第二話「ルフェーブル大司教とは誰か?」(前編)

聖ピオ十世会について:第二話「ルフェーブル大司教とは誰か?」

このビデオでは、マルセル・ルフェーブル大司教の魅力的な生涯を探ります。若き宣教師としての司祭時代から教皇使節に至るまでのマルセル・ルフェーブルの人生は、今日多くのカトリック信者の関心を集めています。

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この動画では、マルセル・ルフェーブル大司教の生涯を明らかにします。ルフェーブル大司教は、20世紀の最も魅力的な人物の一人です。かつて宣教師であり、ダカールの大司教また教皇使節であり、聖ピオ十世会の創設者であるルフェーブル大司教は、第二バチカン公会議の間も、公会議後も、大きな役割を果たしました。そのため、今でも多くのカトリック信者の関心を集めています。ではマルセル・ルフェーブル大司教とはどのような人だったのでしょうか?
 
聖ピオ十世会の創立者であるマルセル・ルフェーブル大司教は、1905年11月29日、フランス北部の町トゥルコワン(Tourcoing)で生まれました。8人の子供の3番目に生まれたマルセルは、地元の織物工場を経営していた敬虔なカトリック信者の父ルネ・ルフェーブルと母ガブリエルのもとで育ちました。

若い頃から司祭職にあこがれていたマルセルは、18歳でローマのフランス神学校に入学。6年後に司祭に叙階され、その後まもなく哲学と神学の博士号を取得し、リール司教区での司牧活動を開始しました。

ルフェーブル神父の兄は、聖霊修道会の宣教師でしたが、新司祭の弟にアフリカのガボンに宣教に来るように勧めました。ルフェーブル神父は1932年に聖霊修道会に入会すると、すぐにガボンに派遣されました。最初は神学校の教授を務めましたが、すぐに神学校校長に昇進しました。

マルセル・ルフェーブルは、このような初期の時代を経て、ますます重要な責任を任されるようになりました。彼はフランスに呼び戻されて、モルタンにある神学校校長に任命されました。1947年、教皇ピオ十二世は彼をダカールの代牧(Apostolic Vicar:司教区になる前の段階「代牧区」の長)に任命し、彼は司教に聖別されました。翌年、教皇はフランス語圏アフリカ諸国(これはアフリカのほぼ半分を領域を占めていました)の教皇使節(Apostolic Delegate:実質は「教皇大使」)に彼を任命し、司教から大司教へと昇格させました。

教皇ヨハネ二十三世は、前任教皇と同じく、ルフェーブル大司教の神学的専門知識、宣教の経験、教育に携わった経歴が非常に稀なものと考えました。そこで、教皇は彼を第二バチカン公会議の準備委員に任命しました。これは予定されていた公会議の下準備をする特別な委員会の委員でした。聖霊修道会の会員たちも大司教の働きに非常に感銘を受け、1962年の総会で大司教を総長として選出しました。

ルフェーブル大司教についてもっと知って理解するには、ドキュメンタリー:ルフェーブル大司教という動画をご覧になることをお勧めします。

また、英語ではティシエ・ド・マルレ司教の書いた「伝記マルセル・ルフェーブル」
“Marcel Lefebvre: the biography”
あるいは、ルフェーブル大司教の講話をもとになされた「私の長い人生の短い話」
“Little story of my long life”
または、マイケル・デイヴィス著の「マルセル・ルフェーブルのための弁論」
“Apologia Pro Marcel Lefebvre”
などもお勧めします。

これらはAngeluspress.orgで入手できます。