第三話「ルフェーブル大司教とは誰か?」(後編)
聖ピオ十世会について:第三話「ルフェーブル大司教とは誰か?」(後編)
このビデオでは、第二話に引き続き、マルセル・ルフェーブル大司教の魅力的な生涯を探ります。若き宣教師から教皇使節に至るまで、マルセル・ルフェーブルの生涯は、今日多くのカトリック信者の関心を集めています。
-- (動画)
この動画は第二話の続き、ルフェーブル大司教の生涯について、です。ここでは第二バチカン公会議の間と、公会議後の、大司教の人生の最後の部分に話をすすめましょう。カトリック教会内部が混乱していた時代に、ルフェーブル大司教はラテン語のトリエント・ミサへの深い愛着と聖伝への深い信仰を示しました。
教会で模範的な奉仕をしてきた大司教には、まだ最大の仕事が待っていました。大司教の寛大な精神と明晰な洞察力は、今日でも聖ピオ十世会の心臓を脈打っています。
1962年、ルフェーブル大司教はそのキャリアの頂点にいました。しかし、第二バチカン公会議は、ルフェーブルにとって苦い失望をもたらすことになります。彼が公会議のために3年間公式に準備に関わってきたすべての文書は、投票されもせずに最初から捨てられ、それに代わって私的に準備されたリベラルで近代的な新しい文書が押し付けられました。これを受けて、大司教は他の司教たちと一緒に「チェトゥス・インテルナチオナーリス・パトルム(Coetus Internationalis Patrum)」と呼ばれる保守的なグループを結成し、大司教が議長を務めました。このグループは主に、修正案を提案して、公会議のテキストに近代主義的な傾向が導入されることを防ごうとしました。
チェトゥスは最終的にこれらの近代主義的な改革に対抗しつくすことができませんでした。公会議が幕を閉じた時、ルフェーブル大司教は教会の将来に不安を覚えました。さらに、聖霊修道会会員たちは、大司教の保守的な指導に不満を表明し、会憲の変更を要求したため、ルフェーブル大司教は1968年の総会で総長を辞任する以外の選択肢はありませんでした。マルセル・ルフェーブルは63歳になり、教会への奉仕という生涯を終えた後、引退することを計画していました。
ここで大司教の人生は、聖ピオ十世会の誕生とつながります。ルフェーブル大司教は、聖伝に基づく司祭養成を求める数人の青年たちの繰り返しの要望に応えて、スイスのエコンに新しい神学校を開設しました。地元の教区長であるフランソワ・シャリエール司教がこの活動を祝福し、1970年11月1日に聖ピオ十世会が誕生しました。
ルフェーブル大司教は、20年以上にわたって聖ピオ十世会を指導し、世界中を旅して聖伝を守ることを奨励した後、1991年3月25日に亡くなりました。ルフェーブル大司教はエコンの神学校の墓地に埋葬されており、その墓を訪問することができます。彼の墓には使徒聖パウロの言葉が刻まれています:"Tradidi quod et accepi" 私は受けたものを伝えた。- 1コリント15:3
ルフェーブル大司教についてもっと知って理解するには、ドキュメンタリー:ルフェーブル大司教という動画をご覧になることをお勧めします。
また、英語ではティシエ・ド・マルレ司教の書いた「伝記マルセル・ルフェーブル」
“Marcel Lefebvre: the biography”
あるいは、ルフェーブル大司教の講話をもとになされた「私の長い人生の短い話」
“Little story of my long life”
または、マイケル・デイヴィス著の「マルセル・ルフェーブルのための弁論」
“Apologia Pro Marcel Lefebvre”
などもお勧めします。
これらはAngeluspress.orgで入手できます。