第五話「聖ピオ十世会の歴史」(後編)

聖ピオ十世会について:第五話「聖ピオ十世会の歴史」(後編)

聖ピオ十世会の始まりに関するビデオに続いて、このビデオでは、聖ピオ十世会の最近の出来事を提示します。何年もの間、聖ピオ十世会は、カトリック教会内で聖伝を防衛する最前線にいます。しかし、それは楽なことではありません...
 
聖ピオ十世会を応援してくれる始まりがあったにもかかわらず、問題がすぐに発生することは明らかでした。ローマの中のリベラル派は、聖伝のラテン語のミサを捧げる司祭の養成をするような神学校を閉校させることを決意していたのです。

ローマから送られてきた訪問者の好意的な評価にもかかわらず、ルフェーブル大司教はすぐにローマに呼ばれ、3人の枢機卿の面接を受けることになりました。数週間後の1975年5月6日、フリブールの新しい司教は、聖ピオ十世会を突然「解散」しました。ショックを受けた大司教は、この極端な行為の背景にある理由を尋ねると同時に、ローマに公式な告訴を行いました。フリブールからもローマからも、返事はありませんでした。その年の夏、ルフェーブル大司教は神学生たちを率いて、聖座にいつもつながっている印として、ローマへの巡礼をおこないました。

この突然の「廃止」と説明の無い沈黙に深く悲しみ、大司教はエコンの神学校での司祭養成を継続しなければならないと決心しました。事実、教会法の規定によると、公式の告訴が係争中である間は廃止も聖職停止も効力を持たないからです。訴えに回答がない場合はなおさらです。そこで1976年、彼は予定通り13人の司祭を叙階しました。これらの叙階式に対してローマは、司祭叙階やミサを捧げることを含むすべての聖職停止で答えました。

このような反対にもかかわらず、聖ピオ十世会は急速に成長しました。ドイツ、アメリカ、アルゼンチン、オーストラリアに新しい神学校が開校しました。修道士、修道女、第三会会員が多く生まれました。1987年までには、聖ピオ十世会は世界のあらゆる大陸に使徒職を広げていました。

第二バチカン公会議以後の改革がもたらした混乱の高まりを前に、ルフェーブル大司教は、ローマとの交渉を繰り返しましたが、最終的には実りのない交渉の末、1988年に4人の司教を新たに聖別することを決意しました。それは、司祭叙階と聖伝の儀式による堅振の秘蹟を続けるためです。

ローマは原則として司教聖別に同意していたが、詳細については交渉が行き詰まっていたとルフェーブル大司教は主張しました。これを受けて、ローマは、大司教をこれら4人の新司教とともに破門する公式文書を発行しました。これは大司教を大いに悲しませましたが、大司教は、教会の愛のために、聖ピオ十世会とその世界的な使徒職を保存するためのに、良心にかけて、それ以外の行動はできず、聖別をする義務があると固く信じていました。

ルフェーブル大司教は3年後の1991年3月25日に亡くなりました。

聖ピオ十世会は、教会によって認可された会則に従って、その後も使徒職を継続しています。1994年には、ベルナール・フェレイ司教が総長に選ばれました。特筆すべきことは、2000年の聖年に、聖ピオ十世会総長は司祭、修道者、神学生らを率いてローマ巡礼を行い、教皇への愛と尊敬を表現したことです。

教皇ベネディクト十六世はその後、2007年に「Summorum pontificum」という自発教令で、「ラテン語のミサは一度も廃止されたことはない」と述べ、2009年には、聖ピオ十世会の4人の司教に対して出された「破門」を撤回しました。

今日、聖ピオ十世会は600人以上の司祭と50万人以上の信徒を擁し、世界中に広がっており、使徒的な活動を成功裏に続けています。


聖ピオ十世会についてもっと深く知りたい方は、英語では聖ピオ十世会の歴史のDVDがあります。The DVD: Forty Years of Fidelity, A History of The Society of St. Pius X

日本語ではルフェーブル大司教の公開書簡「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ」や

マルセル・ルフェーブル大司教が1976年6月29日にした歴史的な説教「聖伝を維持しながらこそ、ペトロの後継者(教皇)に対する私たちの愛と素直さと従順を表すことができる」もお読みになることができます。

また英語では
「聖ピオ十世会についてもっとも聞かれる質問とその答え」
Book: “Most Asked Questions Of SSPX”
あるいは
「選び抜かれた質問と答え」
Book: “The Best of Questions and Answers"
などもご覧ください。

詳細については、http://sspx.org/faqvideos をご覧ください。