければなりません。司祭は、自分の働きや心労の正当な報酬は、地上の宝や名誉の中に見出し得ぬことを知っていなければなりません。「祭壇に仕える人は、祭壇の供物に与る・・・・・・同様に聖主は、福音を宣べる人々が、福音でもって生きるように定められた。」(コリント前9・13~14)という使徒の言葉によると、生活のために妥当なものを受けることは、司祭にも禁じられていません。しかし聖職者(clericus はギリシャ語κληρικός「籤」より出た語) と いう名そのものが示しているとおり「主の遺産に召された」司祭は、イエズスが使徒らに約束された報い以外の報酬を期待してはなりません。「あなたたちは、天において大きなむくいをうけるであろう」(マテオ5・12)数々の天主の御約束を忘れ「汚れた利益をむさぼり」(チト1・7)はじめ「皆は、キリスト・イエズスのことではなく、自分のことだけを求めている。」(フィリッピ2・21)と聖会が、使徒と共にその上を嘆いている世俗の群衆の中に没する司祭は、何と禍いでありましょうか。このような場合、司祭は、おのが召命にもとるばかりでなく信者らの軽蔑をも買うのであります。実際、信者たちは、司祭の言行と、彼が説くべき福音の教えとの間にある嘆かわしい矛眉を、すぐに認めるに違いありません。この福音の教えは、聖師キリストによって、明らかに説明されています。「自分のために地に宝を積んではならない。ここでは、しみと虫が喰い、盗人が穴をあけて盗み出す。汝らは、自分のために宝を天に積め」(マテオ6・19~12)「十二人のひとり」と福音吏家が悲しげに記しているように、キリストの使徒のひとりであったユダが、まさにこの欲心によって滅亡に導かれたことを思えば、この同じ欲心が、いつの時代にも、聖会に多くの害を与えるもととなってきたことが、容易に理解されるでありましょう。聖書が、「すべての悪の根」(チモテオ前6・10)と呼ばれる貪欲は、人をいかなる過失にも、ひき入れることができるのです。この悪徳に感染した司祭は、それほど極端に走らないとしても、意識してとしないとに拘らず、天主と聖会の敵に味方し、そのよこしまな計画に協力することとなるのです。
56 反対に、誠実な廉潔は、すべての心を司祭に引き寄せます。物質的財宝よりのこの離脱は、それがキリスト教信仰に内在する力に養われていればいるほど、あらゆる悲惨に対する同情を常に伴うものであります。それは、「あなたたちが私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々のひとりにしてくれたことは、つまり私にしてくれたことである。」(マテオ25・40)というイエズス・キリストのみ言葉を忘れずに、司祭を真の貧しい者の父とする同情であります。このような司祭は、貧者の中に、救主キリストご自身を見、これを特別の愛をこめて愛するのであります。
使徒的奮発心
57 こうして、司祭は彼を世間に執着させうる主要なきずな――家庭のきずなと利巳主義のきずな―― から解放されて、あの天上の愛の炎にますます燃やされるようになるでありましょう。それは、イエズス・キリストの聖心の底からあふれ出て、使徒的心に燃えうつり、全世界をなめつくすことのみしか望まない救霊への愛の火であります。(ルカ12・49参照)この天主のみ栄と救霊への奮発心は――聖書の中で、イエズスについて記されているとおり(詩篇68・10、ヨハネ2・17参照) 司祭に燃えうつり、いわばこれを燃やしつくさねばならないのであります。また、自分と自分の利益を全く忘却して、絶えずよりよく、より広範におのが使命を果たすために、もっとも効果的な手段を求めつつ、この崇高な使命に、あますところなく献身するに至らしめるに違いありません。
58 福音を想想し、「私には、この柵内にいない外の羊もある。私はそれらも連れていかねばならない」(ヨハネ10・16)という善き牧者の声を聞き、また「もはや刈り入れをひかえて白んできている畑」(ヨハネ4・35)を見ながら、刈り入れの主に、疲れを知らない働き手として、自分を与え、迷える羊を正道に立ち帰らせるようとの望みに燃えない司祭があるでしょうか? ――布教国ばかりでなく、悲しいことに、昔からのキリスト教国においても――「牧者のいない羊のように、疲れ果ててぐったりしている」(マテオ9・36) 数知れない群集を打ちながめて、イエズス・キリストの聖心が幾度となく感じ給うたあの深いご同情を、共に分かたずにいられるでしょうか? (マテオ9・36、14・14、15・32、マルコ6・34、8・2等参照)私が語っているのは、自分が「永遠の生命の言葉」(ヨハネ6・68) を所有し、再生と救霊の手段を手中に握っていることを意識している司祭についてであります。しかし、限りなき感謝を天主に捧げたてまつる! この使徒的奮発心は、カトリック司祭職の額に輝く、かくかくたる光線の一つであります。敬愛する兄弟であり、至愛の子らである司教、司祭らが、通り抜きの精鋭のように一体となって、常に聖会の頭の命令に応え、真理対誤謬、光対闇、天主の国対サタンの国の平和的戦闘を交えるため、世界の果てにまで馳せつける用意のあるのを見て、父としての私の心は、深い慰めに満たされるのであります。
従順の精神
59 しかし、カトリック司祭は、勇敢大胆な兵士であるという事実そのものから、規律の精神、またキリスト教的用語でいわれる従順の愛をもっていなければなりません。この従順によって、教階制の種々の段階は、相互に調和よく結ばれるのであります。「感ずべき聖なる多様性が、聖会の生命と行政とを支配しています。聖会の中にあって、ある者は司教に叙階され、ある者は司祭として聖別されます……そしてこの不等の位にある無数の肢が構成するのは、ただ一つのキリストの体であります。」 (ローマ司教用定式書、司祭叙階式) 司祭は、この従順を、彼の司祭職の黎明に、所属司教に約しました。
司教もまたこの従順を、叙階の日の聖ペトロの後継者、イエズス・キリストの代理者であるカトリック教会の、目に見える最高の頭に誓いました。
60 ゆえに、願わくはこの従顔が、聖なる教階制の相異なる肢を、互いにますます密接に結び合わすと同時に、これをより強固にローマ教皇に結び戦斗の教会を「勢ぞろいしたつわもののように」(雅歌4・ 3、9)天主の敵にとって、真に恐るべきものとしますように。また、ある司祭らのあまりに熱しすぎた奮発心を和らげ、他の司祭らの無気力と弱さとを発奮させますように。さらにこの従順が、各自にそれぞれの持ち場と職務とを割り当て、各自は、正当な権威に反抗することなしに、これに献身してほしいものであります。このような反抗は、聖会の壮大な事業を妨害するにすぎないのであります。各自は、長上によってとられた処置の中に、イエズス・キリストご自身の命令を認めねばなりません。 イエズス・キリストは、万人が服従するカトリック教の唯一の創設者であり、また頭であります。しかも聖主は、私たちのために「死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われた。」(フィリッピ2・8)のであります。
イエズス・キリストの模範にならって……
61 事実、天主なる最高の大司祭は、ご自分の御父に対するきわめて完全な従顔が、特別の方法をとおして、私たちに示されることをお望みになりました。したがって、預言書や福音書の中には、この全き従順を証する言葉が数多く見られます。「そのために、キリストは世に入るときいわれた。あなたはいけにえも供物も望まれない、ただ私のために体を準備され……それで私は‶私について巻物に書き記されているあるとおり、私は、あなたのみ旨を行なうために来る″といった。」(ヘブレオ10・5~7)「私を遣わした者の思召しを行ない、そのみ業を果たすことが私の食物である。」(ヨハネ4・34) そして、十字架の上においてさえ、聖主はまず、聖書がご自分について預言したすべてのことが成就されたと、荘厳に宣言された上でなくては、その霊を御父のみ手に託すことを欲し給わなかったのであります。すべてのことは、すなわち、まさに「聖書を実現するために」(ヨハネ19・28)口にされた、あの神秘にみちた「私はかわく」に至るまで、御父が彼にゆだね給うた使命でありました。
62 聖主が、これによって次のことを示そうとされたのは疑いのないことであります。すなわち、もっとも熱烈な奮発心といえども、常に御父のみ旨に深く服従していなければならないこと、また私たちにとって、御父の代理者であり、御父のみ旨の伝達者である正当な教階制の長上の意志に、常に一致していなければならないことを救えようとされたのであります。
学識
63しかし、私が全世界の前に明るみに出そうとしているカトリック司祭の姿を、完全なものとするためには、聖会が司祭に要求しているいま一つの司祭的特質、すなわち学識について語らねばなりません。
――真理を教えるべき使命をもつ司祭にとって学識は不可欠であること
カトリック司祭は、「諸国に弟子をつくりに行きなさい。」(マテオ28・19)とイエズス・キリストから受けた使命、すなわち真理を教えるべき使命によって、「イスラエルの師」(ヨハネ3・10)として立てられました。司祭は、救いの教えを伝えねばなりません。それは、異邦人の使徒の警告によれば、 司祭が「智者にも無学者にも、義務を負っている」(ローマ1・14)あの教えであります。しかし、自分自身この教えをもっていなければ、どうしてこれを他人に伝えることができるでしょうか。「祭司の唇は知識を保ち、人々は、彼の口に律法をたずねる」(マラキア2・7)と聖霊は、マラキア書の中でいっておられます。しかし司祭的学識をすすめるためには、天主なる英知そのものが、オゼの口をとおして語られた言葉以上に荘重な言葉を口にすることはできないでありましょう。「あなたは知識を捨てたゆえに、私もあなたを捨てて、私の祭司としない。」(オゼ4・6)それゆえ、司祭は、信仰とカトリック道徳の教義を完全に体得していなければなりません。これを他の人々に述べる術を知り、自分がその役者である聖会のドグマや法規、典礼などを説明しうるようでなければなりません、司祭は、その教え、権威と光とによって、無知を一掃すべきであります。それは世俗の学間の進歩にもかかわらず、宗教問題に関しては、かくも多数の現代人の精神を闇にとざしているあの無知をいうのであります。「時として、真理のもつ唯一の望みは、知られる前に非難されないようにということである。」 (テルツリヤヌス アポロジア第1章)というテルツリヤヌスの警句を今日ほど黙想するに適した時代は、まだかつてなかったでありましょう。反対者の憎悪によって、積み重ねられた偏見と誤謬を人々の知性から取り除くのは、司祭の務であります。これほど真理に飢えかわいている現代の人々に、穏やかにそして卒直に真理を示さねばなりません。今なおためらっている霊魂、あるいは疑感にさいなまれている霊魂には、勇気と信頼を吹き込み、その教えによって、彼らをカトリック信仰に固く帰依させ、その信仰の港へと確実に導かねばなりません。最後に司祭はがんこで片意地な謬説の襲撃に、 力強い反抗と、平静でしかも不抜の勇気をもって、抗しなければなりません。
――絶えず宗教的教養と世俗の教養とを積むべきこと
64 尊敬する兄弟たちよ、ゆえに司祭は、聖役上の用務と心労のただ中にあってさえ、できうるかぎり神学の研究を続け、これを深め、神学校時代に習得した知識に、より高い聖なる学識を加えていくべきであります。この知識は、ますます司祭を説教や、霊魂の指導に適したものとするのであります。 (聖会法カノン 129参照)
その上、ゆだねられた役務の名誉のためにも、司祭は、その時代の教養ある人々の世襲財産となっている世俗の学問一般も、身につけていなければなりません。それは、司牧聖役の効果のために大変有益な、信者の信頼と尊敬とをふさわしくかち得んがために必要であります。すなわち聖会の模範にならい、現代の進歩と必要に健全に心を開いている聖なる近代人でなければならないのであります。聖会は、あらゆる時代、あらゆる民族を抱擁し、健全な独創性はすべてこれを奨励し、正統な科学の進歩は、たとえもっとも大胆なものであっても、恐れずにこれを助長しているのであります。
――学識は、カトリック聖職者の伝統であること
その上、聖職者はあらゆる時代をとおして、人間学問のあらゆる分野において、他に抜きん出てきました。昔は聖職者と学者とが、同義語となっていたほど、司祭は、知識の前衛でありました。そして聖会とその修道院の努力がなければ、ほとんど完全に失われてしまったであろう文化の宝を守り救ったばかりでなく、聖会は、その著名な学者らをとおして、いかに一切の人間知識が、カトリック信仰を明らかにし、これを擁護するに役立つかを示してきたのであります。この真理に関しては、私自身もごく最近、有名な現トマス・アクィナスの師、マルベルツス・テウトニクスに聖人の位と聖会博士の尊称を与えることによって、一つの輝かしい模範を世に与えたのであります。聖人は、彼と同時代の人々からすでに普遍的博士大アルベルツスの名をもって尊敬されていました。
――この伝統は、現代においても維持すべきこと
65 もちろん今日も、あらゆる知識の分野において同じく先頭に立つことを、聖職者に要求することはできません。人類の科学的遺産があまりにも膨大なものとなった今日、これを全体的に所有することはおろか、その数知れない部門の各々においてさえ専門家となることは、自分ひとりでは誰にもできないのであります。とはいえ、聖職者の中で趣味あるいは特別の才能によって、何らかの学間または芸術を研究し、これをみがくべく召されていると感じている者らを、慎重に激励すべきであります。 しかし、この場合、その学間または芸術が、聖職者の身分に不似合なものでないことを条件とします。かかる研究は、必要な限界を越えず聖会の指導のもとにおかれているかぎり、実にこの同じ聖会の栄誉とその頭イエズス・キリストのご光栄に帰するのであります。一方、その他の聖職者らも、他の時代にはおそらくそれで充分であった学識をもって満足してはなりません。かえってより広い、より完全な一般教養を身につけるよう努力すべきであります。それは、過去の時代のそれに比べて ――少なくとも科学的発見の角度から見て――現代文化のより高い水準とより広範な知識にそった一般教養でなければなりません。
66 時として、「その地で楽しみ給う」(箴言8・31)聖主は、現代においても、今語っているこの知識の遺産をほとんど持ち合わせていない者を、司祭の位にあげ、この者をとおして驚くべき種々の善を行なおうとされることがありますが、これは明らかに次のことを私たちに教えようとされてであります。すなわち学識よりも聖徳を一層重んずべきこと、および人間的手段よりも、天主の御助力に頼るべきこととであります。言葉をかえていえば、私たちは、「天主は知恵のある者をはずかしめるために、 世の愚かな者を選ばれた……それは、天主のみ前で誰も誇らないためである。」(コリント前1・27、29) という有益な真理を、時おり繰り返し聞き、また黙想することが必要であるからであります。しかし、 自然的領域において奇跡が物理的法則を廃止することなしに、一時的にその効力を停止させるのと同じく、真の生きた奇跡であるこれらの人々の存在もまた、以上述べてきたことの真実性および必要性を減少するどころか、かえってこれを強調しているのであります。彼らの中にあっては、いわば聖徳が他の一切を補っているのであります。
カトリック、アクションは、司祭の聖徳と学識との必要性を増大すること
67 以上述べたように、司祭が聖徳と学識とに傑出しているべきこと、またいたるところにまき散らされる「キリストのよい香り」(コリント後2・15) たるべきことは、今日ますます要求されているように思われます。なぜなら、カトリック・アクション――これは私にとって大きな慰めであり、また、人々を完徳の頂へと駆り立てる運動であります――は、平信者を、よりひんぱんに司祭と接触させ、その結果、彼らを司祭の密接な協力者とし、かつまた、司祭の中にキリスト教教義の師、そしてキリスト救的生活と使徒的奮発心の模範とを見出させているはずだからであります。
第三部 司祭職への養成
司祭の将来は、その最初の養成の如何によること
68 敬愛する兄弟たちよ、これほど崇高な司祭の位と、それが要求するかくも高い特質からは、避けることのできない一つの必要が生じます。それは、神学生たちに、正しく、それにふさわしい養成をほどこすことであります。
この必要を自覚している聖会は、あらゆる時代を通じて、恐らく他のいかなる事業にもまして、司祭らの養成に、細やかな配慮と母性的心遣いとを注いできたのであります。聖会は、諸民族の道徳とカトリック信仰の宣言が、聖職者の活動に依存するのであり、かつまた、その活動は、司祭が受けた養成から、その力を汲みとっていることをよく知っているのであります。彼らについても、聖霊は 「若き日に歩んだ道からは、年老いても離れないであろう。」(箴言22・6)と宣言しておられます。聖霊に導かれる聖会もまた、そこで、全く特別な注意をこめて、司祭職志願者を養成するために、各所に神学校が設立されることを希求しているのであります。
一、神学校の価値
最良の司祭を神学校に与えよ
私と共に、聖会の統治という恐るべき重荷を負っている、敬愛する兄弟たちよ、ゆえに、神学校はあなたたちの眼の瞳のように、あなたたちの主要な配慮の対象でなければなりません。特に長上、教師、わけても霊的指導者の選択に注意なさい。霊的指導者は、司祭の霊魂の形成において、特に微妙な、大切な部分を受け持っているのです。あなたたちの神学校に最良の司祭をお与えなさい。一見より重要な、しかし実際には、この根本的な、かけがえのない事業とは、比ぶべくもない他の役務から、彼らを引きぬいてくることをすら恐れてはなりません。必要の場合、この務に真に適している司祭を見つけ次第、どこからでも、これを呼びなさい。言葉によるよりも、むしろ手本によって、司祭的徳を教え、学生に堅固な、雄々しい使徒的精神を与え得る司祭を選びなさい。かかる司祭をとおして、神学校内に、敬虔、純潔、規律、学究などの花が咲きかおりますように。そして、学生らを、 現在の誘惑に対してではなく「万人の救いのために」(コリント前9・22) 直面すべき、後年彼らを襲うより重大な危険に対しても、慎重に警戒させうる司祭らでありますように。
特に大切な哲学的養成
69 前述したとおり、未来の司祭が、時代の要求にかなった学識を修めるためには、堅実な、一般教養の後「天使的博士の体系、教義、原理にそった」(聖会法カノン 1366・2) スコラ哲学を学び、これに鍛えられることが、きわめて肝要であります。私の先任者、レオ十三世が呼ばれたように、この久遠の哲学は、未来の司祭にとって、キリスト教の主要な真理を、深くきわめるために必要であります。その上、この哲学は、あらゆる近代の誤謬に対して、彼らを警戒させ、豊かな学殖をもちながら、この哲学を知らない者以上に、そのたずさわるあらゆる研究分野において真理を識別することを得させる一種の洞察力を、その精神に与えるのであります。
地方神学校
70 ある地方に、その例が見られるように、教区の狭少や、悲しむべき召出しの欠乏、あるいは資財または有能な人材の不足から、各教区が――聖会法法典(聖会カノン1352-1371) その他の聖会の規定に基づいて――教区の神学校を、相当に経営することが不可能な場合には、その地方の諸司教が力を合わせて、兄弟的相互扶助の中に、その崇高な目的に完全にかなった、共同の神学校の上に、各自の力を集中することが、きわめて時宜にかなったことといわねばなりません。
71 これから生ずる種々の利益は、このために忍ばねばならない、多くの犠牲を償ってあまりあるでありましょう。時として、自らの中に燃え立っている使徒的精神を、直接未来の協力者に伝えたいと望む司牧者のもとを、彼ら神学生が、一時的に離れるのを見るのは、司教の心にとって、どんなにつらいことでありましょう。また、彼らが、やがて彼らの布教戦場となるべき土地を離れるのを見るのもつらいことに違いありません。しかし、彼らが、よりよい養成を受け、より豊かな霊的遺産を受けついで帰って来るのを見る日に、これらの犠牲は、ことごとく、また幾倍にも報われるでありましょう。この霊的および知的遺産をもって、彼らは、教区の最大の利益のために、周囲の人々を益するに違いありません。ですから、私は、かかる発議を奨励し、促進する機会は、決してこれを逸せず、その上ひんぱんに、これを示唆し、勧告してきたのであります。ご承知のとおり、私自身も、それが必要と思われる地方には、いかなる費用も、心労もいとわず、地方神学校を創設し、あるいは、既存のものを拡張または整備してきたのであります。天主のみ助けによって、今後とも私は、聖会にとってもっとも有益な事業の一つともかぞえられるこの事業に、全熱誠を注ぎつづけていくつもりであります。
二、司祭の召命の判別
72 しかし、そのためにこそ、神学校が建てられている、神学生自身の選択が、注意深く行なわれないかぎり、いくら熱心に、未来の司祭の教育に努力しても、それは所詮むだでありましょう。この選択には、長上、霊的指導者、聴罪師など、聖職者の養成の任に当たるすべてのものが、それぞれ協力すべきであります。各目の役割に相応した方法に基づき、またその限界内で、各自は、献身的に、天主に鼓吹された司祭の召命を培い、またこれを固めねばなりません。しかし、同じ熱誠をもって、必要な特質をもたず、司祭の聖役をふさわしく果たし得ないであろうと予見される学生を、適当な時に聖なる叙階から遠ざけるよう努めねばなりません。もちろん、この種の事柄に関して、延期は、一切失錯と損害のもとでありますから、直ちに、除名の処置をとることが、はるかに望ましいのであります。 しかし、何らかの理由のために、延期が行なわれる場合には、過失を認めるやいなや、何らの人間的思わくなしに、これを矯正すべきであります。この決定をくだすべき責任を有するものは、誤った憐みの情に動かされてはなりません。そのような行為は、こうして無能な、ふさわしくない役者を与えられる聖会に対する罪であるばかりでなく、その青年自身に対しても、等しく罪悪であるに違いありません。なぜなら、この誤った方向づけは、永遠の救いを、大いに危険にさらし、その上、青年自身にとっても、また他人にとっても、つまずきの機会となりうるからであります。
判別の規準
73 自分にゆだねられた青年らを、細かい心遣いをこめて、ひとりひとり見守り、注意深く、その能力と傾向とを観察している経験にとんだ神学校長にとって、誰が真の司祭の召命をもっているかを見分けるのは、決して難しいことではないでしょう。敬愛する兄弟たちよ、ご承知のとおり、この司祭職への傾向は、良心の内的招きや感覚的魅力―――これは時として欠けていることもありえます――によるよりもむしろ司祭職志願者を、この身分にふさわしいものとする、すべての身体的、精神的特質に合わせられた、真直な意向によって立証されるのであります。ひたすら天主への奉仕と霊魂の救いに献身することのみを目的として、司祭職にあこがれると同時に、しっかりした信仰心と試練を経た貞潔 と、前述した意味での充分な学識を所有しているものは、明らかに、天主によって司祭職に召されているのであります。
反対に、おそらくは意向の正しくない両親にそそのかされて、現世的利益と恩恵とをもくろんで、 この身分を選ぼうとするもの、――昔は、このようなことが珍しくありませんでした――。信心を嫌い、勉学を怠り、救霊への奮発心をもたず、習慣的に従順や規律に背くもの、特に肉欲に傾き、長い経験によって、これに打ちかつことが不可能であることが判明したもの、正規の課程を、満足に修了できないと予想されるほど勉学に不向きなもの、これらの人々は、司祭職に召されていないのです。 然るべきときに、彼らを神学校から退けないならば、あとになって、これを帰すことを、ますます困難にし、召命も司祭的精神も持たずに、このきわめて重い責任のきずなに拘束させることにさえ、なりうるのであります。
神学校指導者の責任
神学校長、霊的指導者、聴罪司祭などは、このような過ちを避けるために、できるだけのことをしなかった場合、天主に対しても、聖会に対しても、またかかる青年に対しても、どれほど重大な責任を負うべきかを考えなければなりません。聴罪師と霊的指導者も、その役割の中で、この危険を招きうるのであります。もちろん、彼らは、外的には何ら働きかけることはできません。これは、彼らの宗教的聖役の性質そのものによっても、また犯すことのできない秘跡の秘密によっても禁じられているのであります。とはいえ、聴罪師および霊的指導者は、各学生の精神に、深い影響をおよぼすことができるのであって、また各自の霊的善益の必要にしたがって、父親のような堅い意志をもって、彼らを導いていくことができるのであります。特に、長上が動かなかったり、思い切った処置をとらなかったりする場合には、聴罪師または霊的指導者は、役務上、人間的思わくを一切抜きにして、無資格者に、時のある間に、神学校を退くことを良心の義務として課すべきであります。この場合、もっとも確実な解決法に頼らねばなりません。それは、学生にとっても、またもっとも有益であります。なんとなれば、この処置は、彼らを永遠の滅亡に導くかもしれぬ誤った道から立ち戻らせ、これを思いとどまらせるからであります。
74 時として、良心上の義務が、それほどはっきりと現われない場合にも、聴罪師または霊的指導者はその職責と子弟に対する慈父の愛から出る権威とを用いて、必要な素質を備えていないと悟っている者を、自発的に退かせるようにしなければなりません。聴罪師は、聖アルフォンソ・リゴリオのかかる場合における次の警告を、心に銘記しておくべきであります。すなわち、「大低の場合、(この種の事柄に関して)聴罪師が、告解者をきびしく取り扱えば取り扱うほど、彼は、告解者の救りに、一層貢献するでありましょう。反対に、寛大に取り扱えば取り扱うほど、実際には、むごいことをするのです。ビラノヴァの聖トマスは、あまりに寛大すぎる聰罪師を、残酷なる憐みの人と呼んでいます。このような愛徳は、愛徳に背く愛徳であります。」(Opera ase,. vol. III. (ed. Marietti, 1847), p 122)
司祭の召命の判定に際しての司教の責任、きびしさの必要
75 しかし、この危険をおかすものは、明らかに主として、司教であります。なぜなら、きびしい聖会の掟によれば「司教は、積極的理由に基づいた、本人の聖会法上の適性についての心証上(モラリテル)の確信がないかぎり、いかなる者にも聖なる叙階を授けてはならない。これに背く司教は、きわめて重い罪を犯すばかりでなく、さらに他人の罪の責任をも負うこととなるのである。」(聖会法カノン973・3)とあるからであります。このカノンは、聖パウロがチモテオに書を送ったすすめの忠実なこだまに外なりません。「軽率に、人に按手するな。他人の罪にあずかるな。」(チモテオ前5・22)
これを私の先任者、大聖レオ教皇は、次のように注解しておられます。「軽卒に按手するとは、試練を経ていない志願者に、成熟の時を待たずに、また従順の規律の経験を積ませずに、司祭の位を授けることでなくてなんでありましょうか。また、他人の罪にあずかるとは、聖別者が叙階される資格のないものと似た者となることでなくて、なんの謂でありましょう。」(書簡12、(P. L. LIV.647) 果たして、金口聖ヨハネも、司教に当てて言っています。「彼を司祭としたあなたは、彼の過去と未来の罪を償わねばならないでしょう。」(チモテオ書の注解16 (P. G., LXII, 587)
76 敬愛する兄弟たちよ、無情な言葉であります。しかし、さらに恐るべきものは、この言葉が強調しミラノの偉大な司教、カロロ・ボロメオに次のようにいわせた司教の責任であります。「この問題に関しては、わずかな怠慢が、重い過失を私に負わせうる。」(説教 叙階者について、1577年6月1日) ですから、先に引用した金口聖ヨハネの勧告にしたがいなさい。すなわち、「第一、第二、第三の試しのあとではなく、長い熟考ときびしい試験を行なった後はじめで、按手しなければなりません。」 (チモテオ書注解16、(P. G., LXII, 587) これは、特に司祭職志願者の生活の聖性に適用されなければなりません。聖なる司教で、聖会博士であるアルフォンソ・マリア・デ・リゴリオは言っています。「司教が受品者の中に一つの悪も見出さないだけでは足りません。その積極的善徳が確信されねばなりません。」(倫理神学 秘跡について、叙階803) ゆえに、あなたたちの権利を行使するに当って、あまりに厳格すぎはしないかと恐れてはなりません。これらの積極的証拠を要求なさい。そして疑いの残る場合には、叙階を延期なさい。大聖グレゴリオが、はっきりと教えているとおり「家を建てるための材木は、たしかに森から切り出されます。しかし、まだかわききっていない木に、建物の重味を担わせる人はいないのです。これをかわかし、使用に適したものとするには長い間待たねばなりません。この注意を怠れば、この材木は、やがて建物の重荷にたわんでしまうに違いありません。」 (書簡106, P. L., LXX, 1031)この譬えにこだましているとも思えるのは、天使的博士の明瞭な次の言葉であります。「聖なる叙階は、聖徳を前提とします…そうすれば叙階の重荷は、すでに聖徳が、 悪徳の水気を除いた壁の上に置かれるのです。」(神学大全 2a 2ae 189 問 第1項 ad 3m)
それに、各自がそれぞれ、聖会法の規定を完全に遵守し、数年前、この問題に関して、私が秘跡聖省をとおして発布した規準に従うならば、(注1)カトリック教会からは、多くの涙が除かれ、信者からは、ある司祭の生活が原因となって生じた多くのつまずきが除かれるでありましょう。
77 ここで各修道会の総長に向かい、次の点をしっかりと注意しておきたいと思います。修道会に、司祭職志願の若い修道者がいる場合、総長は、かつて私が、在俗聖職者ならびに修道会上長者のために発布した規準(注2)を遵守するばかりでなく、さらに聖職者の養成について、今まで述べてきたことを皆、直接自分らに当てて述べられたものと見なさねばなりません。実際、目下の修道者を、叙階に推薦するものは、修道会の上長者であって、通常、司教は、修道会上長者の判断を信頼するものであります。
司祭の数よりも質が大切であること
78 司教も修道会上長者も、教区または、会の司祭の数が減ることを恐れて、この欠くことのできないきびしさをゆるめるようなことがあってはなりません。すでに、聖トマス・アクィナスもこの問題を提議し、例の英知と明晰とをもって、回答しています。「天主は、ふさわしいものを進ませ、無資格な者を除外しているかぎり、もはや人々の必要を満たすに足りる者を見出し得ぬほど、ご自分の聖会を見捨て給うことは決してありません。」(神学大全補遺 第36問4項ad 1m) その上、この著名な聖会博士が、第四回ラテラン万国公会議(ラテラン公会議、1215年、カノン22) の荘重な言葉をほとんど逐語的に使って、いみじくも指摘しているとおり、「現在いる司祭と同数の司祭を、もはや見出し得ないときには、多くの悪い司祭がいるよりも、少数のよい司祭がいる方が、ましであります。」 (聖トマス・アクィナス 同上) これは、私自身が、叙階金祝の祝われた年の、神学生の国際巡礼に際して、イタリア司教団に向かって述べたことと、全く一致する重要な真理であります。私は、その至聖な職責にふさわしく、あらゆる養成を受けたひとりの司祭は、あまり養成されていない、または全然養成されていない多くの司祭に、はるかにまさると述べたのであります。実際、このような者に、聖会は、何一つ期待することはできません。かえって、涙のもととなるかも知れないのであります。(注3) 敬愛する兄弟たちよ、もしも、私たちが、無能な指導者、無知な教師に、私たちの信者を託すならば、私たちは、何と恐るべき会計を牧者の頭(ペトロ前5・4参照)、霊魂の最上の司教ペトロ前2・25参照)に提出しなければならないでしょうか!
三、司祭志願者を募ること
祈りによって
79 司祭の数そのものは、聖職者の養成に協力する者の、第一の懸念の対象であってはならないという この原則は、もとより固守しなければなりませんが、しかし、聖主のぶどう畑に、常により多くの、有能で勇敢な働き手を送るよう、皆が努力しなければなりません。なぜなら、社会の霊的必要は、ますます増加する一方だからであります。
この目的を達成するための、いろいろの手段の中で、私が、イエズス・キリストご自身のご命令に基づいて、もっとも効果的な、万人向きのものとしてすすめるのは、辛抱強い祈りであります。「刈り入れは多いが、働く人は少ない。だから、刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わして下さるように祈りなさい。」(マテオ9・37-38)この祈りにまさって、救主の聖心によりかないうる祈りがありましょうか? 聖心の熱いお望みに、これほど一致している、この祈りにまさって、より速やかに、より完全に聞き入れられると希望し得る祈りがあるでしょうか。では、「求めよ、そうすれば与えられる」(マテオ7・7)でありましょう。あなたたちは、祈るとき、聖会に聖なる司祭、よき司祭を与え給えと聖主に祈りなさい。聖主は、この嘆願を聞き捨て給わないでありましょう。あらゆる時代を通じて聖主は、かかる司祭を、聖会に与えてこられました。そればかりか、一見司祭の召命が芽生えるには適していないと思われた時代にも、一層豊かに、惜しげなく、これを与えられたのであります。これを証明するには、一つの例として、十九世紀の修道会、および教区の聖職者の栄光を引用すれば足りるでありましょう。これらの聖人の中で、一等星のような輝きを放っているのは、私が聖人の位にあげる喜びを得た、あの同じ聖徳の、しかもその英雄性が全く違った面で現われている、真の三巨人、聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ、聖ヨゼフ・ベネディクト、コトレンゴ、聖ヨハネ・ボスコであります。
適当なアクションをとおして
80 しかし、天主が多くの青年の寛大な心の中に生き給う、召出しの胚芽を、最深の注意をこめて育くむための、あらゆる人間的手段をなおざりにふしてはなりません。したがって、私は、特に司祭の召出しを推持し、促進し、たすけることを目的として、聖霊のすすめにしたがって、行なわれる種々の事業や発意を、心から祝福し、称賛し、また激励するものであります。愛徳に燃えた聖ヴィンセンチオ・ア・パウロも、次のように断言しています。「考えても、考えても、よい司祭を作る以上に、偉大なことに貢献することはできないと悟るだろう。」(ルノダン[Renaudin]師著 聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ伝第5章) 事実、聖なる司祭を与える以上に、天主のみ心にかなうことも、聖会の栄誉となることも、 また霊魂らの益となることも、外にないのであります。キリストのもっとも小さな弟子に、一杯の冷水を与える者が、「その報いを失わない」(マテオ10・42)のであれば、若い神学生の清い手に、救主キリストの聖血に染まった聖なるカリスを置き、人類の平和と繁栄の印として、彼を助けて、天に向かって、このカリスをあげさせる者の受ける報いは、いかばかりでありましょうか?
司祭の召命の温床であるカトリック・アクション
81 ここで、私の感謝にみちた思いは、私が絶えず欲し、促進、擁護してきたカトリック・アクションの方へとはせるのであります。これが、聖会の教階制による使徒職への、平信者の参与である以上、 この重大問題に、きわめて重大な関心を抱かずには、いられないはずであります。事実、私は、カトリック・アクションが、他の分野におけると同様、キリスト教活動のこの分野においても、他に抜きんでているのを見て、深い満足をおぼえているのであります。その献身的活動のもっとも美しい報いはその青少年組織の中に、司祭ならびに修道者の召出しの驚くべき開花を見ることでなくてなんでありましょうか。これによって、カトリック・アクションは、真にあらゆる種類の善徳の種がまかれた肥沃な土地であること、さらに適切にいえば、すべての花の中で、もっとも美しい、もっともデリケー トな花が、危険なくほころびうる、よく耕され、よく手入れされた園であることが立証されるのであります。カトリック・アクションの会員は、このアクションの上に波及される名誉の真価を認めるべきであります。そして、在俗司祭または修道司祭の募集に協力することは、すべての信者にとって、使徒の頭が贖われたすべての民を呼んだ、「王的司祭職」(ペト前2・9)の位に参与する最良の方法であることを、すべての人に悟らせねばなりません。
信者の家庭の義務
82 とはいえ、至聖所の花が、おのずから芽生え、培われるにもっとも適した第一の園は、疑いもなく、深い信仰に養われた真のキリスト教的家庭であります。実際、「集会が、これを称えている」( 集会書44・15)大部分の司教および司祭は、その召命と聖徳の源を、信仰と雄々しい徳にみちた父と、貞淑で敬虔な母と、また家族全体が、天主と隣人への愛を完全に実践している家庭に負っているのであります。
83 このみ摂理の標準的原則に対する例外は、まれであり、かえってこの原則を確認するばかりであり であります。家庭で、トビアとサラのように、両親が、「代々にわたって主のみ名を祝すべき」(トビア8・9)多くの子女を祈り求め、これを天よりの賜物、貴重な委託物として、感謝をもって受けるとき、また子供たちの心に、ごく幼いときから、天主の畏敬、ご聖体のイエズスに対するやさしい信心、無原罪の聖母への愛、聖なる場所と聖職者とに対する尊敬などを教え込むよう努めるとき、そして子供たちが、清廉と労働と敬虔の模範を両親の中に見出しうるとき、また両親が、聖主において、聖なる愛をもって愛し合い、度々秘跡に近づき、聖会の大小斎の掟を守るのみか、自発的抑制のキリスト教的精神をもっているのが見られるとき、そして全家族が、共同の祈りに集まり、また両親が惨めな人々に同情し、分相応に貧しい人々を助けているのを見るとき、このようなときには、子供たちが、揃って両親の手本にならおうと努めていながら、その中の少なくともひとりが、「来て、私に従いなさい。」(マテオ19・21)「私は、あなたたちを人をすなどる者にしよう。」(マテオ4・19)という聖師キリストの御招きを心の底に聞かぬということは、きわめてまれなことであります。この天主の御招きの恩恵を、その子らのために祈り求める寛大な心を持ち合わせてはいなくとも――今日よりも昔に多く見られたように――子供たちの司祭の召出しに反対せず、ここに、彼ら自身にとっては、この上ない名誉、家庭にとっては、天主のご寵愛の印を見ることのできる両親は幸いであります。
今日、あまりにも忘れられた義務
84 しかしながら、カトリック信者であることを誇りとしている家庭の中にも、――特に教養ある上流社会において――子供が天主に身を献げるのを嘆く両親がいることを認めねばなりません。それだけでなく、愛する子供の召出しをくつがえすばかりか、その信仰と救霊をさえ危うくするような、あらゆる種類のいいがかりをもち出して、天主の招きと闘うことをさえ恐れないのです。このような悲しむべき実例の結果、上流階級は、そのごくわずかの子弟しか、聖職者としていないのであります。これは、召出しも、適性ももたない子弟を、強いて聖職者とした過ぎし日の悪幣と同様、決して、この階級の名誉とはなりません。(聖会カノン971) 近代生活の騒々しさ、特に大都会において青少年を取り巻く無数の退廃、多くの国々における学校教育等は、なぜ教養ある、安楽な家庭が、キリストの御招きに反対するか、その拒絶のほとんどの原因となっているのであります。そして、この上流階級における召命の少なさは、これらの家庭そのものの、カトリックの信仰が、どこまで弱化してきたかをも、 証明していることを否定することはできません。カトリック信者の両親は、信仰の光によって、ことをながめるならば、一体これ以上の高い位をその子弟のために認めることができるでしょうか? また、人々を天使たちの尊崇を受けるに値するこの役務にもまさって、すぐれた務を望むことができるでしょうか? その上、長い悲しみにみちた経験が教えるとおり裏切られた召出し、(この言葉は、決して過酷すぎはしないのです)は、子供たちにとってばかりでなく、彼らをこの召出しからそらせた盲目の両親にとっても、多くの涙のもととなるのであります。願わくは、この涙が永遠の涙となるほどに、取り返しのつかぬ涙となりませんように。
結論
すべての司祭にあてて
85 愛する子らよ、ここで私が直接父としての勧告を与えるのは、全世界に散在している、あなたたちすべての司祭に向けてであります。これほど寛大に、「一日中労苦と暑さとを忍ぶ」(マテオ20・12) 「私の誇り、私の喜びである」(テサロニケ前2・20)あなたたち、そして、キリストの群れを養うために、私と司教職における私の兄弟たちを、これほど効果的に助けてくださるあなたたちに対して、熱心に果たされた多くの働きを感謝すると共に、現在の必要にさいして、切なる激励をおくる次第であります。実際、現在の事態が、ますます悪化して行けば行くほど、それは「地の塩、世の光である」 (マテオ5・13,14)あなたたちに、勇敢な魂と人々の救いのためには、何事もいとわない勇気を、一層きびしく要求しているのであります。
司祭の第一の特質は、聖徳の生活であること
86 しかし、あなたたちの活動が、天主の恩恵に助けられて、当然期待することのできる成果をあげるためには、聖なる生活に傑出していなければなりません。この聖徳の生活こそカトリック司祭の特質中、もっとも重要なものであります。これなしには、他の長所は、さして問題となりません。これさえあれば、その他の長所は、さほどすぐれていないとしても、驚くべきことをなしとげうるのです。二、三の実例にとどめるとしても、クペルチノの聖ヨゼフ、また最近では、私がすべての司牧者の模範また保護者として与えた、謙遜なアルスの主任司祭、ヨハネ・マリア・ヴィアンネの場合がそれであります。私はまた、異邦人の使徒と共に「あなたたちの召出しを見よ」(コリント前1・26参照)と言いましょう。そして、この注意深い黙想は、ますますあなたたちに、この司祭叙階と共に与えられた恩恵を尊重させ、「召されたお召しに適うよう生きるべく」(エフェゾ4・1)あなたたちを刺激せずにはいないでありましょう。
確実な成聖の手段である心霊修業
87 この理想に達するためには、私の先任者ピオ十世が、カトリック聖職者にあてて誌されたあの熱烈な勧告(A.S.S. vol. XLI (1908), pp. 555-577) の中で、――あなたたちはこれを、繰り返し熟読すべきであります。――司祭的恩恵を保持し、増加する方法の中で、まず第一にあげられた手段が、あなたたちを大いに助けるに違いありません。この手段とは、私自身も、繰り返し、特に回勅メンス・ノストラ (Α.Α. S. vol. XXI (1929), pp-689-706) の中で、その重要性を、私のすべての子ら、わけても司祭らに教えこもうとした手段、すなわち、心霊修業であります。私は私の司祭叙階金祝祝典を閉じるにあたって、私の子らに残しうる、もっとも有益な最良の記念は、この同じ回勅をとおして、天主が摂理的に聖会の中にわき出させ給うた、この尽きることを知らない泉のもとで「永遠の生命にほとばしる泉」 (ヨハネ4・14)を汲むようにと、彼らを招くこと以外にないと信じたのであります。愛する子らよ、今日もまた私は、地上にキリストのみ国を拡張するため、直接私と共に働いているがために、特にいとしいあなたたちに向かって、聖徳の道を歩むのを止めぬよう、切なる招きを繰り返すことは、私の義務であると信ずるのであります。私の訓令に従い、できうるかぎり、しばしば、念祷に専念するために、世間から離れなさい。聖会の掟(聖会法 カノン126, 595・1及び1367・4参照)によって厳密に規定されている範囲においてばかりでなく、できれば、よりひんぱんに、またより長時間、これを実行なさい。 また、毎月一日を、通常よりも熱心な祈りと、より深い潜心に捧げるために、取りのけておきなさい。これは、もっとも熱心な司祭たちが、いつも実行してきたことであります。(Cfr. A. S. S. vol. XXI, p705)
88 この心霊修業によって、時として、キリストの御招きに答えるためよりも、人間的なおもわくの影響のもとに、「主への奉仕」に入った者の心に、「天主の恩恵を盛んにする」(チモテオ後1・6)という幸いな結果をうることもできるのであります。なぜなら、その時から、彼もまた、天主と聖会に、解くことのできないきずなによって結ばれているのでありますから、彼は、ただ、次の聖ベルナルドの勧告に従う以外ないのであります。「今からは、あなたたちの言葉を善良なものとし、奮発心を燃やし、聖役を聖なるものとなさい。たとい今までは、聖なる生活を送っていなかったとしても、少なくとも今後は、生活を聖なるものとなさい。」 (Cfr. Epist. 27, ad Ardut.) 天主の恩恵特に品級の秘跡に固有の恩恵は、その第一歩において、恐らくは不完全であったものを改め、以後は、その職務上のすべての義務を果たそうと、真に心から望んでいるかぎり、必ず彼を助け給うに違いありません。
89 最後にあなたたちは皆、この潜心と祈りの時から、ますます天主の愛に燃え、教霊の熱に鼓吹され、 世間のわなに対して、よりよく武装されて戻って来るでありましょう。悲しむべき信仰の弱化と風紀の退廃にならんで、人々の間に宗教的覚醒が見られ、その創造的み力によって、これを清め、新たにしようと地上に注がれた聖霊の息吹きが感じられる(詩編103・30参照)現代にあっては、今までになく。特にこれが、司祭に必要なのであります。聖霊にみたされなさい。そして消すことのできない大火のように、天主の愛の炎を、かくも混乱している今日の世界にもたらしなさい。世界に、キリスト教的精神を浸透させなさい。そして、これをその救いへと導きなさい。なぜなら、「まことの世の教主」 (ヨハネ4・42)にて在すキリストの外には、世にはいかなる救いの希望も存しないのでありますから。
聖会と人々の希望である神学生にあてて
90 この回勅を終えるに先立って、私の思いは、愛をこめて、あなたたち司祭職を志す、若い聖職者らの上にはせるのであります。私は心から、あなたたちに、できうるかぎりの注意をこめて、志す使命に準備するよう勧めてやみません。あなたたちは、カトリック教会の希望、また人々の希望であります。彼らは、あなたたちから永遠の救いを期待しています。この救いの本源は、人類の永遠の生命である天主とイエズス・キリストについての活動的知識、また生命を与える知識であります。(ヨハネ17・3参照) ですから、現に、とりわけ敬虔、純潔、謙遜、従順、規律、勉学などによって、真にキリストの聖心にそう司祭となるよう努力なさい。自分の人格を築きあげるために注ぐ努力は、それがどれほど、熱心で勤勉なものであったとしても、決して多すぎはしないと確信なさい。なぜなら、 あなたたちの将来の使徒的活動の成果の如何は、大部分この養成にかかっているからです。また、あらんかぎりの熱をこめて、今から聖会が、叙階の日に、あなたたちに要求する、聖徳の輝きを放つよう努めなさい。聖会は、叙階の日に、あなたたちに言うでありましょう。「あなたたちの生活の香りが、キリストの聖会を楽しませ、あなたたちは、言葉と模範によって、天主の家庭である、この家を教化し、打ち建てるように」、「天的上知と正しい品行、日々の善徳の実践が、あなたたちを推薦するものでありますように。」(ローマ司教用定式書、司祭叙階式)
91 かくして、始めてあなたたちは、人々の教化のために、カトリック司祭職の栄えある伝統を継続し、 積極的貢献によって、人類が『キリストの王国において、キリストの平和』の恩恵をあますところなく味わう、かくも待ち望まれた、かの日の到来を早めることができるであります
永遠、最高の司祭なるイエズス・キリストの随意ミサの制定
92 司教職における、敬愛する兄弟たちよ、ここで、私は、あなたたちをとおして、修道会及び教区の聖職者に、この救世の聖年を、霊魂らにとって、これほど有益なものとしたその積極的献身に対する感謝と厚情のしるしを与えたいと思います。また、永続する一つの行為によって、このすべての司祭が、絶えず参与している司祭職の光栄を、永久に記念したいと思うのであります。そこで私は、礼部聖省の意見をまって、本回勅と同時に発表する、『永遠、最高の司祭なるイエズス・キリスト」に固有の随意ミサを制定することが、時宜にかなったことと判断したのであります。このミサは、典礼上の規定で木曜日に挙行することが許されます。
93 敬愛する兄弟たちよ、残るところは、ただ、私のすべての子らに、彼らが共通の父から望み、期待している父としての教皇掩祝を与えることのみであります。願わくは、この掩祝が、この救世の記念祝典の間に、天主の御慈悲によって与えられた、すべての恩恵に対する感謝のしるしであると同時に、 新年の祝賀のしるしとなりますように。
1935年12月20日 司祭叙階56回目の記念日
在位十四年ローマ聖ペトロのかたわらにおいて
教皇ピオ十一世
注
1 Instructio super scrutinio candidatorum instituendo antequam ad Ordines promoveantur, 27 dec. 1930 (A. A. S. vol. XXIII, p. 120).
2 Instructio ad supremos Religiosorum, etc. Moderatores de formatione clericali, etc., 1 dec.1931 (A. A. S. vol. XXIV, pp. 74-81).
3 Cfr Osservatore Romano, anno LXIX, n.21 022 (an.1929, n 176; 29-30 luglio 1929)