第九話「信教の自由の新しい定義」
聖ピオ十世会について:第九話「信教の自由の新しい定義」
思想の自由、良心の自由、宗教の自由、信教の自由、これらは十九世紀にローマ教皇によって反駁され、退けられた問題でした。しかし、第二バチカン公会議はこれらの問題に対して、歴代の教皇とは異なる立場をとりました。
このビデオでは「信教の自由」の新しい定義の何が問題なのかを説明します。
近代主義者もカトリック信者も、すべての人間が自然の尊厳を持っていること、また、その尊厳が主に理性と意志を自由に使うことである、と認めています。また、何人もこの基本的な人間の自由を侵害してはならないという点でも一致しています。たとえ真実であり善であることを押し付けるためであっても、自由は侵害できません。
しかし、この自由のふさわしい使い方については、カトリックと近代主義者の間で意見が分かれています。
近代主義者は、自分の良心こそが、各個人の善悪を決定する最高の審判者である、したがって、誰もが自分の好きなように行動することができる、と主張します。ただし、その行動が他人の権利を危険にさらす場合は例外である、と言います。
カトリックの教えは、自由は天主からの偉大な贈り物であり、自由を良く使うこともできれば、悪い使い方をすることもできる、と主張します。
客観的に見て良いこと、そして天主の意思に沿ったことを選択するのが、自由のふさわしい使い方であり、そうすることが人間の本当の自由です。
一方、客観的に見て悪であり天主の意思に反することを選択することは、自由の乱用です。たとえそれが誰かを直接傷つけるのではないとしても、このように自由を乱用する権利は誰にもありません。なぜなら、自由をこのように悪のために使うのは、常に最高の善である天主に反し、天主を冒すからです。
さて近代主義では、人間は、自分の主観的な信念に従って、自然の自由によって、[客観的な真理に従うのではなく]自分に最も気に入った宗教を選ぶことができると教えています。
それに対して、カトリックでは、人間は、天主が啓示した宗教を選ぶ義務があると断言しています。この義務を果たさずに、真実ではない宗教を選択するのは、自由を濫用することになる、と。
このような自由に関する理解の違いから、信教の自由についても二つの異なる考え方が生まれました。
カトリックによれば「信教の自由」とは次の通りです。
人間は、善いことを選ぶ自由、客観的に真理であることを信じる自由だけがある。
それにもかかわらず、多くの人間は、間違った選択をし、偽の宗教を受け入れている。
社会は、そのような誤った判断を称賛したり、奨励したり、支持したりすることはできない。しかし、社会は、地上での平和を維持するために、このような個人の自由の乱用を黙認することができる。
黙認と同時に、社会は、偽りの宗教の信者が自分の道の誤りを知り、唯一の真の信仰に改宗することを奨励することができる。
他方で近代主義はこう主張します。
すべての人が、[客観的な真理に従うというよりは]自分の気に入る宗教を選択する権利を持っている。この権利を擁護し、賞賛し、この選択が正しいか誤りであるかにかかわらず、自分の宗教が真理であるか間違っているかにかかわらず、気に入るならなんでも選択する権利があるとします。
このような自由の行使は、他の誰かを直接的にまたは物理的に傷つけない限り、地上の平和と繁栄のために許され尊重されなければならない、と主張します。
つまり、近代主義者たちの関心事は「無制限の自由」であり、
他方で、カトリックにとっては、天主を尊重し、すべての人々の客観的な道徳的善を尊重するという美徳です。
言い換えると、
近代主義は、何よりも個々人の自律[天主からの独立]を重んじます。
カトリックの教えは、何よりもまず天主を愛し、崇敬し、従順し、人間を罪深い誤りから守ろうとします。たとえそれのために、偽りの宗教を非難し反対しなければならなくなっても、です。
「無制限の自由」という誤った概念は、過去の教皇たちの明確で不可謬の断罪の宣言をうけました。
しかし、それに反して、今日では第二バチカン公会議以降の教会指導者たちによって賞賛され推進されています。
例えば、教皇ピオ九世の誤謬表(シラブス)には、次のように誤謬の命題が明記されています。
「自分が理性の光によって真理であると認めた宗教を受け入れ信仰告白することは、各人の自由である。」(これは、誤っている命題です。)
つまり教皇によれば、客観的で確実な啓示を無視して、主観的な理性の考えに従って、人間の好きなように宗教について考えたり話したりし、自分の思うがままのやり方で、自由勝手に天主の礼拝をするのは、天主の御計画ではないということです。
この問題についてさらに理解を深めるためには、ルフェーブル大司教の『教会がどうなってしまったのか分からなくなっているカトリック信者たちへの公開書簡』を読むことをお勧めします。
またルフェーブル大司教著『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』もお勧めです。
また、歴代教皇の回勅の中で、現代の過ちについて書かれたものや、ルフェーブル大司教の「異端に反対して」“Against the Heresies”などもお勧めです。